All Chapters of あなたからのリクエストはもういらない: Chapter 41 - Chapter 50

56 Chapters

㊶敵意Ⅰ

「先生!」美月は真田怜士の邸に週3回、月・水・金で准のレッスンに通う事になった。当初、彼女がホテル暮らしだと知って住み込みでも良いと言ってくれたが、さすがに既婚者である身でそれは駄目だと断った。准は駄々を捏ねたが、離婚の際に疑わしい状況にいるのは良くない、と聖人おじさんや尚さんにも言われ、意味は分からなくとも〝良くない〟という事は分かったので、渋々頷いた。「じゃあ、先生。ご飯は一緒に食べてね?」「……」可愛らしい顔でお願いされて、できることなら叶えてあげたいが、食事までここで済ませると帰りが遅くなってしまうので困った。正直言うとそのまま帰りたい。美月はどうしようかと悩んでいた。「先生…だめですか?」准はほぼ涙目である。チラリと怜士の方を見ると、彼も苦笑していた。「う〜ん…じゃあ、週に一日だけね?それならいいわ」「えぇ〜」准は不満そうだったが、やがて仕方なさそうに頷き、美月に笑顔を向けた。「わかった!じゃあとりあえず、今は週1回ね!」「とりあえず?」首を傾げると、「ふふっ、なんでもなーい」と誤魔化された。そしてー着いて早々のティータイムを終えて、美月は怜士と准に連れられ、ピアノが置いてある部屋に向かった。准の部屋か、別にピアノを弾く為の部屋のようなものがあるのかと思っていたら、意外にも広々としたリビングに設置されていた。大きな窓からは燦々とした日差しが入り、それを柔らかく遮るレースのカーテンと、音響の為か、あまり家具などいろいろと置かれていない部屋が、妙に希純が自分の為に造った部屋と似ていて、美月は少しだけ居心地が悪かった。「どうかされましたか?」ほんの僅かに顔を顰めたのを気づかれたのか、怜士が尋ねた。「いえ…ここはリビングですか?」美月が尋ねると、彼は目を細めて頷いた。「ええ。亡くなった妻がピアノを弾いていまして、一人で弾くのがつまらないからと、ここに設置させたんです。私と、まだ小さかったこの子は、いつもここで彼女のピアノを聴いていました」そう言って懐かしそうに微笑う怜士に美月も微笑み、だが、困ったように言った。「ここでレッスンして、お邪魔になりませんか?」なんといっても、ここはリビングなのだ。人が安らぐ為にある部屋で、ただのピアノ講師である自分がそれを邪魔してもいいのだろうか…。いくら息子を教えている
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊷敵意Ⅱ

「近づかないで!!」美月がゆっくりと女性の方に歩いて行くと、彼女は突然悲鳴を上げて、まるで何か酷いことをされたかのように後退った。「あの…?」美月も立ち止まり、2人の間に緊張感が漂った。その時、「どうされました!?」という声と、「お母さんっ」という女の子の声が響いて、バタバタと人が集まって来た。えぇ……??何これ?何か、嫌な予感しかしないんだけど…?美月は呆然と立ち止まったまま、顔を引き攣らせていた。「佐倉さま、ご無事ですか?」「え、あ…はい」真っ先に駆けつけてきた執事の井上が、美月を心配そうに気遣い言った。すると案の定、女性が言った。「誰よっ。こんな人入れたのは!?危ないじゃない!!」人差し指は、真っ直ぐ美月を指している。「〝危ない〟とは、どういう事でしょう?」それを見て問いかける井上にも女性は構わず、ひたすら喚いた。「今すぐ追い出しなさい!」「……」美月はこの騒動に、うんざりした。最初こそ、何か誤解があるのならちゃんと否定しなければ…と思っていた。でも今は、どうでもいいと思った。なぜなら、彼女にはわかったからだ。女性がこの家とどういう関係なのか分からないが、明らかに美月に対して敵意を抱いている。それはたぶん…というか、ほぼ間違いなく怜士に関係している。彼女の連れている女の子が何なのかは知らないが、美月を〝准を利用して怜士に近づく不埒者〟として断罪しようとしているのだ。そうして今は、まるで美月に暴力でも振るわれたかのように訴えている。何なの…?美月はイライラした。まったく心当たりのない事で突然疑われて、勝手にライバル視されて、おまけに排除されようとしている。うんざりだ。美月は深くため息をついた。もういいわ。「井上さん」美月は女性に彼女の事を説明している井上を呼んで、ニコッと微笑った。「やっぱり、この仕事、私には向いていない様です。申し訳ありませんが、辞退させていただきます。真田さんにはまた改めてご連絡させていただきますので、今日はこれでー」「ええ!?し、しばらくお待ちを!」ダンディで落ち着いた雰囲気の井上が慌てて美月を引き留めるが、彼女はそれを無視して准に言った。「ごめんね、准くん」彼に対しては、本当に申し訳ない気持ちだった。あんなに嬉しそうにしてくれたのに、実際にはまだ何もしていない。
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊸敵意Ⅲ

