All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1171 - Chapter 1180

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第1171話

「ああ」浩平は短く答えると、そのまま階段を上がっていった。蛍は浩平の後ろ姿を見つめ、その美しい顔にどこか複雑な表情を浮かべた。やがて彼女はスプーンを置き、スマホを取り出した。蛍はラインを開くと、母親とのトーク画面にメッセージを送った。【お母さん、浩平兄さんの奥さんに会ったよ。妊娠してるらしいの】......一方で、部屋に戻った詩乃は、トイレへ駆け込み吐いてしまった。ここに来てから初めてのつわりだった。寝不足のせいか、食べたばかりの朝食を全部戻してしまった。胃はまだ痙攣するように気持ち悪い。便器の前にひざまずき、何度もえずいたが、もう何も出てこない。涙で顔がぐちゃぐちゃになり、肩を小刻みに震わせながら、彼女は心身共に耐えがたい苦痛にさいなまれていた。そして、部屋に入ると、バスルームから聞こえる嘔吐の声にはっとした浩平は慌ててバスルームへ向かった。「詩乃!」その声を聞いて詩乃の背中がこわばったが、反応する間もなく、浩平が隣にしゃがみこみ、大きな手で優しく彼女の背中をさすってあげた。「また吐いたのか?」それから、浩平は詩乃を立たせると洗面台まで連れていき、蛇口をひねってコップに水を汲み、彼女の口元へ運んだ。「まずは口をゆすって」詩乃はもうぐったりしていて、洗面台についた両手もかすかに震えていた。うつむいて水を一口含むと、口をゆすいで吐き出した。数回繰り返すと、胃の不快感はずいぶん和らいだ。詩乃の様子を見て、浩平は彼女を横に抱き上げてバスルームを出た。彼は詩乃をベッドに寝かせると、布団をかけてやった。彼女の青ざめた顔を見て、浩平は眉をひそめた。その深い瞳には、痛ましげな色が浮かんでいた。「まだ気持ち悪いか?」だが、詩乃は首を横に振り、目を閉じた。「疲れたの。眠りたい」激しく吐いたせいで彼女の声はかすれ、目じりには涙が光っていた。浩平は、吐いたせいで自然に出た涙だと思い、指の腹でそっとぬぐってやる。「テントで寝るか?」彼の声は低く、優しかった。だが、詩乃は首を振った。「大丈夫」彼女が本当に辛そうなのを見て、浩平は小さく息をついた。「わかった。下に降りて経口補水液を用意してくるよ。全部吐いただろうから、少し水分を補給しないと、脱水症状がでたら大変だ」詩乃は目を閉じたまま、かす
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第1172話

一方で、浩平が階下に降りてきたとき、蛍はちょうど出かけようとしていた。浩平がこんなに早く降りてきたのを見て、彼女はすぐに駆け寄り、「浩平さん、詩乃さんはもう寝た?」と尋ねた。「いや、まだだよ」浩平はキッチンの入り口まで行くと、食器を洗っていた花梨に言った。「とりあえず、経口補水液を用意してもらえないか」花梨はすぐに答えた。「はい、すぐにお持ちします」そして、浩平はくるりと向きを変え、リビングへ向かった。彼はソファに座ると、スマホを取り出してラインを開き、詩乃の産婦人科の医師とのトーク画面にメッセージを打ち込み始めた。蛍は浩平のそばに立ち、彼のスマホを覗き込むと、入力中のメッセージが目に入った。片や、医師に相談のメッセージを送っていた浩平はそれに気が付くことはなかった。ほどなくして、花梨がキッチンから出てきて言った。「旦那様、経口補水液をお持ちしました」その声を聞いて、浩平はスマホを閉じると立ち上がり、花梨の方へ歩み寄った。「ありがとう」浩平は花梨からカップを受け取ると言った。「あとで消化にいい物も作っておいてくれるかな。詩乃の調子が良くなったら、食べたがるかもしれないから」「はい、わかりました」と花梨はうなずいた。それから、浩平は経口補水液を手に、踵を返して二階へと上がっていった。浩平の後ろ姿が階段の踊り場に消えるのを見届けてから、蛍はやっと花梨の方を向いた。彼女はくるりと瞳を動かすと、花梨に歩み寄った。そして、あどけない顔でぱちぱちと瞬きをしながら尋ねた。「花梨さん、浩平さんって、詩乃さんにいつもあんなに優しいの?」花梨は蛍を見つめた。彼女は今日初めて蛍のことを知ったわけではなかった。ネットで写真を見たとき、その美しさに息をのんだほどだ。実は、彼女も例のトレンドも見たのだった。花梨は浩平が監督する作品のファンとまではいかないが好きで、ツイッターもフォローしていたのだ。だから、この件についても、ある程度は事情を知っていた。今日、浩平から蛍が新作映画のヒロインだと聞いても、花梨は特に驚かなかった。これほど美しい顔立ちなら、きっとスクリーンを飾るのにふさわしいだろう。ただ、花梨はこの女の子が少し馴れ馴れしすぎるように感じていた。もっと正確に言えば、浩平に対して、あまりにもべったりしすぎている
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第1173話

