All Chapters of 花の国の女王様は、『竜の子』な義弟に恋してる ~小さな思いが実るまでの八年間~: Chapter 31 - Chapter 40

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31.準備

 庭園で話したとおり、ライナーは本当に急いで用意を済ませたらしい。翌日には出立の準備を終えていて、彼はもう帝国へ向かうことになった。 よほど菜の花の女性に会いたいのだろうと思うとジゼルは寂しい気持ちになるが、対するライナーはとても嬉しいはずだ。彼の気分に水を差すわけにはいかない。ジゼルは無理にも微笑む。「ライナー、気をつけて行って来てね。誕生日のお祝いを用意して待っているわ」「ありがとうございます、義姉様。二か月の間お別れです……」 きゅっと手を握ったライナーは続けて何かを言おうとしたように見えた。しかし結局、小さく首を振って口をつぐむ。不思議に思い、ジゼルは小さく首をかしげた。「どうかしたの?」「いえ、何でもないんです。……すべては、帰ってから。必ず」 ジゼルに向けるような、自分に向けるかのような。 そんな調子で言って、馬に乗ったライナーはわずかな供を連れて帝国へ向かった。 彼が居なくなってみると城は急にがらんとしたようにジゼルには思えた。(……あの頃は、お父様がいらしたものね。でも……そう、これが一人きりになってしまうということ……) ライナーがこの城に来て約八年が経つ。ジゼルが完全に家族のいない状態になったのはこれが初めてだ。 ジゼルは改めてピエールの心遣いに感謝した。もしもピエールがライナーを呼び寄せてくれていなければジゼルはとっくに一人きりになっていて、悲しみと空虚さと寂しさとで押しつぶされていたに違いない。(だけど、平気よ。今回の寂しさは一時的なものだもの) ジゼルは二か月だけ待てばいい。そうすればライナーが『菜の花の女性』を連れてくる。二人が結婚し、子どもができれば、きっと城はたくさんの笑顔で溢れるだろう。(それは、いいことよ) そう自分に言い聞かせながら、ジゼルは『菜の花の女性』関連の準備を進めはじめた。 まずは彼女の部屋の準備だ。ライナーの部屋にほど近いこの部屋は眺めがいいが、しばらく使っていなかったのでいろいろと準備が必要になる。 召使たちを呼んだジゼルが清掃の指示を出すと、中の一人、侍女頭が進み出て頭を下げる。「かしこまりました、女王陛下。ところでこちらのお部屋は、どなたのためにご用意するのですか?」「ライナーの妃よ」 話を聞いた召使たちは一斉に息をのむ。 驚くのは無理もない、と思いながらジゼルは微
last updateLast Updated : 2025-06-23
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32.ついに迎えたその日

 ジゼルには「ライナーに喜んでもらえる」という自信があった。 なにしろ『菜の花の女性』に関する仕度は万全の状態にしてあるのだ。 部屋や調度は可能な限り綺麗にしたし、『菜の花の女性』近くに仕えさせるための優秀な人材も選んである。 花の国がどんなに頑張ろうとも、豊かな帝国から来る『菜の花の女性』にとってはすべてが貧弱に見えるかもしれないが、そのぶんは精一杯のもてなしで補ってみせるつもりでいた。(彼女の好みが分かれば、もっと良かったのだけれどね) 残念ながら、国をあけているあいだのライナーからは何の連絡もなかった。細やかな気遣いのできる彼にしては妙なことだが、帝国は遠いから仕方ない。 最終的にジゼルは『菜の花の女性』と話したときに好みを聞き、そのあとにできるかぎりの品を誂えようと考えていた。(さあ、ライナーが城に到着するまであとどのくらいかしら。ライナーと……『菜の花の女性』は) 胸の奥ではライナーへの想いを捨てきれない自分が未だ大きな声で泣いているけれど、この悲しみもいずれは癒えるはずだ。何十年もあとに迎えるであろう自分の最期のときには自分の選択を誇りに思って逝けるはず。 自室のジゼルが茜色をした空を見ながらそう考えたときだった。 廊下の方がにわかに慌ただしくなり、性急なノックの音がする。 もしかすると、と思いながら返事をすると、開かれた扉の向こうには召使たちがいた。想像以上に数が多いのは、ジゼルの侍女たちのほかに父の老臣やライナーの召使たちもいるせいだ。その中の一人、ジゼルの侍女頭が進み出て頭を下げる。彼女の表情には多大な焦りがあった。「女王陛下。実は」「|義姉様《ねえさま》」 艶のある低い声が侍女の声に被さったかと思うと、召使たちがさっと道を開ける。 現れたのは黒い髪の青年だった。 彼が着ているのはこの国の騎士服だ。肩章と縁取りの刺繍以外はシンプルな――と言えば聞こえはいいが、要は「あまり余裕のない小さな国が、できるだけ金額をかけずに作った白い騎士服」。しかしそのぶんだけ、襟元に飾られた黄金の菜の花が人目を引く。 そうして、彼の横には女性がいた。 顔はベールに隠れて窺えないが、優雅な物腰は身分の高い家の出自であることを想像させる。 彼女が着ているのは、今しがたジゼルが見ていた空のようなオレンジ色のドレスだった。フリルやレースを
last updateLast Updated : 2025-06-24
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33.あなたは、誰

