All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1161 - Chapter 1170

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第1161話

「俺が冗談を言ってるように見えるか?」浩平は少し困ったように言った。「詩乃、俺はそんなひどい男じゃない。あの夜はたしかにアクシデントだったけど、もう覚悟は決めたんだ」詩乃にはその意味がわからなかった。「覚悟を決めたって、どういうこと?」「あの日、目が覚めたらあなたはもういなかった。人に調べさせたら、北城に行ったと分かったんだ。北城には音々さんがいるから、あなたもきっと大丈夫だろうと思って、俺は安心してH市に残ってお父さんと交渉を続けた」浩平の低い声が、静かな病室に響いた。「お父さんは口では、俺とあなたを結婚させて、俺を我妻家の婿養子にするってなんてうまいことを言っているが、でも本当は、俺たちを跡継ぎを産むための道具としか思ってないんだ。音々さんの子は岡崎家が全力で守るだろうし、前の騒動で立場が弱くなった我妻家は、もう岡崎家には逆らえないはず。お父さんはそれを分かってるから、後ろ盾のない孤児の俺と、昔から大人に逆らえなかったあなたに目を付けたんだ」それを聞いて、詩乃はため息をついた。「なんだか私たち、すごく可哀想ね。やっぱり立場が弱いといいように扱われてしまうのかな」浩平はそう言う彼女の言葉に思わず笑えてきた。「それはお父さんや我妻家の連中がそう思ってるだけだ。俺はもう我妻家を出た。後ろ盾になる家はないけど、今まで築いてきた資産と人脈があれば、お父さんの言いなりにならないといけないってこともないから」「だったらなんで、息子を兄さんの養子に出すって、お父さんと約束したの?」「俺が断ったら、彼がそれで引き下がると思うか?」詩乃は言葉を失った。「俺がお父さんに同意したから、彼もおばあさんもあなたのことを見逃して、入江家との結婚を無理強いするのをやめたんだ。彼らにとって今は、入江家との縁談よりも、我妻家の血を引く跡継ぎの方がずっと大事だからな」それを聞いて、詩乃はようやくことの全貌が分かった。「じゃあ、私が今まで、北城でこんなに自由に暮らせていたのは、我妻家が私を諦めたからじゃなくて、あなたがとっくに話をつけてくれてたからなのね」「ああ」浩平は詩乃の頭を撫でた。「でも心配するな。もし本当に男の子が生まれても、あいつらには渡さない」「でも、渡さなかったら......」詩乃は心配そうに言った。「彼らが黙っているはずないで
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第1162話

今の国内では、結婚するのに戸籍謄本がなくても婚姻届と本人確認書類があれば入籍ができるようになったのだ。浩平はそれからS国のある山の麓の小さな町に家を買い、婚姻届を提出した後、彼は詩乃を連れて、そこで体を休めることにした。今まで、浩平は映画を撮っていない時は、ほとんど世界中を旅していた。特に計画は立てず、カメラを片手に気の向くままに旅をするのが彼のスタイルだった。でも今は詩乃が妊娠しているから、彼も気が向くまま旅をすることはできなくなった。それに、彼女のつわりがひどかったのもあって、浩平は婚姻届を出した三日後には、音々たちに別れを告げ、詩乃を連れてS国へ飛んだのだ。S国に着くと、浩平は詩乃の体を気遣い、まずはS国の首都でしばらく滞在することにした。この時期、そこは旅行のハイシーズンだった。すると、詩乃のつわりは不思議と、外に出て街をぶらぶらしている間には治まり、元気で食欲もわいていたのだが、部屋に戻ったとたん、ぐったりしてしまうのだ。浩平も最初、偶然だと思って、三日間滞在している間、彼は毎日、昼になると詩乃を連れて遊びに出かけた。しかしやはり、外にいる間、詩乃は元気いっぱいで、何でもおいしく食べられた。でもホテルに戻ると、三十分もしないうちにめまいと吐き気に襲われ、昼間に食べたものを全部吐いてしまうのだった。そこで、悩んだ浩平は産婦人科の医師に相談してみると、妊婦には個人差があり、薬で改善できるものではないので、本人がどう感じるかを一番に考えるしかないと言われたのだ。結局、どうすれば一番楽でいられるか、本人に合わせるしかないということだ。だから、浩平は四日目に詩乃を連れてあの山の麓の小さな町へと向かった。そこは景色が美しく、空気もきれいだった。そして何より、ゆったりとした時間が流れていて、休暇を過ごすにはぴったりの場所だった。もちろん、妊娠初期のひどいつわりに苦しむ詩乃にも、うってつけの環境だった。そして、浩平は詩乃が夜でも快適に過ごせるように、家の外の芝生に直接テントを張った。夜になると満天の星が輝き、少し気温は低くなるが、それでも、北城の秋冬に比べればずっと過ごしやすいのだ。その日、浩平は空の下、カセットコンロで今夜の夕食を作っていた。隣のテントでは、メッシュのカーテン越しに詩乃が見えた。彼女はタ
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第1163話

