All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

八雲は大勢の視線を浴びながら、葵のそばへ歩み寄った。葵は口を尖らせ、不満そうに八雲を一瞥すると、すぐに糸の切れた珠のようにぽろぽろと涙をこぼした。薔薇子はその様子を見て慌ててティッシュを差し出し、慰めるように言った。「葵ちゃん、泣かないで。紀戸先生がここにいるんだから、何か辛いことがあれば遠慮なく言えばいいのよ」見ての通り、薔薇子でさえ、八雲が葵をかばいに来たのだと思っている。法律上、彼はいまだに私の夫であるにもかかわらず。「薔薇子、きっと誤解よね?」葵は涙に濡れた顔でしゃくり上げながら言った。「水辺先輩はそんな人じゃないと思うの......」薔薇子は大げさに目をむいて、軽蔑するように言い返した。「そんなふうに思えるのは、葵ちゃんが心優しいからよ。人は見かけによらないっていうでしょ。私に言わせれば、ある人は葵ちゃんがインターンの成績一位を取るのを恐れて、わざと裏で仕掛けたんだわ」あまりの言いがかりに、私は呆れて問い返した。「尾崎看護師は今まで、何度も遠回しに私を責めていますよね?それなら聞きますけど、私が人事部に行って松島先生の告げ口をしたって、証拠はありますか?」薔薇子は一瞬言葉を失った。葵を見て、それから私を見て、不機嫌そうに言った。「同僚は今朝水辺先生が人事部に行くのを見たって、言いましたけど?」「ええ、呼ばれて調査に協力しただけですけど、それが何か?」その答えに薔薇子は一瞬顔を固まらせ、少しためらった後、強気に言った。「ふん、じゃあ水辺先生の言い分が本当だとしても、肖像権と名誉毀損はどう説明しますか?葵の写真に写ってるのは水辺先生と夏目先生だけ。夏目先生は新雅総合病院にいるんですから、責任を問われるのは水辺先生だけでしょ?」それは理屈としては確かに通っている。名誉毀損や肖像権は、権利を侵害された者自身が守るもの。現状、被害を受けているのは確かに私だ。「それにしても、水辺先生は葵の先輩でしょう?普段は葵があんなに水辺先生を尊敬しているのに、写真を一枚間違えて送っただけで、こんな仕打ちをしますか?」私が黙っていると、薔薇子はさらに憤慨した様子で言葉を重ねた。まったく、彼女は煽るのが上手だ。案の定、その一言で周りの見物している人たちの視線は冷ややかになり、私はあたかも将来のために可愛い後輩を陥れる卑劣な人間か
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第102話

私は、誰が実力で私と競い合うのは構わない。けれど、私の人柄を貶めることだけは絶対に受け入れられない。八雲でさえ、例外ではなかった。おそらく私の態度があまりにも揺るぎなかったからだろう、向かいの三人は一瞬言葉を失った。これ以上ここで口論を続けても無駄だと思い、視線を静かに収めて背を向け、立ち去ろうとした。ところが、数歩も歩かないうちに突然目の前が暗くなり、体の制御を失って倒れ込んでしまった。それが錯覚だったのかどうかは分からないが、瞼を閉じる直前、八雲が私の名を呼んだような気がした。「だから、まだ真相が分かっていないのに、どうして彼女を非難できたのか?」耳元で、温かく澄んだ声が途切れ途切れに響いた。「二人のインターンはまだ若いから、分からないとしても……八雲、君まで分からないのか?」……浩賢の声に似ていた。でも、彼がどうして私の夢に現れたの?「藤原先生、少し感情的すぎないか?」皮肉めいた声が私の耳を刺した。「藤原先生は何の立場で、俺にそんなことを言うんだ?」「お、俺は……」浩賢は言葉に詰まり、しどろもどろになった。「ただ……紀戸先生はいつも客観的に物事を判断しているのに、今回は少し軽率ではないかと……水辺先生に対して不公平だと思っただけなんだ」「藤原先生の言うとおりです。全部、私と薔薇子のせいです。だから水辺先輩が倒れてしまった……ごめんなさい、本当にごめんなさい……」涙声で自分を責めるのは、間違いなく葵だった。「葵ちゃん、謝らないで。