あなたからのリクエストはもういらない のすべてのチャプター: チャプター 161 - チャプター 170

173 チャプター

161.浅野奈月の場合(前世)Ⅲ

なんとかしなきゃ…そう思って早くも半年が過ぎた。奈月は当初、いろいろ考えた末に山井家を頼った。彼女も彼女の両親も山井家にはとても傲慢だったが、でもきっと彼女から謝っていけばまた縁談を考え直してくれるだろうと思ったのだ。あの見合い相手の高雄の見た目には不満があったが、確かに彼の家はとても裕福だったし、彼の婚約者になればきっとこの借金も肩代わりしてくれるだろう。そう思った。だがー。「どういった御用でしょうか?」奈月は、自分の家よりも遥かに大きな邸宅に呆然としながら玄関先に立って案内を待っていたのだが、指示を受けに行って戻って来た使用人にそう尋ねられた。「ここで言わなきゃいけないの?」「何か不都合でもございますか?」そんな感じで冷たくあしらわれ、結局改めて縁談を考えてほしいとは言えずにそのまま帰って来た。事務所に戻ると神原からは早速次の仕事を入れられ、それはまた前と似たような、単に衣装が違うだけの恥ずかしい写真を撮ることだった。「何でこんなのばっかり!」「仕方ねぇだろ?稼ぐ為だ。」「…っ」どんなに嫌がっても最終的に「借金」の一言で奈月は言うことを聞くしかなく、悔しさに歯噛みしながらもそれから何度か意に沿わない写真を撮影した。奈月の自尊心はぐちゃぐちゃだった。その仕事以来、奈月は芸能関係?の仕事から一旦身を引いた。こんなこと、いつまでも続けていたら絶対にバレちゃうわ…。名家に育った連中があんな下賤な雑誌など見ないだろうとは思うが、回を重ねればどこからどう噂が回るか分からない。そして彼女は神原に言った。「お金になる普通の仕事、ない?」「……ないことはない」この時神原は、内心ほくそ笑んでいた。やっとか。意外と粘ったな。神原にとって奈月は単なる金づるだ。モデルの仕事のような若い奴らがどんどん出てくる業界では、奈月にはあまり需要がない。今回はたまたま彼女の〝名家の令嬢〟という肩書が新鮮で良かっただけだ。なので、早々にシフトチェンジすることにしたのだ。始めに彼女が「自分の所有するマンションを売って返済に充てる」と言った時は「なんでそんな余計なもん持ってんだ」と思ったのだが、どうやら彼女の実家の金回りが悪くなったようで、そこは親によって既に抵当に入れられていた。ラッキーだった。借金があってこそ、こういう生意気な女を好きに使えるっ
last update最終更新日 : 2025-11-29
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162.浅野奈月の場合(前世)Ⅳ

奈月はこの店で働き始めた時、それまでは自分がしてもらう側だった立場から、してあげなければならない立場になったことに我慢がならなかった。でも考えてみれば、ここは今までやった仕事のように変な格好もしなくていいし、綺麗に着飾って男たちにお酒を作っておしゃべりして…という接待をするだけだったから、楽でいいと思い直した。高級倶楽部ということもあって来る客は皆裕福な人たちばかりで、ここでもしいい出会いでもあれば借金も完済しなくて済むかもしれない。そう思って、日々頑張っていた。だが、今日。奈月が出勤して来た時、支配人から「そろそろ君も慣れただろうから、今日から指名に入れるから」と言われたのだった。〝指名〟それは、来店した客が気に入った女性を指名して、上の階にある個室で個人的な接待を受けることができる、というサービスだった。会員制という秘匿性の高さから富裕層の男たちが安心して通える、この店は所謂〝そういった〟風俗店だった。奈月はその時初めてそれを知り、実はどうやってこの店を辞めようかと悩んでいたのだった。このままでは、複数の男を相手にしなければいけなくなる。身体を売っているなんて、絶対に言われたくない。でも高雄が言った相手一人なら、そしてもしそれが世間にバレないのなら…?奈月の心は揺れていた。この先結婚をした時に、自分が初めてではないと知られるのはどうなのか?でも、それでこの借金地獄から抜け出せるのなら…。「それは…一度だけ、でいいの…?」迷いながらもそう尋ねると、高雄は呆れたように答えた。「そんな訳ないでしょ?自分の借金がどれだけあると思ってるんですか?」「でも、あんな写真まで撮ったのよ?少しは返せてるはずでしょう!?」そう言うと、ため息をつかれた。そして、奈月があんなに恥ずかしい思いをして撮ったモデルのギャラが、おそらくほとんど神原によって搾取されているだろう事を知らされたのだった。「ひどい…」だがあの男に訴えたところで、きっと適当にごまかされるに違いない。奈月は短い付き合いながらも、神原という男のことをよくわかっていた。あの男とは縁を切らなければならない。奈月がそう決意すると、でも高雄が言った。「まだ契約して間もないんじゃないんですか?辞めるなら違約金が発生しますよ?」「っ…」またお金!もう嫌!奈月は癇癪を起こした。そ
last update最終更新日 : 2025-11-29
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163.浅野奈月の場合(前世)Ⅴ