でも、たったこれだけのことでも、詩乃はすごく満たされていた。......夕食の後、浩平と詩乃は腹ごなしに散歩をした。その後、二人はシャワーを浴びに行った。シャワーを浴びてから、二人はテントの中に戻った。浩平は寝床を整え、枕を二つ並べて言った。「こっちに来て横になって。胎教の絵本を読む時間だよ」詩乃は言われた通りに彼の隣へ行き、そこに横になった。浩平は座ったまま、胎教用の絵本を開いた。ページをめくると、彼の低く落ち着いた声がテントの中に響いた。詩乃は横向きになり、片腕を枕にしながら、まばたきもせずに浩平を見つめていた。真剣に絵本を読む彼の横顔は、彫りが深くてとてもハンサムだった。実は浩平には外国の血筋が混じっていて、眉骨や鼻筋は、まるで西洋人のように彫りが深く、でも、瞳はダークブラウンで、まつ毛は黒くて濃い。そして、東洋人らしい凛々しい雰囲気も持ち合わせているのだ。その東西の血筋が混じり合った顔立ちは、他にない独特のかっこよさを生み出していた。浩平は今や国内外でも有名な映画監督だから、授賞式で舞台に上がるたび、その才能以上に彼のルックスも注目の的だった。そして、ファンたちからはよく「ルックスだけでも十分優秀なのに、その上才能と努力も兼ね備えているなんて」などと崇められているのだ。詩乃も、ファンたちの言う通りだと思った。浩平のルックスをもって俳優を目指せば、間違いなくトップスターになっていただろう。そう思って、彼女はまだ平らなお腹を撫でながら、そっと声をかけた。「お兄さん」すると、読み聞かせる声が止まり、浩平は詩乃に視線を向けた。「どうした?」詩乃は彼ににっこりと甘く笑いかけた。「赤ちゃん、どっちに似るかな?」浩平は少し言葉に詰まった。まさかそんなことを突然聞かれるとは思っていなかったからだ。でも、正直その問題については彼も本気で考えたことがなかった。そう思って、浩平は本を閉じ、詩乃を見つめて問い返した。「あなたは、どっちに似てほしい?」「あなたよ!」詩乃は嬉しそうに目を細めた。「あなたみたいなかっこいい男の子が生まれたら最高。見てるだけで目の保養になるから!」浩平は彼女からそんな答えが返ってくるなんて予想しておらず、きょとんとした。それから、ふっと笑って言った。「あなたの目には、俺
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第1164話

