日中の陽射しは鋭く、大地に突き刺さるようだった。
乾いた空気に汗は乾かず、ファドは舌を出しっぱなしでぐったりしていた。
「ロホ~、溶けそうだよぉ……」
ロホはぺガスのたてがみに手を添え、汗を袖でぬぐった。
「……もう少し歩くと、風の匂いが変わるはず。」
その言葉の通り、しばらく進むと風の温度が変わり、やがて鬱蒼とした木々に包まれた、深い森へと足を踏み入れた。
森は、涼しかった。
頭上から射す僅かな木漏れ日は、斑に地面を照らし、あれほどまとわりついていた汗が、少しずつ引いていくのが分かる。
ぺガスは鼻を鳴らし、ファドは「生き返る~」と枝にぶら下がった。
ロホは、静かに息を吸い込む。
「……この森、生きてるわね。」
森の奥へ進むと、開けた広場に出た。
陽光がふわりと差し込み、風がゆるやかに草を揺らす場所。
その中央に、ひとりの老人が腰を下ろしていた。
背をまっすぐにし、長い杖を脇に立てた姿は、まるで一本の古木のようだった。
ロホが近づいて、軽く頭を下げる。
「ごきげんよう。ここで、何を?」
老人は目を細め、しわの深い顔に、微かに笑みを浮かべた。
「もうすぐ、シンフォニーが始まる。」
ファドが小声で囁いた。
「……音楽会? どこで?」
ロホは、黙って腰を下ろした。
ぺガスも広場の端に佇み、静かに草を踏んでいた。
やがて、空気の流れが変わった。
一陣の風が、森を駆け抜けたのだ。
その風は木々の間を通り、節の中をくぐり抜け、葉を震わせ、枝を叩き、地面の石と草と共鳴し――
音が、生まれた。
低い管のような、幹のうねり。
高い笛のような、葉の擦れ。
風に揺れる木の枝が弦となり、洞の中で鳴る虫たちがリズムを刻む。
それは――人の手では決して奏でられない、この森そのものの“音楽”だった。
ロホは目を閉じた。
音が、染み込んでくる。
この森に宿る命が、風と共に歌っているようだった。
音楽は、やがて静かに終わった。
風が去り、森が再び深い呼吸に戻る。
ロホは、そっと立ち上がり、深く礼をした。
「……素晴らしい“演奏”でした。」
老人は、何も言わず頷いた。
そして、ロホがぺガスに乗り、歩き出したとき。
老人は、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
「……はぁ~……神が地上を歩くようになるとは、世も末だのぉ。」
その声は、ロホの耳には届かなかった。
けれど、森の奥の木々は、またひとつ、微かに葉を鳴らしていた。
まるで――次の風を、待っているかのように。
私がその人に出会ったのは、その町に入って七日のことです。そこは、かつて“夜明けの森”と呼ばれた場所だった。星を読み、風を詠み、森と共に千年を生きる者たち――エルフの都。けれど今では、街灯が星明かりを消し、石畳が根を覆い、高層の石造りの建物が、かつての大樹に取って代わっていた。ロホは、そんな都市の酒場の片隅に、ひとり佇んでいた。店内では、耳の長い青年たちが、香草の効いた肉料理を囲み、赤いワインを高く掲げていた。笑い声。陽気な音楽。どこかに、“生きることの喜び”が溢れているはずなのに――ロホは、窓際の影に身を置いたまま、目を伏せていた。ファドがぽつりと尋ねる。「ねぇロホ……あの人たちも、エルフなんだよね?」ロホは答えない。ただ、静かに呟いた。「……かつて、星と話せた者たちよ。」「今のあなたたちは、どこまでが“エルフ”なのかしら。」翌日。ロホは都市を離れ、森の名残を求めて歩いた。そこにいたのは、一本の木の根元で何かを聞こうとしている、若いエルフの少年だった。彼は名をトウエルと言った。「昔、この木はね、風と話せたって言うんだ。」