Semua Bab 風は儚く、恋は難しく: Bab 1 - Bab 10

25 Bab

第1話

業界では誰もが知っている。志田グループの若き当主、志田昴真(しだ こうま)は、ビジネスの場では冷酷無情で知られ、私生活では一切のスキャンダルを寄せ付けず、女色に興味のない『氷の社長』として有名だった。女性たちは彼の半径三メートル以内に近づくことすら許されない。彼が綾瀬紬音(あやせ つむね)と出会うまでは。あの夜会で、昴真は彼女に一目惚れした。そこからはまるで、長い冬を越えた春の嵐のように、猛烈なアプローチが始まった。豪邸、高級車、宝石。惜しげもなく彼女に贈られた。三日三晩、京汐湾を照らした満天の花火は、彼の想いを空に焼きつけた。ある晩、紬音がふと「昔食べた栗蒸し羊羹がまた食べたい」と口にしたとき、昴真は猛吹雪の中、夜を徹して三つの町を車で駆け回り、出来たての羊羹を手に濡れたまま彼女の前に差し出した。だが、紬音の心を決定的に動かしたのは、両親を事故で亡くしたあの日だった。昴真は遠く離れた臨城にいたが、数千億の取引を投げ打って彼女の元へ駆けつけた。乱れた髪、血走った目。その姿のまま、彼女を抱きしめた。「紬音、俺がいる。ずっとそばにいるから」彼の目に浮かぶ切実な想いに、紬音の胸が震えた。この人だ。彼女の中で、何かが決まった瞬間だった。だが——そんな唯一無二の愛を捧げてきたはずの男が、三ヶ月前、誘惑に負けた。しかも相手は、彼の親友の妹で、今は志田家に居候している——香坂遙花(こうさか はるか)だった。別荘のリビング、キッチン、ベッドルーム。あらゆる場所に、ふたりの痕跡が残っていた。昴真は、上手く隠せているつもりだったのだろう。だがこの世に、永遠に隠し通せる秘密などない。真実を知ったあの瞬間、紬音は苦しみ、絶望し、迷い、そして——血が滲むような思いで、その現実を受け入れた。もう終わりにしよう。志田家——三代にわたり公安の任務に携わってきた由緒ある家系。そのため、国外への一歩さえ、常に申請と厳しい審査が付きまとう。つまり、紬音が海を越えれば、彼はそう簡単に追ってくることはできない。移民の申請書類をバッグにしまい、紬音はタクシーを拾って「潮見邸」へと向かった。志田家の邸宅に入った瞬間、ふわりと甘ったるく、どこか不快な匂いが鼻を突いた。壁に装飾を取り付けていた男女が動きに気づき、同時に振り返る
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第2話

早朝、紬音は外から聞こえる騒ぎ声で目を覚ました。寝ぼけ眼のまま部屋を出て、隣の高級住宅の庭に目をやると、やつれた顔の女性が男の胸元を掴み、泣き叫ぶように訴えていた。「白井のバカ、私はあなたを十年も愛してきたのよ。何人もの子どもまで産んだのに!結婚の時、あなたは一生私を愛すって言ったじゃない。なのに、たった数年で、あなた浮気して愛人を囲ってるなんて!」朝の空気はまだ澄んでいて、湖の周囲を散歩する人々が次第に足を止めて集まってくる。「あの人、有名な経営者よね?信じられない……」ざわざわと人が増えていくのを見て、男の顔色が急に変わった。慌てて女の腕を引き、屋内に連れ込もうとする。「もうやめろよ!何度も言ってるだろ、この世に浮気しない男なんていないんだよ!」その光景を、紬音は呆然と見つめていた。ふいに、背後からそっと温かな手が彼女の耳を覆った。「紬音、そんな汚い話は聞かなくていい」その声に振り返ることなく、彼女は静かに問いかけた。「ねえ、すべての男は、いつか心変わりするの?」昴真の身体がぴくりと硬直し、彼女を正面に向かせた。その瞳には真剣さしかない。「他の男は知らない。でも、俺は違う。紬音、俺は生涯、君だけを愛す」「一生なんて、長すぎるじゃない」彼は優しく彼女を抱きしめ、耳元に囁いた。「だからこそ、一生ずっと君だけが欲しいんだ」その言葉に、紬音はくすっと笑った。けれど、その笑いには、苦さが混じっていた。「でも、もし……もしあなたが裏切ったら?」昴真は笑いながらも、静かに言い放つ。「その時は、天罰を受けて死ぬよ。俺はそれくらい、君しか見てない」真実を知ってしまった今、その言葉は刃のように彼女の胸を刺した。「昴真、そんな重い誓い、よく口にできたね。本当に天罰が下ったら、どうするつもり?」昴真は静かに笑った。「大丈夫。俺がどれだけ君を愛してるか、一番わかってるのは俺自身だ。信じられないなら、この心臓を切り開いて見せる。それでも足りないなら、命ごと君にあげるよ」命ごと、差し出せるって?じゃあ、どうしてその身体一つ、制御できなかったの?別の女との痕跡がまだ肌に残っているのに、平然と「愛してる」と囁くなんて——それは、最も甘い言葉に包まれた、最も醜い裏切りだった。「紬音さん、昴真さん、ふ
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第3話

