All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

八雲からの批判にはもう慣れているはずだったのに、この一言で冷水を浴びせられたような虚しさが胸を刺した。彼は確かに見ていた。私の発言が協和病院の顔に泥を塗るようなものではなかったことも、ちゃんと分かっていたはずだ。たとえ認めてくれなくても、青葉主任や松島葵の前で、わざわざ私を貶める必要なんてなかったのに。もしかして、午前中に私はあんなにはっきりと責任を押し付けられるのが嫌だと表明したから?納得できない気持ちが渦巻いたが、私は感情を押し殺し、淡々と事務的な口調で返した。「ご忠告ありがとうございます、紀戸先生。肝に銘じます」青葉主任が間に入って場を和ませた。「まあまあ紀戸先生、水辺先生は今回が初めての交流会参加だよ。先輩なんだから、もう少し優しくしてやってよ」八雲は私を一瞥しただけで、何も言わなかった。青葉主任はあくびをかみ殺しながら続けた。「じゃあ、あとは若い人たちに任せるよ。俺は部屋で少し仮眠をとるから、晩餐会でまた会おう」そう言うと、あっという間に姿を消した。その時、葵が私に近づき、腕を絡めてきた。「水辺先輩、ねぇ、ちょっと付き合ってくれない?急いで出発したから、ちゃんとしたドレス持ってきてなくて......私たちと一緒に選びに行こうよ?」「私たち」――その一言が耳に引っかかった。私の視線は自然と八雲に向かい、彼が淡々と口を開いた。「車はもう下で待ってる。時間がない」彼が松島葵と一緒にドレスを選びに行くのに、私がついて行って何になるの?二人のイチャイチャを見せつけられるだけじゃない?そう思った私はすぐ口実を作った。「まだ資料が残ってるから、私は......」「先輩、誰も今すぐ出せって言ってないじゃん」葵は甘えた声で、さらにこう言った。「それに、綺麗な格好するのも協和病院の顔を立てることになるよ?先輩も麻酔科の顔なんだから、ちゃんと華やかに出席しなきゃ」......確かに彼女の言うことにも一理ある。私は当初、今夜の宴会はただの親睦ディナーくらいに思っていたけど、昼の交流会の規模を考えれば、晩餐も立派なビジネス社交の場になるに違いない。けれど、持ってきた服はどれもカジュアル寄り。私はしぶしぶ頷いた。せめて送ってもらえるだけでもありがたいか――そう思っていた自分が甘かった。
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第82話

胸の奥が重く、私はため息混じりに尋ねた。「わざわざ電話してきたのが、その話?」「まぁ、それもあるし、ないとも言えないけど......」加藤さんは珍しく歯切れが悪かった。「初めての出張じゃない?お母さんがちょっと心配しちゃダメ?」母のことはよく知っている。この電話、ただの心配ってだけじゃなさそうだ。「今ちょっと立て込んでるから、他に用がないなら――」「ちょ、ちょっと待って優月!」彼女がすぐさま遮ってきて、数秒の沈黙のあと、ようやく本題を切り出した。「実はね、お父さんが入ってる療養施設の契約がもうすぐ切れるの。で、今のところ正直あんまり環境も良くないし......思い切って、もっといい施設に移れないかなと思って。ね?八雲くんに相談してみてくれない?」もっといい施設に?私はその言葉を心の中で繰り返し、思わず苦笑してしまった。紀戸家が父の療養費を負担してくれているだけでも、すでに十分すぎる恩義だ。それをさらにもっといい施設にしたいなどと言い出すなんて......まるで八雲を金づる扱いしてるようなもので、これは私に対する試練だ。こういう話は、たとえ仲の良い夫婦の間でも切り出しにくい。ましてや、愛されていない契約上の夫婦関係でなんて、尚更だ。鼻の奥がツンと痛み、私はふと頭に浮かんだ借用契約の文字を思い出し、遠回しに答えた。「今の施設でも十分だと思うよ......余計なことは考えないで」「は?水辺優月、何が『余計なこと』よ?」急に声を荒げる加藤さん。