「……ほんとうは、まだ聞こえるんじゃないかって思って。」ロホは目を細め、近くに腰を下ろした。「聞こえるのなら、それは、あなたがまだ忘れていない証拠。」「この世界が“本当はどうだったか”を、まだどこかで覚えているから。」トウエルは、小さく微笑んだ。「たまにね……木が、笑ってる気がするんだ。」ロホは、その夜、一枚の布に、“風の形”を刺繍し、森の入り口にそっと結びつけた。何も語らず、何も遺さず、ただ、それが“願い”となることを信じて。「……星を忘れてもいい。でも、思い出せる誰かが、この世界に一人だけでもいれば、それでいい。」ロホは旅立った。トウエルは、その後も森に通い、いつしか小さな子供たちに“木の声の聴き方”を教える者になったという。誰もそれが、かつてロホと出会った少年だとは知らなかった。でも彼の語る物語には、どこか風の香りがして、星明かりに似た静けさが宿っていた。私がその森にもう一度足を踏み入れたのは、幾星霜を越えた後のことです。季節は、静かに巡っていた。あのとき、枝を擦り合わせながら語っていた木々も、その多くが倒れ、苔に包まれ、けれど――根は、残っていた。ロホは、ぺガスのたてがみ
日中の陽射しは鋭く、大地に突き刺さるようだった。乾いた空気に汗は乾かず、ファドは舌を出しっぱなしでぐったりしていた。「ロホ~、溶けそうだよぉ……」ロホはぺガスのたてがみに手を添え、汗を袖でぬぐった。「……もう少し歩くと、風の匂いが変わるはず。」その言葉の通り、しばらく進むと風の温度が変わり、やがて鬱蒼とした木々に包まれた、深い森へと足を踏み入れた。森は、涼しかった。頭上から射す僅かな木漏れ日は、斑に地面を照らし、あれほどまとわりついていた汗が、少しずつ引いていくのが分かる。ぺガスは鼻を鳴らし、ファドは「生き返る~」と枝にぶら下がった。ロホは、静かに息を吸い込む。「……この森、生きてるわね。」森の奥へ進むと、開けた広場に出た。陽光がふわりと差し込み、風がゆるやかに草を揺らす場所。その中央に、ひとりの老人が腰を下ろしていた。背をまっすぐにし、長い杖を脇に立てた姿は、まるで一本の古木のようだった。ロホが近づいて、軽く頭を下げる。「ごきげんよう。ここで、何を?」老人は目を細め、しわの深い顔に、微かに笑みを浮かべた。「もうすぐ、シンフォニーが始まる。」ファドが小声で囁いた。「……音楽会? どこで?」ロホは、黙って腰を下ろした。ぺガスも広場の端に佇み、静かに草を踏んでいた。やがて、空気の流れが変わった。一陣の風が、森を駆け抜けたのだ。その風は木々の間を通り、節の中をくぐり抜け、葉を震わせ、枝を叩き、地面の石と草と共鳴し――音が、生まれた。低い管のような、幹のうねり。高い笛のような、葉の擦れ。風に揺れる木の枝が弦となり、洞の中で鳴る虫たちがリズムを刻む。それは――人の手では決して奏でられない、この森そのものの“音楽”だった。ロホは目を閉じた。音が、染み込んでくる。この森に宿る命が、風と共に歌っているようだった。音楽は、やがて静かに終わった。風が去り、森が再び深い呼吸に戻る。ロホは、そっと立ち上がり、深く礼をした。「……素晴らしい“演奏”でした。」老人は、何も言わず頷いた。そして、ロホがぺガスに乗り、歩き出したとき。老人は、誰にともなく、ぽつりと呟いた。「……はぁ~……神が地上を歩くようになるとは、世も末だのぉ。」その声は、ロホの耳には届かなかった。けれど、森の奥の木々は、またひとつ、微かに葉を
