業界では誰もが知っている。志田グループの若き当主、志田昴真(しだ こうま)は、ビジネスの場では冷酷無情で知られ、私生活では一切のスキャンダルを寄せ付けず、女色に興味のない『氷の社長』として有名だった。女性たちは彼の半径三メートル以内に近づくことすら許されない。彼が綾瀬紬音(あやせ つむね)と出会うまでは。あの夜会で、昴真は彼女に一目惚れした。そこからはまるで、長い冬を越えた春の嵐のように、猛烈なアプローチが始まった。豪邸、高級車、宝石。惜しげもなく彼女に贈られた。三日三晩、京汐湾を照らした満天の花火は、彼の想いを空に焼きつけた。ある晩、紬音がふと「昔食べた栗蒸し羊羹がまた食べたい」と口にしたとき、昴真は猛吹雪の中、夜を徹して三つの町を車で駆け回り、出来たての羊羹を手に濡れたまま彼女の前に差し出した。だが、紬音の心を決定的に動かしたのは、両親を事故で亡くしたあの日だった。昴真は遠く離れた臨城にいたが、数千億の取引を投げ打って彼女の元へ駆けつけた。乱れた髪、血走った目。その姿のまま、彼女を抱きしめた。「紬音、俺がいる。ずっとそばにいるから」彼の目に浮かぶ切実な想いに、紬音の胸が震えた。この人だ。彼女の中で、何かが決まった瞬間だった。だが——そんな唯一無二の愛を捧げてきたはずの男が、三ヶ月前、誘惑に負けた。しかも相手は、彼の親友の妹で、今は志田家に居候している——香坂遙花(こうさか はるか)だった。別荘のリビング、キッチン、ベッドルーム。あらゆる場所に、ふたりの痕跡が残っていた。昴真は、上手く隠せているつもりだったのだろう。だがこの世に、永遠に隠し通せる秘密などない。真実を知ったあの瞬間、紬音は苦しみ、絶望し、迷い、そして——血が滲むような思いで、その現実を受け入れた。もう終わりにしよう。志田家——三代にわたり公安の任務に携わってきた由緒ある家系。そのため、国外への一歩さえ、常に申請と厳しい審査が付きまとう。つまり、紬音が海を越えれば、彼はそう簡単に追ってくることはできない。移民の申請書類をバッグにしまい、紬音はタクシーを拾って「潮見邸」へと向かった。志田家の邸宅に入った瞬間、ふわりと甘ったるく、どこか不快な匂いが鼻を突いた。壁に装飾を取り付けていた男女が動きに気づき、同時に振り返る
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