「私はあんたの父親のことを思って言ってるのに、あんた、それでも娘なの?孝行心の一つもないの?」私は言葉を失った。紀戸家にすがって、八雲のご機嫌を取ることが「孝行」なの?気持ちを抑えきれず、私は適当な理由をつけて電話を切った。人であふれるショッピングモールの中で立ち尽くし、私はただ人々の行き交う姿を見つめていた。まるで人間の展示会を見ているようで、それぞれが思い思いの表情と目的を抱えている。笑っている人もいれば、悲しそうな人もいる。立っている人も、座っている人も。こんなに賑やかな場所なのに、どうして私の心はこんなにも孤独で、寄る辺ないのだろう。そのとき、またしても携帯が鳴った。今度は、葵からだった。「水辺先輩、どこ行っちゃったの?もしかして道に迷
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第83話

「辞退する必要はない」その言葉が八雲の口から発せられたとき、彼は一度たりとも私に正面から目を向けなかった。声音は軽く、外から見ればまるで相談しているようにも思えるだろう。でも私は分かっている。これは命令だった。滑稽なのは、これは八雲が私に贈った初めてのドレスだったということだ。ただしこれは「紀戸先生」が「水辺先生」に対して「親切心」から与えたもの。「紀戸奥さん」へのプレゼントなんかじゃない。しかも、彼の「小悪魔」の目の前で。拒否すら許されない形で。胸に広がる苦みは、一瞬で怒りに変わった。笑うべきか、泣くべきか......もう分からなかった。いいわ、そこまで「東市協和病院の顔」が心配なら、受け取ってあげる。私はゆっくりと手を伸ばし、ギフトバッグを受け取った。そして少し間を置いてから、事務的に口を開いた。「さすがは紀戸先生、思慮深くて完璧です。麻酔科を代表して、お礼申し上げます」わざとらしく、営業スマイルを浮かべた。あくまで同僚として、演じるしかなかった。「水辺先輩、そんなに堅苦しくならなくていいのに」無邪気な笑顔で、葵がそう言いながら、八雲の方に目を向けた。「だって、みんな身内でしょ?」私はギフトバッグを握りしめながら、ソファに座る男を横目に見て、心の中で静かにため息をついた。身内、ね。ホテルに戻った後は、各自が自由行動となった。そして部屋でギフトバッグを開けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。中に入っていたのは、深緑の和風ワンピースだった。腿までスリットが入り、金糸で縁取られた盤扣が、控えめながらも高級感を漂わせていた。けれど、もし私の記憶が正しければ、今夜の晩餐会は、現代ビジネススタイルが推奨されていたはず。こんなドレスを着て行ったら、浮いてしまわないだろうか?これは偶然?それとも、彼がわざと選んだの?しかし、今さら別のドレスを選びに行く時間はない。私は迷いながらもファスナーを開き、そっと体を通した。サイズは、驚くほどぴったりだった。ただ、このスタイルにポニーテールは合わない。髪を高く結い上げ、きちんとシニヨンにまとめ、ナチュラルメイクを施した。19時半、仕事用のチャットグループに宴会集合の通知が届いた。エレベーターに乗ると、スタッフが教えてくれた。ここは白霞で唯一、
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第84話

長谷川教授は私たちに気づくと、愉快そうに言った。「青葉主任の酒量は相変わらずだな」「いやいや、十数年前とは比べものになりませんよ。今は若い人たちの時代ですから」青葉主任は手をひらひらさせながら笑った。「颯也くん、聞いたか?」長谷川教授は隣の男性を見て言った。「この言葉を聞いたら、主任に一杯お酌しないといかんぞ」ずっと無言だった颯也はちらりと青葉主任を見たあと、静かにグラスを持ち上げたが、その手を青葉主任が止めた。「お酌は結構。実は、ちょっと頼みたいことがあってね」「ほう、あの有名な青葉主任が人に頼みごとをするとは」長谷川教授も興味津々の様子で口を挟んだ。