誰も、昴真がここまで強硬に出るとは思っていなかった。リビングの空気が、まるで時間が止まったように凍りついた。けれど、紬音は目の前で自分を庇い立てるこの男を見ても、心が少しも動かなかった。息子が本気だと悟った昴真の母は、とうとう折れた。「もういいわ。さっさとご飯食べましょ」食卓では、食器が当たる音と、義母の時折放つ鼻を鳴らす音だけが響いた。紬音は箸を握る手に力が入った。あの音は、義母が説教を始める前兆。案の定、次の瞬間には、カチリと音を立てて箸が置かれた。「他のことには目をつぶっても、子どもはちゃんと産んでちょうだいね?」「志田家の血筋を、あなたたちで途絶えさせるつもり?」昴真もすぐに箸を置いた。「何度も言った。紬音は痛みに敏感なんだ。あれほどの陣痛なんて、彼女に味わわせたくない。俺は子どもを諦めても構わない!」その言葉に、義父母は箸を置き、完全に食欲を失った様子だった。空気がまた重くなり始めた頃、紬音が口を開いた。「半月後ですよ。お父さん、お母さん。半月後には、おふたりに孫ができると思います」沈黙が落ちた。全員が彼女を見た。驚きと戸惑いを隠せない表情で。「紬音?」昴真が彼女の手を握った。「俺たち、子どもは諦めようって決めただろ?無理する必要なんてないんだよ」紬音はその真っ直ぐな瞳を見つめながら、ほんのわずかに唇を歪めた。「自分が産む」とは言ってないわ。あと半月で、国外へ発つ。あれだけ遙花に夢中で、毎晩のように一緒にいたがるなら産ませればいい。そう思って、にこりと微笑んだ。「ご両親の願いですもの、応えるべきですよね」昴真は、妙に素直すぎる彼女の言葉に、どこか胸騒ぎを覚えた。何かがおかしい。素直すぎる。義父母の顔にはようやく笑顔が戻り、機嫌を取り戻した。「それでいいのよ、それで!」昴真はどうにも引っかかるものがあり、何か言いかけたとき——スマートフォンが震えた。彼は画面をちらりと見て、表情が微かに変わった。紬音は隣にいたため、自然と画面に映ったメッセージを目にしてしまった。【昴真さん、ねえ、ある男の子に連絡先聞かれちゃったんだけど……教えてもいいと思う?】差出人は香坂遙花。紬音は心の中で数を数えた。1秒、2秒、3秒——ぴったり三秒後、昴真が立ち上がった。「悪い、紬音。会社
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第4話