「まさか彼女がこんな事をしでかすとは、思ってもいませんでした。ですが、彼女はー」「そちらの事情には興味ありません」ピシャリと遮られた。「私…本当に、こういうのは無理なんです……」小さな声で言う彼女の顔は、少し青白かった。「申し訳ありません…」怜士は、簡単にだが美月の事を調べていた。彼女が夫との離婚問題を抱えていて、その原因が夫の女性関係だという事も知っていた。知っていたのに……。怜士は、自分がここを離れてしまったことを後悔した。彼女が来るとわかっていたら、残って排除してやったのに!彼女ー。准と同級生でピアノ教室でも一緒の加護碧(かごみどり)の母親、加護葵(かごあおい)は、一度怜士が仕事終わりに息子を教室まで迎えに行って以来、なにかと絡んでくる迷惑な女だった。まず准に対して「母親がいなければ大変だろう」とさも親切ぶってあれこれ世話を焼き、自分に対しては「妻がいなければ家の事が回らないだろう」と、行事などがある度にお弁当だなんだとお節介にも手を出してきていた。鬱陶しくてかなわないのだが、この女はとても狡猾で、自分はただの親切心でやっているだけで、他にはなんの意図もないと外で言っているのだ。周りだって馬鹿ではないから彼女の意図することをちゃんと見抜いているが、〝親切心〟を声高に主張されては表立って排除できないのだった。怜士は、彼女の目的が自分であることをわかっていたので、とにかく関わるのをやめていた。准にしても、とくに彼女たち母娘を特別に思っている訳ではないようだったので、懐柔されることはないだろうと手を回していなかった。そうしたら、いつの間にかこんな事になっていたなんて…。怜士は、葵がまるでここの女主人であるかのように振る舞う様を今日初めて目にして、今にも怒鳴りつけてしまいそうだった。「井上ー」執事を呼び寄せ、加護母娘を別室に連れて行くよう指示した。「怜士さん!その女を今すぐ追い出して!」執事に促されながらもそう叫ぶ葵に、一瞬にして怜士の額に太い血管が浮き出てきた。「怜士さん!」「今すぐその口を閉じろ!!」「!」葵はいきなりの怜士の怒鳴り声に身を竦めた。美月は驚いて息を止めた。そして准は、そんな父親をただ淡々と見つめていただけだった。彼は葵が現れた瞬間から、〝無〟になっていた。何度も言ったのだ。母親がいなく
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊹本性Ⅰ

