私がその料理に出会ったのは、山あいの温泉宿に泊まった夜のことです。その日は、雨に追われ、風に包まれ、ぺガスの足もすっかり冷えていました。宿の主人は、「こんな日は温まるに限る」と笑い、湯の支度と共に、ひとつの鍋を囲むよう勧めてくれました。大皿に盛られた、透けるほど薄い肉。湯気立つ鍋。白菜、椎茸、長葱、豆腐、葛きり、ぽん酢の小鉢。「……これは?」ロホが尋ねると、女将が笑って答えました。「“しゃぶしゃぶ”と申します。東方から伝わった食べ方ですわ。」「薄切りの肉を湯にくぐらせて火を通すだけで、味が生まれるのです。」ファドが鼻をひくつかせながら、じっと肉を見つめます。「ロホ……これ、食べてもいいの?」ロホは、しゃぶ、と一枚を箸で湯に泳がせました。赤が白く変わるその瞬間、ぽん酢につけて口に含む。「……ふう……」思わず漏れた息は、剣の鋭さでも、魔法の煌めきでもない、人としての“しあわせのため息”でした。ファドが真似して肉を泳がせましたが、泳がせすぎて「それはもう鍋の一部よ」と笑われる始末。ぺガスには温野菜と白米が用意され、優雅に食べていました。やがて雑炊が仕上がると、あたたかさが体の芯まで届きました。ロホはぽつりと呟きます。「……味で、記憶が呼び起こされることがあるのね。」「誰かと食べたの?」ファドが聞きます。「……いいえ。でも、もし“これを誰かと食べていたら”って、ふと思ったの。」夜が更け、ロホは囲炉裏の火を見つめながら呟きました。「旅は歩くこと。でも、こうして火の前で立ち止まるのも……案外、悪くないわね。」ファドが丸まりながら言いました。「じゃあ、また別の町で、“しゃぶしゃぶ”探そうよ!」「……今度は“誰かと”食べられるかもしれない。」ロホは微笑みました。ロホが白米をひと口含んだとき、ほんのわずかに目を見開きました。「……甘い……?」「お米って“おかずの台”じゃなかったの!?」とファド。ロホは箸を置き、静かに言いました。「こんなに“やさしい味”があるなんて……知らなかった」朝の光が格子を照らし、旅館の奥ではご飯の香りと白湯の湯気が漂っていました。ロホたちは朝食を終え、身支度を整えます。女将が包みを渡します。「冷めても美味しい“おにぎり”ですよ。」包みの中には三つの小さなおにぎり。梅干し、ごま塩、
Last Updated : 2025-07-01 Read more