All Chapters of 花の国の女王様は、『竜の子』な義弟に恋してる ~小さな思いが実るまでの八年間~: Chapter 21 - Chapter 30

51 Chapters

21.遺してくれたもの

 老臣はジゼルを中へ促す。「どうぞお入りください」 この扉の向こうに父はもういない。その事実がジゼルの胸を痛ませ、足をすくませる。 だが、次期女王となる者が毅然としていなくてどうするのだ。 そう自分に言い聞かせたジゼルはぐっと顔を上げて老臣が開いた扉の中に足を踏み入れ、そして、息をのんだ。 部屋の中央には、トルソーに着付けられた一着のドレスがあった。「これ、は?」 かすれた声でジゼルが問うと、老臣が答える。「ピエール陛下のご命令でお作りしていたドレスです」「……お父様が?」「はい。今年のジゼル様の誕生日祝いにと用意しておられました。どうかお近くでご覧になってください」 声に促されてジゼルは震える足でドレスに歩み寄る。 滑らかな光沢をもつアイボリーのドレスには、黄金の糸を使って様々な花がたくさん刺繍されている。おかげで朝の日差しを受け、ドレスはほんのりと輝いて見えた。 開きが少なめの胸元は角形をしており、上半身はきゅっと締まったデザインだ。代わりとでもいうように腰から下はゆるやかに広がっており、長いスカートは優しいカーブを描いていた。手首まである袖口もゆったりと開いており、全体的にたっぷりと布が使われている。これを作るにはずいぶんと費用がかかっただろう。 今までだってピエールはジゼルの誕生日に贈り物をくれた。しかし今回の贈り物は今までとは違う。十六歳の誕生日を祝うために用意したと考えるにはあまりにも高価すぎる。「……このドレスは本当に、誕生日の贈り物?」「そのように仰せでした」 老臣は淡々と告げているつもりのようだが、奥には拭いきれない寂寥感がある。――それでジゼルの疑問は確信になった。「……そう。お父様が……」 もう一歩近寄るとドレスに刺繍された花々の詳細が見えた。春から冬まですべての季節のものが選ばれ、どれ一つとして同じ花はない。そしてドレスの一番上部分、右胸側には薔薇の花が、左胸側に菜の花があった。菜の花を見たときにはジゼルの胸の奥が少し痛んだが、今のジゼルにとってそれは些細なものだった。 扉の辺りで誰かが話をしている。 その声が誰のものなのかは振り返らなくても分かった。 扉が閉まり、他の人物の気配が遠のくと同時にジゼルは呟く。「お父様が用意してくださっていたの」 まだ低くはなりきらない声が返事をする。
last updateLast Updated : 2025-06-13
Read more

22.新たな門出に輝きと涙を

 病臥に伏したピエールは今回、どの段階かで自分の死を理解した。今まで幾度も病に倒れた彼にしか分からない予兆があったのだろう、だからあらかじめドレスを用意しておいてくれた。もしかすると父は娘が戴冠式で何も新調したがらないことまで分かっていたのかもしれない。 新しいものを用意するのは、古いものを忘れるようで怖かった。 いなくなってしまった父を悼むのではなく、喜んでいるようで憚られた。 ジゼルが自身の戴冠式に新しいものを何も使いたくなかったのはそのためだ。 視界がゆらゆらと揺れる。輝くドレスが涙の泉に沈む。まるでジゼル自身が水の中にいるような気分だ。「おとうさま! おとうさまああぁぁ!」 頭の芯がじんと痺れ、どこが地面だか分からなくなる。自分が倒れそうになっていたのだと分かったのは、思いのほか逞しい腕がジゼルを抱きしめ、ゆっくりと座らせてくれたからだ。ジゼルはそのまま相手の胸に顔をつけて子どものように号哭する。 ライナーの方からジゼルに触れてくれることは少ない。触れるのが嫌だというわけでなく、触れるのに慣れてないようで、ライナーからはいつも「どのタイミングでどう触れたら良いのか分からない」といった迷いや躊躇いを受けるのだ。 しかし今の彼は少々ぎこちないながらもジゼルの背を優しく撫でてくれていた。その手のあたたかさが、悲しみの中に深く沈んでしいまいそうなジゼルをぎりぎりの場所でつなぎとめてくれていた。 どれほどそうしていただろうか。ジゼルの耳元で密やかな声がする。「義父様は遠い所へ旅立たれてしまわれました。でも、僕がいます。僕が義姉様の近くにいます。ずっとずっと、近くにいます。僕がこの国と義姉様をお支えいたします」 そうして彼は「僕が近くにいます」と何度も繰り返す。ジゼルが泣きぬれた瞼を薄く開くと、彼の胸元で輝く黄金の菜の花が目に入った。 まだ泣き声しか出せないジゼルは胸の中だけで「嘘つき」と呟く。 嘘つき、嘘つき。 心は『菜の花の女性』のもとにあるくせに、よくも私の近くにいるなんて言えるわねと。 何度も「嘘つき」と繰り返すうち、号泣が嗚咽に変わり、呼吸が落ち着く。 そしてわななく唇を開き、ジゼルは細く声を出した。「……私の近くに、いて」 嘘でもいいと思った。誰かを想っているライナーでも構わないと思った。 寂しさでいっぱいになっている
last updateLast Updated : 2025-06-14
Read more