自宅に戻ったあと、昴真は車を駐車しに行き、紬音だけが先に家へと入った。リビングの扉を開けると、遙花が既にナイトドレスに着替え、ソファでスナック菓子を抱えながらテレビを観ていた。紬音は立ち止まり、わざとらしく問いかけた。「今日は合コンで帰らないって言ってなかった?」遙花はくすっと唇を歪め、どこか作ったような恥じらいを含ませながら言った。「ごめんね、紬音さん。言い忘れてたの。実は彼氏とケンカしちゃって、それでちょっと意地になって合コン行ったの。最初は全然気にしてない様子だったのに、私が会場に着いた瞬間、彼が追いかけてきて、いきなり連れ戻されちゃって」そう言いながら、彼女はわざと襟元をずらし、首筋から鎖骨にかけて散らばる無数のキスマークを露わにした。その目は、挑むように紬音を見つめている。「まさかあんなに嫉妬するとは思わなかったわ。車の中で……三回も抱かれちゃって」その言葉に、紬音の手のひらに力が入り、爪が深く刺さった。息を整えながら、静かに尋ねた。「彼氏なんて、いつできたの?」遙花は軽く目を細め、肩をすくめながら答える。「ちょうど三ヶ月前かな?」三ヶ月前。遙花がこの家に住み始めたのは、まさにその頃だった。あの時、昴真の親友の頼みで、「妹をよろしく」と預かったはずだったのに。あの日からもう、ふたりは関係を持っていた——?紬音の呼吸が徐々に乱れてきた。言葉を続けようとしたその時、背後から大きな手が彼女の肩をそっと包み込んだ。「紬音、今日は一日疲れたね。お風呂のお湯、今から入れてくるよ。ゆっくり休んで」昴真は優しい笑みを浮かべながら、彼女をバスルームへと押しやった。紬音は服を脱ごうとして、着替えを持ってきていなかったことに気づいた。ドアを開けて取りに戻ろうとしたその瞬間——目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。ソファの上で、昴真が遙花のナイトドレスを荒々しくまくり上げ、貪るように唇を這わせていた。彼の手は彼女の腰をしっかりと掴み、キスは鎖骨から胸元へと下っていく。遙花は彼の肩に腕を回し、あえぎながら甘えるように笑う。「っ、ああ……優しくして、紬音さん、まだお風呂よ。今日は車の中でも足りなかったの?」「黙れ」昴真の低い声が響いた。「次、また他の男に会いに行ったら、どうなるかわかってる
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第5話

振り向いた紬音の視線の先には、顔色を変えた昴真が立っていた。彼女が電話を切った瞬間、昴真は焦ったように駆け寄り、手を掴んだ。「紬音、誰が移民なんだ?」紬音の表情は変わらない。「同級生よ。移民前に会っておきたいって誘われただけ」その平然とした口ぶりに、昴真は疑う気配も見せなかった。彼女が嘘をつくとは、想像すらしなかったのだろう。だが次の瞬間、彼は彼女を強く抱きしめ、息を乱して囁いた。「お前かと思って……心臓が止まるかと思った」紬音は苦笑のように唇を引き上げた。「ただの移民に、そんなに慌てる?」昴真は胸を押さえながら、言い訳のように口を開いた。「お前も知ってるだろ?うちは三代にわたって公安の任務に関わってきた家系だ。だから、そう簡単に外国へは行けない。もしお前が俺のそばを離れて国を出たら、たぶん、もう二度と会えない。そうなったら……俺は、殺されるよりも、ずっと辛い」抱きしめる腕の中で、紬音は静かに笑った。「わかったわ」その笑みの裏に何があるか、昴真は気づかない。それから数日間、彼は紬音に張り付くように行動した。会社に行くにも、外出するにも、常に彼女を連れて。紬音としても、移民局へ署名に行く機会を失っていたため、しばらくは逆らわず従うしかなかった。ある日、彼の旧友たちが新しくオープンした会員制クラブで集まりがあるという話になった。「行くよ、紬音も一緒に」昴真が当然のように言い、彼女も頷いた。個室に入った瞬間、旧知の面々が一斉に集まってきた。「紬音、今日は心ゆくまで楽しんで。静かな音楽が好きだって聞いたから、クラシックに変えておいたよ!」「デザートも、昴真が全部用意してくれたんだ。好きなものばかりだって」「こっちの席がいいよ。果物も全部切っておいた!」「お前ら、いつからこんな気が利くようになったんだ?」昴真が眉をひそめると、誰かが笑いながら答えた。「この世で一番大事なものが奥さんだって、昴真が自分で言ってたでしょ。そりゃ俺たちも気を遣うよ!」「そうそう、昴真が奥さん一筋になってから、俺たち兄弟の出番が減ってさ……だからこそ奥さんを全力でお姫様扱いするしかないっすよ!」場の空気が和んだその瞬間——ひとりの小柄な女性が部屋に入ってきた。遙花だった。店のマネージャーが慌てて彼女を止めようとする
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第6話