 ジゼルは首を傾げる。「長い旅路でお疲れになったでしょう? 少しくらい花の国でゆっくりしてはいかが?」「お言葉はとてもありがたいのですが、僕は今すぐにでも発ちたいのです」「そう。では、仕方ないわね」 男性がわずかに眉を寄せた。臣下たちも問うような視線を投げているのが分かる。ジゼルは男性と女性の間で視線をゆっくり何往復かさせた後、口を開いた。「ところで、どなたなのかしら」「僕が選んだ女性です。帝国貴族の令嬢なんです。帝国へ戻ったら僕は彼女と結婚するつもりです」「まあ。おめでとうございます」 気のない調子で答えてジゼルは男性に視線を移す。「どなたかしら?」「ですから彼女は、僕の婚約者です」「それはもう聞いたわ。だから私が尋ねているのは彼女ではなくて、あなたよ」 男性が目を見開いて動きを止める。ジゼルは重ねて問いかけた。「答えてくださる? あなたは、どなた?」「どうなさったのですか、義姉様。僕は――」「僕はライナーです、なんて言うつもり?」 語尾を奪ってジゼルが言うと、男性は先ほど以上に眉根へ力を入れて答える。「……申しあげますよ。僕は、ライナーですから」「嘘おっしゃい」「嘘ではありません。僕はライナーです。義姉様こそ何を証拠に僕がライナーではないと仰るんですか」 必死な男性の声を聞いて、ジゼルは軽い笑い声をあげる。「ずいぶん演技が達者なのね。だけど私を欺こうとしても無駄よ。あなたはライナーではないもの。――さあ、答えて。あなたはどなた?」「……ライナーです」 青年は頑なに繰り返した。 確かに彼はライナーとそっくりだ。 しかしライナーの傍にいて、ライナーを見てきたジゼルには分かる。目の前に立つ男性はライナーではない。表情や醸し出す雰囲気、仕草の小さな違和感といったものすべてが「違う」とジゼルに告げている。 だが、確かに顔つきはライナーそっくりだし、召使たちはライナーだと信じているようだ。さて、どういう対応が正しいのだろうか、とジゼルが考えたそのときだった。 慌ただしい足音が近づいてくる。 廊下に立つ臣下たちがそちらを見て唖然とした表情になり、中の誰かが「ライナー様が、お二人おられる……」と呟いた。 室内の“ライナー”が顔を歪めた次の瞬間、ジゼルの部屋に飛び込んできたのは、確かに今しがた押し問答をしていた相手とそっ
last updateLast Updated : 2025-06-25
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34.本当のライナー