水辺先生が倒れたのは、私たちのせいじゃないんだから……」あちこちから声が飛び交い、私の頭をガンガンと痛ませた。――うるさい。ひどく、うるさい。私は苛立って息を吐き、うっすらと目を開けると、見慣れた天井の照明が映り込んだ。よく見れば、これはまさに私たちの入院病棟にある照明ではないか。「水辺先生、目が覚めましたか?」若い看護師の心配そうな声に意識が引き戻された。「シャッ」と音を立ててカーテンが勢いよく開かれ、数人の顔が一斉にこちらを覗き込んできた。表情はそれぞれ違っていた。八雲、浩賢、葵、そして先ほどの大声の薔薇子。――どうやら、さっき聞こえた言い争いは幻聴じゃなかった。「水辺先生の容体は?」「水辺先生のどこか異常は?」二つの男性の声が重
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第103話

まさか葵が、自ら付き添いを申し出るとは思わなかった。あの子の美しいアーモンド形をした瞳と視線が合ったとき、泣き腫らした赤い縁取りが一目で分かった。澄んだ黒い瞳と相まって、まるで儚げで守ってやりたくなるような雰囲気を漂わせていた。この場面で彼女を断ったら、私が悪者になってしまう気がした。仕方なく私は口を開いた。「大丈夫よ。休めば済む話だから、松島先生に迷惑をかける必要ないわ」「迷惑なんかじゃありませんよ、水辺先輩!」彼女は思いのほか熱心で、真摯な声音で続けた。「ちょうど仕事も終わったところですし、ぜひ私にやらせてください」その強い態度に、もともと沈んでいた気持ちはさらに重たくなった。「必要ないと思うよ」傍らにいた浩賢が口を開いた。視線を葵と薔薇子に流し、淡々と告げた。「看護師もいるし、今夜は俺が当直だ。何かあれば水辺先生が俺に電話すればいい」その言葉に、私も葵も思わず目を丸くした。普段は落ち着き払っている八雲でさえ、わずかに眉をひそめたほどだった。葵は私と浩賢を交互に見て、口元を緩めて笑った。「まぁ、私が余計なことを言ったみたいですね。分かりました、藤原先生にお任せします」その柔らかい声と笑みは、まるで私と浩賢の間に何かあるかのように見せかけていた。普段なら否定して弁解するところだが、今の私はとてもそんな気力はなかった。「ご心配をおかけしました。少し疲れたので、休ませていただきます」とだけ告げ、彼らを下がらせた。「では水辺先輩にゆっくり休んでもらいましょう」葵は試すように八雲に視線を投げかけた。「ね、八雲先輩?」八雲は無表情のまま、病室を出て行った。部屋に一人きりになった瞬間、ようやく長い吐息をついた。疲労は確かにあったが、横になっても眠気は訪れなかった。さっきの葵、薔薇子、そして八雲との対峙が脳裏に蘇り、胸の奥が重くなった。あれだけの人が目撃していたのだから、これで済むはずがない――そう思った矢先。案の定、すぐに看護師長からメッセージが届き、さらにウェブページのリンクまでおまけについてきた。開いてみると、なんと匿名の誰かが、私たちの言い争いの動画を東市の動画サイトにアップしていた。モザイクはかけられていたが、知っている人間なら「麻酔科インターン」だと簡単に分かる。
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第104話

私はまさか「トイレに行きたい」なんて言えるはずもない。冷ややかな鼻笑いを洩らしながら、男は不機嫌そうに言った。「どうした?入院棟をうろついて、早朝の『偶然の出会い』でも演出したいのか?」聞けば聞くほど呆れて、私は彼の硬い横顔に視線を投げ返した。「じゃあ紀戸先生は何をしてるの?こんな早朝に『病室での出会い』なのか?」八雲の表情が一瞬止まり、再び私から目を逸らした。腹の痛みが波のように押し寄せ、彼がその場から動こうとしないのを見て、私は数秒沈黙してから口を開いた。「用事はそれだけ?邪魔だから、どいて」そう言って片足を病室の外に踏み出したが、彼は入口から退かず、私たちはドア口で鉢合わせる形になった。不機嫌そうに見返すと、彼の瞳が嵐の前の海のように深く揺らめき、まっすぐに私を射抜いていた。