直人と千春の結婚式が間近に迫っていた。全国のスクリーンを埋め尽くすほど神尾家の財力を誇示する婚約発表に、メディアは騒然としていた。夏希はそれを良いことだと思った。直人の命を救った恩を千春に横取りされても、直人はきっと彼女を愛している。二人は幸せになるだろう。直人の人生も正しい道を歩み、輝かしい未来が待っている。ならば、自分は消えるべきなのだ。身繕いを済ませて家を出た夏希だったが、すぐに背後から覆いかぶさられ、意識を失った。気がつくと、彼女は縛られていた。同じく拘束されていたのは、小山千春だった。恐怖で顔を涙で濡らす千春に、誘拐犯は逆上して怒鳴りつけた。「神尾直人の前でもっと泣き叫べよ!」しばらくして、男の一人が駆け込んできた。「金を持ってきたぞ!」二人は外へ引きずり出された。「一億円だ。人を返せ」誘拐犯は札束を詰めたスーツケースを覗き込み、哄笑する。「いいよ!だが、選べるのは一人だけだ」千春が泣き叫んだ。「直人さん、助けて……!」夏希の体が氷のように冷えた。誘拐犯が合図すると、背後にある廃屋に火が放たれた。炎が渦巻く中、二人は同時に持ち上げられた。「お前のせいで家族を失った……今度はお前が愛する女を失う味を味わえ!選べ!」直人の視線が夏希を一瞬掠めた。その時、誘拐犯の部下が人目を盗んで直人に頷いた。直人は微かに息を吐くと、静かに告げた。「千春、こっちに来い」覚悟はしていた。それでも、夏希の体は震えを止められなかった。あの時、自分が「幸子さんと私、どちらかを死なせるなら私が生きる」と直人に告げたように。今度は彼が自分を選ぶ理由などない。誘拐犯が手を離すと、千春はよろめきながら直人の元へ走った。「潔いね」嘲笑う声と共に、夏希の体が炎の中へ放り込まれた。視界の最後に映ったのは、千春を優しく抱き留める直人の背中だった。二人は振り返ることなく去って行った。轟音と共に焼け落ちる梁に直撃され、夏希は血を吐いた。炎に吞まれる瞬間、彼女の人生は終わりを告げた。
一方、部下が神尾直人のもとに急ぎ寄り、小声で報告した。「神尾社長、出口の手配は完了しました。高梨夏希さんを迎えに行きましょうか?」千春が視線を向けると、直人の手が一瞬止まり、嗤うように笑った。「行く必要などない。足があるんだから、自分で逃げられないはずがないだろうが」誘拐犯の手下--直人の指示に従う男が慌てて戻ってきた時、火勢はまだ衰えていなかった。周囲を見回し、彼の表情がこわばる。「人は?」少し離れた場所で待機していた手下が恐縮したように答えた。「兄貴、ここで誰かを待つように言われたけど……誰が出てくるのかわからなくて。誰も見かけませんでした」手下の顔から血の気が引いた。「出てこなかった……!?」彼の表情が一変し、炎の海を見つめて叫んだ。「急げ!中に入って助け出すんだ!」高梨夏希がもはや助からないと悟っていても、実際にその姿を目にした瞬間、胸がざくりと痛んだ。崩れ落ちた梁が腰を折り、半焼けの顔はもはや原型を留めていなかった。「兄貴……神尾社長に報告するべきでは……」「報告なんて必要ない。自業自得だ」「あの人は高梨さんを憎んでる。どうでもいいことだ。そのまま処理しろ」手下は深く息を吸い、冷静を装って言い放った。「葬儀社に連絡だ」惨たらしい遺体を見下ろしながら、彼もまた胸を締め付けられる。「神尾社長の態度は明らかだ。お前を見捨てたんだから……俺が冷酷だと思わないでくれ。あの人の新しい生活を邪魔するな」直人の命令は「高梨夏希をここから追い出し、二度と姿を見せないようにせよ」だった。死ほど徹底的な「消滅」があるだろうか。一同が葬儀社の到着を待つ中、現れたのは黒ずくめの謎の車だった。黒い制服の男が遺体の身元を確認すると、哀れみを込めた視線で担架に載せ、真っ白な布で覆った。「遺体寄付の契約に基づき、搬送させていただきます」手下は初めて知った。夏希が極秘で遺体提供の契約を結んでいたこと、そしてそれが普通の寄付ではないことを。『なぜそんな契約を?自分が死ぬとわかっていたのか!?』黒服の男は去り際にふと振り返り、ため息をついた。「高梨さんは本当に優しい方でした。慰謝料は全て児童養護施設へ寄付するとのこと。ご遺族の方々、どうかお力落としのないように」「国家機密に関わるため同