 “二番目のライナー”は息を整えてから胸を張った。「義姉様。そこにいるのは確かに僕の兄です。ですが本当のライナーはこの僕。実は僕の兄は僕になりすまし、一芝居打っているんです」「芝居なの?」「はい。どうせ兄は『僕がすぐ帝国へ戻る』とでも言ったんでしょう? それは嘘です。僕は帝国から、花の国に永住する許可をいただいてきたんです」 “二番目のライナー”は“最初のライナー”をちらりと見る。「僕たちを見分けられる人なんてほとんどいないからって、ずいぶんと大がかりな嘘をついたものですね」「あなたこそ嘘はやめてください。『ライナーのフリをした自分が場を引っ掻き回してやる』なんて言っていたのはそちらじゃないですか」「何ですか、それは。僕のフリをして勝手なことを言うのはやめてください」「僕は真実しか言ってません。ライナーは僕なんですから」「いいえ、ライナーは僕です」「僕です」「僕です」 二人は周囲をそっちのけでギリギリと睨み始める。 帝国からきた女性の表情はベールのせいで分からないが、困っているらしいことはジゼルにも分かった。 召使たちは完全に混乱しており、二人の“ライナー”を見比べておろおろしている。 深いため息を吐いたジゼルは、閉じた扇子で手を叩いた。 パン、という乾いた音を聞いて全員が注目したのを見て取ってからおもむろに口を開く。「で? 本物のライナーはどこにいるの?」 「ここに!」「ここに!」「いい加減にしてください! ライナーは僕なんです!」「それはこちらの言うこと! 僕こそがライナーです!」「僕が本物です!」「本物は僕です!」 状況はすぐ元通りになってしまった。 このふざけた展開をどうするべきか、とジゼルが考えていると、廊下にいる臣下たちにまた動きがあった。またしてもこの室内ではなく、廊下の奥を見て目を丸くしている。 まさか、と思いながらジゼルが注視していると、想像通り更にもう一人部屋に飛び込んできた。 黒髪を乱した三人目の青年が身に着けているのは、庶民が着るようなごく簡素な服だ。 荒い息を吐く彼の方へ足を踏み出し、ジゼルは叫んだ。「ライナー!」 室内の二人が何かを言ったような気がする。しかし彼らの言葉はジゼルの耳に届かなかった。ジゼルは三人目の青年だけを目に映して真っすぐ彼の元へ進む。「ライナー、ライナー。
last updateLast Updated : 2025-06-26
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35.あなただけは

「なあ。もう諦めようぜ」 “二人目のライナー”がライナーと同じ声で、しかしライナーとは違う口調で言って、最初のライナーの肩をぽんと叩く。「女王陛下は俺たちの違いが分かっておいでみたいだ」「そんなはずがありません。僕たちの違いが分かる人なんてほとんどいないのですから」「だけどな」「そちらの方の言う通りよ。私には、あなたたちの違いなんて分からないわ」 ジゼルは右手で三人目の青年の左手を取り、振り返って二人の青年と向き合う「私が分かるのはライナーだけ。もしも三人が同じ服を着ていたってライナーだけは絶対に分かる。でも、そちらの二人の区別なんてつかないでしょうね」「義姉様……」 走ってきたためだろう、ライナーはまだ赤みの残る顔へ満面の笑みを浮かべる。彼は握った左手に強く力を入れ、二人の青年の方へ視線を移した。「ということだそうです。さて、改めて聞かせていただきましょうか。――僕の服をはぎ取って皇宮に閉じ込めたシュテファン。あなたは何をしたかったんです?」 悲痛な顔つきだった“一人目の青年”は途端にその表情を一変させた。シュテファンと呼ばれた彼は不機嫌そうに眉を寄せる。「何をする、とはご挨拶だな。私は約束を守ろうとしただけだ」「何も知らなかった頃の約束を持ち出すのは止めてください、と何度も言ったでしょう? 僕の考えはもう、あの頃とは違うんです」 続いてライナーは、二人目の青年を見つめる。「ブルーノもこの芝居に乗った口なんですね」「俺がここまで来たのはシュテファンを止めようと思ってたからなんだぜ? ……いや、本当だって。そんな目で見るなよ、ライナー」 肩をすくめたブルーノは「だけど」と言って小さくため息を吐く。「本音を言えば俺だって父上やシュテファンと同じ気持ちだからさ。まあ……騙せるものなら女王陛下を騙して、お前を帝国へ連れ帰りたくなったんだ」「そうですか。では、ブルーノも無駄足を踏みましたね」「……無駄足なものか。まだ方法はある」 ぽつりと呟いたのはシュテファンだ。黄金の瞳に苛烈な炎を瞳に宿した彼は、背筋を伸ばしてジゼルを正面から見つめる。「花の国の女王よ。今すぐライナーとの家族関係を解消し、ライナーを帝国へ返せ」 今のシュテファンは“ライナー”の芝居をしていたときとは全く違っていた。女王であるジゼルですらひれ伏したくなる威厳に
last updateLast Updated : 2025-06-27
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36.女王は帝国皇太子と対峙する