もともと冷ややかな気配を纏った人だが、今の眼差しは近寄りがたい威圧感すらあった。私は仕方なく白旗を揚げた。「……トイレに行きたいんだ」その言葉を聞いた瞬間、彼の背筋から少し力が抜け、ため息まじりに言った。「部屋にもあるよ」指摘されて初めて、自分が入っているのがVIP病室だと気づいた。気まずさを覚えながら洗面所に入った。点滴がまだ終わっていないせいで、ドアを完全には閉められなかった。細い管越しに見えるのは、点滴スタンドを握る彼の長い指――まさかこんな日が来るとは夢にも思わなかった。八雲――私の夫が、午前5時の病室で、私のために点滴スタンドを支えているなんて。……全部、葵の「おかげ」だけど。現実に引き戻されて洗面所を出ると、足元の段差に気づかず、バランスを崩した私は、そのまま彼の胸に倒れ込んだ。冷たい気配に包まれて頬が一気に熱くなり、慌てて距離を取った。「だ、段差があって……」彼は軽く相槌を打っただけだが、私の手を支える掌は離そうとしなかった。私は気まずく身をずらし、小さな声で言った。「もう大丈夫だから……」「匿名の通報について、病院側はすでに調査を始まった」彼は先ほどの冷静な顔つきに戻り、続けた。「匿名の手紙を書いた人物と、院長に直接電話をした人物は同一だと疑われている」私は驚き、思わず分析を口にした。「つまり、肖像権や名誉毀損を主張したあの通報者が、直接院長に電話を入れたってこと?」「そうだ」「
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第105話

病室は一瞬、静寂に包まれた。時間が止まったかのようで、静けさの中、自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえてくる気がした。病室入口では、お弁当を手にした葵が笑みを凍りつかせ、じっとこちらを見つめている。鹿のような瞳には驚きと混乱が浮かんでいた。一方、私の隣に立つ私服姿の八雲は、まるでこの気まずくてあり得ない状況が自分とは無関係であるかのように、平然とした顔をしていた。私はといえば――やましいことは何一つないのに、心臓は太鼓のように打ち鳴り、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。短い沈黙のあと、口を開いたのは葵だった。「八雲先輩も来たんだ」「水辺先生と少し話があって」八雲は顔色ひとつ変えず、淡々と答えた。確かに彼は私に用があって来たのだ。――では、葵は?「そうなんだ……」彼女は目を伏せ、先ほどまでの弾んだ声色が、一転して沈んだ響きに変わった。「それなら本当に偶然だね」小さな落胆に気づいたのか、八雲は数歩進み、彼女の手元のお弁当に視線を落とした。「どうしてここに?」葵はかわいそうに八雲を見上げ、それから私を見やって、小さな声で答えた。「水辺先輩は一晩中点滴をしていて、胃が弱っていると思って……朝ごはんを買ってきたの」そう言って、彼女は私の前でお弁当の箱を開けた。お粥に肉まん、そして簡単なおかず。しかも、なぜか二人分。訝しむ私の視線に気づいたのか、葵はちらりと八雲を振り返り、弁解した。「八雲先輩がいるなんて知らなかったんだから、八雲先輩のはないよ」差し出されたお粥を断ろうとした瞬間、八雲が口を挟んだ。「彼女は甘いお粥を食べない。隣に置きなさい」その言葉に葵の手が空中で止まり、彼の顔を見た途端、目に涙がにじんだ。まるで夫に拗ねた妻のように。私も驚いた。確かに私は塩味のお粥が好きで、甘いのが好きなのは八雲のほうだ。まさか彼がそんな細かいことを覚えているなんて。しかも言い方が妙に硬かった。「……やっぱり水辺先輩の休養を邪魔しちゃったみたいね、失礼します」顔が立たないと思ったのか、葵は朝食を脇に置き、足早に病室を出て行った。八雲もすぐに後を追った。二人とも急いでいて、ドアが開いたままなのに気づかなかった。私はしばし迷った末、ベッドを降りた。次の瞬間、廊下から嗚咽まじりの声が聞