「きゃーっ、やめて!」部屋に響き渡る悲鳴に、誰一人反応しなかった。「やめて!お願い!……やめてったら!!」女はめちゃくちゃに腕を振り回したが、次の瞬間パシンッ!!と床に打ち鳴らされた鞭の音に身を竦ませた。なんで!?なんでこうなるのよ!?「私がいったい何をしたって言うの!?」涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま喚くと、鞭を持つその男は可笑しそうに嗤った。「何も?これがお前の仕事なんだよ。聞いてないのか?」「!?」奈月は驚愕に、目を思い切り見開いた。「これが……これが、仕事ですって…?」彼女の顔は見るも無残に真っ白で、半開きの唇はぶるぶると震えていた。昨日、高雄と一緒に神原に別れを告げて、今日は朝から念入りに身支度を整えてこの屋敷に訪れた。彼女は、彼女の借金を返してくれたこの男に感謝を示す為、贈り物まで用意していた。それなのに…。高雄の紹介してくれたこの男は城島直人(じょうじまなおと)といって、40代半ば頃の会社経営者だった。彼が言うには、その会社自体はそれほど大したものではないようだったが、もともとの資産が豊富にあったらしく、暮らし向きは豪華だった。そして抱える使用人の数も奈月の家とは比べ物にならないほど多く、広大な土地に大きな屋敷と広々とした庭を所有する、夢のような生活を彼女に想像させた。奈月はドキドキと胸を高鳴らせ、自分がここの女主人になれたら…などという想像をしていたのだが、執事に案内されてこの屋敷の主の部屋に入った瞬間、彼女の足がピタリと止まった。わぁ…。待っていたのは、その顔に年齢に見合った落ち着きを滲ませた、とてもハンサムな男だった。「やあ、いらっしゃい」直人は車椅子に乗っていた。家の中だからかラフな格好をしていたが、彼の整った顔立ちのせいか、とても洗練されているように見えた。穏やかで気品のある顔立ち。一目で上流階級にいる人物だと知れる。だが奈月は、〝城島〟などという家名は聞いたことがなかった。彼女が知らないだけかもしれないが、屋敷が郊外に建っていることからも、実際にはあまり社交的には活動していない家なのだろうと思った。もしくは、この男がどこかの家の私生児か、障害のある身体を忌避されて陰に追いやられているのか…。「……」直人は、奈月がいろいろと思案している様子を黙って見ていた。そして頃合いを見て、「覚悟は決
last update最終更新日 : 2025-11-29
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164.浅野奈月の場合(前世)Ⅵ