怜士は、今日こそ決着をつけなければならないと思った。美月には、とりあえず今日のレッスンはしなくても良いと伝え、「もし良ければ少しの間、准をみていてもらえないか…?」とお願いした。そうして彼は、加護母娘がいる部屋へと向かった。行きがけに加護家当主であり、加護葵の夫である加護彰(かごあきら)を呼ぶように指示し、足早にこの事態を解決すべく動き出した。そう。加護葵には夫がいたのだ。死別した訳でも、離婚した訳でもない。彼女はれっきとした〝加護家当主夫人〟なのだ。それがなぜこんな事になっているのか…。実際のところ、怜士にもよくわかっていない。ただ何度加護家に連絡を入れ、夫人と娘をどうにかしろと言っても、「自分にはどうにもできない」の一点張りなのだった。現当主が、葵に婿入りした男だというのは知っている。だが、だからといって、こうも好き勝手にさせていていいのか?葵が先代当主の娘とはいえ、今は自分が当主なのだ。ガツンと強く言ってやっても良さそうなものじゃないか?怜士はこの男と話す度に理解できなくて、苛ついた。だが、今日という今日はもう許さない。確実に仕留めてやる!バンッ!怜士は勢い良くドアを開けた。「怜士さんっ」「パパ!」それを聞いた瞬間、怜士からは凍てつく氷のような冷気が漂ってくるようだった。彼はソファに座ろうとしていたのをピタリと止めて、目の前に座る母娘をギロリと睨みつけた。「なんだって?」「……」葵はまずい…というような顔をしたが、碧はキョトンとしていた。「誰がそんな風に呼ぶのを許した?」「え、パパでしょ?」子どもとは実に無邪気なものだ。彼女は、自分に実の父親がいることを承知の上で、まったく赤の他人である自分に対して、あろうことか「パパ」などと言うのだ!怜士はギリギリと歯を食いしばり、この怒りをどこに持って行けばいいのか迷っていた。「二度と呼ぶな。俺はお前の父親ではない」「えぇ〜。でも、ママが言ってたよ?もうちょっとしたらおじさんがパパになって、准くんと姉弟になるって!」「碧!」葵が急いで娘の口を塞いだが、既に遅かった。怜士の顔はどす黒く変色し、その怒りは想像もできないほどだった。「れ、怜士さん……」怯えたように娘を抱きしめ怜士を見つめる葵の目に、涙が滲んできた。そこへ軽いノックの音と共に、この邸の執事と彼
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊺本性Ⅱ

「せ、責任…?」震えながらも問いかける葵を、怜士は視線だけで黙らせた。「お前に訊いてるんだ、当主殿?」その馬鹿にしたような口調に彰はぐっと拳を握り、だがすぐにそれを解いて言った。「全て決着をつけます」「ほぉ…?」怜士はまた煙を吐き出した。「やってみろ。中途半端は許さないぞ?」「わかってます……」彰はゴクリと唾を飲み、自分の妻に向き合った。そこには決然とした意思があり、急に葵は不安になった。「あなたー」言葉を続けることはできなかった。初めて夫に冷たく見据えられ、彼女の口を凍らせたのだ。「始めに言っておく。お前とは、今日をもって離婚だ。俺は加護家を出て行く。お前は好きにすればいい」「なんですって!?」葵は堪らず言い返す。「あんたみたいにうだつの上がらない男が一人になって、何ができるっていうのよ!」「……」「ずっとうちにおんぶに抱っこだったくせに!何が離婚よ!」息を荒げて怒鳴ってくる妻を、だが彰は皮肉げに見返した。「そんな俺に養われていたのは、どこの誰だ?」「ふん!なによ、偉そうに!小峰家から見捨てられたくせに!拾ってやったんだから、そんなの当たり前でしょ!?」葵の言葉に、彰の顔が一瞬にして険しくなった。彰は名門小峰家の嫡男で、将来を有望視されていた。大学を卒業後、すぐさま家の系列グループ会社に入り、経験を積んだところで本社で後継者教育に移っていた。そんな優れた存在だった彼は性格も穏やかで、女性関係も問題なく、輝かしい未来が約束されていると誰もが思っていた。だが名門家にはよくある話で、彼の父親は長いこと外に愛人を囲っていて、彰よりも年上の息子を一人作っていた。その愛人の子を密かにグループ会社に入れ、それなりの地位に就かせていたのだが、全てを隠されていたせいで彰は警戒もできず、気がついた時には横領の罪を着せられ、他にもセクハラやパワハラ、その他諸々の細かい罪を告発されて、遂には後継者の立場を追われた。もちろん、全て濡れ衣だった。だが最早どうにもならないほど偽の証拠を固められ、当時の小峰家当主であった父親からの信頼を失い、「警察に突き出さないだけ感謝しろっ」とまで言われて家を追い出された。そして途方に暮れていたところを、加護家当主だった葵の父親に拾われたのだ。当時は感謝した。誰もが自分を軽蔑して笑い者にしてい
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊻本性Ⅲ