私がその人に出会ったのは、その町に入って三日のことです。そこは、かつて“森の民”と呼ばれたエルフたちが暮らしていた地方だった。かつて――その森は、声があった。風が葉を撫でれば歌い、枝が揺れれば物語を語った。けれど今、森は伐られ、町は広がり、エルフの若者たちは色鮮やかな服をまとい、商談に忙しそうに笑っていた。ロホは、ぺガスのたてがみに手を添え、街角で立ち止まった。そして、ぽつりと呟いた。「……葉擦れの音を、もう聞かないのかしら。」「あの枝に宿っていた“声”を、もう思い出せないのかしら。」誰も彼女の言葉には気づかない。ファドは、少し不思議そうな顔をしたが、何も言わず、ロホの肩で耳をぴくりと動かした。町のはずれ、伐採場となった森の名残に、ロホはひとりで足を運んだ。草は少なく、切り株が無数に並ぶ。かつて聖域と呼ばれた一角には、今や朽ちかけた木の祠がひとつ、静かに立っているだけだった。ロホは、その祠の前に膝をついた。何も語らず、何も問わず、ただそっと、最後に残った一本の立ち枯れた木に手を添えた。樹皮は乾き、命の気配はすでに薄れていた。それでも、確かにそこには“記憶”が残っていた。かつての森の声。エルフの笑い。子の誕生を祝う歌。風が運んだ祈り。すべてが、この一本の木の中に、まだ――生きていた。ロホは、誰にも聞こえない声で、そっと語りかけた。「……ごめんなさい。あなたたちの声は、私が覚えている。」「たとえ、誰も思い出さなくても。」風が吹いた。それはまるで、木が最後の呼吸をしたかのような、静かな風だった。ファドがそっと近づき、ロホの足元に丸くなった。ロホは、目を閉じた。「生きるために変わること」を、責めはしない。でも、この世界に“忘れられたもの”があるなら、自分だけは、それを覚えていたい――それがロホの選んだ“歩き続ける者”の生き方だった。翌日、ロホたちは再び旅立った。街は何も変わらず、若きエルフたちは今日も華やかに笑っていた。ただ一人、商人の娘がふと立ち止まり、なぜか涙が浮かびそうになるのを、不思議に思った。何か大切なことを、思い出しそうな気がした。それは、ロホが町を離れてから、しばらく経ったある日。あのエルフたちの町では、誰にとってもさして重要ではない、ちょっとした噂が流れていた。「町外れの伐採場
夜の風が草を揺らし、焚火の赤が、そっと揺れる。ロホとファドは、夕食を囲んでいた。葉の上には、ささやかな炊き込みご飯。ぺガスは、すこし離れた場所で草を噛んでいる。ファドが、口いっぱいにごはんをほおばりながら言う。「ロホって、旅の途中でいろんな人に会ってきたんだよね?」ロホは、木の匙をゆっくりと置いて、少しだけ夜空を見上げる。「ええ。 ──たとえば、ある商人の話があるわ」「その人は、食堂で家族と食事をしていたの。自分の跡を誰に継がせるか悩んでいたのよ」「子供たちは、それぞれ大量に注文して、食べきれずに残していった。」「でもね、末の子だけは、 “自分が食べられる分だけ”を注文して、きれいに全部食べきったの。」ファドがご飯を止めて、きょとんとする。「それで? その子が跡継ぎになったの?」「ええ。商人は言ったのよ──“自分のお腹の容量もはかれない者が、大きなお金を動かす資格はない”って。」ファドは、じっと葉皿を見つめる。「……じゃあ、オレもいつか、“食べきれるだけ”にしないとね」ロホは、穏やかに微笑んだ。「それができたら、もう“立派な跡継ぎ”よ」「何のかは……分からないけれど」焚火がぱち、と弾けた。その音を聞きながら、ファドがにんまり笑う。「じゃあ、オレの跡継ぎは……ロホね」「え? 私が?」「だって、ロホってなんでもちゃんと残さず食べるし、火も扱えるし、言葉も知ってるし──“旅人代表”って感じ!」ロホは吹き出しそうになってから、ゆっくりと笑った。「……ありがとう。でも、私はもう十分に“跡”よ。ファド、あなたは“未来”になりなさい。」夜空の星が瞬いていた。ロホは最後のひと粒をすくい取り、葉をきれいに拭った。そして、火に手をかざしながら、静かに言った。「ちゃんと食べる。それだけで、人は“守るべきもの”を持てるようになるのよ」