卓也が直人を見つけた時、彼はビルの屋上でタバコを吸っていた。足元には吸い殻が散乱し、靄のような煙が立ち込める中、その姿はまるで天に昇る仙人のように浮かび上がっていた。「いつまで引き延ばすつもりだ?」卓也は眉を顰め、近づきながら低い声で詰め寄った。「千春さんとの婚約発表から何ヶ月経った?形だけのアナウンスで具体策も示さぬとは」直人は細めた瞳の奥に微かな揺らぎを宿し、タバコの火を指先で転がした。喉の奥から絞り出すような声が夜風に溶けた。「……まだだ」「『まだ』だと!?」卓也の拳が柵を叩きつけた。「高梨夏希を逃がした件は黙って見過ごした。だが幸子の願いを忘れたか?あの方が望んでいたのはお前が幸せな家庭を築くことだ。今もあの女の影に囚われているなら、幸子だって黄泉で目を瞑れまい」吐息と共に零れた言葉に、直人の長い睫毛が震えた。掌に刻まれた爪痕が、過去の記憶を疼かせる。「一ヶ月」砂を嚙むような嗄れ声が夜色を切り裂いた。「あと三十日……くれれば」その期間で全てを葬り去る--高梨夏希への想いを、胸に刺さった棘ごと引き抜き、世間が求める「普通」の人生に戻ると。「馬鹿げている!」卓也が荒々しく踵を返す。残された神尾のコートの裾が、冬の風に翻った。『幸せな家庭を築くこと……か』記憶の断片が視界を掠める。リビングルームの暖かい灯り、ソファに腰掛ける姉が夏希の肩を抱きながら笑っていた。「やっとプロポーズしたのね。もう少し遅ければ、うちの夏希ちゃんが逃げ出してたわよ」「冷たい顔してるけど、本当は繊細なの。夏希ちゃんに出会うまで、この子が結婚する日が来るなんて思ってなかった」「二人が幸せな家庭を築く姿を見られて……本当に良かった」瞼を閉じた瞬間、頬を伝う一滴が星屑のように消えた。かつて誘拐事件に加担していた若い男が、直人の元に戻ってきたのは先月のことだ。功績があると評価され、今や秘書として側近の座に収まっている。新米秘書は連日続く過酷な勤務に暗中模索していた。社員たちが「社長が帰らない限り我々も……」と青ざめる中、ついに決意を固める。「本日の予定は全て消化済みです」書類を置く手が微妙に震える。直人は書類に目を走らせたまま「うむ」とだけ応じる。「あの……本日はバレンタインデーでして」机を叩く指の音が止
秘書は困惑した表情を浮かべていた。直人はその時秘書が立ち会っていなかったことを思い出し、しわがれた声で言った。「彼女はつい最近、骨髄提供を行っていた……その後、回復はどうだった?」秘書は全身を電流が走ったように硬直した。彼の脳裏に、先日かすかに掴んだ情報が浮かんだ。道理で……道理で逃げ道を残したのに高梨夏希が脱出できなかったわけだ。あの足の不自由さは骨髄提供の後遺症だったのか!背筋が氷のように冷たくなり、直人の顔を直視できない。空気が鉛のように重く淀んだ。「話せ」と焦れた声が追い打ちをかける。秘書は額に汗を浮かべ、言葉を濁した。「ええ……見たところ順調でしたが……神尾社長、失礼ながら、彼女が骨髄を提供した相手は……」直人の表情は再び冷たさを取り戻した。「当然、千春だ。これは彼女の償いだ」秘書の指先が微かに震えた。平静を装うのに必死だった。「彼女が去る時は何の不調もなく、完全に回復しているようでした」ふと、直人の顔に苦悶の色が掠めたような気がした。しかし瞬きするうちに、それは幻のように消えていた。「……良かった」と直人は喉を絞るように呟いた。秘書の心臓が不安に鼓動した。高梨夏希の惨めな姿が瞼の裏にちらつき、抗議の叫びが聞こえるような気がしてならなかった。口を開こうとしても、言葉は喉元で潰れた。「行け」直人は既に窓辺に立ち、タバコに火を点けていた。秘書が足取り重くドアを閉めると、薄暗い執務室に残された背中は、闇に溶け込む孤影のように見えた。社内が人のなくなった頃、直人は無意識に街を彷徨い始めた。行き交うカップルたちの笑い声が、彼の孤独を鋭く際立たせる。前方で若い女性がウサ耳のヘアバンドを被り、恋人に向かって笑いかけた。「ねえ、可愛い?」その瞬間、直人の視界がゆらめいた。遙か昔、同じように露店の猫耳を被った少女がいた。「直人、直人!見て!似合う?」夏希が「にゃあ」と鳴きまねをした時、直人は彼女を誰にも見せたくないほど抱き締めたくなった。十八歳の夏、永遠を誓った彼女だった。名前を二度連続呼ぶ癖。甘ったれるような上ずった声。その度に頬を両手で包み、「世界一可愛い。夏希、俺はお前が好きだ」と返すのが儀式だった。夏希の耳が真っ赤になる頃、直人自身の胸も高鳴っていた。幼い頃か
直人はぼんやりと見つめていた。気が付いた時には、あのカップルの姿はもう消えていた。記憶の中の彼女の面影も徐々に薄れ、彼は俯いて、思わず嗤った。あれほどまでに守りたかった少女が、どうしてこんなにも醜く変わってしまったのか。直人は顔を曇らせ、再び会社へ向かおうとしたその時、携帯が鳴った。「神尾様でいらっしゃいますか?ご本人様へのお届け物がございます」荷物は実家宛てだった。心当たりはないが、彼は足を運んだ。待ち構えていたのは、銀髪のスーツ姿の老人だった。後ろには絨毯を敷いたトレイを捧げ持つ従者が立っている。「神尾直人様でございますか?」頷くと、老人はにこりと笑い、背後をちらりと覗いた。「高梨夏希様はご一緒では?」「いない」老人は一瞬たじろぎ、唇を噛んだ。