All Chapters of どうしてあなたを好きになってしまったんだろう: Chapter 71 - Chapter 80

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第四十一話 夕暮れにほどける心の鎖①

【二〇二五年 杏】 修司が私を連れやってきたのは、彼の部屋だった。  私は導かれるままに部屋へと入っていく。 なんでこんなに素直に従ってしまったのか、自分でもわからない。  ただ、彼が傷ついているような気がして、放っておけなかった。 最近は、修司のそんな顔ばかり見ている気がする。 それも全部、私のせいだね。  窓から差し込む赤みを帯びた夕暮れの光が、修司の姿を静かに照らし出す。  その横顔には、言葉にならない哀しみが滲んでいるようで――胸の奥がきゅっと痛んだ。「ねえ、杏……どうして兄さんなの? どうしてなんだよっ」 俯いた修司が苦しげに息を吐く。 その姿に胸が締めつけられる。  だけど、自分の気持ちを打ち明けることは、できない。 深く息を吸い込み、ぎゅっと口を堅く結ぶ。  いつの間にか、手のひらには強く力が入り、爪が食い込むほどに握りしめていた。「よりにもよって……」 修司は一瞬、言葉をのみ込んだ。  そして顔を上げ、真っすぐに言い放つ。「杏は、兄さんのこと本当は好きじゃないよね?」 鋭い視線が私を射抜く。 私の内側を暴こうとするその眼差しに、思わず身を引きたくなる。  だけど、動揺を見せないよう、私は平然を装った。「何で、そう思うの?」「だって、全然そう見えないからだよ。それに、好きになる理由がわからない」「人を好きになるのに、理由なんていらないわ」 言葉が、つい口をついて出た。  自分でも驚く。 それは――たぶん、私自身が修司を好きになったときに、理由なんてなかったからだ。「そうだね……理由なんて、ないのかもしれない」 修司はふっと息をつき、目を伏せた。「僕もそうだった。君を好きな理由なんて思いつかない。  ただ好きなんだ。好きで、好きで、どうしようもなくて……この想いを止められない!」 その声が
last updateLast Updated : 2025-07-30
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第四十一話 夕暮れにほどける心の鎖②

【二〇二五年 杏】 どうして、今になって……。 頬を熱いものが伝っていく。  修司は驚いたように目を見開き、すぐに切なげな表情に変わった。 そして、そっと私の涙を指で拭った。「杏……っ」 そのまま、修司が私を抱きしめた。 彼の腕の中に包まれた瞬間、耳元で心臓の音が大きく鳴り響く。  ドクンドクンと力強く脈打つ鼓動が、彼の想いをまっすぐに伝えてくるようだった。 私は目を閉じて、そっと祈る。 ――時よ、止まって。 このぬくもりの中で、世界が終わってしまえばいいのに。「何が、そんなに君を苦しめている? 俺は知りたい、知りたいんだ。教えてくれっ」 絞るように響いた声が、私の心をかき乱す。 もう、やめて。 次の瞬間、修司の手が私の顔を持ち上げた。  そして、唇を重ねられる。 柔らかく、でも切実な、修司のキス。 荒々しさの中に、優しさがある。  彼の想いが、すべてそこに込められているようだった。 身体が動かない。 いや、動きたくなかったのかもしれない。 ただ、そのぬくもりの中に……いた。  どれほどの時間が流れたのか。  私には、それが永遠に続くように感じられた。 ――でも。 意識が、現実に引き戻される。 ダメ! 私は全力で修司を突き飛ばした。 心も頭も、ぐちゃぐちゃだった。  泣きたくなるほど、苦しくて、苦しくて。 顔を上げると、修司がいた。 その目には涙が滲んでいて。  悲しみが滲むその顔に、ぎゅっと胸が締めつけられる。「……っ」 修司が何か言いかける前に、私は声を張り上げた。「っダメなの!! 私はあなたを好きになっちゃダメなの! ダメ、なの。  お願いだから……もう私を苦しめないで。  ……さようなら、修司」
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第四十二話 君を苦しめるものの正体①