「水辺先生」突然名前を呼ばれ、私は身を正した。「うちの科のこの子さ、夏目先生の講演を聞いて、すっかり感服してしまってね。とはいえ、まだ若くて恥ずかしがり屋で、自分から質問しに行けないようで」言葉って、ほんとうに芸術だ。青葉主任のこの話術には、感心せざるを得なかった。案の定、話が終わるやいなや、長谷川教授が茶化した。「すごいな、颯也くん。一回講演しただけで、もうファンができたのか」颯也は一瞬だけ私を見た。無礼のない視線だった。私は礼儀として軽く挨拶をした。「じゃあ長谷川教授、若者たちに任せて」青葉主任は微笑みながら言った。「我々は我々で楽しみましょう」私が何か言おうとしたその瞬間、長谷川教授と青葉主任はすでに背を向けて歩き出していた。その場には、私と颯也だけが残され、何とも気まずい空気が流れた。この夏目先生、どう見ても多弁なタイプではない。沈黙が流れる中、私は慌てて言った。「夏目先生、誤解しないでください。私はただ、講演の中で使われていたあのデータに興味があって......」言葉を口にしてから、どこか違和感を覚えた。何せこちらはお願いする立場なのに、あまりに率直すぎる物言いは、東市協和病院らしい礼節を欠いている気がしたのだ。一瞬、気まずさを感じながらも、夏目先生が何も返してこないのを見て、私は慌てて言葉を継いだ。「つまりですね、その臨床データは夏目先生が、多くの労力をかけてまとめられたものだと思います。もし差し支えなければ......そのデータを、私たちと共有していただけませんか?」今度は、誠意と謙虚さを込めて丁寧に
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第85話

一口飲んだカクテルが喉につかえて、むせ返った私は数度咳き込んだ。ようやく「踏み台」という言葉の衝撃から抜け出し、視線を八雲に向けた。彼はいつも通り淡々とした表情を浮かべていたが、その顎の上がり具合が傲慢さを隠すつもりがないことを物語っていた。つまり、八雲にとって、私が夏目颯也に質問しただけでも「目的ありきの打算的な交流」ってこと?私は手にしたグラスを握りしめ、胸の奥からこみ上げてくる感情をなんとか抑えながら返した。「紀戸先生には及ばないよ、私なんて」誰よりも分かっている。彼と結婚届に名前を並べた私が、一番よく知っている。既婚であることを隠して、愛人のような女の子を連れて公の場で社交する。その派手さ、奔放さにかけては、私なんて足元にも及ばない。しかも、彼は堂々と妻である私の目の前でそれをやってのけた。「たかが一度会っただけで、もう連絡先交換か」そう言いながら、彼の冷たい視線が私の頬をかすめた。「さすが水辺先生、たいした腕前だ」「たいした腕前」って。これ、あからさまな皮肉だよね?つまり、夏目颯也と連絡先を交換したのを、全部見てたってこと?「ただの学術的な質問だよ」面倒を避けたくて、私はなるべく穏やかな口調で返した。「紀戸先生、考えすぎだ」「ふうん......つまり水辺先生は、新雅の麻酔技術の方が協和病院より上だと思ってるわけだな」彼の語調は容赦なく、苛立ちさえ感じさせた。「その考え、青葉主任にも伝えた方がいいんじゃないか?」また、重箱の隅をつつくような物言いだった。私は数秒の沈黙ののち、反撃の糸口を変えることにした。「今の紀戸先生は、青葉主任のために怒ってるというより、自分の奥さんが他の男と話してるのが気に食わないという、ヤキモチにしか見えないけど?」言い終えた途端、「カン」とグラスを置く音が響いた。八雲の表情は一瞬にして冷え込み「近寄るな」というオーラを全身から放っていた。彼の指先が白くなるほどグラスを強く握っていたのを見て、私は自分がやりすぎたと、ようやく気づいた。酒が人を大胆にするって言うけど、実際のところ、葵が彼の腕に自然に手を添えた瞬間、私の我慢はすでに限界に達していた。同じ既婚者なのに、どうして八雲は平気で私の目の前で新しい恋人といちゃつけてもいいのに、私はたった
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第86話