「やはりライナーはお返ししません。帝国へ戻りたいのならお二人だけでどうぞ」 ほう、とシュテファンが低い声を出した。「女王は、我彼の戦力比が分からないと見えるな」「この大陸で帝国との戦力比が分からない国なんてないでしょうね」 一対一で見るのであれば、どんな国であっても絶対に敵わない。それほどまでに帝国の力は比類がない。「なるほど。分かった上で帝国へ盾突くつもりか。その度胸だけは褒めてやる」「嫌ですわ。盾突くなんて、そんなこと致しません」 凄みのあるシュテファンの表情と言葉を、ジゼルは微笑みで受け流す。「ですが、そうですね。もしも帝国が力づくでライナーを取り戻そうと動くのなら私は、花の国と取引がある国々へ事の経緯を説明いたしますわ。『帝国というのはその強大さを振りかざし、他国の意思や道理を無視する国だ』と知ってもらわなくてはなりませんもの」「……脅しのつもりか? そんなことで周辺国がこの国を守るために力を貸してくれるとでも?」「いいえ。でも、これは種になるかもしれませんわね。そうして種はいずれ芽を出し、花を咲かせるのです」 強大な帝国が昔のように力で道を曲げ始めたとしたら、他の国々はどう考え、何を準備し、いかなる対応に出るのか。 ジゼルが言外に籠めた理由を理解したのだろう、苛烈な目でシュテファンが睨みつける。「……吹けば飛ぶような小国の癖に、生意気な」「おい、落ち着けよシュテファン。女王陛下も、どうか」 割って入ったのはブルーノだ。「少し時間を置こう。そうだ、どこか場所も変えてだな」「その必要はありません」 ジゼルの背後にいたライナーが進み出た。思わず押しとどめようとしたジゼルだが、彼の瞳に宿る揺るぎない力がジゼルを制する。「シュテファンが引き下がればいいだけの話です」「引き下がる? そんな必要がどこにある」「父上は折れてくれましたよ」「そんなありえない嘘をつくとは見苦しいぞ、ライナー」「嘘ではありません」 酷薄な笑みを浮かべるシュテファンに向け、ライナーは懐から取り出した一枚の紙を差し出す。「これが証拠です」「なんだ、それは」「父上から絶縁状として渡されたものです」「は?」 目を見開いたシュテファンが、雷に打たれたかのように大きく震え、硬直する。「ぜつえん……まさか……父上、が……ライナーに……そんな……」
last updateLast Updated : 2025-06-28
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37.帝国皇帝からの手紙