彼女にはわかっていた。怜士は自分を愛していない。好意すら抱いていない。今ここで離婚なんかしても、彼は自分と付き合ったりしないだろう…。だって、恋愛は障害があってこそ燃えるものだから!葵はそう思い至り、夫に言った。「とにかく、離婚なんかしないわ。黙って帰りなさい」「……」彰は一瞬、真顔になってしまった。「まだわからないのか?それはお前が決めることじゃない。それに離婚届なら、ここに来る前にもう出したよ」は?〝もう出した〟ですって??なんでよ!そんなの知らないわよ!!「どういうこと?誰がサインしたのよ!?」食い下がる葵に、彼は呆れて言った。「本当に母娘揃って頭が悪いな。サインならお前がしたじゃないか?」「嘘よ!!」「嘘なものか。忘れたのか?それとも惚けてるのか?お前はこの10年間、毎年俺の誕生日に、お前のサイン入りの離婚届をプレゼントだと称して贈ってきてたじゃないか?」「……」呆れたようにため息をつかれて、思い出した。というか、そんなつもりはなかった。彼女は確かに毎年、綺麗にラッピングした箱にサイン入りの離婚届を丁寧に折りたたんで入れて、「プレゼントよ」と言って彰に渡していた。でもそれは本当に離婚したかった訳じゃなく、自分に対していつも距離を取っている彰に、加護家を出て行くことなどできない彼の立場を、思い出させてやる為に渡していただけなのだ。「そんなの…そんなの、無効よ!」「ハハッ!心配するな。正式に受理されたよ」「!」葵はそれを聞いて、もう取り返しがきかないのだと理解し、がっくりと項垂れた。そしてそんな母親をみて、碧は言った。「どうしたの?パパと離婚するの?」そういった後、返事もしない母親が落ち込んでいると思ったのか、彼女は元気づける様にまた言った。「いいじゃん!准くんのパパと結婚するんでしょう?おじさんはイケメンだし、うちよりお金持ちだし、言うことなしだって、ママ言ってたじゃん!こっちのパパなんてバイバイしよう!」「碧……」「……」「……」母娘の会話に、怜士も彰も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。少しして、怜士は使用人を何名か呼び、葵と碧を顎で指して言った。「こいつらを追い出せ。二度とうちの敷居を跨がせるな」「かしこまりました」そうして、命令に忠実な彼らによって母娘は連れて行かれ、部屋に残ったのは
last updateLast Updated : 2025-07-16
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㊼恐怖

怜士がリビングに戻ると、そこでは弟の聖人とその恋人、如月尚が仲良くソファに隣合って座り、お茶を飲みながら談笑していた。そして、美月はピアノの前で息子の准と何やら話をして、ふふふっ…と微笑いあっていた。その景色がとても穏やかで、先ほどまでの加護母娘に対して抱いていた不快感の残滓を拭い去ってくれた。「あ、パパ!」怜士に気づいた准がピアノの前から離れ、タタタッと走り寄って来た。胸の中に飛び込んで来る息子を優しく受け止めた怜士が、美月にその顔を向けて言った。「先生、ありがとうございました。先ほどの事は解決しましたので、講師は続けていただけますか?」「あ、はい…。」本当に?そんな諦めが良い人には見えなかったけど…。美月は不安だった。奈月を見てきたから、執着心の強い人の怖さはよくわかっている。特に前世で、奈月は自分の手を壊した。とても残酷な方法で…。その時のことを思い出して、美月はフルッと微かに震えた。「?どうかしましたか?」そう問われても、頭の中でその時のことが再生されていた美月には、答えることができなかった。「先生?」再び問われるが、恐怖に囚われた美月には何も聞こえていない。怖い…。奈月には、いつもいつも会う度に睨みつけられていた。始めは何故なのかわからなかった。でも、お節介な周りの奥さまたちが、彼女と自分の夫のあやしい関係を教えてくれた。信じられなくて、普通に希純に言ってしまった。笑い話としてー。でも…。本当だった。彼は自分が、「あなたって、いつから奈月と恋人になったの?」と可笑しそうに言っただけで、その眉をギュウッと思い切り顰め、軽蔑の視線を向けてきた。「頭、可怪しいんじゃないか?」彼の言った言葉が忘れられない。「何言ってるんだ」とか「バカバカしい」じゃなく、「頭、可怪しいんじゃないか」…。その時の彼の目に、ほんの僅か動揺が走ったのを見逃さなかった。ああ…本当なんだ……。それで十分だった。「先生っ。……美月さん!」「!」怜士が彼女の肩を掴み、強い声で名前を呼ぶと、ハッと意識が戻ったのがわかった。「あ……」美月の顔は青褪め、オロオロと視線を彷徨わせた。「わかりますか?どこか、具合でも悪いのですか?」「あ、はい……あ、いえ!いいえ!大丈夫です…」慌てたように後退りする美月に、怜士は心配げに眉を寄せ、言った
last updateLast Updated : 2025-07-20
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㊽回想