最悪…。しばらくして、奈月は目を覚ました。彼女はシンプルだが、それなりに整った部屋のベッドに寝かされていた。「っ…!」腕を上げようとしてその痛みに顔を顰めた彼女は、自分の身に起こったことを思い出して怒りに震えた。あいつ!高雄!よくも私を騙したわね!奈月はギリギリと奥歯を噛み締めて、とにかくここから逃げなければ…と思いを巡らせた。トントン…その時ノックの音がして、彼女はドアの方に目を向けた。「奈月さん、お目覚めですか?」目を覚ました途端に来るなんて…。カメラでも仕込んでるのかしら…?奈月は不快感に眉を顰めた。部屋に入って来た執事は何を考えているのかよくわからない表情で、淡々と言った。「直人様がお呼びです」「身体が痛いんだけど…」「……」奈月の冷たい視線にも、彼は無表情を貫いた。そして「支度が整ったら出てきてほしい」とだけ口にすると、静かに部屋を出て行ったのだった。*城島直人はとある名家の現当主の伯父だった。当主の父親の異母兄で、表向きずっとその存在を隠されて育ったのだが、異母弟が当主に就く前に彼によって交通事故を装われ、殺されかけた。その事故で今のような半身不随になったのだが、当時まだ若かった彼には急に思うように動かせなくなった身体を受け入れることは難しかった。そのストレスで胃をやられ、いつしか咳き込むだけで血を吐き出してしまうようになった。彼はどうしようもないほど苛立った。そしてその苛立ちを、使用人に向けるようになったのだ。直人は人が変わったかのように粗暴になり、ほんの少しのミスも許さず、また単に彼の機嫌が悪いというだけで周りの人間を傷つけていった。やがて、次から次へと人が辞めていき、見かねた執事がそういった職種の経験があるアルバイトを雇うことを提案したのだった。高額の仕事で、始めは何人か雇うことができた。が、それもやがて行き詰まり、考えた末、借金のある者ならそれを肩代わりしてやれば逃げることはできないだろう、という結論に至った。確かにそれは今までの者たちと違って長く屋敷に留めることができた。が、今度はその者たちが段々と痛みに慣れてきて、最後は彼がどうやってもただ黙って時が過ぎるのを待つようになった。直人はそれに対しても苛立った。本来彼は、彼らが自分に泣きながら、あるいは跪きながら助けや許しを乞う姿を見て溜飲
last update最終更新日 : 2025-11-29
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165.浅野奈月の場合(前世)Ⅶ

直人は自覚していた。自分の中の嗜虐性がどんどん高まっていっているのを。なぜだろう。あの女を見るとなぜか苛立つ。あの女が泣き叫ぶほど、なぶり殺してやりたくなる。そうして彼女を痛めつければ痛めつけるほど、自分の中にいいようのない快感が生まれてくるのだった。彼はふぅ……と深く息を吐き出した。*3ヶ月後。最近では奈月は、どこにいても何をしていても安心できなかった。直人が自分を打つ頻度がめちゃくちゃだったからだ。ある日は明け方まだ眠っていた時、突然部屋のドアを彼のボディーガードが開け放ち、彼女を無理やり起こして直人の下へと引きずって行った。「な、なんでしょ…」バシッ見るからに不機嫌な顔でベッドに腰掛けている直人に問うと、いきなり平手打ちをされた。思い切り振り抜いていた為、奈月の身体は横倒しに倒れた。呆然としていると、彼は一言「もういい」と言って手を振った。な、なんで…。なんで、こんなこと…?連れて来られた時同様引きずられるようにして部屋に戻された奈月の目に、じわりと涙が滲んできた。廊下を引きずられていた時に、傍らの男が事情を説明してくれた。今朝、直人が目覚めて喉の渇きを覚え、置いてあった水差しの水を飲もうとしたところ、それが冷たくなかった…ということで腹が立ったのだそうだ。なんて理不尽な理由だろう。奈月は赤く腫れ上がった頬を掌で押さえ、溢れ出る涙を堪えることができなかった。もう嫌…。彼女は口を覆って嗚咽を漏らすまいとした。何が直人の怒りに火をつけるかわからなかったからだ。そして彼女の部屋の前で、その微かな嗚咽を使用人が耳にした。彼女は主である直人に奈月の状態を報告し、静かに部屋を後にした。ふぅ…。「そろそろだな…」直人はため息をつくと、執事を呼んで言った。「一週間後、彼女を引き渡す。如月さんに伝えておいてくれ」「よろしいのですか?」執事が尋ねると、彼は自嘲するように嗤った。「俺ももう限界だよ。だが、まだ仕上げが残ってる。それが終わったら俺はこの国を出るよ。景色の綺麗な穏やかなところに行けば、この厄介な衝動も抑え込めるかもしれないからね」「……」想像以上に彼女は自分の昏い衝動を掻き立てた。こんな感情はもう、これ以上解き放つべきではない。彼は自分の手を見つめてそう言うと、ため息をついた。「使用人たちの働き口はリ
last update最終更新日 : 2025-11-29
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166.浅野奈月の場合(前世)Ⅷ