「――我はこれよりそなたを息子と認めたりしない。どこへなりとも行って己の意のままに暮らせ。ただしその場合、帝国の地は二度と踏めぬと心得よ。己の血を裏切る代償が大きかったと嘆く日がこようとも、我はそなたを許すつもりはない。五歳のときからずっと『ジゼル様が、ジゼル様の』とうるさかったそなたはどうせ、父よりも、兄弟よりも、帝国よりも、花の国とその女王の方が好きなのであろう。父のことより『ジゼル様』の名を呼ぶ方が多い色ボケ息子ライナーなんか、いなくなったところで寂しくもなーんともないわい、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう――」「ブルーノ! その辺でいいでしょう!」「まだ先は長いんだけどなあ」 ジゼルを気にしながら真っ赤になって叫ぶライナーとは対照的に、ブルーノは涼しい顔だ。「『息子と認めたりはしない』とか言っておきながら『色ボケ息子』なんて言う辺り、息子と認めないのか、息子なのか。さっぱり分からないのが父上らしいね。……それにしてもこの先は文字が滲みまくってるなぁ。父上も書面の上で泣くことはないだろうに。そもそもそんなに悲しいなら、ライナーを皇宮へ閉じ込めておけば良かったんだ……」 ぼやくブルーノの声を聞きながらジゼルは繋いだままのライナーの手を引き、彼の耳元で囁く。「さっきから気になってたんだけど、皇宮って、帝国の皇帝が住んでおられる場所……よね?」「はい。そうです」「だとしたら父上っていうのは……まさかとは思うけれど、その……」「皇帝です」「……じゃあ……あなたは……いえ、あなたたちは……」 その先はうまく出てこなかったが、ライナーには伝わったようだ。彼は数度瞬き、小さく首を傾げる。「義姉様は僕たちの母から『竜の子』に関する話を聞いたのですよね?」「……お聞きしたといえば、したのだけれど……」 『竜の子』に関するジゼルの認識は『帝国の皇帝の庶子』だ。 帝国の皇帝は竜帝とも称される。そのため皇帝の戯れの相手となった女性が皇帝の子を産むと、その子たちは『竜の子』という隠語で呼ばれるのだろう、と。 ジゼルが読んだ花の国の記録には『フラヴィは帝国貴族の元へ行った』と書かれていた。 だからジゼルはフラヴィが嫁いだ先は帝国の貴族だと思った。そこで皇帝に見初められて子を宿し、誕生したライナーは『竜の子』となって、名目上の父である貴族から冷遇されて
last updateLast Updated : 2025-06-29
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38.あの日の真相

 彼女はにこりと微笑んで口を開く。「あなたは従弟が『竜の子』でも仲良くしてくれるかしら?」 覚えのある言葉。十三年前に聞いた言葉。いまジゼルの目の前にいるのはきっと、過去のフラヴィの幻影だ。「あなたが仲良くしてくれたあの子は、『竜の子』だけど皇帝にはならないの。――今回はかなり変則的なことが起きているのよ。帝国の長い歴史を紐解いてみてもありえなかったことが、ね」 叔母が語ってくれた言葉をの意味をジゼルはようやく理解した。 フラヴィは正気を失ってなどいなかった。 ライナーは庶子ではなかった。 十三年前に会った従弟は一人ではなかった。 ライナーと並んで立つ叔母の幻を見ながら、ジゼルは心の中で「ごめんなさい」と呟く。(私はつまらない思い込みで、ずっと叔母様たちに失礼をはたらいていたわ……) フラヴィは美しい笑みを浮かべたままゆっくりと首を左右に振る。最後に「私の子と仲良くしてあげてね」と言って姿を消した。 夢現の境も分からない不思議な気分のまま、ジゼルは口を開く。「私はずっと、叔母様と一緒に来た従弟は一人だと思ってたの。一人の従弟と三日間会ったんだ、って。……でも、違っていたのね。十三年前に私が会った従弟は三人。私は一日ごとに違う相手と会っていた。そうなんでしょう?」「はい、義姉様。仰る通りです」 一日目に会った不愛想な従弟。あれはきっとシュテファンだ。 二日目に会った元気な従弟。あれはブルーノに違いない。 そして。「僕は三日目に、義姉様とお会いしました」 三日目に会った従弟。細やかな心の持ち主で、ジゼルともとても気が合い、「お別れ、したくないです」と言ってくれた彼。やはりあれがライナーだったのだ。 ジゼルは目の前のライナーを見つめ、泣きそうな気持ちで彼の頬に向けて指先を伸ばす。 今にして思えばジゼルは、あのときからライナーに惹かれていた。(……だけど) ライナーの頬に指が触れる直前、ジゼルは手を握りしめる。二歩ほど後ずさりすると、繋いでいた手も離れた。「……義姉様?」 眉尻を下げたライナーの顔を見てジゼルの胸が痛む。 だが、ライナーには昔から想い続けている『菜の花の女性』がいる。ジゼルが触れて良い相手ではない。 唇を噛んだジゼルがライナーから顔を背けると、固まっていたはずのシュテファンがこちらを見ていた。書面を解読し
last updateLast Updated : 2025-06-30
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39.一枚の絵