怜士からの食事の誘いを断って、美月と尚は聖人に送られて真田邸を後にした。後部座席に座る2人を時折バックミラーで確認し、聖人はふむ…と考え込んだ。先ほどの美月の様子が、彼には理解できなかったのだ。確かに聞いていた加護家夫人の葵とその娘の碧は、厄介な母娘だった。いつでもどこでも現れて、どんなに注意しても、迷惑だと告げても、まるで聞こえていないかのように振る舞って、いっそのこと無視をしていたら、いつの間にか自分たちがいずれ真田家に入ると周りに思わせるような言動を繰り返すようになっていた。それに対して、「きちんと対応すべきだ」と兄である怜士には口が酸っぱくなるほど忠告してきたが、結局のところ今日のように、最早勝手に邸に上がり込んで主人のように振る舞うまでになっていたとは…。聖人は芸能界で生きている人間で、嫉妬や羨望がどれだけ人を身勝手にしていくか、これまでにも散々見てきた。だからあの母親が、兄に好意以上のものを持っているのを見抜いた瞬間、軽く牽制しておいた。「兄は亡くなった義姉を深く愛していたから、もう再婚するつもりはないらしい。まぁ、もう後継ぎもいることだし、新たに相手を見つける必要もないようだ」と。だがあの女は、それを逆に好機と捉えたようだった。つまり、ライバルはいないということね。そんな風にぶつぶつと呟いているのを聞いた時は、呆れてものも言えなかった。この女は怜士を全然理解してないな…。彼の兄は一見紳士風だが、その本質は誰よりも冷たい自分本位な人間だ。だから彼女のような女に惑わされることなど、絶対にない。例外があるとしたら、亡くなった妻とその子、准だけだった。彼女が亡くなった時、それはもう、家族であろうと近づくことができないほど陰鬱な状態で、本来なら見過ごしてもらえるような些細なミスでさえ、彼は容赦なく処断した。誰も近づけない。そんな状況が続く中、ある日准がたどたどしく弾いたピアノの音色が、彼の心の闇を静かに払ったのだった。それは、亡くなった義姉が少しずつ少しずつ彼に教えていた曲だった。それを聴いた怜士がハッとしたように顔を上げ、この間父親に顧みられず寂しい想いをしていた息子が、目に涙を溜めながら黙って彼を見つめていた事を知った。彼は、ピアノの前に座って小さな手でゆっくりと曲を弾いている息子に歩み寄り、そしてぎゅっと抱きしめた
last updateLast Updated : 2025-07-20
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㊾酔っ払い