ロホは、足元の地面に静かに耳をあてた。草の匂い。土のぬくもり。遠くの小鳥の羽音。……だが、人の気配は、ない。ゆっくりと立ち上がると、ぺガスに小さく目配せし、ファドには高い木の枝を指さした。「頼んだ。」「まかせろー!」ファドは元気よく飛び上がり、ぺガスは鼻先を鳴らして周囲に目を光らせた。ロホは、銀の髪をほどき、そっと水に入った。冷たく、だが心地よい流れが、肌を洗っていく。少しだけ、目を細めて、空を仰いだ。そこには、雲一つない、澄みきった空が広がっていた。ロホが水浴びを終えて着替えていると巨大な牛のモンスターが襲い掛かってきた、ロホは軽くいなして急所に一突きでモンスターは絶命する。ぺガスの背には、毛皮も爪もついたままの、巨大な牛型モンスターの死骸が載っていた。ロホは、特に急ぐでもなく、特に誇示するでもなく、ただそれを引き連れて、宿屋の前まで来た。宿の親父は、目を丸くした。「……それ、まさか、あの“荒れ牛”か?」ロホは、小さく頷くだけだった。「肉はいる? 皮も、角も。」親父は一瞬戸惑ったが、すぐに目を輝かせて手を打った。「ああ、ああ! 買うとも! ちょうど塩漬けの樽が足りなかったところだ!」交渉はあっけなかった。「……風呂付きの部屋を。」宿屋の主に、ロホは簡潔に頼んだ。値段は、少し高かった。だが、迷いはなかった。それに、たっぷりの食事と、余った金貨がひと袋。ロホは、それを懐にしまいながら、何も言わずぺガスのたてがみを一撫でしてやった。宿の厨房では、すでに肉の大鍋がぐつぐつと煮えはじめている。ファドは、椅子の上でしっぽを振りながら、待ちきれない様子だった。「ねえロホ、今日のご飯、絶対おいしいよね!?」ロホは、ほんのすこしだけ、目尻を和らげた。「……まあ、期待していい。」広間には、湯気と、脂の甘い香りが立ちこめる。 出来上がった料理は厚切りのステーキにビーフシチュー。ロホは迷わず葡萄酒を注文した。ファドがステーキに夢中になってかぶりつく。旅の途中、ほんのひとときの、ささやかな贅沢。ロホは、空になった鞄を椅子に掛けると、何も言わず、テーブルに手をついた。静かに、しかし確かに、今日という一日を生き延びたことを、かみしめるために。ファドは、宿屋のロビーでくるくると回っている。「ロホ~!早くあったかいお
その日は、小さな村に向かう途中の谷で野営していた。食料は底をつき、保存していた干し肉も、ぺガスの鞍袋で粉のようになっていた。ファドの尻尾が、くぅとしおれた。「……お腹、鳴った……」ロホは、無言で弓を取った。矢筒を背に、ぺガスを休ませ、草を踏まず、音を立てずに森の奥へと入っていく。森の空気は冷たく、静かだった。ロホは木々の間に身を潜め、足跡と風の匂いをたどる。やがて見つけたのは、小さな群れから外れた一頭の鹿だった。角の欠けた若い雄。傷を負っている。いずれ群れには戻れまい。ロホは、弓を引いた。けれど、その矢を放つ前に――鹿と、目が合った。一瞬。そのまなざしに、ロホは息を飲んだ。恐れではない。憎しみでもない。ただ、「知っている」という目。生きることと、死ぬことと。それを、この鹿は受け入れている。ロホは、矢を放った。心臓を外さず、苦しませることなく、静かに、確実に命を奪う。鹿は、音も立てずに崩れ落ちた。ロホは、近づき、地に膝をついた。そして――目を閉じて、祈った。「いただきます。あなたの命で、私たちはまた歩けます。」「この命、無駄にはしません。」やがて、ファドとぺガスがやってきた。ファドは、鹿の姿を見て、黙って座った。