「行くわよ」迎えに来たのは、如月尚だった。「なんであなたが?」奈月は屋敷の門前に停めた車の前に立つ尚に、不思議そうに問うた。それに尚はふんっと鼻を鳴らし、バカにしたように言った。「私があなたを1億で買ったの。わかったらさっさと乗りなさい」「なんで…」「うるさいわね。なんか文句があるの?」「……」奈月は運転席に乗り込んだ尚に、戸惑ったような視線を向けた。どうして?私のこと嫌いなくせに…。「何してるの?早くしなさい」助手席の窓を開けて催促する彼女に、奈月は訳が分からないまま従ってドアを開けた。そしてその時初めて、後部座席にも人がいることに気がついた。「!?」ビクリと肩を揺らした彼女が見たのは、相変わらずハンサムな顔をした真田聖人だった。「聖人さん…?」「……」聖人は完全に奈月を無視した。彼は、後部座席に座って運転席の尚をじっと見つめていた。尚はそんな彼をバックミラーで見て、ふふっと微笑った。「なあに?」「いや、別に?」そこには2人だけの世界があって、奈月は部外者の扱いだった。おそらく以前の奈月なら、こんな扱いには食ってかかってきただろう。だが今は、ふぅん…と思うだけだった。彼女はこの数ヶ月で想像を絶する体験をしたのだ。その程度のじゃれ合いに、もう今更何も思うことなどない。しばらくしてー尚の運転する車は、とある霊園に辿り着いた。ここは特別に管理された一区画が千万もする墓地で、佐倉家の代々のお墓がある場所だった。尚は駐車場に車を停めて、未だ助手席に座り続ける奈月を外に引きずり出した。「なにするの!?」「……」その乱暴な扱いを非難しても、尚はただ黙って彼女の腕を掴み、引きずるようにして歩いた。「痛いっ!痛いってば!離して!」何度喚いても、尚も、後ろから付いて来ている聖人も無言だった。そしてー。ドサッ!「キャッー」奈月は、一つの墓の前に投げ出された。「跪きなさい」尚の冷たい声に顔を上げると、彼女は陽の光をバックに表情を影に隠し、奈月を見下ろしていた。奈月は震えた。この視線を知っている…。それは、ついさっき別れてきた直人が、苛立った時に自分に向けていたものと同じだった。違うのは、直人は焼けつくほどに苛烈で、尚は凍てつくほど静かだったというだけだ。「ご、ごめん…なさい……」思わず口にして
last update最終更新日 : 2025-12-04
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167.それぞれの結末(前世)

5日後ー。奈月は発見された。彼女が住み込みで働きに出ると聞いていた浅野夫妻は、ある病院からの問い合わせで奈月が道路に飛び出してトラックに撥ねられた事を知った。彼らは交通事故と聞いてもう一人の娘、美月の事を思い出し、悪い予感に胸が詰まるような気持ちがして急いで病院に向かった。辿り着いた病室で彼らが見たのは、全身包帯に巻かれてあちこちに管がついた娘の姿だった。側に設置された機械の波形は穏やかだったが、状態を説明する為に現れた医師の顔は深刻だった。「身体の方は全身に数カ所の骨折と打撲がある程度です。おそらくカーブに差しかかる場所で、あまりスピードが出ていなかったのが幸いしたのでしょう。ですがー」医師はそこで一旦言葉を切り、2人の蒼白な顔色を見て眉を寄せた。「跳ね飛ばされ数m先の標識にぶつかり、そのまま真下に勢いよく落下したようなのですが、その際に頭を強打しています。今現在彼女の意識はなく、おそらく…このまま植物状態になるかと思われます…」「そんなー!」父親である亮は驚きに声を失い、母親の耀はその場に崩折れた。美月に続いて奈月までも…。いったい何があってこんなにも不幸が続くのか…。浅野家は今提携先の企業から次々と契約を解除され、倒産の危機に瀕している。資金を投入しても投入しても消えていくだけで、もうどうやったら会社を立て直せるのかお手上げ状態なのに、娘まで…。奈月がこのままずっと植物状態でいるならば、かなりの医療費がかかるのは目に見えている。だがだからといって、死なせてくれなんて言えない。自分たちの子供はもうこの奈月だけなのだ。失うのは耐え難い…。いつもならこんな時、何も言わなくとも希純が手を差し伸べてくれていた。でも、もう今はそれもない。美月の後に奈月を娶ってもらえないかと打診した日から、彼の自分たちを見る目が変わった。怒りと軽蔑に満ちた目に、それ以上何も言えなかった。亮はベッドに静かに横たわる娘の顔を見て、命が助かっただけでもよかったと喜ぶべきなのか、いっそ死んで楽になってくれたらよかったのにと思うべきか、自分の中の複雑な心境に戸惑っていた。いずれにしても既に死んでしまった娘と、死んだも同然の娘。浅野家はもう、自分たちで終わるのだと彼は思った。*奈月が山から下りて事故に遭い、植物状態になったと聞いて数日、尚は怜士の秘書から連
last update最終更新日 : 2025-12-04
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168.佐倉希純の場合(前世)Ⅰ