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第106話

2日ほど休みを取れ。風波が過ぎてから戻ればいい。――なるほど。八雲が突然「全身検査」などと言い出したのは、私をしばらく人目から遠ざけるためだったのか。「じゃあ私は?2日休んだ方がいいの?」葵が、私も気になっていたことを口にした。「必要ない」八雲の返事はきっぱりとしていた。「俺たち神経外科は他人の目を恐れない」鼻の奥がつんと痛み、私は手のひらを強く握りしめた。少しでも音を立てまいと。ふと手元の点滴管を見下ろした。脳裏には、彼が慎重に輸液スタンドを持ち上げてくれていた姿がよみがえった。私は歯を食いしばり、そのまま針を引き抜いた。誰も予想しなかっただろう――私は朝の勤務に姿を現した。看護師長がクリップホルダーを抱える私を見て駆け寄り、心配そうに言った。「昨日は倒れたでしょ。少しくらい休んだら?」「大丈夫です。打たれ強いですから」わざと軽く答えた。「休んだら給料が減っちゃいますしね」看護師長は呆れたように首を振った。「まあいいけど、もし本当に無理になったらすぐ言うのよ。無理だけは禁物だからね」私は軽くうなずき、彼女が続けるのを聞いた。「そうそう、昨日のあの動画、今朝消されてたわよ。優月ちゃん、知ってる?」私は首を振った。けれど八雲と葵の会話を思い出し、おそらく彼の仕業だろうと推測した。――可愛い「後輩」の評判を守るために。そう考えると、無理に口角を引き上げてみせた。「じゃあ行きましょう。回診に」噂話に対する覚悟はしていた。だが時に、噂より恐ろしいのは人の偏見だ。案の定、脳外科の患者を回診していたときのこと。患者の夫がどこからか私のことを聞きつけ、どうしても私に診てもらいたくないと声を荒らげた。「こんな、出世のために同門を陥れる女に、俺の妻を任せられるか!責任者を呼べ!医者を替えろ!」身長180センチを超える大男が私の前に立ちはだかり、指を突きつけた。胸の奥に怒りが広がったが、私は辛抱強く言葉を返した。「ご家族の方、落ち着いてください。たとえ医師を交代するにしても、私が回診を終えてからでなければ――」言い終える前に、強く突き飛ばされた。「ガンッ!」と音を立て、額が壁の角にぶつかた。「黙れ!さっさと責任者を呼べ――」男の言葉が途中で止まった。胸ぐらをつかまれ、声が喉に詰ま
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第107話

八雲の一喝で、先ほどまで騒然としていた病室は一瞬にして静まり返った。もともと彼には強い威圧感がある。険しい表情を浮かべて入ってきただけで、言葉を重ねることもなく、その場にいた誰もが押し黙り、騒いでいた患者夫婦さえ声を潜めた。乱れきった空気はそれだけで収まってしまったのだ。「お前」八雲は浩賢を見、それから私に視線を移し、冷たく言い放った。「それからお前もだ。二人とも、先に俺のオフィスで待てろ」その言葉を聞いた患者の夫が、納得がいかないとばかりに声を荒げた。「いや、医者が人に手を出したんだぞ?それを……」だが八雲の冷たい視線が一閃すると、男は一瞬にして萎れ、水分を失った野菜のように気勢を失った。小声で「けど、俺たちにも説明くらいはしてもらわないと……」とぶつぶつ言った。看護師長が慌てて前に出て、頭を下げた。「すべて誤解です。ちょうど豊岡先生もすぐにいらっしゃいますし、何かご要望があれば、後ほど直接お伝えください」男は口を尖らせ、ちらりと八雲を横目でうかがいながら、不承不承といった様子で「……まあいいさ、どうせ皆が見てたんだし」とつぶやいた。八雲は一切相手にせず、張りつめた顔のまま、再び私と浩賢を見据えた。「まだ行かないのか?」──5分後。私と浩賢は同時に八雲のオフィスにいた。八雲は私たちの目の前でペットボトルのキャップをねじ開け、一気に飲み干すと、浩賢を睨み据えて言った。「彼女は研修医で、まだ分からないこともあるだろう。それはいいけど。だが、なぜお前まで一緒になって騒ぎを大きくするんだ?