「……では折り返しご連絡を、と思いましたが、ご署名はあくまで神尾様宛てですので」手を振ると、従者が差し出したトレイの布を外した。現れたのは二つの指輪。藤の蔓を模したデザインに、透き通る宝石が埋め込まれている。直人は息をのんだ。老人の声が遠のいた。「これは高梨様が五年前にご注文された品です。ブルーゴールドストーンは五年に一度しか採掘できず……デザインはご自身で。『唯一無二の指輪に』とおっしゃってましたが、もし機会があれば、弊社の宝石デザインの顔として--」後ろの言葉は耳に入らない。絡み合う藤の蔓を見つめ、記憶が蘇る。『直人、私たちって何に似てる?デザインのヒントが欲しいの』『藤の蔓かな』『え、藤の蔓?』『ああ。何世代も絡み合って、離れられないように』『ふふ、変なの。でもいいわ、藤の蔓にしよう』指輪を握りしめた手が震えた。五年前--あの頃の高梨夏希が用意していたものだというのに、なぜ五年で全てが壊れた?冷え切った部屋に戻ると、直人は目を充血させ、指輪をゴミ箱に叩きつけた。獣のように荒い息を吐き、やがてドアに背を預けて滑り落ちた。胸が抉られる痛み。しばらくして、彼はよろめきながらゴミ箱に這い寄り、指輪を拾い上げた。震える手で胸に押し当て、うつむいた。捨てられるはずがない。どうしてあの女は--意識が途切れる直前、高梨夏希の名を呟く声が脳裏を掠めた。目を覚ました時、点滴の針が手に刺さっていた。主治医がソファから視線を上げる。
医者は彼の反応に驚き、首を傾げた。「どうしてそんなに動揺するの?確かに高梨夏希さんが一晩中付きっ切りで看病していたよ。私がこの目で見たんだから。あの時、彼女は高熱を出していたのにね」「その後、婚約者の小山千春さんが来ると、何も言わずに立ち去った。『彼に知らせないで』って……甲板に出た途端、そのまま倒れちゃってね。私が部屋まで運び込んだのよ」直人の顔から血の気が引き、唇が震えだした。「……あの夜、彼女だって……本気で?」医者が頷いた。「間違いないよ。手当ての仕方が丁寧だったから、私は余計な口出しをしなかっただけ」直人の胸がぎゅっと締め付けられる。真っ先に浮かんだのは、高熱に浮かされながらも必死に世話を焼いていた夏希の青ざめた顔だった。あの時、確かに彼女の様子がおかしいとは感じていた。でも朦朧とした意識の中で見たのは幼馴染みの面影で、問い詰めたら嘲笑われた。怒りに任せてベッドで……思い至った瞬間、直人は苦悶の表情で額を押さえ、声を絞り出すように呟いた。「そんな……あり得ない。なぜ彼女が……」まるで悪夢に囚われたように呟く言葉が、医者への問いなのか自分自身への問いなのか、判然としない。医者は立ち上がり、空になった点滴瓶を交換しながら肩をすくめた。「さあね。多分、あなたが好きなんでしょう」「そんなわけない!」直人は突然豹変して怒鳴りつけた。もし夏希がまだ自分を想っているのなら、なぜあんな酷い真似を?あの言葉を吐いた?全ては彼女の偽りの仮面に過ぎない!震える指先が止まらない。胸中に渦巻く混乱は収まる気配すら見せなかった。脳裏を駆け巡るのは夏希の表情の数々--笑顔、涙、茶目っ気、そして無表情。彼女がどうしてそこまで残忍に変わったのか、本当にそんな女ならなぜ自分の献身を隠し通したのか。「まあ、ゆっくり休んでください。食事は摂った方がいいよ。また倒れますから」医者が器具を片付け終え、退出しようとしてふと足を止めた。ポケットから擦り切れた携帯を取り出す。「そういえば、高梨さんがこれを置き忘れていた。倒れた時に落としたのを拾ったんだが、ええ、その後ずっと返す機会がなくて、あなたが彼女を……」医者は鼻をかすかに皺め、ベッドサイドに携帯を置いた。「今の時代、こんなボロ携帯まだ使ってるなんてね」ドアが閉まる音
スマホを修理に出すこの数日間、直人の体は目に見えて痩せていった。待ち期間中、彼は普段通り出社し、仕事をこなしていたが、その沈黙は日に日に深まっていく。最も早く異変に気付いたのは、常に側にいる秘書だった。目の前の男は魂を抜かれたように、ただ空っぽの躯が彷徨っているようだった。ある日、直人が一点を見つめて呆然としているのを見て、秘書は思わず声をかけた。「神尾社長、最近何かありましたか?」冷たい視線が飛んだ。「暇なら仕事を増やそうか?」秘書はすぐに口を閉ざしたが、心の中では悶々とした。もしかして小山さんと喧嘩したのか?ようやく修理完了の連絡が入った時、直人の手は微かに震えていた。多くの機能が使えなくなったが、データの大半は残っているという。会社でわざとらしく書類に目を通し、部屋の掃除まで済ませた後、ようやくソファに腰を下ろす。テーブルの上の端末を睨みつけながら、彼は自分を嘲笑った。--夏希と縁を切ると決めたのに、今更こそこそと彼女の秘密を覗こうとするなんて。何を期待している?