しかし、蛍は話が通じていないのか、あるいは分かっているけど、気に留めようとしない様子だった。彼女は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、さらに言った。「浩平兄さんって、あんなに素敵な人なのに、奥さんが詩乃さんみたいな人だなんて、ちょっと予想外だった。あ、誤解しないでね。詩乃さんが悪いって言ってるわけじゃなくて、ただ浩平さんの隣に立つには、ちょっと地味だなって。それに、仕事の助けにもなれなさそうだし」「木下さん、失礼ですが、旦那様とはお知り合いになって長いのですか?」蛍は一瞬固まったが、花梨を見て、あっけらかんとした様子で首を横に振った。「いや、会ったのは数日前だけど。でも、昔からずっと知ってたんだ。彼の初公開の映画から好きで、私はこれでも浩平兄さんの大ファンなのよ!」そういうことだったのね。「でも、ファンと現実の友人や恋人とは違います。木下さんはまだ若いのに、旦那様の新作映画のヒロインに選ばれるなんて、とても幸運ですよ。だから、このチャンスを大切に、頑張って勉強してください」蛍は笑いながら「分かった」と答えたが、花梨はその空返事から、彼女が自分の忠告をまったく聞き入れていないことを察したのだ。まっ、人にはそれぞれの考えがあるでしょう。自分ってお節介ね。会って半日も経っていない子に、何も一生懸命になることはないと花梨は思った。......一方で、二階の寝室では、浩平がドアを開けて部屋に入ってきた。詩乃はドアに背を向け、横向きに寝転がっていた。ドアが開く音に彼女はびくっとし、慌てて涙を拭うと、目を閉じて寝たふりをした。うまくごまかせたと思ったが、浩平は詩乃が涙を拭う仕草をしっかり見ていた。彼はベッドに歩み寄ると、屈んで手にしたブドウ糖液をサイドテーブルに置いた。「詩乃」男は詩乃のそばに腰を下ろし、その大きな手をそっと彼女の肩に置いた。「起きてるんだろ」すると、固く閉じていた詩乃のまぶたが、ゆっくりと開かれた。浩平は彼女の横顔を見て尋ねた。「泣いてたのか?」「泣いてない」詩乃は食い気味に否定した。「さっき、こっそり涙を拭いてたの、見てたよ」詩乃は唇を噛み、布団を強く握りしめた。「俺が何か悪いことしたかな?教えてくれないか?」浩平は優しい声で、辛抱強く彼女に語りかけた。詩乃にも彼が本当は、自分に
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第1174話