23.戴冠式の日

 ジゼルの戴冠式が間近となった。 普段は宝物庫にしまわれている宝冠や王笏などが磨きに出され、大聖堂が華やかに飾られる。 初夏のこの時期、用意される花々は冬の葬儀とはまた違うものばかりであり、そのせいか同じ場所であってもあの悲しい空気は微塵も感じさせない。 諸外国からも式に列席する賓客が続々とやってきた。今回はその中の一人にジゼルの婚約者候補となる王子がいる。 相手国とは書面や肖像画のやりとりを何度もすませてきた。今回の式の前にジゼルと王子が顔合わせを行い、なんの問題もなければジゼルの正式な即位に続いて婚約も公になる予定だった。 王子はジゼルの一つ年下の十五歳。 絵で見る王子は細めの体つきと、利発そうな顔立ちをしている。 果たして実際に会う王子はどのような人物だろうかと皆が噂しあっていた。 しかし当の国から代表としてやって来た人物は恰幅の良い老齢の男性で、王子の風貌とは似ても似つかない。 これはどういうことなのかと困惑するジゼルや花の国の高官たちに向けて、遠国から来た男性は深々と頭を下げる。「お初にお目にかかります。私はかの国で宰相の役職をいただいている者にございます」「事前の連絡と違いますわね。王子はどうなさいましたの?」「それが……」 宰相が語った内容はジゼルたちを唖然とさせるものだった。 なんとジゼルの婚約者候補となっていた第三王子は、帝国の貴族令嬢と婚約をしたというのだ。「女王陛下をはじめ、花の国の皆様方におかれましてはご不快に思われるであろうこと、重々承知しております。ですが帝国側から強く『婚約を』と言われた我々の立場も汲んでいただき、どうかお許しを願えませんでしょうか……!」「何を勝手なことを!」「それで道理が通るとお思いか!」「おやめなさいな」 色めき立つ高官たちを片手を上げて制止したジゼルは、宰相の後ろ頭を見ながら小さく息を吐く。 確かに、ジゼルやジゼルの国が蔑ろにされたと怒りを覚えて良い話だ。 しかし一方で、相手がこの大陸で最大の版図を誇る帝国の高位女性であるのなら仕方ないかもしれないと考えてしまう。 何しろ王子の国だって大きいわけではないのだ。あの強大な帝国にはどう足掻いても敵わない。帝国側から「どうしても」と持ち掛けられた縁談を蹴って機嫌を損ねさせてしまうのは怖いだろう。 ――それによく考えずとも、
last updateLast Updated : 2025-06-15
Read more