【二〇二五年 修司】 先ほどまで照らしていた太陽は完全に沈み、部屋の中には暗がりが広がっていた。 まるで、杏がいなくなったことで、光まで失われたかのように。「杏……どうしてっ」 彼女の悲痛な声と表情が、何度も心に蘇り、そのたびに胸が痛んだ。 なぜだ。なぜ、俺を好きになっちゃいけない。  でも、あの言葉の裏に、彼女の本心が隠れていたのだとしたら? わずかでも、彼女の心が自分に向いていた。 その希望が胸に灯りかけた、けれど……  すぐに、冷たい現実がそれを呑み込もうとする。 それでも、嬉しかった。  離れていたあの時間に、一瞬でも杏が自分を想ってくれていたのなら――それだけで、充分だった。 気持ちを落ち着けるように深く息を吸い込む。  そして決意のこもった眼差しで前を見据え、部屋を出た。  杏はきっと、あのまま屋敷を出ていったのだろう。 もう戻ってくるとは思えなかった。 ここで俺までいなくなったら、さすがに変に思われる。  突然姿を消した杏のことも、説明しないといけない。 そう思いながら、俺はまっすぐ皆のもとへ戻っていった。 食堂へ続く扉を押し開けると、すぐに兄の声が飛んできた。「おい修司、杏はどうした? 新くんは戻ってきたのに、杏がいないぞ?」 兄が不思議そうに首を傾げる。 きっと俺が杏を探して連れてくると思っていたのだろう。  無理もない。  さっき杏が「お手洗いに」と席を立った。  すぐに新も立ち上がって姿を消した。 そして、そのあとに俺が席を立った――そう、まるで杏のあとを追うように。 兄も、それに気づいていたはずだ。  なのに戻ってきたのは新だけ。 杏は戻ってこず、代わりに俺だけがこうして部屋に入ってきた。  そりゃ不思議に思うよな。 杏はどこへ行ったって……。 俺が戻ってくるまで、ず
last updateLast Updated : 2025-08-01
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第四十二話 君を苦しめるものの正体②

【二〇二五年 修司】 俺を好きになってはいけない理由とは――。 一人で悶々と考えても答えは出なかった。  ただ、これ以上杏に問い詰めたところで、彼女を苦しめるだけのような気がした。 ふと俺の頭に、ある人物の顔が浮かぶ。 新、彼だ。 あいつなら何かを知っているかもしれない。  杏の一番近くにいる存在。 そういえば、新はまだこの屋敷にいるんだったな。  食事のあと、詩織と腕を組んで屋敷の奥へ消えていくのを見た。 詩織の部屋に行ってみようか。  とも思ったが、さすがにそれは無粋かもしれない。  今は時間も遅いし、二人きりのところに割って入るのもためらわれる。 それにしても、どうして新が詩織と付き合っているんだ? 偶然? たまたま?  だけど……。 杏は俺の兄と、新は俺の妹と。 この繋がりは、あまりにも不自然だった。 杏が何かを隠しているとしたら、その繋がりの中に、何か手がかりがある気がしてならない。 いても立ってもいられず、俺は新を探しに部屋を出た。  廊下に出ると、足元でフローリングが鈍く軋む。  静まり返った屋敷の中で、俺の靴音だけが冷たく響いた。 どこまでも続くようなこの廊下が、今日はやけに長く感じる。  こうして一人でいると、ときどき、どうしようもない孤独が胸を締めつけてくる。 そんなとき思い出すのは、やっぱり、杏のことだった。 杏……俺は、おまえのことが。 と、ふと足が止まる。 見覚えのある部屋の前。父の書斎だった。  少しだけ開いた扉の隙間から、淡い明かりが漏れていた。 気になって、つい足がそちらへ向かう。 近づいていくと、中から誰かの声が聞こえてきた。 父と……兄さん? 俺は咄嗟に足を止め、扉の傍に耳を寄せる。  盗み聞きは良くないとわかっていながらも、なぜだかわから
last updateLast Updated : 2025-08-02
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第四十三話 慟哭の果てに、決意は燃ゆ①