八雲の性格はともかく、顔面偏差値だけで言えば、東市の男性陣の中でも上位に入るだろう。たとえば、すっと通った鼻筋や、奥行きのある目元――待って、なにこの感触、妙にリアルじゃない?電流が走ったように、私は慌てて手を引っ込めた。酔いも一気に覚めて、ぼんやりしていた意識が急速に現実へと引き戻された。目を凝らすと、目の前の八雲がじっと私を見つめていた。喉仏が上下した。よく見ると、彼の両手は私の左右に添えられていて、まるで私を囲うように覆いかぶさった。至近距離から、彼の肌からふんわりと漂うウッディ系の香りと、温かな吐息が私の頬に触れた。心臓が暴れ馬のように跳ねた。呼吸まで乱れていった。「わ、私、酔ってるから......」「それで?」低くかすれた声が耳元をくすぐった。八雲はじっと私を見つめた。「夢に、俺が出てきたのか?」心臓が一瞬、止まりかけた。不安を抱えながら目の前の男を見つめると、彼の黒い瞳の中に、燃えるような欲の炎が揺れているのが見えた。目と目がぶつかり、彼の顔がさらに近づいてきた。私は思わず、ぎゅっと目を閉じた。夢のようで、夢じゃない。次の瞬間、唇に温もりが触れた。八雲の柔らかな唇が、容赦なく私の唇を塞いだ。そのまま、体が覆いかぶさってきた。激しくて、強引で、まるで獲物を仕留める獣のよう。ほんの数秒で唇をこじ開けられ、舌が絡み合い、呼吸もできないほどに熱を帯びた。彼はこういう駆け引きの達人だった。気づけば、全身が火照って、もう逃れられなくなった。八雲は焦ってるようだった。彼の手が、私の和風ワンピースのスリットから滑り込むのを感じた。ざらついた指先が肌をなぞり、男と女の本能が一気に解き放たれた。今にも私を引き裂いて、飲み込むんじゃないかと思うほどの勢いだった。その荒々しさの中に、彼の「所有」と「支配」が見えた。そう、彼も酔ってる。でも、どうして私?どうして「こんなとき」選ばれるのが、私なんだ?彼は葵を連れて、雨の中で川辺の景色まで見に行く男だ。なのに、こういう時だけ、私を選ぶのはどうして?その疑問が私の中に広がるのを、彼は察したのか、少し動きを止め、荒い呼吸のまま私を見つめた。私は同じように彼を見返し、やっと言葉を絞り出した。「そんなに我慢できないなら、彼女を呼べばいいでしょ?」その言葉
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第87話

話しているうちに、葵の半身がすでに私の部屋の中へと入り込んでいた。少女の大きくて丸い瞳が室内を見回し、その奥にはかすかな警戒の色が浮かんでいた。まるで誰かを探しているように。壁にかけられた時計を見て、私はようやく気づいた。すでに宴会が終わってから、30分も経っている。でもこんな時間に、彼女は誰を探しに私の部屋へ?さっき彼女、八雲の名前を口にしていた。まさか私の部屋に八雲がいると疑ってる?その考えが頭をよぎった瞬間、心臓が喉元まで跳ね上がった。言い訳を探そうとしたところで、葵が突然お腹を押さえながら言った。「水辺先輩、ちょっと飲みすぎたみたいで......お手洗い借りてもいいですか?」もちろん、断る理由なんてない。でも、洗面所のドアが閉まったその瞬間、言いようのない違和感がまた湧き上がった。この部屋はごく普通のシングルルーム。もし私以外に誰かがいるとすれば、隠れる場所なんて洗面所くらいしかない。じゃあ、さっきの彼女の行動は本当に「ただの生理現象」だったのか?笑える話だけど、法的には私と八雲こそが正真正銘の夫婦なのに、今の私は、まるで浮気現場を突き止められる側のような状況に立たされている。しかもその原因となった張本人、さっきまでここにいた。情熱に任せてたから、彼の「小悪魔」からの着信に気づかなかったからだろう。引き戸の音がして、私ははっとして顔を上げると、葵と視線がぶつかった。彼女は少しバツの悪そうな顔をして、視線を逸らしながら口を開いた。「ごめんなさいね、先輩。こんな夜遅くに、バタバタしちゃって......