浩平は、詩乃が突然そんなことを訊いてくるなんて、思ってもみなかった。数秒ほど固まって、やっと事態を飲み込めた。「もしかして、蛍のことで不機嫌なのか?」「先に質問したのは私よ」詩乃は不満そうに言った。「あなたが先に答えて」浩平は唇をきゅっと結んだ。彼はじっと詩乃を見つめた。その眼差しはとても深かった。しばらくして、浩平は静かにため息をついた。「最初は、俺のマネージャーが彼女を見つけてきてくれたんだ。多分俺の新しい映画の脚本を読んで、登場人物の設定を考えて、蛍を推薦してくれたんだろう」「それであなたは彼女の顔を見て、すぐに心を奪われて、翌日には雲城に飛んで会いに行ったってわけね」それを聞いて、浩平は目を丸くした。彼は困った顔で詩乃を見た。「話の流れはそうだけど、あなたの口から出ると、ずいぶんと違った意味のようにも聞こえるな......」詩乃は眉をひそめた。「どこが間違ってるっていうの?あなたが木下さんを気に入ったのは、その立派なお顔のせいでしょ?」「確かに、彼女の顔がきっかけだったよ」浩平は素直に認めた。「蛍のイメージが、新しい映画のヒロインにぴったりだったんだ」「本当にそれだけなの?」詩乃は浩平をじっと見つめた。「お兄さん、あなたの本心が聞きたい」そう言われて、浩平は彼女を見つめ返した。彼も詩乃がこれほどはっきりと感情を乱しているのを感じたのは、初めてのことだったから。それは、何かを探りたくてたまらないが、ハッキリするのが怖いというもどかしさが入り混じったような乱れ方だった。詩乃は子供のころから、家で決められたたくさんのルールに縛られて育ってきた。だから、自分の感情を持つことさえ許されなかった。だから、そんな風にあまりにも素直で、聞き分けよく育てられた彼女は、ずっと自分の意見というものを持つことがなかった。二人の結婚が、たぶん詩乃の人生で初めて、自分で決めたことだったのだろう。でも、結婚しても、この子を産むと決めても、詩乃は相変わらずだった。いつも他人の気持ちを優先してしまい、そして自信を持てないデリケートな性格は変わらなかった。今回のトレンド騒動も、そうだ。ネットニュースで騒がれ始めたとき、浩平が真っ先に考えたのは、トレンドに上がらないように何か手を打つことだった。本当は、きちんと釈
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第1175話

音々の言葉を聞き、浩平は電話での詩乃の返事を思い出していた。彼女の声は、少しも怒っているようには聞こえなかった。だから浩平は思ったんだ。詩乃は平気なふりをしているだけで、本当は気にしているんじゃないかって。そんな疑問を胸に、彼は新人女優である蛍を連れて町に戻った。実は、蛍を紹介するとき、浩平はわざと意地悪なことをしていた。詩乃がどんな反応をするか、見たかったんだ。でも詩乃は、いつも通り物分かりが良くて、とても自然に振る舞っていた。朝ごはんの時も、ずっと話しかけてくる蛍を相手に、浩平は相槌を打ちながらも、詩乃の様子を横目で窺っていた。すると、詩乃は静かにうつむいて、ご飯を食べるだけで、その姿は、いつもと何も変わらなかった。そして食べ終わると、彼女は「ごちそうさま」と言って立ち上がり、部屋に戻っていった。そこで、浩平は詩乃の顔色が悪いのが気になり、心配になって後を追うと、彼女がまた吐いているところだった。血の気のない顔でベッドに横たわる詩乃。目を閉じて何も話そうとしない姿に、浩平の胸は締め付けられた。その瞬間、浩平は後悔した。詩乃のつわりがひどいと知っていたのに。なのに、わざわざこんな時に彼女を試すようなことをしてしまった。そこで、浩平は、自分がなんて馬鹿なことをしたんだと、初めて思った。そして今、隠れて泣いているのに、無理して気丈に振る舞う詩乃の姿が、浩平の胸をさらに強く締め付けた。彼はたまらなく、後悔した。「詩乃、あなたが自分に自信を持てないでいるのは分かってる。そして、蛍が綺麗な顔をしているのは否定しない。俺が彼女を選んだのは、確かに顔が理由だ」その言葉を聞いて、詩乃の心に残っていたわずかな望みは、完全に絶たれた。やっぱり、蛍の顔が原因だったんだ。浩平の、想い人にそっくりな顔が。詩乃は浩平を見つめ、布団を握りしめる指先が、抑えようもなく震えていた。「お兄さん、分かった。正直に話してくれてありがとう。でも、木下さんがあなたにとって特別だって知りながら、私も平気なふりをしてあなたと暮らし続けることはできない」それを聞いて、浩平は詩乃を見つめ、怪訝な顔で尋ねた。「どういう意味だ?」すると、詩乃は息を深く吸い込んで、言った。「お兄さん、離婚しよう」そう言われて、浩平はきょとんと
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第1176話