患者家族に手を出すことはどういうことか、分かってないのか?」私はすぐに口を開いた。「藤原先生は私をかばってくれただけです」「だからといって、お前たちは一緒に患者やその家族に敵意を向けたのか?」八雲は私に冷笑を投げ、刺すような言葉を浴びせた。「ここは病院だ。なんでもやっていい場所じゃないんだぞ!」「患者家族が先に水辺先生に手を上げたんだ」浩賢の表情は固く、その視線は一瞬、私の額に触れた後、さらに鋭くなった。「見過ごすわけにはいかないだろう」「協和病院にいるたくさんの研修医の中で、なぜ水辺先生だけが二度も標的になるんだ?」八雲は苛立たしげに私を指差した。「一度ならず二度までも。水辺先生こそ、患者家族の非を言う前に、まずは自分
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第108話

彼がそう言い終えると、再び八雲の方を見た。明らかに、これは八雲に向けての言葉だった。それもそうだ、藤原先生は神経外科に属している。豊鬼先生が責任を押しつけようとしても、最終的には八雲の判断次第になる。つまり、この医療トラブルは二つの診療科が関わっており、私の指導医である豊鬼先生としては、当然私一人に責任を負わせたくない――彼自身も巻き込まれるのを恐れているのだ。八雲は頭の切れる人間だ。その含みをすぐに察し、率直に切り出した。「では、豊岡先生のお考えなら、この件はどう解決すべきですか」豊岡先生は苦い顔をして、看護師長に目配せした。看護師長は八雲をうかがいながら答えた。「患者さんとご家族のご希望としては……藤原先生と水辺先生、お二人そろって謝罪すれば、この件はそれで……」「それは無理です」浩賢が遮り、毅然とした声で言い放った。「物事には因果があります。水辺先生の額にはまだ大きなこぶが残っています。不注意なんて理由にはなりません。法廷に持ち込まれても、我々の行動は正当防衛です」豊鬼先生の笑みは凍りつき、浩賢を見る目には「どうして分からないんだ」と言いたげな苛立ちが浮かんでいた。「患者家族の方への対応は、どうか豊岡先生にお願いしたいです」八雲は珍しく丁寧な言葉を選んだ。「明日の朝までには、俺から正式に答えを出します」しばらくして、部屋には私たち三人と、黙ってお茶を用意してくれていた葵だけが残った。彼女は相変わらず従順で、コップを私に差し出しながら、ちらりと八雲を見て言った。「今は皆さん焦らずに……患者さんもご家族もまだ怒っている。少し時間を置いて、落ち着いたところで改めて話し合いましょう」どうやら葵は、問題の核心をまだ理解していないようだ。浩賢は一言で切り込んだ。「つまり紀戸先生も、俺たちが患者と家族に謝るべきだと考えているわけだね?」「……藤原先生は、自分があまりに感情的で、公私を混同しているとは思わないのか?」再び火花が散った。長年の友である二人が、私と葵の目の前で真っ向から対立していた。温厚な浩賢が鋭い一面を見せ、一方、常に冷静沈着な八雲は、珍しく語尾を強めて問い詰めた。「もし俺が謝らないと言ったら?」「……」八雲は眉間にしわを寄せ、少し間を置いて答えた。「自分の将来を賭けるつもりなら、俺
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第109話

彼女の甘い声も、この瞬間は効果を発揮しなかったようだ。むしろ、葵がひとこと慰めの言葉をかけた後、八雲の顔色はさらに険しくなった。おそらく八雲からすれば、外部の人間が一人でもいれば、私がどれほど怒っていても、多少は空気を読んで彼の顔を立てるだろうと踏んでいたのだろう。ましてや、その相手が葵ならなおさら。結局、彼が私の法律上の夫であるという事実を抜きにしても、この巨大な東市協和病院システムの中で彼を見かけた人は皆、「紀戸副主任」と呼ばずにはいられない。そんな中で、たかが一人の研修医である私がここまで「目に余る」態度を取ったのだから、彼の面子は丸つぶれだ。だが、私が彼の面子を立てたとしても、浩賢の不満を誰が代わりに汲み取ってくれる?