邪魔しちゃったよね?」彼女の不安げな表情を見ていると、なぜか怒る気にもなれなかった。だって彼女は、私と八雲の関係なんて知らないのだ。しかも、今夜は確かに彼女もかなり飲んでいた。私は自分の感情を抑えながら、静かに言った。「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」そのとき、彼女のスマホが鳴った。彼女はパッと顔を明るくして、画面を見つめながら嬉しそうに叫んだ。「八雲先輩から!」そして私の目の前で、通話ボタンを押した。「八雲先輩、どこ行ってたの?なんで今になって電話出たの?」少女の甘くて柔らかい声が耳に刺さった。「心配で泣きそうだったんだから......」そして次の瞬
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第88話

私はそっと視線を逸らし、青葉主任と長谷川教授が並んで座っているのを見て、静かにバスの後方へと足を向けた。しかしその瞬間、葵の声が耳に入った。「水辺先輩、ここ空いてますよ」彼女の視線の先をたどると、颯也の隣の席がぽっかりと空いていた。私は少し不安を感じて、さらに後方へ移動しようとしたが、葵がさらに一言加えた。「夏目先生、ここ誰か座ってますか?」新聞を読んでいた颯也がわずかに目を上げ、その細長い目が私の頬をかすめた。そして礼儀正しく言った。「いいえ、水辺先生どうぞ」この「どうぞ」が、私の逃げ道を塞いだ。今この場であからさまに後方に行けば、空気が読めないと責められるだろう。八雲の言葉を借りれば、今回は協和病院を代表しているのだから、和を乱して人の口実になるような行動は避けるべきだ。だいたい彼自身は、今まさに葵の隣に座っているじゃないか。私だけが気を遣う必要はない。そう自分に言い聞かせ、私は営業用の微笑みを浮かべて言った。「ありがとうございます、夏目先生」全員が揃い、バスは静かに出発した。私は昨日の会議資料を取り出し、未整理の部分に目を通しながら、仕事モードに戻ろうとした。だがすぐに、前方から小さな騒ぎ声が聞こえてきた。窓際の葵が、口元を押さえながら外の空気を吸い込んでいた。時折くぐもった声が漏れ、小さな顔は青白くなっていた。どうやら、車酔いしているようだ。その時だった。隣に座る八雲が、まるで手品のようにポーチから何かを取り出した。それを見た葵は目を丸くして、驚きと喜びの声を上げた。「八雲先輩、私が車酔いのときにこれが好きって、覚えててくれたの?」「昨日君が話してただろう」と、八雲はそっけなく答えた。「もう、そんなに気が利くなんて......感動しちゃう、ありがとう!」嬉しそうに包みを開け、彼女は中から飴玉を一粒取り出し、子どものように口に放り込んで「甘い」と幸せそうに言った。まるで、ドラマでよく見る夫が妻を溺愛するシーンだった。ただし、愛されている「妻」は、私ではなかった。その飴の香りが、私の鼻をついた瞬間――私はすぐに異変に気づいた。これは、ドリアンの匂いだ。好きな人にとっては極上の味でも、私にとってはただの「毒」だ。口に入れるなんてもってのほか、匂いだけで吐き気を催
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第89話

八雲の声音には明らかに責める響きがあった。視線が足元のペットボトルにかすめた瞬間、彼の目が冷たく光った。その意味は、私にも分かっている。彼は私が葵を人前で恥をかかせたと思っているのだ。彼は彼女をかばっている。もともと胃の中はぐちゃぐちゃだった。だが今、彼のあからさまな肩入れを見ていると、心の中に冷たい水をぶちまけられたような気分になった。その冷たさが胸から四肢に広がり、身体の芯まで凍えた。他人ならともかく、私は3年も彼の枕を共にしてきた妻だ。ただうっかり彼の新しい恋人から差し出されたペットボトルをはねのけただけで、皆が見ている前で、彼にここまで公然と辱められないとダメなのか?私は込み上げる吐き気を必死にこらえたが、言い訳の言葉は喉で詰まって出てこなかった。