その日は、小さな村に向かう途中の谷で野営していた。食料は底をつき、保存していた干し肉も、ぺガスの鞍袋で粉のようになっていた。ファドの尻尾が、くぅとしおれた。「……お腹、鳴った……」ロホは、無言で弓を取った。矢筒を背に、ぺガスを休ませ、草を踏まず、音を立てずに森の奥へと入っていく。森の空気は冷たく、静かだった。ロホは木々の間に身を潜め、足跡と風の匂いをたどる。やがて見つけたのは、小さな群れから外れた一頭の鹿だった。角の欠けた若い雄。傷を負っている。いずれ群れには戻れまい。ロホは、弓を引いた。けれど、その矢を放つ前に――鹿と、目が合った。一瞬。そのまなざしに、ロホは息を飲んだ。恐れではない。憎しみでもない。ただ、「知っている」という目。生きることと、死ぬことと。それを、この鹿は受け入れている。ロホは、矢を放った。心臓を外さず、苦しませることなく、静かに、確実に命を奪う。鹿は、音も立てずに崩れ落ちた。ロホは、近づき、地に膝をついた。そして――目を閉じて、祈った。「いただきます。あなたの命で、私たちはまた歩けます。」「この命、無駄にはしません。」やがて、ファドとぺガスがやってきた。ファドは、鹿の姿を見て、黙って座った。ロホは手早く解体し、必要な肉を切り出すと、骨のいくつかは丁寧に包んだ。その夜、焚火の上で鹿肉が香ばしく焼けていた。ファドは夢中で頬張り、ぺガスも耳をぴくりと動かしていた。ロホは、焼きあがった最後の一切れを手にし、それを火にかざした。そして、ぽつりと呟いた。「……あなたのこと、忘れません。」翌朝、ロホは残った骨を、小さな石の祠に埋めた。その上に、一輪の野花を添える。旅人には通じぬ儀式。でも、それがロホのやり方だった。ファドが聞いた。「ロホ、あの鹿に話しかけたの?」ロホは、空を見上げて答えた。「……話しかけたんじゃない。聞かせたの。」「ありがとう、って。」命を奪うたびに、彼女は生きることの重さを抱え直す。それが、歩き続ける者の“狩り”。生きるために殺し、殺すことで、生きることを、ますます大切にする――ロホの狩りは、いつも祈りに似ていた。
Dernière mise à jour : 2025-05-17 Read More