まぶたを閉じると、胸が針で刺されるような痛みが走った。期待と恐怖が絡み合う感情を認めたくはない。それでも、ゆっくりと手を伸ばし、小さな端末を握りしめた。ロック画面は変わっていない。いくつかパスワードを試してエラーが出た後、ためらいながら自分の生年月日を入力すると--画面が切り替わった。瞳が激しく震え、震える指先で夏希の非公開日記をタップした。夏希の非公開投稿が、次々と現れる。削除されていなかった彼女のアカウント。深夜に何度も開いては空白を見ていたあの画面が、今は高校時代からの日記で埋まっていた。【直人が高級携帯をくれた。会社で苦労してるのに、無理しちゃって…でも本当に嬉しい】【デスクで寝ちゃった彼、ずっと見てた。どうしてこんなに全部、好きになっちゃうんだろう】【こっそりキスしたの、気付いてないよね?顔が火照って止まらない!】【花束をもらった!初めてだよ。細やかな心遣いができるなんて……また好きになっちゃう】【付き合うことになった![ハート]】【神社でおみくじ引いて、縁結びのお守りを木に掛けた。でも直人が水を買いに行った隙に、結び目が切れちゃった。もう一度掛けようとしても上手くいかない。これって縁起の悪いサイン?でも……もし別れることになっ
直人は、この人生で最も後悔していることがある。それは夏希の中学にすぐに転校しなかったことだ。 後に彼女がいじめに遭っていたと知った時、彼は狂ったように加害者たちに復讐した。全員を転校させ、夜も昼も彼女の傍らにいて、心の傷を癒やそうとした。 当時の夏希は臆病で、些細な物音にも震えるほど心が壊れかけていた。直人は底なしの忍耐力を振り絞り、ゆっくりと彼女を立て直していった。 彼は最初から彼女の恐怖の根源を知っていたのだ--しかしその後、小山千春が彼の命の恩人となってしまった。 直人がスマホを握りしめる手に力が入り、手の甲の血管が浮き上がる。画面の文字が次々と刃となり、心臓を串刺しにしていく。 息が詰まるほどの痛み。「どうして……」嗚咽が零れた。あれほど愛し合っていたのに。あの子は自分にとってかけがえのない存在だったのに--今や直人は自らの手で、夏希が大切にしていた全てを刃へと変え、彼女に突き刺していた。今の彼女に、まだ何か心残りなどあるのだろうか。 もがきながら自己嫌悪に苛まれる。夏希は姉を殺した仇だ。この手で行ったことは、所詮生温い仕返しに過ぎない。 拳でテーブルを叩きつける。スマホの画面はまだ明るく、そこには夏希の押し殺した愛情がびっしりと記されていた。 最後のメッセージは五年前。 【直人さん、お願い……助けに来て】それ以降、彼女のSNSのつぶやきはぱったり途絶えている。直人の胸が不吉な鼓動を打つ。助けて?彼女に何が? 勢いで立ち上がり、ふらつきながら外へ駆け出そうとした瞬間、千春からの着信が画面を光らせた。 「直人さん、会いましょう」 騒がしいバーで向かい合うと、千春は切り込んだ。「いつ私と結婚するの?」 眉間に深い皺を刻んだ直人の声は冷たい。「骨髄提供の条件はもう成立した。婚約は取り消しだ」 「突然の破棄なんて……私を笑い者にするつもり?」千春の顔が歪む。 「限度をわきまえろ」直人の目が鋭く光る。「移住資金は出す。恩は返した。二度と顔を見せるな」 立ち上がろうとする直人に、千春が嘲笑を投げつけた。「高梨夏希のせい?」 瞬間、彼の表情が硬化するのを千春は見逃さなかった。 「あの子をまだ忘れられないの?姉さんを殺した仇を!」「黙れ」直人の瞼が痙攣
映像が流れ始めると、直人が最初に目にしたのは、夏希の無残な顔だった。一瞬にして彼の涙が溢れ、震える手で触れようとしたが、スクリーンが阻んだ。特殊な装置の中に横たわる夏希の遺体に未知の薬霧が噴霧され、全身が溶け始める。血肉は蒸発し、骨は薬液に浸かり、砕け散り、ゆっくりと水へと還っていった。高温で水跡も消え、何一つ残らなかった。映像が止まり、暗転した画面に、直人は自分自身の真っ赤な目を映し出していた。「本当に……何も残してくれなかったのか」嗚咽と笑いが入り混じった声。秘書が忍び寄ると、メガネの男が穏やかに言った。「ご愁傷様です」直人が充血した目を上げると、「寄付契約……俺も署名する。彼女と一緒に……」「申し訳ありませんが、実験は終了しました」男は微笑みで遮った。「ご厚意に感謝します」直人は乾いた瞼を瞬かせ、胸が引き裂かれるように疼いた。「……わかりました」平静を装って立ち上がり、よろめく足取りで外へ出た背中は、孤独と決意に染まっていた。秘書がメガネの男に会釈し、ため息をついて追いかける。「先に帰れ。会社に仕事が残っているだろう」直人の顔は奇妙に落ち着いて見えた。秘書は頷き、去っていった。海辺に一人座った直人は、遠くの波を眺めていた。夕陽が海面を金色に染め、少女の姿が浮かび上がる。