すると、浩平は、きょとんとした顔になった。「あの写真、見たことあるのか?」浩平は眉間にしわを寄せた。「いつ見たんだ?」「えっと......」詩乃は唇を噛んだ。少し後ろめたそうな様子で言った。「私が留学してたとき、大学二年生の年だったかな。あなたが酔っぱらって、マンションに帰ってきてすぐに頭が痛いってソファで寝ちゃったの。その時、床に落ちた財布を拾ったら、偶然見えちゃって」浩平は詩乃をじっと見つめ、考えを巡らせていた。詩乃も浩平をじっと見つめた。息を殺して、彼の答えを待っていた。しばらくして、浩平はふっと口の端を上げて笑った。「もしかして、蛍があの写真の女性にそっくりだと思ったのか?」詩乃は眉をひそめた。彼女には、なぜ浩平が笑っていられるのか分からなかった。どうしてそんなに平然としていられるんだろう?こっちはこんなに辛いのに、彼は笑っていられるなんて。やっぱり、恋愛では先に好きになった方が負けなのね。詩乃はそう考えれば考えるほど切なくなり、鼻の奥がつんとした。こらえる間もなく、涙が目尻からこぼれ落ちた。それを見て、浩平はさらにきょとんとした。「泣かないでくれ」彼はすぐに笑顔を消し、指の腹で詩乃の目尻の涙を優しく拭った。「俺が悪かった」詩乃は泣きたくなかった。でも、浩平が素直に謝ってくれたことに、彼女は堪えきれなくなってしまった。浩平が認めた。あの写真の女性が、彼の好きな人だって認めたんだ。「お兄さん、あなたはずっとあの写真を持っていたでしょ。私に何か言う資格がないのは分かってる。でも、木下さんはあの人にそっくりなの。あなたが何も言わなくても、私には分かる。木下さんの顔を見たら、あなただって平然としてはいられないはずよね」「確かに、彼女は写真の女性によく似ている」浩平はそう言うと、そっとため息をついた。「だけど、そこには誤解があるんだ」詩乃は彼をじっと見つめた。浩平は小さく息を吐くと、財布を取り出し、内ポケットからその写真を出して彼女に手渡した。詩乃はぷいとそっぽを向いた。「見たくない!」「見てもらわないと、説明できないだろ?」「説明なんていらない」詩乃はくぐもった声で、意地を張るように言った。「あの人はあなたの初恋の人なんでしょ。あんなに綺麗で、私じゃ敵わないって分かってる。こ
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第1177話

「じゃあ、この写真も見て」詩乃は浩平のスマホを見た。画面の女性は髪をアップにしていて、もう中年なのに、すごくきれいだった。古い証明写真に写る彼女と比べると、もっと大人っぽくて、色気も増している。浩平は言った。「彼女の名前は木下由理恵(きのした ゆりえ)。彼女もハーフなんだ。父親が雲城の人で、母親がD国人だ」それを聞いて、詩乃は目をぱちくりさせた。そして、改めて浩平の顔を見て、もうこれ以上聞く必要がないと分かった。その似たハーフの顔立ちがなによりも物語っているからだ。ここにきて、さすがの詩乃もやっと気づいた。彼女は浩平を見て言った。「じゃあ、蛍さんはあなたの妹なの?」浩平は眉を上げた。「彼女も俺のことをすごく兄さんって呼んでたじゃないか?」そう言われて詩乃は冷たく鼻を鳴らした。「あんな呼び方されたら、知らない人はみんな彼女があなたに甘えてるって勘違いするじゃない。それに、あんな甘えたドラマチックな呼び方をする女はいつも......」そこまで言って、詩乃は急に口をつぐんだ。そして、彼女は口を押さえて、気まずそうに浩平を見た。確かに、自分は蛍と浩平が親しすぎるのが気になっていた。でも、二人が本当の兄妹だと知った今、自分が気にしていたことが、なんだかわがままみたいに思えてきた。「いつも、何だって?」浩平はにこやかに笑いながら身をかがめた。すると、彼の端正な顔が詩乃の目の前でぐっと大きくなった。その真正面からのアングルから向かってくる浩平の洗練された顔はなんとも攻撃性が高かったのだ。だから、それに耐えかねて詩乃は、「何でもない」と言い目を伏せた。そして、後ろめたくて彼と目を合わせることができなくなっていた。「とにかく、彼女を紹介してくれた時、ちゃんと説明しなかったじゃない。だから私が勘違いしたのも無理ないでしょ。あなたのせいなんだからね。私は悪くない!」それを聞いて、浩平はくすっと笑った。「詩乃、嫉妬してるのか?」そう言われて詩乃はすぐに、「してない!」と言い返した。「ただ、写真の女性はあなたの初恋の人だと思っただけ。それに、写真が白黒だったから、もう亡くなったんだと思ってたの。だって、あなたはずっと誰とも付き合ってなかったでしょ?だから、きっと忘れられない人がいたんだなって思ったの。それで、蛍さんが
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第1178話