「誰もが、この世にたった一人しかいない大切な存在なんだよ。そんなに自分を否定しちゃだめだ」詩乃は、きょとんとした。浩平は詩乃を見つめた。その真っ黒な瞳に、彼女のきれいな顔が映り込んでいた。詩乃は派手な美人というわけじゃない。でも、手のひらに乗ってしまいそうな小顔で、顔立ちも整っていて肌も白い。それに、アーモンド形の瞳は澄んでいて、いきいきとしていた。浩平は顔を近づけると、長い指でそっと彼女の顎をつまんだ。二人の顔が近づいて、お互いの息遣いが感じられる距離になった。詩乃は浩平をじっと見つめ、大きく目を見開いた。そして心臓がドキドキと音を立て、息をするのも忘れてしまうほどになり、彼女は両手で、ぎゅっと布団を握りしめた。二人の唇が触れそうになった、その時。突然、スマホの着信音が鳴り響いた。詩乃はまつ毛を震わせ、うつむいた。浩平は彼女から手を離すと、薄い唇の端を少しだけ上げて笑った。そして、傍らに置いてあったスマホを手に取った。画面には、秘書の名前が表示されていた。浩平は通話ボタンを押した。「どうした?」「オーナー、たった今、葛城さんから新人の写真が送られてきました。今探しているヒロインのイメージにぴったりだそうです!プロフィールはメールでお送りしました」葛城日和(かつらぎ ひより)は浩平の映画スタジオでマネージャーをしていて、もう何年も一緒に仕事をしてきたから、脚本や俳優を選ぶ浩平の好みも、だいたい分かっていたのだ。「分かった」浩平はそう言って電話を切った。彼は詩乃の方を振り返った。「詩乃、そろそろおやすみ」さっきまでの甘い雰囲気は、その電話ですっかり消えてしまっていたが、それでも詩乃はまだ少し気まずさを感じていた。だが、彼女はうなずくと、言われた通りおとなしく横になった。そして布団を顔の半分まで引き上げて言った。「お兄さん、あなたも、あんまり夜更かししないで」「うん、メールを確認したらすぐ寝るよ」浩平は詩乃の頭をなでた。こうやって彼女を安心させるのは、いつものことだった。「おやすみ」詩乃は微笑んで言った。「お兄さん、おやすみ」「うん」そう言って、浩平はテントの中のライトを消すと、立ち上がって外に出た。彼はテントの入り口のファスナーを閉めた。そしてタープの下の折りたたみ椅子に座ると
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第1165話

詩乃は寝起きで、白い肌の頬がほんのりピンク色に染まっていた。ここ数日と比べると、顔色もずいぶんよくなったようだ。それを見て、浩平は巡らせていた思いを抑え、詩乃に微笑みかけた。「起きたばかりだ。今日の体調はどう?」「すごくいい感じよ!」詩乃は笑った。「最近、夜中に吐き気で起きなかったのは昨日が初めてなの。それに、ゆうべは素敵な夢も見たの。あなたにそっくりな男の子を産む夢で、すごくかっこよくてかわいかった!」それを聞いて、浩平は呆れて思わず噴き出した。こう見ると詩乃の体調は、本当に良くなったようだ。「さあ、家に戻って顔を洗って着替えよう。それから、朝ごはんを作ってあげるから」「うん」「上着を羽織って。朝は霧が濃いから」「はい!」詩乃はテントの中から上着を取り出して羽織り、外へ出てきた。だが、彼女が二、三歩歩いたとき、ふと地面に落ちている吸い殻が目に入った。ざっと見て、七、八本はあった。それを見て、詩乃はかすかに眉をひそめた。浩平はタバコを吸うが、特にヘビースモーカーというわけではない。徹夜で仕事をするときにたまに吸うくらいで、普段はほとんど吸わないのだ。ここは家の庭だし、昨夜は自分と浩平の二人きりだった。だから、この七、八本の吸い殻は、浩平が吸ったものに違いない。こんなに吸うなんて、もしかして一睡もしていないんじゃ......詩乃は顔を上げて浩平を見た。しかし彼は彼女を見ていなくて、くるりと向き直ると家の中へ向かった。浩平の高く、すらりとした後ろ姿を見つめながら、詩乃は眉をひそめた。今日の浩平は、どこか様子がおかしい気がした。何かあったのだろうか。仕事で何かトラブルでもあったのかしら。一方で、浩平もドアまで来ると、詩乃がついてきていないことに気づいて振り返った。彼は足を止め、まだテントのそばに立っている詩乃に目を向けた。「どうした、ぼーっと突っ立って」「今行く!」詩乃は微笑んで、浩平の方へ歩き出した。詩乃が近づいてくるのを待って、浩平は大きな手で優しく彼女の頭を撫でた。「まだ眠いのか?ぼーっと突っ立ってるなんて」詩乃は首を横に振った。「ううん、さっき地面に吸い殻が落ちてるのが見えたから」彼女は心配そうな目つきで浩平を見つめた。「お兄さん、昨日の夜、もしかして全然寝
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第1166話