跳ねるように手を振る夏希だ。「直人!待ってたよ!早く来て!」笑顔で駆け寄ろうとする直人は幻影に手を伸ばした。携帯は鳴り続け、やがて幻影の夏希が唇を尖らせた。「直人!うるさいよ!電話に出なさいってば!」直人はロボットのようにポケットを探り、携帯を握りしめて受話口を耳に当てた。「神尾社長!大変です!海外の匿名口座が当社株を大量買い占め、急落が止まりません!」「早くご帰社を!このままでは神尾グループが破産宣告を--」通話は砂浜に叩きつけられる携帯と共に途切れた。「うるさいのは捨てよう。夏希、待って……」直人は一歩、また一歩と、幻の夏希の足跡を追うように海へと近づいていった。波が腰まで浸かり、やがて海水が口元を覆う。突如押し寄せる大波に飲み込まれ、意識がふわりと浮遊し始めた。眼前で揺らめく夏希の面影が、薄靄の中に溶けるように霞んでいく。「夏希……!どこに……!?」直人は恐怖に駆られて叫
小山千春と山崎界人は口を塞がれ、拘束ベルトで病床に縛り付けられていた。二人の目には恐怖と怒りが渦巻いていたが、もがけばもがくほどベルトは食い込む。直人の瞳には一片の迷いもない。杖をつき、足を引きずりながら自らもベッドに横たわると、冷たい声を絞り出した。「電気ショックを」付き添いの秘書は顔を歪ませた。「社長……お体が持ちません。傷がまだ--」「電気ショックだ」直人の声は機械的だった。無言の圧力に秘書は震え、歯を食いしばって装置のスイッチを入れた。ボタンが押された瞬間、三人の身体が弓なりに反った。全身に激しい痛みが走り、直人は唇を噛み締めたが、漏れる呻きを抑えきれない。……痛い。……夏希も、こんな痛みを感じたのか。千春と界人の二人はついに耐えきれず、目を白黒させ、制御できないよだれが布団の一部を濡らすほどに溢れ出した。電気ショック、停止、そして再び電気ショック……界人は三度目の電撃ショックで失禁し、酸っぱい臭いが部屋に充満する。解放された時、三人はぐったりと力尽きていた。界人は泡を吹き、千春は喘ぎ、直人の瞳は虚ろで、痙攣が止まらない。しばらく横たわった後、直人は体を引きずり上げ、歯の隙間から言葉を零した。「次だ……窒息療法を」首に巻かれたロープが機械で締め上げられる。酸欠で顔が紅潮し、眼球が飛び出しそうになるたび、装置は死の寸前で止まる--息継ぎの隙も与えず、再び締めつける。界人は意識を失い、目覚めるたびに泣き叫んだ。「直人……許して!俺のせいだ!頼むから許して!」直人は耳を貸さない。痛みで震える体、剥がされそうな魂。胸奥に刺さる後悔が、夏希の名を脳裏に刻む。……夏希は、どれほど苦しんだのか。引き裂かれるような「ストレッチ療法」、魂を揺さぶる鞭打ち。尊厳も生死の選択権も、ここでは無意味だった。瀕死の直人がようやく絞り出したのは、「連中を……閉じ込めろ……」という指示だ。「毎日、同じことを……逃すな」彼らは罪人--夏希への贖罪のため、永遠にこの地に縛られる。血の混じった唾を飲み込み、震える手を抑えながら、直人は秘書に命じた。「連絡しろ……あの連中に」秘書は直人の様子を見て、目も真っ赤にしていた。彼はすぐに直人の意図を悟り、慌てて頷きながら言った。「わかりました!すぐに連絡します!」直人
激しい警報音が鳴り響いた。医師や看護師が一斉に駆け込んできた。「患者の容態が急変!緊急措置を!」「急げ!」秘書は押しのけられるように病室の外へ出ると、ただ茫然と立ち尽くしていた。その時、卓也が荒々しい足音で近づいてきた。「どうなった!?」部下からの報告を聞きながら、彼の表情は氷のように冷たくなった。「またあの女が何か仕出かしたのか!?こんな奴らに天罰が下らないのが信じられん……」秘書は深く息を吸い、卓也の横顔をじっと見据えた。「小田さん……実は、昔のことを調べていたんです。お聞きいただきたいことが」過去の真実が語られていくうちに、卓也の顔は驚愕から怒り、そして虚ろな空白へと変わった。さっきまでの威圧的な男が、一瞬で十年も老け込んだように背中を丸め、目尻を赤く染め上げる。「幸子……幸子が……」床に跪いていた犯人を見るや、猛然と飛びかかり、拳を叩きつけた。「この畜生共め!殺してやる!!」「小田さん!」「人が死ぬ!止めろ!」--外が大混乱する中、救急室では直人の意識が薄れていった。このまま目を閉じれば楽になれる--そんな甘い誘惑に引きずられそうになる。長い長い夢を見ていた。幼い頃からの記憶が走馬灯のように巡る。小さな直人と夏希は、青い竹馬の友。彼の人生の全てに、あの儚げな影が寄り添っていた。陽射しの中、夏希が笑いかけてくる。駆け寄っては胸に飛び込んでくる。頬を染めながらこっそり唇を重ね、慌てて逃げていく。そして最後には、彼の腕の中で、痛みに麻痺した虚ろな瞳を向ける夏希の姿……全てを壊したのは自分だった。五年間、憎しみ狂った日々は、ただの茶番だった。それでも夏希は、砕けそうな約束を握りしめ、彼を守り続けてくれた。二人の「縁結びの紐」が切れた時、全ての重荷は彼女ひとりにのしかかっていた。涙が止まらない。枕が濡れていくのを感じながら、夢の終わりに夏希の後を必死に追いかける。「待て……!」もう少しで届きそうな時、振り向いた夏希の顔が焼け爛れ、血を滴らせていた。「直人さん、もう愛してない」「大嫌い。あなたなんか……二度と会いたくない」「--ハッ!」直人が目を覚ました時、乾いた目がひりひりと疼いた。「……目が覚めたか」ベッドの横に座る卓也は目を充血させ、スーツには皺