詩乃は、頭が真っ白になった。浩平のキスはとても軽く、欲はなかった。ただ彼女を安心させるためのようだった。しかし、二人の唇が触れ合った瞬間、お互いの胸は大きくときめいた。そして詩乃はそんな状況に驚いたかのように、目をまん丸に見開いた。そこで、浩平は顔を上げると赤くなった彼女の顔が目に入ったので、彼は困ったように微笑んだ。「ちょっとキスしただけなのに、どうして顔が赤くなるんだ?」「あ......」詩乃は手で顔を覆った。「もう言わないで!」浩平は愛おしそうに彼女の頭を撫でた。「俺たちは夫婦なんだから、これくらいのスキンシップは当たり前のことだろ」そうは言っても、自分たちはできちゃったスピード婚なのよ......詩乃は心の中で思った。兄妹から夫婦なんて展開が急すぎる。今日まで、たとえ初恋の人の誤解がなかったとしても、浩平とこんなに早く進展するなんて考えもしなかったのに。それに、あの夜を除けば、こんなに親密なことをするのは初めてだった。いや、あの夜でさえ、二人はキスをしていなかった気がする......ということは、これが浩平との初めてのキス。「いずれ慣れるさ」浩平は詩乃の両手首を掴み、彼女の顔から手をどかせると、頭の両側に優しく押さえつけた。「確かにあなたと結婚したのは、責任を感じていた部分もある。でも俺たちの結婚は、責任だけで結ばれたわけじゃない。俺は十歳の頃から、俺たちに血の繋がりがないと知っていた。俺にとってあなたはずっと血の繋がらない妹だった。あの夜、薬で理性を失いかけたけど、意識ははっきりしていた。もしあの時、相手があなたじゃなかったら、俺も成り行きに身を任せなかっただろう」それを聞いて、詩乃は呆然と浩平を見つめた。彼女は彼の言葉に衝撃を受けた。「お兄さん、それってつまり......」詩乃は瞬きをした。まだ信じられないというように、「私のことが好き......ってこと?」と尋ねた。そう言われて、浩平はまた困ったように笑った。どうやら、まだ上手く伝わっていなかったらしい。彼は深い眼差しで詩乃を見つめた。「詩乃、ずっと正直に言えなかったんだ。あなたがすぐには受け入れられないんじゃないかと思って。だってあなたは俺と違って、小さい頃からずっと、俺たちを本当の兄妹だと信じてきただろ。俺を兄として頼
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第1179話

