「先生ー」怜士に呼ばれて、美月が振り返った。彼女の瞳には、他の女たちのような媚びるようないやらしい光はなく、ただ純粋な〝生徒の保護者〟に対するフラットな感情がのっているだけだった。「真田さん、どうかしましたか?」准のレッスンが終わって後片付けをしていた彼女は、怜士が差し出した物に目を落とした。それは、手書きの楽譜だった。「これは、亡くなった妻が准に遺したものです。彼女はいつもあの子にこれを弾いてやりながら、楽しそうに教えてやってました」ああ…。美月は思った。これが、あの時の曲なのね。美月は初めて会った時、准が弾いてみせた曲を思い出した。やはりこれは、彼の母親が作ったものだったのだ。美月はしばらく楽譜を読んで、それから怜士に問うた。「これを准くんに教えろということですか?」「できれば」「……」怜士は簡単に頷くが、美月はすぐに引き受けることができなかった。けっこう難しいと思うけど…。もちろん、教えることはできる。でも、すぐに弾けるようになる訳じゃない。まだ彼は幼いのだ。今は母親が教えていたように主旋律をメインにするだけで精一杯だろう。おそらく、以前は母親と一緒に弾いていたのではないだろうか…?そう言うと、怜士も頷いた。「私は准やあなたが辞めたいと言わない限り、あなたを講師としてお願いしたいと思っています。ですから、いつまでに…という期限などありません。まさか、これさえ弾ければ大学に受かるわけではないでしょう?」「…まぁ、そうですね…」美月は、彼がそんなに長いスパンでこの仕事を考えているとは、思っていなかった。う〜ん…。そんなに長く考えてるなら、他の人がいいんじゃないかしら…?だって、自分は長生きできるとは限らないのだ。そんなに簡単に引き受けていいのか、わからない…。准は優しい子だ。自分が親しくしている人が、母親に続いてまたすぐいなくなってしまったら、傷つかないだろうか…。黙り込んでしまった彼女に、怜士もまた困惑してしまった。長く勤めてもらいたいと言われて、喜ぶどころか困ったように眉を寄せる人など、彼は初めて見たのだ。まぁ、いい。准が彼女を気に入っているのだ。怜士には彼女を諦める理由がなかった。「何か不安な点でも?」「あ、いえ…。その…そんなに長く考えていらっしゃるのなら、私ではなくちゃんとした、講師の
Last Updated : 2025-08-02 Read more