詩乃が胸を押さえるのを見て、浩平は具合が悪いのかと思い、途端に表情を硬くした。「どうした?」彼は詩乃の額に手をやり、頬にも触れた。「熱はないな。どこか具合が悪いのか?」我に返った詩乃は、浩平の心配そうな顔を見て、思わず吹き出した。「大丈夫よ」浩平は一瞬動きを止めた。「本当か?」「平気」詩乃は首を横に振った。「じゃあ、なんで胸を押さえてたんだ?」詩乃は絶句した。まさか心臓がドキドキしてたからだなんて、言えるわけない......恥ずかしすぎる。その時、浩平のスマホが再び鳴った。今度の電話は、日和からだった。浩平は発信者表示を見ると、詩乃に慌ただしく言った。「先に顔を洗っておいで。ちょっと電話に出てくるから」そう言うと、彼はスマホを手に二階の書斎へ向かった。その慌ただしい後ろ姿を見て、詩乃は再び胸の中に奇妙な感覚が広がるのを感じた。仕事に集中している時の浩平の姿は、何度も見てきた。浩平は仕事に対してとても真面目で、効率を重視する。でも、電話一本でここまで動転するなんてことは今までなかった。電話が鳴った途端、浩平はまるでスイッチが入ったかのように、一瞬で張り詰めた雰囲気に変わった。詩乃は自分が妊娠で神経質になっているせいかもしれないと思いたかったが、でも、昨日の夜から浩平の様子が少しおかしいのは明らかだった。彼は何か隠し事をしている。そう感じた詩乃は唇を結んで、そっとため息をついた。......一方で、書斎に入ると、浩平はドアを閉めた。電気はつけず、彼は窓際に歩み寄ってカーテンを開けた。すると、外の光がガラス窓を通して差し込んできた。浩平は通話ボタンを押した。「葛城さん」「オーナー、例の新人とは連絡が取れました」スマホから日和の声が聞こえる。「彼女はハーフで、父親がD国人です。でも両親が離婚した後は、母親と国内に戻り、ずっと雲城に住んでいるそうです。今年22歳でまだ若い、母親の躾も厳しいようですので......もし契約をするのであれば、直接彼女の母親と話す必要がありそうです」浩平は少し黙ってから、口を開いた。「彼女の母親と会う約束を取り付けてくれ」「承知しました。いつ頃ならご都合よろしいでしょうか?」浩平は言った。「今S国にいるんだ。帰るのに時間がかかるから、
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第1167話

国内でもS国でもつわりはかなりひどかった。特にS国に来る飛行機の中は、死ぬほど辛くて。途中三、四回も吐いて、本当に思い出したくもないくらいだった。でも、ここに来てからは、心身ともにずっと調子がよかったから、たぶん、お腹の赤ちゃんがこの場所を気に入っているんだろうな。それに、浩平が帰国するのは数日のことだし。そう思うと、詩乃は浩平を見つめて言った。「お兄さん、やっぱり私は国内には戻らないでおくね」その言葉を聞いて、浩平の眉間に寄っていたしわが、すっと消えた。詩乃も、彼のそのかすかな感情の変化には気づかなかった。浩平は彼女に歩み寄り、大きな手で優しくその頭を撫でた。「誰か付き添いの人に頼んで来てもらうようにするよ。仕事が片付いたら、すぐに戻ってくるから」「お兄さん、心配しないで。こっちではちゃんと食べて、よく眠れているから、気にしなくていいよ。それより、あなたこそ仕事で無理しないで。わざわざ帰ってくるのに、スケジュールを詰め込むこともないから。一日二日くらい遅れても、どうってことないし、あなたには無理してほしくないの」それを聞いて、浩平は軽く唇の端を上げて、指先で詩乃の鼻を軽くつついた。「さすが俺が面倒見てきただけあって、あなたも人のことを気遣えるようになったじゃないか」すると、詩乃は彼に触れられた鼻先に手をやり、頬をほんのり赤らめた。......それから、浩平は秘書に電話して、明日の朝のS国から雲城行きの航空券を予約させた。ついでに、S国で信頼できる移民の女性ヘルパーを探すようにも指示した。指示を受けて、秘書の手配も非常に早かった。その日の午後には、もうヘルパーの女性が町に到着した。ヘルパーの女性は谷口花梨(たにぐち かりん)といい、27歳で、国内から来たプロの妊産婦ケア専門家だった。こちらで資格を取得し、正規の健康証明書も持っていた。浩平も詩乃も、彼女は適任だと感じた。何より花梨が詩乃と同い年なので、気兼ねなく話せて気楽に過ごせるだろうと思ったからだ。詩乃のヘルパーの手配ができると、浩平は翌日の早朝四時に出発した。彼が出ていく時、詩乃はまだぐっすりと眠っていた。昨晩は雨が降ったので、テントでは寝られなかったため、詩乃は家の中で一晩寝たが、体調は変わらず安定していた。浩平は出発前に、詩乃の寝顔
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第1168話