浩平のキスは、とても優しかった。詩乃を怖がらせないように、すごく丁寧に。ゆっくりと、焦らすように彼女の唇をこじ開けてくるものだった。そんな優しいキスに詩乃は息をするのも忘れ、思わずうっとりしながら、ゆっくりと目を閉じた......そして、静まった部屋に、二人のだんだん荒くなっていく息遣いだけがはっきりと響いた。浩平は、最初は軽く触れるだけのつもだった。でも、自分の理性を過信していたみたい。詩乃がキスを拒んでいないのを感じると、彼の胸は高鳴り、さらに深いキスを求めたくなっていた。唇が重なり、互いの息が絡み合う。うっとりしていると、詩乃は浩平の大きな手が自分の胸に触れたのを感じた......すると、彼女の体がびくっと震え、頭の中に、あの夜の断片的な記憶が突然よみがえてきた。そう感じた詩乃ははっと目を開けた――その瞬間、浩平が小さくうめいた。次の瞬間、二人の口の中に、血の味が広がった。仕方なく、浩平はキスをやめ、体を起こすと、噛み切られた下唇を手で拭った。そして、血で赤く染まっていた指先を見て、彼は一瞬動きを止め、詩乃に目を向けると片方の眉を少し上げた。詩乃も、浩平の唇から血が滲んでいるのを見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「わざとじゃ......ないの」「気にするな」浩平は上機嫌で、ティッシュで傷口の血を拭った。「初めてで慣れないのは当たり前だろ。大丈夫、これから俺が何回も練習させてやるから」「俺が」ってところを、彼はわざとらしく強調した。詩乃は黙り込んだ。「まだ眠くないみたいだな」浩平はそう言って、また顔を近づけてきた。「じゃあ、もう一回練習するか?」詩乃は唇を結び、目を丸くして、だんだん近づいてくる彼の顔を見つめ胸がドキドキと高鳴るのを感じた。そして、とうとう彼女は観念したかのようにゆっくりと目を閉じた。すると、浩平は口角を上げ、目を閉じて再び詩乃の唇にキスをした......だが、コンコン。突然のノックの音が、二人の邪魔をした。浩平は体を起こし、大きな手で詩乃の頭を撫でた。「ちょっと見てくる」詩乃は頷き、彼が立ち上がると、布団を引き上げて顔の半分を隠した。浩平は部屋のドアまで歩いていき、ドアを開けてみると、ドアの外には、蛍がいた。「浩平兄さん!」蛍は綺麗な目を
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第1180話

すると、浩平は淡々と答えた。「分かった。明日、マネージャーたちが来るから、その時誰かを迎えに行かせるよ。あなたは先に花梨さんのところへ行っててくれ。俺は詩乃のそばに付き添ってあげないといけないだから」そう言われ、蛍の笑顔が一瞬こわばったけど、すぐにうなずいた。「うん、わかった。じゃあ、もうお邪魔しないようにするね!」そう言うと、蛍は手を振って、そのまま階下へ向かった。一方で、浩平はドアを閉め、スマホを取り出して秘書に電話をかけた。「この町でもう一軒、家を借りてくれ。少し大きめの家がいい。明日には入居したい」電話を切ると、浩平はベッドのそばまで歩いていき、腰を下ろした。詩乃はベッドに手をついて体を起こし、彼を見た。「お兄さん、大丈夫?」浩平は一瞬動きを止めたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。「どうしてそう聞くんだ?」「だって、あなたのお母さんの話になった時、あなたの様子が少し変だったから......」その言葉に、浩平は少し意外な感じがした。まさか詩乃が、自分の心の動きにこれほど敏感だとは思ってもいなかったから。「大丈夫だ。俺がちゃんと手配をしておくから」浩平は彼女の頭を撫でた。「少し時間はかかるかもしれない。でも、俺と実の親との関係がどうであろうと、あなたにだけは絶対に迷惑をかけないと約束する」「迷惑とか、そういうことじゃないの」詩乃は首を横に振り、浩平の手を両手で握った。「あなたのことが心配なの。身内の人と再会できるのは、私もすごく嬉しい。それに、私たちはもう結婚したんだから、あなたの家族は私の家族でもあるのよ。前は誤解があったけど、今は蛍さんがあなたの実の妹だって分かったから。もうやきもちなんて焼いてないの。ちゃんと義理の姉の役目を果たさないとね!」浩平は詩乃のその言葉に心を打たれた。彼は微笑んで言った。「詩乃、そう思ってくれるのは嬉しい。でも、無理する必要はないんだ。いつも言っているだろう?誰の前であろうと、あなた自身の気持ちが一番大事なんだ。だから俺や、俺の家族に対しても、無理に気を遣って合わせる必要なんてないんだよ」「私はただ、あなたに喜んでほしかったの」詩乃は言った。「私があなたの家族と仲良くすれば、あなたも嬉しいでしょ?」「でも、俺自身が彼らとどう接したらいいか分からないとしたら、どうする?」
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