彼は結局、私を守るために巻き込まれ、理不尽な思いをしているのだ。私が見て見ぬふりなどできるはずがない。「聞くが、意気地になったってどういう意味だ?」八雲が声を荒らげ、不満げに言った。「俺が公私混同してるとでも?」ほらね、少し本音を言っただけで、彼はもう「水辺先生」という敬称すら省いた。私は脇に立っている葵を一瞥し、それから八雲を見据えて穏やかに言った。「紀戸先生は今朝早く、私の病室に来て、2日間休暇を取れとしきりに勧めていました。その目的は何ですか?」その言葉に、八雲も葵も驚きの表情を浮かべた。八雲は返答に詰まり、葵は慌てた様子で弁解した。「誤解だよ、水辺先輩。八雲先輩はただ、匿名通報の件が大事にならないようにと思って……」「じゃあ、松島先生は休暇を取りますか?」私は葵の言葉を遮り、沈黙に陥った八雲を見つめながら淡々と言った。「紀戸先生はご自分の神経外科をきちんと管理なさったらどうです?麻酔科のことは、お構いなく」それは、先ほど彼が言った「神経外科は他人の目を恐れない」という言葉への皮肉だった。そう言い捨てて私はドアを押し開けて出て行った。背後では若い子の自責の声がかすかに聞こえた。「ごめんなさい、八雲先輩、私また余計なことを言っちゃったみたいで……」――違う。私は本当に浩賢を庇うためにそう言ったのだ。麻酔科に戻ると、すぐに看護師長が近寄ってきて、用意していた氷嚢を手渡しながら小声で尋ねた。「どうだった?処理の仕方、話はついた?」私は浩賢の強硬な態度を伝え、心配そうに聞いた。「もし
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第110話

すぐに私は笑顔で頭を下げて言った。「この時間にお邪魔してしまい、本当に申し訳ありません。ですが、昼間のことがずっと心に引っかかっていて……直接お二人にお詫びを申し上げるべきだと思い、参りました」良辰は即座に大きく白目を向き、隣の妻、唐沢凛(からさわ りん)に向かって言った。「ねえ、聞いて。口先だけのやつ、絶対に悪いこと考えてるに決まってるよな?」「こちらは唐沢夫人ですね?」患者が口を開く前に、私は一歩前に出て挨拶した。「以前、一度だけですが、唐沢夫人のコンサートを拝聴する機会に恵まれ、とても感動しました。まさかこうしてお目にかかれる日が来るとは思いませんでした」来る前に私は調べておいた。唐沢夫人は唐沢家に嫁ぐ前、ピアノ奏者だったが、豪門に嫁いでからは専業主婦となったらしい。ただ、運命は残酷で、半年前に悪性の脳腫瘍が見つかり、それで何度か東市協和病院に入院しているのだ。私がコンサートの話を出すと、凛は興味を示したものの、瞳にはわずかな疑念が浮かんでいた。「私のコンサートは何度も開催しているけれど、どの公演のことかしら?」「ピッチのズレは0.5ミリでした」私はあのコンサートで彼女が言った言葉を思い出しながら口にした。「以前は目を閉じても弦の張力を正確に合わせられました。しかし、本当の音楽は筋肉の記憶にあるのではないと思います」私の言葉が終わると、凛の目に涙が浮かび、深い悲しみに沈み込んだ。傍にいた良辰はすぐに近寄り、私を指差して激しく言った。「何をほざいてるんだ!今すぐ出て行け、さもないと……」言い終わらぬうちに、凛が口元を引き上げ、蒼白な顔に無理やり笑みを浮かべて制止した。「水辺先生は私の聴衆よ。礼儀をわきまえなさい」身長180センチの大男は、途端におとなしくなった。「ありがとうございます、唐沢夫人」私は誠意を込めて言った。「来る前、なぜ私のような麻酔科医師が唐沢さんをあんなに敏感にさせるのか不思議に思っていましたが、今は理解できました」「何を理解したの?」「夫人を大事に思っているのですから」私は良辰をちらりと見て真剣に言った。「大事だからこそ、たとえささいな回診担当の麻酔医であっても、彼は自ら確認するんですよね?」言い終わると、私は額の腫れた青あざを手で撫でた。凛は一瞬驚きの表情を浮かべ、言った
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