「ピピピ──」耳元で鋭い機械音が鳴り続けている。直人は意識を取り戻すと、全身の骨が砕かれたような激痛に襲われた。口の中に広がる鉄臭い血の味。呼吸するたびに肺が引き裂かれるような痛みが走る。ぼんやりとした会話が聞こえてきた。「今日のバイタルは?」「安定してます。でも、どうしてまだ目を覚まさないんでしょう……三日も昏睡状態ですよ。最新の医療機器を全て使っているのに」「車に跳ね飛ばされて即ICU送り、何度も危篤状態になったらしいわ。もう一歩で助からなかったとか……」「若いのに……左足は多分、残せないみたいです」直人はまぶたを重く開くと、天井の白い照明が目に刺さり、うめき声を漏らした。看護師が駆け寄る。「神尾さん!ご意識が戻られたんですね!」「ご家族を呼んで!」頭の霧が徐々に晴れ、体の痛みよりも先に記憶が蘇った。「高梨夏希……夏希を……俺は夏希に会わなきゃ……」直人はチューブを引き千切り、ベッドからよろめき立ち上がる。しかし左足に稲妻のような痛みが走り、床に膝を突いた。「神尾さん!」「誰か来て!」騒ぎの中、扉を開けて入ってきた秘書が青ざめて駆け寄り、直人の体を支えた。「社長!落ち着いてください!」直人は眼前がちらつくほどの痛みを押し殺し、秘書の腕をがっしり掴んだ。「高梨夏希は……」秘書は直人の充血した瞳を見て、声を詰まらせた。「社長……まずはご自身の足のことを--」「足なんてどうでもいい!」しゃがれ声で遮った。「お前の電話……あれは嘘だろ?あり得ない……あの人がそんな……」言葉を続ける前に、まためまいが襲った。秘書は直人をベッドに押し戻し、苦渋に満ちた表情で告げた。「高梨さんは……亡くなられました」直人の顔から血色が一気に引く。「筋萎縮性側索硬化症による呼吸器感染……余命宣告を受けていた上、無理な骨髄採取で両足が麻痺した状態で……火事に巻き込まれて」「逃げ遅れたと。そして遺体は特殊な献体契約で……一切残されていないそうです」麻痺。火災。献体。言葉が脳裏を渦巻き、直人は頭を抱えてうずくまった。「……嘘だ」「遺体がないなら……偽装かもしれない。連絡を取って俺を騙してるんだろう?」直人の喉が軋んだ。しかし秘書の声が再び冷たく続いた。「社長、高梨さんの死には不
直人の視界がぐらつき始めた。それでも耳元で鳴り続ける声は鮮明に脳裏を刺す。「あの病院は俺が個人出資したとこだ。中でやってることはお前の想像を超えてるぜ」「最初の頃は従順だったからな、電気ショックに窒息プレイ、ストレッチ療法……どれもこれも試したんだ。反抗しようとしても結局土下座するんだからな」「そしたらこいつが隠し持ってた携帯で助けを求めてやがった。俺がぶっ壊すまでな」「あれからはベッドに縛り付けてやった。反抗すれば電気、失敗すれば首締め、気に入らなきゃ鞭だ。お前だってあの女が泣き崩れる動画見たら溜飲が下がるだろうよ」「でな、どうしたと思う?こいつの体にお前の名前を刻んでやがった!このクソ女がまだお前のこと考えてるなんて!この写真見てみろ!」スマホ画面に拡大表示された写真。痩せ細った白い腕に、醜く乱れた刻印が無数に走っている。【直人、ナオト、神尾……】文字は次第に乱れ、深く抉られた線からは、見る者の五臓六腑を震わせるほどの苦痛が滲み出ていた。直人の視界が渦を巻き、喉元が痙攣して声も出せない。首筋を掴み、酸欠状態で思考が真っ白になる。直人の様子に気付かない界人は憎々しく呟いた。「急いで戻った理由はな、こいつが逃亡したからさ!捕まえたらお前に引き渡す。お前の手でとことん痛めつけてやれ!」その刹那、拳が風を切って顔面を直撃した。「ぎゃあっ!」悲鳴を上げて倒れる界人。粉々に砕けたスマホを蹴散らし、鉄拳が容赦なく降り注ぐ。「てめえ!直人!正気か!?」充血した両目が血の涙を流すかのような直人が咆哮する。「誰が許可した!?あの女にそんなことをする権利がどこにある!」歯を折られた界人が血を吐きながら喚く。「お前だって憎んでるんだろ!俺はお前のためを思って……!」直人の体がよろめく。胸を押さえ、突然横向きになって血を吐き出した。「痛いのは俺の方だ!お前が血を吐くわけねえだろ!」赤く染まった瞳が理性を失っていた。「精神病院に……五年も閉じ込めておいただと……」瞼を閉じれば、記憶が洪水のように押し寄せる。初めて高梨夏希に再会になった日。追いかけられていた彼女を、盗みの嫌疑で当然のように断罪した。あの怯え方は、再び監禁される恐怖からだったのか。無理矢理抱いた時、泣きながら必死に服を握りしめたのは、醜い傷跡を