ロホは手早く解体し、必要な肉を切り出すと、骨のいくつかは丁寧に包んだ。その夜、焚火の上で鹿肉が香ばしく焼けていた。ファドは夢中で頬張り、ぺガスも耳をぴくりと動かしていた。ロホは、焼きあがった最後の一切れを手にし、それを火にかざした。そして、ぽつりと呟いた。「……あなたのこと、忘れません。」翌朝、ロホは残った骨を、小さな石の祠に埋めた。その上に、一輪の野花を添える。旅人には通じぬ儀式。でも、それがロホのやり方だった。ファドが聞いた。「ロホ、あの鹿に話しかけたの?」ロホは、空を見上げて答えた。「……話しかけたんじゃない。聞かせたの。」「ありがとう、って。」命を奪うたびに、彼女は生きることの重さを抱え直す。それが、歩き続ける者の“狩り”。生きるために殺し、殺すことで、生きることを、ますます大切にする――ロホの狩りは、いつも祈りに似ていた。
その夜、ロホたちは風のない丘の上で野営していた。火は小さく、音もなかった。ファドはすでに眠り、ぺガスも静かに草を噛んでいた。ロホは、焚火を見つめながら、ぽつりと呟いた。「……助けた人に、感謝を。」あの賢者の言葉が、胸の奥で、微かに響いていた。ロホは、目を閉じた。そして、過去の旅の中に消えていった“あの人たち”を、ひとり、またひとり、そっと思い浮かべていった。干上がった井戸の村で、希望をなくしかけていた少年とその母。彼女は、最後の水を、ロホに託そうとした。ロホは水を返し、代わりに村の古い石壁を壊して新たな泉を掘り当てた。少年が最後に言った。「“ロホ”って、光の名前みたいだね。」戦火の町で、焼け落ちた橋の手前で泣いていた片足の兵士。彼は、もう一歩が踏み出せなかった。ロホはその背に手を添え、一言だけ囁いた。「この道の先に、あなたの命がある。」彼は、翌年、戦を捨てて教師になったと、風の便りで知った。追放された王族の少女が、身を隠していた市場の片隅。ロホは、彼女の前に座り、何も聞かずに果物をひとつ差し出した。少女は震えながら、それを受け取った。「あなたにだけは、名を告げてもいい気がする。」今、彼女は“ただの市民”として、誰よりも幸せに暮らしているという。思い出は、淡くて、温かくて、それでいて、少しだけ寂しい。ロホは、そのすべての“命の重なり”を、静かに胸に受け止めていた。そして、ぽつりと呟いた。「……ありがとう。」「私の旅に、意味をくれて。」焚火の火が、ぱちりと鳴った。星は瞬き、夜の帳が、やさしく世界を包んでいた。ぺガスが、ロホの背に鼻先を寄せた。ファドが、寝言のように、ふにゃりと笑った。ロホは立ち上がり、夜空を見上げた。この旅の先に、また誰かが待っているのなら。自分の手が、その誰かを照らすことができるのなら。「……歩くわ。」「“私がここにいた”という灯を、次の誰かに繋ぐために。」そしてまた、歩き出す。静かに、けれど確かに。命の記憶を胸に抱いて。──それは、旅人の話だった。焚火を囲む若者たち。夜風が肌を撫で、星々が頭上で瞬く頃。ひとりの老女が、静かに語り出した。「その人はね……名も名乗らなかったのよ。」「でもね、あの目を、私は今でも忘れられない。」「冷たいようで、あたたかくて、遠いよ