そこにさらに追い討ちをかけるように、八雲の冷ややかな声が落ちた。「彼女はただ水を差し出しただけだ。その態度はなんなんだ?」私は信じられないという顔で、目の前の男を見つめた。思わず笑いが込み上げてきた。私の「態度」だと?私はただ気分が悪くて、反射的に手を引いただけ。あれがわざとに見えたのだろうか?彼の目には、私がそんなに心が狭い人間に映っているのか?「違うの、八雲先輩......」それまでうつむいていた葵が突然口を開いた。声には泣きそうな色が混じっていた。「水辺先輩はわざとじゃないの。きっと車酔いで辛かっただけで......」そう言って、私をおそるおそる見上げてから、また目を伏せた。まるで、私に噛みつかれるのを恐れているかのように。だが私は何をしたというのだ?彼女の身体に纏うドリアンの匂いに、単に生理的な反応を示しただけ。出張中の公務の最中に、誰がそんなくだらない嫌がらせなどする?怒りと体調不良が重なり、胸のあたりが重苦しかった。息がつまるような感覚に包まれていた。「水をどうぞ」視界にスッと伸びてきた細く整った手。颯也がいつの間にか私の隣に立ち、優しく水を差し出していた。彼の穏やかな眼差しに、私は少し驚きつつも、蓋の開いたボトルを見て目を瞬いた。そして鼻の奥に、ふっとこみ上げるものがあった。その直後、颯也が冷静に口を開いた。「水辺先生は車酔いじゃなく、何か特定の匂いに反応したのかもしれません」え?どうして彼はそんなことが分かったの?「
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第90話

「送りました」颯也はごく自然に言い、「不適切なところがあれば、ご指導いただければ幸いです」と続けた。私は半信半疑でラインを開き、すぐに彼が送ってくれたスライドのデータが確認できた。だが、青葉主任が昨日言っていたように、これは新雅総合病院の内部資料だ。本来ならそう簡単に外部へ共有されるものではない。ましてや、夏目先生が昨日私に約束してくれたのは、あくまで私が要望した臨床データの方だ。さっきは冗談半分で言っただけだったのに......本当に送ってくるとは。見れば見るほど信じられない気持ちになり、ふと彼の方へ視線を移した。颯也はシートにもたれ、目を閉じて休んでいた。討論会で見せたあの真面目な顔つきとはまるで別人のようだった。肌は白く、整った顔立ちはまるで濃墨を白紙に無造作に落としたように印象的で、目を離すのが難しい。さすがは新雅総合病院の「顔面担当」だ。心の中で小さく感嘆し、私は再び視線を戻して、もらったばかりのスライドに集中することにした。20分後、私は颯也と共に白霞市立病院の会議室へ到着した。手術室からの映像を通して、ロボットによる支援手術の様子を見学した。斜め向かいに座っていたのは八雲と葵だった。手術は脳腫瘍の摘出。かなり複雑な内容だったが、手術支援ロボットは細やかなアシストを行い、神経ナビゲーションの煩雑さを克服し、解剖経験の不足を補ってくれていた。見ているだけで、私は思わず感嘆のため息を漏らした。ただし脳外科手術だけあって、全体の時間は長かった。気づけばすでに1時間半が経過していた。時計は午前11時15分を指していた。普段ならこの程度の会議には十分耐えられる私だが、今朝嘔吐した影響か、体力が底をついていた。身体が鉛のように重く、意識が徐々に朦朧としていった。次第に頭はクラクラし、手のひらにはじっとりと汗がにじんだ。スクリーンを見つめる視界も、だんだんとぼやけてきた。私はこっそり頭を下げ、静かに呼吸を整えながら、周囲の議論に耳を傾けようとした。だが、辛さは増すばかりだった。そのとき、机の上のスマホが震えた。画面を見てみると、隣に座る颯也からのメッセージだった。【体調、大丈夫ですか?】私は正直に返信した。【低血糖かもしれません】【一旦、休みましょうか?】私はこの貴重な手術見学を逃したくな
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