2週間後。希純は父親の純孝と共に霊園へと向かった。彼は妻の好きだった花を花束にして供え、僧侶の言葉が終わるのを待った。そして係の者が美月の骨壺を取り出そうとして、戸惑ったように振り返るのを見た。「どうしました?」「それが……」彼は視線を泳がせ、僧侶の顔を見て、最後に希純に言った。「ありません…」「は…?」ありません?何が?何が無いっていうんだ?「まさか…?」その言葉に、彼は慎重に頷いた。「佐倉美月様の骨壺が見当たりません」「あり得ない…」希純は唇を震わせながら呟いた。そして、一気に激昂した。「なぜだ!?」希純は目の前にいる男の胸ぐらを掴み、答えのない問いを繰り返した。僧侶はこの事態に眉をひそめ、ひとまず希純を宥めた。「ここの管理者を呼べ」純孝は周りで青褪めている職員にそう言い、深いため息をついた。少し待つと、管理者の男が急いで走り寄って来た。「佐倉様…」彼は純孝に声をかけた。だが、「ここの管理はどうなってるんだ!?墓泥棒が入ったのにも気がつかなかったのか!?」希純がそう怒鳴りつけてきた。肩を怒らせて、ふーふーと息を荒げていた。「も、申し訳ありません。ですが、私共にも何がなんやらー」「言い訳はいい!!早く監視カメラを確認しろ!」希純の言葉に、男は慌てて事務室に駆け戻って行った。「希純…」それを見送って、純孝が無念そうに口を開いた。「とりあえず、警察に連絡しろ。彼女を取り戻したいなら冷静になれ」「……っ」希純はその場に膝をつき、頭を抱えた。誰だ?誰がやった!?ライバル社の連中の誰かか?それとも、骨壺と引き換えに金を要求しようとしてる奴がいるのか!?希純はギュッと目を瞑り、爆発しそうな怒りを堪えていた。純孝は周りが見えなくなっている息子の代わりに僧侶に頭を下げ、また改めて供養をお願いする旨を伝えた。「希純、とりあえず事務室に行こう」彼は、未だどうしたらいいのか分からずにオロオロしている男に片付けを頼み、希純を伴って移動した。「これを想定して遺骨を移したいと言ったのか?」「まさか!そんなこと、考えたこともないっ」希純は父親の質問に驚いて強く否定した。2人はそのまま、この霊園を管理している者がいる事務室へと入って行った。そしてわかったことは、今月始めにこの霊園内外の清掃などを請け負っている
last update最終更新日 : 2025-12-04
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169.佐倉希純の場合(前世)Ⅱ