森の中。焚火の残り香のする広場で、ロホは立ち止まった。血の匂いが、微かに漂っている。近づくと、そこには、皮を剥がれ、投げ捨てられた鹿たちの屍があった。三頭。どれも腹だけ裂かれ、肉も取らず、放置されている。そしてその傍で、数人の若い傭兵たちが笑いながら酒をあおっていた。「ったく、こんなクソ森で狩りごっこしかできねぇなんてな!」「ま、戦場までのヒマつぶしだろ!」ロホは、ただ静かに、彼らの前に歩み寄った。そして、何も言わず、足元の鹿を見下ろした。傭兵たちは、最初はロホを面白半分に眺めていた。「なんだよ、ババア。肉が欲しいのか?」その言葉に、ロホは一度も顔を上げず、ただ言った。「――おまえたちは、狩人ではない。」声は低く、抑えられていた。だが、その場の空気が、一瞬で冷えた。「命を、遊びに使うな。」一歩、踏み出す。剣にも、弓にも手は伸ばさない。だが、傭兵たちは、無意識に腰を引いた。翠の瞳が、夜の焚火よりも冷たく光っていた。「おまえたちには、もはや、剣を抜く価値もない。」静かな声だった。なのに、何よりも重たく、刺さった。傭兵たちは、バツの悪い顔をして、焚火の周りから逃げるように去っていった。ロホは、静かに屍たちに膝をつき、一頭一頭、目を閉じさせた。そして、短く、祈った。「……無駄にして、すまない。」風が吹いた。鹿たちの毛皮が、さらりと揺れた。ファドが、そっと背後に寄ってきた。「ロホ……怒ってる?」ロホは答えなかった。ただ、いつもより少し強く、ぺガスのたてがみに手を添えた。それは、声なき誓いだった。二度と、この森で、命が笑いものにされないように。ロホはまた、歩き出した。静かに。だが確かに、怒りと祈りを胸に抱きながら。その夜。焚火の灯りの向こうで、ファドは丸くなりながら、じっとロホを見上げていた。「ロホ……」「なんでさ、オレたちって、生きるために、誰かを食べなきゃいけないの?」問いは、小さな焚火の音にかき消されそうなくらい、か細かった。ロホは、薪をくべる手を止めた。しばらく、何も言わず、ただ火を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。「……生きるって、奪うことだから。」ファドは、少しだけ肩をすぼめた。ロホは続けた。「でもね。それは“悪いこと”じゃない。」「誰かが、土に還り、誰かが
夕暮れだった。旅の途中、古びた祠の前で、ロホは一人の老賢者と出会った。雪のように白い髪。深い皺に刻まれた穏やかな微笑み。その目には、幾多の時代を越えてきた者だけが持つ、静かな光が宿っていた。ロホは、ぺガスを休ませ、ファドとともに、その老人のそばで、しばし火を囲んだ。言葉は、少なかった。けれど、心地よい沈黙が続いた後、賢者はふと、ロホに語りかけた。「ロホさん。」「助けてもらった人以上に、自分が助けた人には感謝しなさい。」ロホは、少しだけ眉を寄せた。「……助けた側が、感謝する、のですか?」賢者は、頷いた。その動きは、夕暮れの光の中で、まるで大地そのものが微笑んだかのように見えた。「人を助ける……こんな素晴らしいことができたのですから。」ロホは、しばらく、言葉を失った。彼女の中には、無数の出会いと、無数の別れがあった。救った命も、見送った命も、すべて、心に静かに積もっていた。だが。自分が「助けた」ことに、誇りを持つという発想は――どこか遠いものだった。賢者は、続けた。「助けたということは、あなたが誰かの希望になったということです。」「それは、この世界に、一輪の花を咲かせるのと同じです。」ロホは、ゆっくりと、火を見つめた。ぱちり、と、小さな薪が弾ける音。その光の中に、かつて手を伸ばした子供たちの笑顔が、命をつないだ者たちの声が、静かに浮かんだ。「……ありがとう。」ロホは、小さな声で、そう呟いた。賢者は、何も言わなかった。ただ、その光に包まれたまま、目を閉じ、静かに頷いた。夜が深まったとき、ロホは再び、旅立った。背を押してくれる言葉を、胸に抱きながら。「人を助ける。こんな素晴らしいことができたのだから――私は、感謝しながら歩こう。」銀の髪を、夜風が優しく揺らした。歩き続ける者の旅は、また、静かに続いていく。今度は、少しだけ、誇りと感謝を胸に抱きながら。