その後、トレンドはすぐに消された。だが、詩乃が浩平から電話をもらったのは、午後になってからだった。電話の向こうの浩平の声は低く、どこか疲れているようだった。「トレンドは見たか?」「ええ」詩乃はちょうど湖のほとりを散歩していて、大きな木の下に腰を下ろして涼んでいた。「お兄さん、心配しないで。あなたのこと、信じているから」その言葉に、電話の向こうの浩平は黙ってしまった。彼はわざわざ説明するために電話をかけたようだが、詩乃のその一言で、かえって何を言えばいいのか分からなくなってしまったのだ。一方で、花梨がそばで、カセットコンロを使って夕食の準備をしていた。最近詩乃は、もうテントで寝なくてもつわりが起きなくなったが、それでも彼女はやっぱり外で過ごす方が好きだった。この町は、静かに体を休めるにはぴったりだった。空気も景色も、文句のつけようがないくらい素晴らしい。詩乃はこの場所がとても気に入っていて、毎日を穏やかな気持ちで楽しく過ごすことができていた。もちろん、それはあのトレンドを見るまでの話だ。トレンドを見てからというもの、詩乃の心はどうしようもなく沈んでしまっていた。トレンドが根も葉もない噂だということは分かっている。浩平の人柄は、詩乃が一番よく知っていた。たとえ二人の間に愛情がなくても、彼は結婚を決め、この子を一緒に育てようとしているのだから、結婚生活を裏切るようなことは絶対にしないはずだ。しばらくしたあと、「もうすぐ空港に着く」と浩平は沈黙を破った。「詩乃、信じてくれてありがとう。トレンドは記者が勝手に書いたデタラメだ。あの女は俺の新作映画のヒロインで、まだ若くて、彼女のお母さんを説得するために、一度いってあげただけなんだ」「お兄さん、本当に信じてるわ」詩乃は静かな声で言った。「でも、私の気持ちを考えて、わざわざ電話で説明してくれたことが、すごく嬉しい」その言葉を聞いて、浩平の張り詰めていた神経は完全に解きほぐされた。彼はふっと口元を緩めて笑った。「バカだな。怒ってもいいし、俺を問い詰めてもいいんだ。そんなに聞き分けよくする必要はないさ」「あなたとは昨日今日の付き合いじゃないでしょ?」詩乃は明るい声で言った。「小さい頃からずっと一緒だったんだし、あなたは私のことをずっと大事にしてくれていたじゃない?これ
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第1169話