24.婚約の行方

 この緊張と重苦しさをはらむこの空気の中でも堂々としている宰相はさすがなものだが、完全に冷静でいられているわけではないようだ。彼の首筋に汗が伝っているのをジゼルは見逃さなかった。「……お許しいただけるのですか、女王陛下」「ええ。まだ正式な婚約を交わす前でしたから、私たちの話は公になっておりませんもの。このような事態が起きても仕方ありませんわ」 宰相は頭をあげた。ジゼルを見つめる彼の目に一瞬の輝きが宿る。そのタイミングでジゼルは口元を扇で隠し、周囲を見回した。「――ですが当方としても、ただ黙ってお話を飲むわけには……ね?」「もちろんです。実は今回の来訪にあたって私は、我が国の王より交易に関するすべての事柄を一任されてまいりました。女王陛下の輝かしき戴冠式の後にはぜひ、そのあたりのお話をさせてください」「互いにとって良い話ができると期待しておりますわ」 扇を取り払ったジゼルがにっこり笑うと、眩しいものを見る目つきになった宰相は肩の力を抜き、もう一度深く頭を下げる。もしかすると彼は、自国へ戻れない覚悟を持ってこの国へ来たのかもしれない。(そんなこと、するものですか) 相手国は今回の件で花の国に借りを作った。血縁が結べなかったとしても、代わりとなる繋がりを手に入れたのだ。これは今後の花の国にとって大きな力となる。 それに父の部屋でライナーに抱きしめられたとき、ジゼルは自分の心をはっきりと理解した。(やはり私は、ライナーが好き。ライナー以外の男性には触れたくないし、触れられたくないの) だからこそ今回の破談はジゼルにとっても「助かった」といえるものだった。 ライナーがジゼルを見てくれることはない。彼の心には既に別の相手がいるのだから。 ジゼルは、ライナーが自身の象徴花とするほどに想っている『菜の花の女性』のことを心から羨ましく思う。そこまで愛されているのだから『菜の花の女性』だってきっと、ライナーのことを好きになる。いずれ二人は結ばれ、幸せな生を歩むことになるだろう。 今回の帝国貴族の令嬢も同様だ。 第三王子へ熱心に婚約を申し入れて叶った帝国の令嬢はきっと幸せになれる。彼女はずいぶんと深く王子のことを想っていたようだから、ぜひとも幸せになってほしいとジゼルは願った。「貴国の王子と帝国の令嬢は、どこでお知り合いになりましたの?」「それが、互
last updateLast Updated : 2025-06-16
Read more

25.ある日の夜会で

 ジゼルの戴冠式は華々しく終わった。 ピエールの遺したドレスはジゼルによく似合い、おかげで『年若き美しい女王』のことはあちこちでひっきりなしに語られた。 ジゼルが独り身であることを知る周辺国からは多くの縁談が持ち込まれたが、ジゼルはどの話も保留にした。 臣下たちには「父の喪が明けるまで余計なことは考えたくないから」と説明したが、それは嘘だ。ジゼルは最初から、時機を見てすべてを断るつもりでいる。 ジゼルは、ライナー以外には触れられたくない自分を自覚した。 だからジゼルは誰とも結婚はしない。 卑怯だと分かっていても、あの王子との婚約不成立を盾にして最期の時まで独り身を貫き通す。 そうして次代の王にはライナーを指名するつもりだ。ライナーには菜の花の女性がいる。彼ならばきっとこの国を後へ繋げてくれるだろう。そのように決意したおかげでジゼルはライナーと話ができるようになった。 もともとジゼルがライナーを避けるようになったのは、彼に対する恋心をジゼルがどうすれば良いのか分からなかったせいでもある。 恋を諦めてしまえばライナーの前で姉や女王の仮面をかぶるのは容易なことだったし、態度を軟化させたジゼルに対し、ライナーもわだかまりなく元通りに接してくれた。 おかげで二人の関係は緩やかに改善へと向かいはじめた。 ジゼルは「これなら全ては思い描いた通りに運ぶはず」と安堵したのだが、それも長くは続かなかった。 時が経つにつれて、ライナーが少しばかり妙な態度を見せるようになってきたのだ。 最初にジゼルが違和感を覚えたのは戴冠式の翌年。 先王ピエールの喪明けの意味も込めて『女王ジゼル』の名のもとに初めて王城で夜会を開催したときのことだった。 集まった中の一人に遠い親戚筋の娘がいた。 彼女はジゼルに挨拶の言葉を述べた後、何度か言いにくそうな様子を見せ、思い切ったように自身が婚約したこと切り出した。 彼女の両親に加え、周りの人々がさっと緊張した瞬間だ。 ジゼルの婚約にまつわる話は公にはされていなかったが、完全に内密だったわけでもない。「ここだけの話」として貴族たちの中で広まっていたのをジゼルは知っている。 だが、ジゼルは自身が婚約できなくて良かったと思っているのだからこの娘が婚約したと聞いても黒い気持ちになることはない。 心からの笑顔と共に「おめでとう」の
last updateLast Updated : 2025-06-17
Read more