紬音の足は、まるでその場に釘で打ちつけられたかのように動かなかった。だが、扉の向こうから聞こえてくる会話はまだ終わっていなかった。「昴真と遙花ちゃんは、まだ終わらないのか?もう五時間は経ってるだろ」「せっかちすぎるって。昴真は持久戦の王様だし、遙花ちゃんもエロいし、一日中でもやりかねないよ」「しかもあのふたり、まるで隠す気もない。さっき隣の個室で盛り上がってたの、聞こえたぜ?女の喘ぎ声も丸聞こえ。慌てて音楽のボリューム上げさせたからセーフだったけど、俺マジで冷や汗かいた」「緊張してるのがバカらしい。何度も現場見てりゃ慣れるわ。昴真がやっと本命以外の女にも目を向けるようになって、俺らもホッとしてんだよ。たまには他の女と遊ぶくらい、いいじゃん?」「いやさ、紬音は綺麗だけど、あれじゃベッドの上でも無反応だろ。マグロみたいな女なんて、誰が喜ぶよ?やっぱ男は刺激あるのがいいって」そこから先の言葉は、もう耳に入ってこなかった。ガンガンと耳の奥で鳴り響く耳鳴り。みんな、知っていたのか。自分だけが、知らなかったなんて。表面では丁寧に接してくれていた彼らが、裏では——自分を笑いものにしていた。裏切りという言葉では足りない。魂ごと踏みにじられるような感覚。胸の奥が、まるで見えない手で無理やり引き裂かれるように痛んだ。体中の骨が悲鳴をあげ、息をするのも苦しい。外は激しい雨だったが、紬音はまるで何も感じていないかのように、濡れた道を歩き出した。魂の抜けた人形のように、ただ前へ、前へ。そのまま移民局へ向かい、全身びしょ濡れのまま、最後の署名を終えた。そしてまた、ひとりで帰宅し、自室に鍵をかけた。その夜、紬音は高熱を出した。翌日、ようやく戻ってきた昴真は、彼女がうわごとを呟き、汗にまみれて意識を失っているのを見て、血の気が引いた。「紬音!紬音!!」半狂乱のように彼女を抱き上げ、そのまま病院へ駆け込んだ。幸い、大事には至らなかった。ただのインフルエンザだったが、点滴を一昼夜続けてようやく熱は下がった。だが、昴真はそれだけでは足りず、病室ごと貸し切り、仕事すら放り出して付きっきりで看病を続けた。そんなある日、アシスタントが病室のドアをノックし、緊急の来客がいると報告してきた。「どうしても社長に会いたいとのことで……
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第7話

紬音が退院したその日は、ちょうど彼女の誕生日だった。ダブルでおめでたい日だと、昴真は惜しげもなく大金をはたき、都内で最も豪華なホテルをまるごと貸し切って、紬音の誕生日パーティーを開いた。その華美な演出に、招待客たちは皆、目を見張り、口々に羨望の声を漏らした。昴真の旧友たち——例のあの一件以来、紬音が一切好意を持てなくなった面々も、手の込んだプレゼントを贈ってきた。けれど、紬音の表情は冴えない。彼らが表面だけ取り繕っていることなど、もうとっくに見抜いている。彼女はもう、彼らに対して何の感情も持っていなかった。彼らもそれに気づくことなく、「病み上がりでまだ本調子じゃないのだろう」と勝手に納得していた。やがて、ケーキカットと願いごとの時間がやってきた。昴真が紬音の背後からそっと腕を回し、一緒にナイフを握って微笑む。「紬音、今日は君の誕生日だ。願い事、ある?」かつてなら、きっと彼女は「ないよ」と微笑んでいた。彼が愛してくれてさえいれば、それだけで十分だったのだから。だが今、彼女には切実な願いがあった——彼から離れ、二度と関わらずに生きること。「その願い、あなたは叶えてくれるの?」昴真は一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。「もちろん」「じゃあ、私……三つ、願いごとがあるの」「三つ?いいよ、なんでも言って。全部叶える」紬音はバッグから一枚の真っ白な紙を取り出した。「一つ目の願い。この紙に、あなたのサインをしてほしいの」会場が静まり返った。業界において、「白紙にサイン」など、最も警戒すべき行為だ。もしも悪意ある者にそれを利用されたら、取り返しのつかない事態を招くのは明らかだった。慎重派として名を馳せる昴真が、まさかそんなものにサインするはずがない。そう思った、その瞬間。彼は微笑んだまま、何の躊躇も見せずにサインを書き終えた。「はい、ほら、できたよ」紬音はその紙をそっと握りしめた——これがあれば、いつでも離婚届を作成できる。これで彼とは、法的にも完全に切り離せる。満足げに微笑む彼女の表情を見て、昴真も安心したように頬を緩めた。「さて、二つ目の願いは?」紬音は顔を上げ、会場をゆっくり見渡す。ざわめき、驚き、羨望……様々な視線が交錯する中、ただ一人、遙花だけが嫉妬に満ちた目
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第8話