蛍の母親が何をしている人なのかは、誰も知らない。でも、学校の友達の話だと、蛍はいつも身なりがよかったらしい。彼女の母親も知的で綺麗な人で、服装もちゃんとしていて、きっと実力のあるキャリアウーマンなんだろうって。でも、これは全部ネットの情報だから、本当かどうかは分からない。詩乃は、浩平が電話で話していたことを思い出し、多分ネットの噂は本当なんだろうな、と思った。だから、浩平が蛍の母親に頼まれて、わざわざ雲城まで契約の話をしに行ったのだ。それだけ彼女は母親に大切に育てられてきたのだろう。片親ではあったが、蛍は母親から愛情をたくさんもらって育ったんだろう。しかし詩乃は、蛍のすっぴんの写真を見て、なぜか胸がちくりと痛んだ。確かに、すごく綺麗な顔。映画のヒロインだって余裕でこなせそう。でも、一番うらやましいのは、蛍の顔が浩平の初恋の人とそっくりなことだった。そう思いを巡らせて、詩乃はスマホの画面を消した。そして、薄暗い部屋で、彼女は切なげなため息を漏らした。「人を好きになるって、こんなにも気持ちが揺さぶられることなのね......」......その晩詩乃はずっと寝返りを打って寝付けずにいた。そして朝の4時ごろになって、ようやくうとうとし始めた。どれくらい眠っただろう。階下から、かすかに誰かの話し声が聞こえてきた。詩乃は眉をひそめ、なんとか目を開けた。ひどく痛む目をこすりながら、彼女は手探りでスマホを掴んで見ると、時刻は午前9時15分だった。部屋のカーテンは閉め切られていて、部屋の中は薄暗いままだった。詩乃が体を起こしてベッドから降りようとした、その時だった。不意に部屋のドアが開いたのだ。そこにいたのは、黒い服を着てスーツケースを引く浩平だった。目が合って、詩乃は呆然としてしまった。浩平は部屋に入るとドアを閉め、スーツケースを隅に置いてから、彼女の方へ歩み寄った。詩乃は、一歩一歩近づいてくる浩平から目が離せずにいて、胸の鼓動が、どうしようもなく速くなるのだった。片や、浩平は詩乃の前に来ると、その手で彼女の額や頬に触れた。熱がないことを確かめると、ベッドの横にそっと腰を下ろした。そして、詩乃の小さな鼻先を指でつついて、にこりと微笑みながら尋ねた。「今日は随分な寝坊したな?」詩乃は、まつ毛を
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第1170話

蛍は、浩平と詩乃の前で立ち止まった。若い彼女は、ふとした表情も笑顔も、まるでフィルターがかかったみたいにキラキラして見えた。その若々しくてハリのある整った顔を間近で見て、詩乃はさらに劣等感を募らせた。彼女はとっさにスカートの裾をぎゅっと握りしめ、全身をこわばらせた。「ちょうどよかった。紹介するよ、こちらは俺の妻だ」浩平は、詩乃の肩をそっと抱き寄せた。「我妻詩乃というんだ」蛍は詩乃に視線を移すと、キュッと口角を上げて、天真爛漫な笑顔を見せた。「あなたが浩平さんの奥さんなんですね。これからは詩乃さんって呼んでもいいですか?」そう聞かれて、詩乃はなんとか平静を装い、蛍にうなずき、微笑んでみせた。「木下さん、こんにちは。いらっしゃるとは知らなくて、なにもおもてなしの準備ができていないんです。ごめんなさいね」「詩乃さん、そんなこと言わないでください。浩平さんが選んでくれなかったら、こんな素敵な場所に来られませんでしたから。お二人に迷惑だと思われないだけで、私はすごく嬉しいんです」蛍は明るい声で、少しおちゃめに言った。その活き活きとした雰囲気は、まさに二十二歳の若者らしく、生命力にあふれていた。浩平は詩乃に視線を向け、落ち着いた声で言った。「詩乃、この子が話していた新しい映画のヒロイン、木下蛍だ。演技の専門教育も受けたことがないし、経験もないから、ちゃんとしたトレーニングが必要なんだ。だからしばらくは、俺たちと一緒にここで過ごすことになるけど、明後日には俺のマネージャーが専門チームを連れてくるから」それを聞いて、詩乃はうなずいた。新しい映画のヒロインのために蛍を連れてきたという理由なら、詩乃もこれ以上何かを問い詰めることはできなかった。ただ、どうしても考えてしまう。浩平がこんなに蛍を大切にしているのは、本当に映画のためだけなのだろうか。......朝食の時間、蛍は浩平にひっきりなしに話しかけていた。この町のことや、映画のこと。まるで世間知らずの子供のように、何にでも興味津々だった。そして浩平も、蛍のどんな質問にも根気よく答えてあげていた。その一方、詩乃は最初から最後まで、うつむいて黙々と食事をしていた。もちろん、詩乃だって浩平と二人きりの時は、こんなに静かなわけじゃないが、蛍みたいに天真爛漫で物怖じしないように
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