26.女王のはかりごと

 そのときジゼルはふと「これは好機ではないか」と考えた。内心でほくそ笑み、一歩前に進み出て、初声で少し声を張り上げる。「勧告、ありがたく頂戴いたしますわ」 大きめの声を出したのは周囲にも聞かせるためだ。おかげでこの騒ぎに気付いていなかった者たちもジゼルの方を振り返った。「実を申しますと私は昨年、ある国の王子と婚約するはずでした。しかしお相手側から突然、私との婚約をなかったことにして欲しいと言われてしまったのです」 ジゼルはしおらしく視線をに向かせる。年代物の石の床に欠けた部分があるのを見つけてそっと靴裏で隠した。大きくならないうちに修復した方がいいだろう。「無理もない話です。当時の我が国は偉大なる王ピエールを失ったばかり。しかもその後に即位したのは若い女王です。国もどう転ぶか分からず、大事な王子を憂いなく送り出すには不安な状況ですから、翻意するのも当然でしょう。これもすべては私が未熟であるがゆえのこと。ですから私はまずこの国をしっかりさせるところから始めようと決め、結婚の話は後回しに……」 そこまで言って、ジゼルは大きく息を吐く。「……いいえ、違いますね。これらは言い訳にすぎません。私はただ、怖くてたまらないだけなのです」「な、なにが怖いと仰るのですかな?」「また直前で婚約を断られてしまうかもしれないことが、です」 うつむいたままジゼルは先日、父の部屋でドレスを見たときのことを思い出す。容易に目頭が熱くなった。 そうして目に涙が十分たまったところで顔を上げると、目の前の男性だけでなく、近くにいる人たちも息をのむのが分かった。夜会の前には蝋燭の本数についてずいぶん悩んだが、思い切って多めにしておいて良かったと思う。「……王子はとても……素敵な方だったのに……」 話の途中で良い具合に涙が頬を伝う。 『女王陛下の涙』はジゼルの思惑通りに人々を動かしたようだ。 周囲の人々、中でも女性の大多数が一斉にジゼルへ同情的な視線を向ける。 一方で事態の発端となった男性は、自分の発言が失敗だったことに気づいたらしい。赤かった顔を青くして、挨拶もそこそこに場を立ち去る。 心の中で彼に謝罪の言葉を述べながらハンカチに涙を吸い取らせ、“悲劇の女王”は無理にも――と、見えるように少々わざとらしく――顔に笑みを張り付ける。「申し訳ありません、せっかくの楽しい
last updateLast Updated : 2025-06-18
Read more

27.二人の距離感

 遠くにいるジゼルにも分かるくらいだから、周囲の人々もライナーの異変には気づいて声を掛けている。 しかし当のライナーは周囲から掛けられる声に反応することなく、ただ立ち尽くすばかりだった。 もしや、どこか具合でも悪いのだろうか。不安になったジゼルはそちらへ歩を進める。ライナーを取り囲む幾人かがジゼルに気が付いて間を開けてくれた。「ライナー」 ジゼルが声をかけるとライナーはびくりと身を震わせ、虚ろだった焦点を合わせてジゼルを見る。「あ……義姉様」「顔色が良くないわ。どうしたの?」 ライナーの背は今やジゼルとほぼ変わらない高さだ。腰をかがめることなく黄金の瞳を覗き込むと、ライナーは慌てたように首を横に振った。「なんでもありません。平気です」「本当に? 無理はしていない?」「していません。大丈夫です」 確かにライナーは今まで病気一つしたことがない。しかしこの王国は先年、国王を病気で亡くしたばかりなのだ。周囲に不安の種を撒くわけにはいかない。ライナーもそれに気づいたのだろう、困ったように笑って口を開く。「少し思い出したことがあっただけなんです。それがちょっと……ええと、もしかして失敗したんじゃないかなって、不安になってしまって」「そう? 本当に平気なのね?」「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」 ライナーは深々と頭を下げた。 ――おそらくあれが始まりだった。 以降ライナーはジゼルを見るとき、困ったような、気遣うような、そんな様子を見せるようになった。 初めはジゼルも特に気に留めていなかったのだが、ジゼルを見るライナーの瞳は年を経るごとに憂いを増していく。特に、ジゼルの結婚に関する話が持ち上がった後はふさぎ込む様子を見せるようになっていた。 ここまでくればジゼルもなんとなく察する。(結婚に関して何か思うことがあるのね。私のかしら? それとも……ライナー自身の?) ジゼルの元にはライナーの縁談も多く持ち込まれている。 これに対しジゼルはすべての縁談を断っていた。理由を聞かれたとき、ジゼルはいつもこう答えた。「結婚相手はライナー本人に決めさせるわ」 周囲はその言葉を聞いてしばし過去を見る目をした後に引きさがった。 おそらく父のピエールも、ジゼルに持ち込まれた縁談に対して同じような理由で断っていたのだろう。 だが、ライナーは
last updateLast Updated : 2025-06-19
Read more