その夜、紬音が自宅に戻った直後、病院から一本の電話がかかってきた。相手は昴真だった。「紬音、ごめん。遙花の容態が思ったより良くなくて、もう数日入院することになった。彼女のお兄さんに『責任を持って面倒を見る』って約束したから、俺、しばらく病院で付き添う。今夜は帰れそうにない」紬音は静かな口調で応えた。「いいのよ、ちゃんと看てあげて」昴真、あなたには——これからのすべての夜を、彼女と過ごせばいい。残り三日。それが、この国で過ごす最後の時間になる。その日の夜、紬音のスマートフォンに遙花から動画が届いた。画面に映っていたのは、自分の誕生日と同じ会場。遙花はティアラをかぶり、ふわふわのドレスを着て、プレゼントの山に囲まれていた。その背後から、昴真がそっと近づき、彼女の耳たぶにキスを落とした。「お姫さま、お誕生日おめでとう。願いごとは?」遙花は顎を上げ、ふんわりと笑う。「紬音さんみたいにしたいの。どんな願いでも叶えてくれるって、言って」昴真は鼻先で彼女の鼻を軽くつまむ。「もちろん。全部、叶えるよ。お姫さまの願いならね」紬音は何も返信しなかった。ただ、動画を保存し、黙ってバッグに白紙契約を入れて外に出た。向かった先は、弁護士事務所だった。「綾瀬さま、こちらが離婚協議書です。ご本人の署名があれば、これで法的に婚姻関係は解消されます」紬音は迷いなくサインをした。これで、彼とは完全に他人になる。残り二日。その日の夜、またしても遙花から動画が届いた。動画の中では、昴真が彼女の大きくなってきたお腹に耳を当てていた。「まだ三ヶ月なのに、何も聞こえないってば」遙花が笑いながら言うと、昴真は真剣な表情で言った。「パパって、言った気がする」遙花は声を立てて笑い、ナイトドレスをずらしてみせる。「赤ちゃんはまだ言葉喋れないけど、あなたが望むなら——私が言ってあげる、パパって」次の瞬間、昴真の喉ぼとけが動いた。そして彼は、彼女をベッドに押し倒した。ベッドのきしむ音がだんだんと激しくなる。「昴真、その体勢ダメ、抱き上げるのはっ……」「パパって呼んだろ。パパは、こうやって可愛い娘を抱っこするもんなんだよ」その動画を見ながらも、紬音の目には、もう涙ひとつ浮かばなかった。彼女は弁護士に電話をかけ、譲渡された全
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第9話