直人の目が真っ赤に充血していたが、今は床に倒れた千春に構っている余裕などない。彼が探し求めているのは高梨夏希だ--この全ての真相を、彼女から聞き出さねばならない。これまで確固たるものだと信じ込んでいた思いが、ようやく揺らいでいた。遅ればせながら気付いたのだ。あの優しかった夏希が、そんな残忍な人間であるはずがない……震える手でスマホを取り出す。夏希に連絡しようとして初めて、自分が彼女の行方を全く知らないことに気がつく。代わりに秘書に電話をかけた。「神尾社長?ご指示がおありで……」「高梨夏希はどこだ!?」咆哮のような声に秘書は背筋を凍らせた。「私、存じ上げませんが……」直人は深く息を吸い込み、焦りを抑え込むように低い声で命じた。「今すぐ全ての手を尽くして、高梨夏希の居場所を突き止めろ」受話器の向こうで汗のにおいが伝わってくるようだった。「え、えっと……なぜ高梨さんを?」「余計な質問はするな!」電話を切り、直人は足早に外へ向かう。他の連絡先にも次々と電話をかけ、人脈を総動員して高梨夏希の行方を追わせた。聞かなければならないことが山ほどある。何より、彼女の身体に何かあったのか?焦燥感が内臓を焼くように疼く。会社の玄関を出た瞬間、誰かとぶつかった。「痛っ!歩き方見ろよ……あれ?直人!?」金髪をひらめかせた男がにやにやと笑っている。山崎界人(やまさき かいと)だ。「そんな急いでどこ行くんだよ?久しぶりだろ。メールも無視するなんて冷たいじゃねえか。飯おごれよ」直人は眉をひそめながら歩き続けた。「今は無理だ。急用が」界人がぶつぶつ文句を言いながら後を追った。「ちょっと待てよ直人!そんなに急ぐなって……久しぶりの再会だろ?メール既読無視とか冷血すぎんじゃねえの?せっかくお前のために面白いネタ仕入れてきたのにさ」直人の表情は岩のように硬い。「後で聞く」「高梨夏希の話なんだけどな」直人の背筋がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向く視線の先で、界人が悪戯っぽく片眉を吊り上げた。「へへ、やっぱ食いつくと思ったよ。骨の髄まで憎んでるくせに、まさか興味ないなんて言うかと思ったぜ」直人はスマホの画面をちらりと見た。検索網は既に展開されている。今はこの男の話を聞くしかない。喉の奥で鈍い痛みを感じながら、低く
卓也は、直人がもう救いようがないと悟った。彼は失望に満ちた目で直人を見つめ、声を嗄らせて言った。「直人……お前は本当に、道理をわきまえない奴だ」直人は虚ろな表情で床に横たわり、頭上からの明かりが目を眩ませる。「高梨夏希のためなら、神尾家の全てを捨てるというのか?」直人の声は低く、砂を噛んだようだった。「……当然の報いだ。姉の株式も私の分も全て譲る。償いの……一端にでもなれば」「そんなもので償えると思うな!」卓也の顔が歪んだ。「幸子の弟と名乗る資格はない!彼女にすまないと思わんのか!出て行け……消えろ!」最後の言葉は、ほとんど絶叫に近かった。直人はよろめきながら立ち上がり、ドアを押し開けて外へ出た。この先に何が待っていようと、受け入れる。ただ、もう一度夏希に会うために--ドアは枷のように感じられていた。ようやく解き放たれ、己の本心と向き合う覚悟が決まった瞬間だった。しかし数歩も歩かないうちに、耳を劈くような声が背後から響いた。「神尾直人!」冷たい表情で振り返ると、千春が走り寄ってくる。直人の瞳には微塵の感情も浮かんでいない。「何の用だ?」顔を歪ませ、目は充血している千春の様子が明らかに異常だった。「約束したでしょう!私に適合する骨髄を見つけて治すって!嘘つき!」直人は眉を顰めた。「馬鹿げたことを言うな。適合ドナーは見つかり移植も終わったはずだ」「それが誰よ!」千春は泣き叫んだ。「あんたの選んだドナー、病気持ちじゃないの!骨髄の活性が低すぎて、合併症で私の骨髄まで侵されていくって!医者にはもう助からないって言われたのよ!」直人の顔色が一瞬で褪せた。「……戯言を」千春が検査結果を彼の顔に叩きつける。直人は慌てて紙を掴み、一行一行追うごとに顔が青ざめていく。夏希と千春の骨髄が適合していた。もしドナーに問題があれば--つまり夏希が……「殺す気なのね!この人殺し!」千春が爪を立てて襲いかかるが、直人が腕を掴んで制止した。「……そんなはずがない!」直人は首を振り、自分に言い聞かせるように呟いた。千春は泣き笑いしながら絶叫した。「あんたなんて冷血よ!私は神尾家の医療資源を利用するためにあなたに近づいたんだから!五年前に火事から助けたって嘘も平気でついたわ!」直人が千春の手首を握り