28.義弟の問いかけ

 ジゼルの二十二回目の誕生日祝いも盛大に執り行われた。あと二か月で誕生日を迎えるライナーとは、一時的に五歳差になっている。 生前のピエールがジゼルに言った通り、ライナーは騎士になっていた。十七歳という若い年齢ながら花の国随一の剣の腕前を持っているライナーは、今や白い騎士服を纏ってジゼルの近くにいることが多い。もちろん、護衛としてだ。「そういえばライナーは、どうして騎士になりたかったの?」 寒さが緩んできたこの時期の中でも特に暖かい日、ジゼルはライナーと共に父の庭園を歩きながら尋ねてみた。 ライナーはもう、どこから見ても立派な男性だ。背も高く、肩幅も広い。声も年齢相応の低さと落ち着きを持っており、どこにも昔の頃の面影は無いように見える。しかし、「目標があるんです」 言って整った顔に笑みを浮かべる彼の瞳の奥には子どもの頃と同じ純真さがあった。その変わらない光がジゼルは嬉しい。「どんな目標?」「秘密です。……今は、まだ」 ライナーの彫りの深い顔に影が落ちる。憂悶するかのような表情には、今まで見たことがない奇妙な色気があった。 鼓動が早くなり、頬に血が上るのが分かって、扇子で顔を隠したジゼルは薔薇を見るふりをして顔を背ける。ライナーから奇妙に思われなかったかどうか不安になったが、義弟は義姉の変化には気付かなかったらしい。不自然な行動に言及することなく、小さな声で尋ねてくる。「……義姉様。以前からお聞きしたかったことがあるんです」 その声は真っすぐに聞こえてくるものではない気がする。不思議に思うジゼルが振り返り、顔の前から扇子を取り払うと、ライナーはまるで許しを請うかのように深く腰を曲げていた。 なぜこんな姿勢なのか不思議に思うし、表情が見えないのも少し不安だ。顔を上げるように言おうと思ったが、今しがたまで互いに顔を見て話していたのだから、彼は彼で理由があってこんな格好をしているのだろう。 ジゼルは仕方なく彼の頭頂部に向かって問う。「何かしら?」「義姉様は、婚約者候補だった王子を好いておられたのですか? あの王子が忘れられないから、今もお一人でいらっしゃるのですか?」 質問の内容は唐突だったがジゼルに驚きはなかった。むしろ「やっと聞く気になったのか」という奇妙な安堵が心を支配したのは、ライナーがずっとそれを気にしていたのだとジ
last updateLast Updated : 2025-06-20
Read more