【二〇二五年 修司】 瞬きするのも、息をするのも忘れていた。  ただ、二人の姿を食い入るように見つめる。「……は? 何だって?」 兄は絶句し、しばらく沈黙した。  父も何も言わず、黙り込む。「ちょっと待って。杏が、あの男の娘? そんな……そんな偶然」「本当におまえは察しが悪いな。  それに運も悪いし、見る目がない。あんな女に惚れるなど」 父は呆れたように兄を見つめ、重く、深いため息を吐いた。 いったい、何を言っている?  十年前――罪を擦り付けた男。その娘が、杏? 俺の中で、何かが崩れ始めた。「名前を聞いてもわからなかったのか? 本当におまえは詰めが甘いな。  ま、仕方ないか。あの時もおまえは私に全てを任せていたからな。名前など覚えていないのだろう。  俺がどれだけおまえのために働いたか。  あの女を呼び出し、口止めまでして、大変だったんだからな」 父が何かを思い出したように、鼻で笑う。「あ、ああ……。あの時のことは感謝してるよ。  親父にはうまくやってもらった。俺の罪をあいつにすんなり擦り付けることができたからな。  まあ、俺の脅しも相当効いてたと思うけど」 先ほどまで戸惑っていた兄が、不敵にニヤリと笑った。 心臓がドクドクと音を立て、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。  目の前が、一瞬赤く染まった気がした。「ふん、何をえらそうに。そんな脅しだけで全て済むと思っているのか。  私の根回しがなかったら、あれほどスムーズにいくものか。  本当に、いつもいつもおまえの後始末には手を焼かされるよ。中でもあの事件は一番手を焼いた。  ――あの佐原杏の父親に、おまえの殺人の罪を擦り付けるのは」 その言葉に、俺のすべてが停止した。 体が硬直し、息が詰まる。手足の力が抜け、ひざが笑う。 今の……何だ? 意識の奥底が、鈍い音を立てて崩れていく。  焦
last updateLast Updated : 2025-08-04
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第四十三話 慟哭の果てに、決意は燃ゆ②

【二〇二五年 修司】 どこをどう通ったのかも覚えていない。  ただ無我夢中で、気がつけば自室の前に立っていた。 震える手で扉を開け、静かに閉じる。 扉を背にして俺はずるずると崩れ落ちていった。「……っく……ひぃ、っ」 悔しくて、苦しくて、どうしていいかわからない。  押し寄せるやるせなさに、ただ嗚咽が漏れた。 けれど――杏は、きっとこれ以上の苦しみを味わってきたんだ。 十年間、こんな地獄を背負って生きてきた。 父親の冤罪。  命まで奪われたというのに、真実も明かされず、誰からも守られることなく、ただ耐えて。 そして、その相手の弟である俺を好きになってしまった。 なんて、残酷なんだ。 やっと、やっとわかったよ、杏。 あの時、君が言った言葉の意味。『私はあなたを好きになっちゃダメなの!』 そうだよな。  俺は、君の大切な人を奪った一族の人間だ。 憎むべき相手だったはずなんだ。 なのに、そんな俺を君は好きでいてくれた。 苦しみながら、それでも気持ちを消しきれず、もがき続けてきたんだよな。 俺だけ、何も知らずに。  のうのうと笑って、また君の前に現れて。 どんなに辛かっただろう。  どれだけ泣いたんだろう。 ごめんな、杏……。 本当に、馬鹿な俺で、ごめんな。 でも。 それでも、君が俺を想ってくれていたこと――それが嬉しいと思ってしまう俺がいるんだ。 最低だよな。 君を楽にするためなら、俺を憎んでくれてよかったのに。  全部ぶつけてくれたって、よかったのに。 だけど、君は俺を傷つけたくなかったんだ。  復讐という闇を抱えながらも、心の奥では、俺のことを守ろうとしてくれていた。 ……そんな君が、たまらなく愛しい。 どれだけ嫌われても、きっと俺は、君を好き
last updateLast Updated : 2025-08-06
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第四十四話 新の想い、嘘を抱いて①