病院の個室——昴真はベッドに横たわる遙花を見つめ、わずかに語気を荒げた。「妊娠中なのに、なんで勝手に動き回るんだ。もし何かあったらどうする」だが遙花は心配する様子もなく、甘えるように昴真の腰に腕を回す。「ごめんなさい。でも、さっきあなたの姿が見えなかったとき、本当に捨てられたかと思って……」そう言いながら目元を潤ませるが、昴真はその涙に動じなかった。彼は彼女を押し離し、顎を指で挟むようにして言い放つ。「前にも言ったよな。紬音の前で余計なことを言わない限り、俺たちの関係は続く。今はお前、お腹に俺の子どもがいる。それ以上のことは……考えるな。しっかり安静にしてろ。俺はちょっと戻ってくる」そう言って、彼は踵を返した。遙花の瞳に悔しさが一瞬滲み、すぐさま昴真の腕を掴んだ。声には必死の懇願がにじんでいた。「もう行くの?赤ちゃん、今が一番パパを必要としてる時期なのに」そう囁きながら、彼の胸元から腰へと手を滑らせる。昴真の喉がごくりと鳴った。そして次の瞬間——彼は彼女の頭を押さえ、唇を奪った。やがて、女の甘い吐息と男の低いうめき声が絡み合い、その余韻が病室の外にも漏れ聞こえていた。看護師が見回りに来たが、顔を赤らめたまま、何も言わずそっと引き返した。夜更け。昴真は着替えを済ませ、病院を後にした。車で潮見邸へ向かう道すがら、彼の胸の奥には妙な不安が渦巻いていた。紬音、俺が帰るって言ったのに。こんな時間になってしまった……彼女の落胆した顔が脳裏に浮かぶ。ハンドルを握る手に力が入り、苛立ちを抑えるように髪をぐしゃりとかき上げた。ふと目をやると、助手席には腕時計の箱が置かれていた。数日前、彼女が何気なく欲しいと呟いていたものを、こっそり取り寄せていた。誕生日に渡し損ねたから、これで少しでも償いになれば——彼は軽く頷き、車を門に入れた。駐車もそこそこに、時計を手に取り、大股で屋敷へ駆け込む。「紬音!」玄関のスイッチを押すと、灯りがパッと灯った。その瞬間——彼の足が、床に凍りついた。屋敷には、誰もいなかった。空っぽの家に響くのは、時計の針が刻む乾いた音と、彼自身の鼓動だけ。硬直した足をようやく動かし、リビングへと進むと——目に飛び込んできたのは、テーブルの上に置かれた一枚の
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第10話

深く息を吸い込んだ昴真は、「そこに置いておいてくれ」と、使用人たちに指示を出した。使用人たちが黙ってテーブルの上に豪華な贈り物を並べ、静かにその場を後にした。残されたのは、昴真と、テーブル一面に積まれたプレゼントの山——そのすべてが、かつて彼が心を込めて選び抜いた、彼女だけのものだった。視線を落としたとき、贈り物の下に何かがはみ出していることに気づいた。彼は無造作にそれを引き抜いた。一瞬、ゴミか何かだと思い、捨てようとしたが——紙に走った文字が目に飛び込んできた瞬間、彼の動きが止まった。それは、紬音の手書きの文字だった。あの、几帳面で清らかな筆跡。彼女の人柄そのものを思わせる静かで落ち着いた字形。どんなことがあっても、彼女は決して取り乱さなかった。けれど、この紙には……何箇所も、ペン先で突かれた跡があった。そこに書かれていたのは、自分と遙花との関係の記録。場所、時間、回数——それ以外には、何も書かれていない。けれど、それだけで十分だった。読み終えたとき、昴真の手はわずかに震えていた。ちょうどその時、スマートフォンが激しく震え始めた。通話ボタンを押すと、アシスタントの切迫した声が飛び込んでくる。「社長!大変です!社長と香坂さんの関係を記したビラが、何者かによって都内全域にドローンでばら撒かれました!かなりの数は私たちで回収できましたが……既に目撃者も多数出ており、株主からも連絡が殺到しています!」昴真は無言のまま、手元の紙をぎゅっと握りしめた。「今すぐ、法務部と広報部を動かして、全力で封じ込めろ。この件が公に出回ることは絶対にあってはならない」通話を切った後も、彼はしばらくその紙を見つめていた。そして——紙をぐしゃりと丸め、ポケットへ突っ込み、踵を返した。雨の中、黒の車が唸りをあげて動き出す。まるで獣のように、暗闇を突き進んだ。そして車は、病院の前で急ブレーキをかけて止まった。彼は車のドアも閉めぬまま、まっすぐ院内へ走った。夜勤の看護師が挨拶しようと顔を上げたが——彼の表情を見た瞬間、喉元で言葉を詰まらせる。そのまま、昴真は無言である病室へ入り、ドンッと乱暴に扉を閉めた。音に驚いて、眠っていた遙花が目を覚ました。「ん、なに?……誰よ……って、昴真?」
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