29.思いもよらない申し出

 ジゼルの言葉は本当だ。 花の国と相手国との力関係や未来へ向けての付き合いを考えたうえで、自分と年齢と合いそうな若者を幾人か探し、その中で決めたのがあの王子だった。「私が婚約を彼に決めた最大の理由はね、彼の為人だったの。『朗らかで、決断力がある』という性格だそうで、その部分は女王の隣に立つとき相応しいだろうと思ったわ」 そこまで言ってジゼルはくすりと笑う。「だけど実際に王位についてみたら少し考え方が変わってきたの。もしあの王子と結婚していたら、今ごろ私は後悔していたかもしれないって」 この花の国の決断は女王であるジゼルが下すものだ。もしも『決断力のある』という王配がジゼルの決めたことに対して横から口を出してきたら、国には余計な混乱が起きたかもしれない。「あの王子はね、今は夫人になった帝国の令嬢と一緒に、自国で幸せに暮らしておられるそうよ。結果だけを見るなら、私たちが婚約をしなかったのは互いに良いことだったと思っているわ」 今まで誰にも言わなかった胸の内を曝け出して心が楽になった気がする。晴れやかな気分でくすくすと笑うジゼルだったが、頭を下げたままのライナーからは返事はない。「……ライナー?」 名を呼ぶと、彼はゆっくりと頭を上げてジゼルを見た。 女王になってからというもの、ジゼルは王女だったころとは比較にならないほどの人と会ってきた。他国の老獪な要人とも駆け引きを繰り返してかなり度胸もついたと思う。 しかし目の前にいるこの年下の青年は今、そんなジゼルをたじろがせるほどの強い意思を瞳の奥に宿していた。「義姉様。お願いがあります」 声は静かだったが、瞳と同様に強い力が籠められている。 ライナーは右手を胸に当て、再び深々と頭を下げた。「どうか僕に、帝国へ行く許可をいただけませんか」 それは思いもよらない衝撃的な言葉だった。 動けないジゼルの代わりをするように手から扇子が落ちる。その音を聞き、ライナーが身じろぎをした。「――すみません。言葉が足りませんでしたね」 庭園の石畳に片膝をついたライナーは落ちた扇子を取り、右手で軽く土を払う。「行くのはあくまで一時的なものです。できる限り急ぎますので、二か月くらいでこの国へ帰ってくるつもりです」「あ、ああ……びっくりしたわ。帝国へ戻ったきり、もう戻ってこないのかと思った」「
last updateLast Updated : 2025-06-21
Read more

30.約束を守るためには

 あの言葉がジゼルをどれほど慰めてくれたか、ライナーにはきっと分からない。その思いを籠めて強く口にすると、顔を上げたライナーは不敵な表情で笑う。 先ほどから義弟が見せる表情は知らないものばかりで、ジゼルの鼓動はとても忙しい。「僕だって絶対に忘れませんよ。――でも、良かった。約束はまだ有効ですね」 ライナーは片膝をついたままジゼルに扇子を差し出した。まるで何かの儀式のように。 彼の捧げ持つ扇子を取ろうとジゼルが手を伸ばした時、ライナーは続けて口を開く。「僕は義姉様のお傍にいます。約束は必ず守ります。ですがそのためには一度帝国へ戻って、会わなくてはならない相手がいるんです」 ジゼルはびくりと震えた。扇子を取る寸前で手が止まる。唇を噛み、ジゼルは心の中で呟いた。(……ついにこのときが来たのね) 帝国へ戻ったライナーが会う相手は、きっと『菜の花の女性』だ。 ライナーは花の国へ永住する前に、伴侶となる女性を帝国から連れてこようとしているに違いない。 ジゼルはいつも、無意識に逸らすライナーの胸元へ敢えて目を向ける。そこにはいつものように、金で出来た菜の花のピンがある。 見た途端にジゼルの胸は締め付けられるように苦しくなるが、この程度は子ども騙しでしかない。ライナーが帝国から戻ってきたら、ジゼルは彼が菜の花の女性と二人でいる姿を見つめなくてはならないのだ。 だが、ジゼルはライナーを次期国王に指名すると決めた。彼が後まで国を安らかにするためには妃の存在が不可欠だ。 自分に言い聞かせながらジゼルは無理にも笑い、ライナーから扇子を受け取る。「分かったわ、帝国へ行ってらっしゃい。出立はいつ頃になる予定?」「準備が出来次第、すぐにでも」 答えたライナーは立ち上がる。彼の表情はとても晴れやかだった。きっと第三王子との話をし終えたときのジゼルにも負けていないだろう。「義姉様にお尋ねする勇気がなくてここまで来てしまいましたが、今となってはもっと早く言い出せば良かったと後悔しています。今日はお話ができて本当に良かった」「私もよ」 ジゼルが答えるとライナーは意味ありげな笑みを浮かべた。「それでは準備がありますので、御前を失礼いたします」 そう言い残すとライナーはジゼルに背を向け、足取りも軽く去って行く。『菜の花の女性』に会えるのがよほど嬉しいのだろうと考え
last updateLast Updated : 2025-06-22
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status