【二〇二五年 新】 姉さん、無事だろうか。 窓にふと目をやる。  街灯に照らされた雨が、しとしとと静かに降り続いていた。 雨に降られてないといいけど……そんなことばかりが頭をよぎる。 修司さんの話しぶりから察するに、姉さんはこの屋敷を出て行ったのだろう。 きっと、修司さんと何かあったんだ。 今すぐにでも追いかけていきたかった。  でも、と僕は自分を押しとどめる。 ここに来た目的を思い出せ。 詩織さんを利用して、この屋敷に潜り込む。  そして父さんの冤罪を晴らすための証拠を見つける。 それが、すべてだったはずだ。 それなのに。 こんなふうに人を騙してまでやるべきことなのか?  ふと、心の奥に、小さな声が問いかける。 目的のために、月ヶ瀬家の長女、詩織さんに近づいた。  幸運にも、彼女は僕にすぐ心を許し、好意を寄せてくれた。  そして、あれよあれよという間に付き合うことに。 我ながら、プレイボーイなんじゃないか。  などと感じてしまい、自分が嫌になったりもした。 純粋な彼女の想いを利用しているようで、心苦しかった。 でも、これは仕方のないことなんだ。 そう、自分に言い聞かせる日々。  食事のあと、僕は詩織さんに連れられ、彼女の部屋へとやってきた。  二人きりで時間を過ごす。 でも、どれだけ笑顔を向けられても、心の奥ではずっと姉さんのことが引っかかっていた。 姉さん……どうしてるかな。  そんな思いに、また胸がざわめく。 ため息をついた瞬間、詩織さんがそっと寄り添ってきた。「新さん……」 身体を預けてくる彼女の温もり。  それから逃れるように、僕はわずかに距離を取った。 その途端に、詩織さんの表情が曇る。 ……本当に素直な人だ。  姉さんも、これくらい素直
last updateLast Updated : 2025-08-08
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第四十四話 新の想い、嘘を抱いて②

【二〇二五年 新】 すやすやと眠る詩織さんを、そっとベッドに寝かせる。「……ごめんなさい」 謝罪の気持ちを込めて、小さくつぶやいた。 何も知らない純粋な女の子を、騙して利用するなんて。  罪悪感がないわけじゃない。 けれど、それでも。  僕には、やらなきゃならないことがある。 覚悟を決め、部屋を出た。  あの男の部屋はどこだ? いや、寝室よりも、仕事に使っている書斎の方が可能性は高い。  そう思ったとき、ふと、姉さんが偶然見つけた書斎らしき部屋を思い出す。 ……あそこだ。 直感がそう告げた。 急ぎ足で廊下を進む。  数人のメイドや執事とすれ違ったが、なんとかやり過ごしながら前へ進んだ。 広々とした廊下に、シャンデリアが煌々と光を放っている。  壁には高価そうな絵画や装飾品がずらりと並ぶ。  どこを見ても、限りなく贅沢な世界。 どうして、金持ちってこう無駄が好きなんだろう。 緊張を紛らわせるためか、  そんな考えがふと頭をよぎり、つい笑ってしまった。  目的の部屋にたどり着き、静かに扉を開ける。 中は薄暗く、人の気配はない。 そっと足を踏み入れる。 他の部屋よりはやや狭く、壁際には本棚が並んでいた。  簡素なソファと机。  そして奥にはデスク。 僕は迷わず、まっすぐにそのデスクへ向かった。 引き出しを開けようとするが――鍵がかかっている。 この中だ。 確信に近い感覚があった。 どうにか開けようと、力任せに引く。  けれど、なかなか開かない。 焦りが募る。  どうする……。 そのとき、足音が聞こえた。 扉の向こうに、人の気配。 やばい。 僕はとっさに身を潜める。 ガ
last updateLast Updated : 2025-08-09
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第四十五話 目覚めの夜、暴かれた仮面①