乾いた目を瞬かせ、直人は墓石の脇に咲くマーガレットの花束を疑うように見つめた。「姉さん……」膝で進みながら、彼は突然墓碑に抱きつき、泣き笑いを始めた。自分を欺き続ける醜さに深く嫌悪しつつも、心の奥では狂おしいほどの喜びが渦巻いていた。--ほら、姉さんはもう夏希を許してくれたんだ。もはや心に嘘はつけない。この苦しみから逃れるためなら、高梨夏希を縛りつけてもいい。藤の蔓のように絡み合い、腐れ縁になろうとも構わない。神尾幸子の墓前で、直人は丸一日跪いていた。一滴の水も口にせず、充血した目でマーガレットの花束を見据えたまま。夜が明け、朝日が昇る頃、ようやく硬直した体を動かし、よろめきながら立ち上がった。膝の痺れが刺すように疼く。歩く足取りは不自然に引きずりながらも、彼の表情には晴れやかな覚悟が浮かんでいた。墓碑に目を落とし、呟く。「……姉さんが許さないなら、あの世で詫びるよ」ふらつく足取りでその場を離れ、直人は真っ先に小田卓也の元へ向かった。手にした書類を全て机に押し付けると、卓也は困惑した面持ちでそれに目を通した。「……どういうつもりだ!?」卓也の声が震えた。直人はしばし黙り込み、かすれた声で答えた。「俺は神尾グループの全株式を譲る。今日からお前が実質的な経営者だ」卓也の顔が一瞬で蒼白になり、やがて怒りに歪んだ。直人がペンを差し出すと、彼はそれを激しく払いのけた。「直人……お前、正気か!?高梨夏希を追う気か!?幸子を殺した女だぞ!忘れたのか!?」直人の顔から血色が引いたが、視線は揺るがなかった。「……忘れてない。でも、どうしようもないんだ」声は押し潰された獣の嗚咽のようだった。「どうしようもない……!」「忘れられない!夏希に会えなきゃ、俺は死んだも同然だ!」怒号が部屋に響く。抑え込んでいた苦悩が一気に爆発し、充血した目から血の涙が零れそうだった。「バシッ!」と頬を殴打される音。卓也の手が震えていた。「そんな言葉……幸子に顔向けできるのか!?」次の瞬間、拳が直人の顔面を直撃した。床に倒れても、彼は抵抗せず雨あられの暴撃を受け続けた。「姉さんに顔向けできるのか!?」血を吐きながらも、直人は静かに首を振った。「……悪い」「狂ってる……それほどまでに諦められないのか!?
その瞬間、直人の顔から血の気が引き、足元がふらついた。バーの喧噪の中、千春の甲高い声が周囲の視線を集めている。「神尾直人、そんなに彼女を憎んでるくせに未練たらしくして!偽善者ね!」「芝居打って追い出したじゃない!いなくなったら今さら涙もじょうずだなんて!」「……黙れ」直人はテーブルを蹴り上げ、ガラスの割れる音が響いた。千春が蒼白になって後ずさりする様を、直人は獣のような赤い目で睨みつけた。千春はその様子に遅れて恐怖が込み上げ、よろめきながら数歩後退すると、考える間もなく外へ駆け出した。額の血管が脈打ち、脳髄を刃物で抉られるような痛みが走る。あの女の言葉が耳朶に刺さっていた。『飛び込んだのは自分、あなたは高梨夏希を海に突き落とした』なぜ自分に言わなかった?なぜ夏希は沈黙していたのか?ふと気付いた。あの事故以来、彼女の顔すら見ずに手術台に縛りつけたことを。胸が締めつけられるように疼き、膝を抱えて喘いだ。出会って以来の自分を思い返す。雑用を押し付け、罵声を浴びせ、波間に突き落とし、無理やり謝罪させ--ベッドで泣かせるまで追い詰めた。あの頃とは違う。愛し合っていた頃は、いつだって彼女の頬を撫でながら、甘える声に耳を澄ませていた。敏感な夏希が苦しまぬよう、どんなに我慢しても優しく溶かすように抱いた。自分の首筋に顔を埋め、「直人くん、大好き」と囁くあの子。わざと「愛してないの?」とからかえば、きっとキスで応えてくれたはずだ。「夏希は神尾直人を世界一愛してるの!」--バーを出た直人が震える手でタバコに火をつけた。高級スーツの膝が路上の埃にまみれても構わず、燃え尽きるまま放置した。指先が焦げる痛みで我に返り、墓園行きのタクシーに飛び乗った。階段を重い足取りで登りきると、陽射しを浴びて微笑む神尾幸子の墓石が待っていた。直人が墓碑に額を押し付けると、ひび割れた声が零れた。「姉さん……もう限界だ」胸から夏希を引き剥がそうとすればするほど、根を張った蔓のように心臓を引き裂く。このまま引き抜けば、空洞になった胸に何が残るというのか。「どうすれば」ふと目に入ったのは墓石の隅に置かれたマーガレットの花束。しなびかけているが、丁寧にリボンを結んだ形跡が残る。忌日以外に墓参りしない小田卓也が供えるはずがない。思い当たる名