「今日はあなたの所に泊めてね」そう言いながらウィンクする親友の尚に、美月は微笑んで頷いた。「いいわよ。お酒、飲む?」「ふふっ…もちろんよ!」そう言って、尚は運転している聖人に、美月の泊まっているホテルへと送ってもらうよう告げた。「了解。食事は?レストランで?それとも部屋で?」「当然、部屋よ。お酒飲むのよ?その方がいいでしょ?」いたずらっぽくそう言う尚に、聖人は苦笑して「そうだね」と頷いた。どうやら彼女には、何かしらの酒癖があるらしい…。それが何なのかわからないが、美月は久しぶりに、尚と羽目を外して騒いでみてもいいかもしれないな…と思った。彼女は彼女で、晴らしたい鬱憤があったのだ。昨夜ー。ピロン中津からメッセージが届いた。それにはこうあった。『奥さま、別荘とウェディングドレスを取り戻しました。彼女から鍵を取り戻し、内装も元に戻す手配をしました。SNSの投稿も全て削除させて、アカウントも消しました。社長、頑張りましたよ!』………。だから何?そう思っただけだった。だから、その通りに返信した。「やっぱり男は駄目ね。全然、分かってないんだから」そうため息をつくと、尚もうんうんと頷いてグラスに口をつけた。美月は尚に、希純と奈月がどうやら浮気をしていること、奈月から希純が好きだと告げられたこと、結婚時に貰ったS市の別荘を彼が彼女にあげてしまったこと、自分のウェディングドレスも彼女の手に渡ってしまったこと、を話していた。それを聞いた尚は、はっきりその場で「離婚しなさい」と言ってきた。もちろんそのつもりだった美月は大きく頷いたが、意外にも希純がそれを渋って、なかなか話が前に進まない。それどころか、奈月との関係を清算しようとしている。「バカじゃないの!?」ちょっとだけ酔っ払った美月は、ドンッとテーブルを殴った。尚は焦った。「ちょ、ちょっと!ケガしたらどうするの!?」そう言われても、美月はフンッと嗤っただけだった。「もっと痛い目に遭ったんだから、どうってことないわよ!」「…?」痛い目?どういうこと?まさか、暴力でも振るわれてたの!?尚がキリリと眉を跳ね上げると、美月は今度はくすくすと笑い出した。「あぁ~、楽し!今度はあいつが苦しむ番よっ。別れたくないですって?ふふっ、絶対に別れてやるわ!!」「……」どうやら、酒癖が悪
last updateLast Updated : 2025-07-20
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㊿誓い

翌朝早くー「おはようっ」「……」爽やかな声に起こされて、如月尚はボーっとベッドに座っていた。昨夜は確か…。尚の脳裏に酔っ払ってはしゃぐ美月と、希純に怒って喚く美月、それから幸せそうに、「自由っていいわ〜」と言いながらソファにだらしなく倒れ込む美月…と様々な親友の姿が蘇った。完全に酔っ払いだった。なのに…。「なんで、そんなに爽やかなの??」彼女にはお酒の神でも憑いてるのか?あんなに呑んだのに、こんなに爽やかなんて…おかしいじゃないの!尚は頭痛を抑えるようにこめかみを指で押し、グリグリと揉んでいた。「はい、お水。シャワー浴びる?」その問いにもウンウンとしか答えられない。尚は差し出された冷たい水を口に含み、昨夜の酔いなど微塵も見せない親友を呆れたように見つめた。「お酒、強いのね」「ふふっ、そうみたいっ」楽しげに振り向いて笑う彼女は、なんだかとても可愛らしかった。「今日は?准くんの所は何時に行くの?」その質問には「ん〜、14時から2時間くらいレッスンなの。だから、その1時間くらい前にはここを出るわ」と言った。「どうやって行くの?タクシー?」そうなら、尚は彼女の為に運転手付きの車を手配しようと思った。「ううん、バスで行こうかなってー」「バス!!??」衝撃で言葉が出ない。絶対、乗ったことないでしょ!?無理無理!そんなの、私が許さない!「乗り方知らないでしょ?」そう言うと、彼女は首を傾げて「なんとかなるんじゃない?」と微笑った。ならないから!!尚はお嬢さま育ちの美月が新しい体験にワクワクしているのを悟って、ため息をついた。「それはまた、今度ね。私が一緒に乗ってあげる。…今日は車を手配するわ」頭を抱えてそう言う尚に、美月も素直に「わかった」と言った。それから2人は朝食をルームサービスで頼み、午前中をゆっくりと過ごしたのだった。「そうだ、忘れるところだったわ。ねぇ、美月。あなた、まさかとは思うけど、佐倉希純から暴力なんか受けてないわよね?」そう訊くと、彼女は驚いたように目を見開いて、即座に否定した。「いくらなんでも、そんな人じゃあないわ」「本当に?」と訊くと、「本当」と頷かれた。「でもあなた、昨日私が〝手をケガするわよ〟て言ったら〝もっと痛い目に遭ったからどうってことない〟て言ったのよ?」「……」美月は少
last updateLast Updated : 2025-07-20
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