【二〇二五年 杏】 あの夜――あの冷たい雨に打たれて帰ってから、数日が過ぎた。 そして、私は雅也からデートに誘われた。 本当は、会いたくなんてなかった。  でも、あのとき途中で帰ってしまったことが、ずっと引っかかっていた。 電話で一応謝罪はしたけれど、それだけじゃ足りない気がしていた。 ちゃんともう一度顔を合わせ、ご機嫌を取っておいたほうがいい。 そう思って、私は誘いを受けた。  指定された店に着いたのは、午後七時。 これまで二人で飲んだのは、出会ったあのバーだけ。  でも、今日の店は初めての場所だった。 店の扉を押すと、控えめなドアベルの音が響いた。 落ち着いた照明と深い色のインテリアが目に入る。  初めて見る空間に、緊張が走る。 味方がいないこの場所で、雅也と二人きり。 自然と呼吸が浅くなるのを感じた。 気を張っていないと。 もう、あの時のように伊藤くんがそばにいるわけじゃないのだから。 中にはすでに雅也の姿があった。  私を見ると、上機嫌な様子で手を振ってくる。 テーブルの上には、いくつか飲み終えたグラスが並んでいた。 もうだいぶ飲んでる。  ……酔ってる? これはある意味、好都合かもしれない。  前回のこともあまり詮索されずに済む。 そんなふうに、油断していた。  あのとき、すでに罠は仕掛けられていたのだと、この時の私はまだ知らなかった。  軽く付き合って、早めに帰るつもりだった。  けれど、飲み始めてすぐ、強烈な睡魔が襲ってくる。 気づけば、深い眠りに落ちていた――。 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。「……ここ、は……?」 ぼやけた視界の中、なんとか体を起こそうとする。  その時、すぐ傍から声がした。「おや、目が覚めたかい?」 その声に顔を向けると、雅也が立っていた。  背広は脱がれ、ネクタイも外され、シャツの上のボタンがいくつか開いている。 ゆっくりと、大げさにため息をつきながら彼は言った。「君には本当に驚かされたよ。まさか、あの男の娘だったなんてね」 その瞬間、眠気が一気に吹き飛ぶ。  目を見開いた私を、雅也はくくっと笑いながら見下ろした。「もう少しで騙されるところだった。演技、なかなか上手かったよ?」 そう言って、彼はベッドの端に腰を下ろすと、ゆっ
last updateLast Updated : 2025-08-11
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第四十五話 目覚めの夜、暴かれた仮面②

【二〇二五年 杏】 息がかかるほどの距離に、身体が強ばる。  その顔も、吐息でさえ、嫌でたまらない。 私のすべてが、彼の存在を拒絶していた。「正直、気に入ってたんだよ。君のこと。  見た目も、雰囲気も、俺の好みでさ」 雅也は笑った。  けれど……その目は冷たく濁っていた。「ねえ」 突然、ぐっと距離を縮めてきた。  私は思わずのけぞる。 すぐそこにある顔。その唇。 雅也は、そのままふっと微笑んだ。「本当にもったいないよな。君がこんな女じゃなければ、ずっと可愛がってあげたのに」 その瞬間、雅也の笑みが、狂気を含んだものへと変わった。「でもさ――俺を騙そうとしたことは許せない」 その声は、底を這うような、恐ろしいものだった。  背筋がぞくりとし、寒気がする。「おまえ、何様のつもりだ?  俺を振って、復讐? はははっ、馬鹿じゃないの。  おまえごときに、俺が傷つくとでも思ってたのか」 顔を歪めて笑う雅也に、私は全身が粟立つのを感じた。 こいつ、狂ってる。「おまえは所詮、あいつの娘だな」 低く冷たい声音。  その「あいつ」が、誰のことを指しているのか、わかっていた。「……父のことを、あいつなんて呼ばないで」 怒りを抑えきれずに睨みつけると、雅也は目を見開き、やがて楽しそうに口角を上げた。「へえ。まだそんな余裕あるんだ? さすがだよ、ほんと」 次の瞬間、その笑みがすっと消え、視線が鋭くなる。  尖った刃のような声が、私を貫いた。「でもな、調子に乗るな。おまえなんて、俺の前じゃ何もできない。  おまえの父親みたいにな」「うるさい!! 父さんを侮辱するな!  おまえのせいで……父さんは、私たちは――どれだけ苦しんだと思っている!  私は、絶対におまえも、おまえの父親も許さない!」 
last updateLast Updated : 2025-08-13
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