A国ー。そこは年間を通じて穏やかな風が吹き、人々は親切で治安も良く、お年寄りや子どもにとってもとても過ごしやすい国だった。しかもここは昔から有名な音楽家や芸術家が沢山輩出され、その道を志す者にとってもチャンスの溢れる場所だった。尚はパソコンからふと視線を上げ、明るい日差しの入る窓の外を見た。彼女は美月の遺骨を抱えてたった一人この地に降り立ったが、その穏やかな気候と何かしらの事情を抱えた彼女にも親切に接してくれる人々に助けられ、心からここに来て良かったと思った。尚が選んだのは田舎にある小さな一軒家で、小さいとは言っても一人で暮らすには十分な広さのある間取りと、庭には色とりどりの花々が咲く今の暮らしに、彼女は満足気に微笑んだ。美月も喜んでるかな…。吹く風に感じる暖かさが、美月の魂の温度の様に感じられて、尚は手にしていたペンを置いた。そこへーキンコーン…キンコーン…とドアチャイムが鳴るのを聞いた。「はい」尚がドアを開けると、そこには佐倉希純の姿があった。「何しに来たの?」彼女は彼を見た途端に顔を顰め、迷惑そうに言った。だが希純はそれに取り合わず、真っ直ぐに彼女を見つめて口を開いた。「お前が盗んだのか?」「……」それは問いかけの形をとっていたが、断定だった。尚は胸の前で腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。「今頃気がついたの?遅いんじゃない?」「貴様!」その嘲るかのような口調に、希純の額に青筋が立った。激昂した彼を見て、尚は白けたように視線を流した。「とりあえず中に入って。近所迷惑だわ」「……」そのままスタスタと家の中に戻って行く彼女に従って、希純も中に入って行った。そしてリビングに案内されたと同時に、彼は急くように要求した。「美月を返せっ」「……」尚はそんな希純を振り返り、肩を竦めて軽く言った。「無理よ」「は?何が無理だっ。彼女は俺の妻なんだぞ!?返せ!」言い募る希純にも、彼女は冷静に応えた。「言ったでしょ。無理なの」「だから何でだ!?」バンッ!と手にしていた荷物を床に叩きつけ、希純は怒りのままに怒鳴った。尚はそんな彼を見てやれやれとため息をつき、ひとまずソファに座るよう手で示した。希純は憤慨しながらもドカリと腰を下ろし、ふんっと鼻から息を吐いた。「いくら欲しい?」「なんですって?」質問に眉を跳ね
last update最終更新日 : 2025-12-04
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170.佐倉希純の場合(前世)Ⅲ

「はぁ?」尚の眉がピクッと跳ね上がった。「〝浮気はしてない〟ですって?あなたね、まさか〝身体の関係はないから浮気はしてない〟なんて甘っちょろいこと言ってんじゃないでしょうね?」「何が違う?」希純が問うと、尚は苛立たしげにドンッと足を踏み鳴らした。「バカじゃないの!?やったかやらないかじゃなくて、気持ちが動いたかどうかが問題なのよ!」「動いてない!」「ハッ!アンタのどこをどう見てそんなこと言ってるの!?誰も信じやしないわよ!」「っ…」希純は痛いところを突かれた様に、口を閉ざした。そんな彼を、尚は嘲笑した。「心当たりがあるんじゃない。本当、最低ね!」「……」項垂れる彼に、更に言った。「そんなアンタに美月を弔う資格なんかないわ。さっさと帰ってちょうだい」それに対し、希純は呟くように言った。「本当に、彼女のものは何もないのか…?」「……」「本当にー」「ないわ」「……」そう言い切ると、希純はゆっくりと掌でその顔を覆った。「……っ」しばらくして微かな嗚咽が聞こえたが、尚は聞こえないふりをした。彼女は部屋を出る間際、振り向いて言った。「気が済んだら帰ってちょうだい。声もかけなくていいわ」そうして希純は一人残された部屋で、声を殺して泣いた。「美月…すまない……すまない、美月…。俺が悪かった…」何度も呟いて、やがてふらりと立ち上がると泣き腫らした目をそのままに、彼は帰って行った。尚は窓からその後ろ姿を見送り、そっと息をついたのだった。*「尚…?」ぼんやりとしていた彼女に声をかけた聖人は、その男らしい眉を心配げに寄せていた。「ああ…まだいたの?」「……」その言葉に、聖人の瞳にはほんの少し悲しげな色が宿った。それを見て尚は申し訳なさそうに言った。「そんな意味じゃないの。ただ…」「わかってる。大丈夫」聖人は優しく微笑んだ。彼は、尚が彼女の親友の遺骨を手に入れる為、兄の怜士と取引したことを知っていた。だから希純から彼女の居場所を尋ねられた時、彼女の罪を見逃すことを条件にそれを教えた。そして怜士には、自分の相続権を放棄することを条件に、彼女を追いかけることを許してもらったのだ。聖人は尚が自分の元を去った時、いかに彼女を愛していたかを思い知った。いつの間にか姿を消していた彼女は事務所も辞めていたし、弟の英明に訊
last update最終更新日 : 2025-12-04
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