高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。「……願ってもないことです」彼女は引きつった笑みを浮かべた。泣いているような表情だった。どうせ余命幾ばくもない。国の役に立てるなら本望だ。診断書には「筋萎縮性側索硬化症」--通称ALSの文字が躍っている。さらに合併症で肺感染症を併発し、余命は一ヶ月を切っていた。担当者の目に憐憫が滲んだ。「科学研究へのご協力、感謝いたします。これは微々たるものですが……」痙攣する手でお金入りの封筒を受け取った。神経薬の過剰摂取の後遺症で、指が勝手に震える。このお金は児童養護施設に寄付し、最後に墓参りを済ませたら、あとは静かに死を待つつもりだ。よろめきながら外へ出ると、樹木の陰で待ち伏せていた男たちと目が合った。「いたぞ!こっちだ!」「逃げやがって……戻ったら電気ショックでぶっ殺すぞ!」血の気が引く。反射的に走り出す。胸腔に鋭い痛みが走り、鉄の味が喉に広がる。恐怖で筋肉が硬直し、警備員の多いビルへ必死で駆け込んだ。勢いあまって誰かにぶつかり、封筒の中のお金がばら撒かれた。硬い胸板に顔を打ち付け、耳元に騒ぎ声が響く中、冷たい薫りが鼻腔を刺した。「高梨夏希」低音の声が宣告するように名前を呼ぶ。凍りついた彼女の眼前には、五年ぶりの神尾直人(かみお なおと)が立っていた。より鋭くなった眉尻、冷徹さを纏った貴公子然とした顔。だがその視線には、紛れもない嫌悪と憎悪が渦巻いている。心臓を掴まれたような痛み。目頭が熱くなる。「神尾……社長」追ってきた男たちが直人の姿にたじろぐ。直人は夏希を睨みつけ、声を絞り出した。「誰の許可で戻ってきた?」俯いたまま答えない。あの夜、資産家の息子に精神病院へ押し込められ、五年間虐待されたことは、彼には伝わっていないのだ。直人の視線が男たちへ移ると、彼らは地面
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