 困惑して黙りこむジゼルに代わるようにして、部屋には陽気な笑い声が響き始める。ブルーノのものだ。「そういうことなんだよなあ!」「じゃ、じゃあ、ライナーの婚約者はどこに?」「婚約者なんて最初からいませんよ、女王陛下」「そんなはずはないわ。だって、ライナーには……」 そこから先を続けられずにジゼルは口ごもる。 ジゼルが『菜の花の女性』の存在を知ったのはライナーとピエールの話を立ち聞きしたからだ。さすがに自分の無礼を暴露するのは憚られた。「女王陛下が何を心配なさってるのかは知りませんが、ライナーは昔から『ジゼル様』一筋ですよ。ほら、これを見てください」 ブルーノが口元を歪めてライナーを見る。彼が取り出したのは一枚の紙だった。大きさは本の一ページくらいだろうか。一体何なのかと聞こうかと思ったのだが、それより早く横で「あっ!」と声が上がる。「ブルーノ! どうしてそれを!」「出かける前に俺の勘が囁いたんだ。これを花の国に持って行けば面白いものが見られるぞ、ってさ」「返してください!」「おっと」 慌てて飛び掛かるライナーをブルーノはひょいと|躱《かわ》し、そのままくるりと回ってジゼルに向かって紙を開いた。 紙には絵が描かれている。 上半分は青く塗られ。下半分は目にも鮮やかな黄色。 どうやら何かの景色のようだ。 これはどこなのだろうと目を凝らしたジゼルは、下半分の黄色が花であることに気が付いた。そして、絵の隅に小さく『ジゼル』と書かれていることも。(青い空と、黄色い花。……黄色い……菜の花……?) ジゼルの頭の中で一つの光景がよみがえる。 十三年前のあの日。 ジゼルは三日目に会った従弟と一緒に花畑を見に出かけた。 青い空の下で揺れるたくさんの黄色い菜の花を見て、従弟は歓声を上げていた――。 そこまで思い出したところでライナーが胸の中に絵を抱え込む。彼は恐る恐るといった様子でジゼルを振り返り、尋ねた。「……義姉様……見ましたか……?」「……見たわ」 呆然と呟くジゼルはシュテファンへ視線を移す。 最初に“ライナー”としてこの部屋へやって来た彼が身に着けているのはライナーの服。最近のライナーがいつも着ている、花の国の白い騎士服だ。そして騎士服を着る前から身に着けている菜の花のピンが襟元にある。「……菜の花……」 菜の花。ライナー
last updateLast Updated : 2025-07-02
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40.何が起きているのか

 ライナーの言葉を聞いてシュテファンが目を吊り上げる。「出て行け? ライナー、まさかお前は今『出て行け』と言ったのか? 私の聞き間違いだな? そうだろう?」 しかしライナーは黙ったまま動きだす。 まずシュテファンの襟元から菜の花のピンを取ると、次に左右の腕でシュテファンとブルーノをそれぞれ抱えた。苦笑するだけのブルーノはともかく、何やら騒ぐシュテファンは暴れているというのに、ライナーは平然としている。意外なほどの力だ。 そしてそのまま二人を持ち上げ、部屋の外へ放り出した。 召使いたちが一斉に避けた空間で、尻もちをついたシュテファンが呻き声を上げる。それを見ながらパンパンと手を叩き、ライナーが「皆さん」と呼びかける。「客人のもてなしを頼みます」「ライナー様」 進み出たのは、亡きピエールの側近くに仕えていた老臣だ。「帝国の方々には、どのようなおもてなしがよろしいでしょうか」「せっかくですから、蜂蜜酒を振舞っておいてください」「待て、ライナー。帝国では十八歳にならないと飲酒が許されない。忘れたか」 呼びかけるシュテファンに向かって、ライナーは肩をすくめてみせる。「花の国では十七から飲酒可能ですよ」「私は帝国の皇子だ。帝国の律に従う」「でしたら仕方ありませんね。――明日が来ないと酒が飲めない二人には、花茶と花風呂の用意をしてあげてください」「かしこまりました。お客人、どうぞこちらへ」「おい、離せ! 私たちの目的はまだ果たされていない!」 再び暴れようとするシュテファンだったが、花の国の召使たち、特に女性陣に取り囲まれた途端に身動きを止める。意外に紳士なのかもしれない。 代わりにシュテファンは背後を振り返り、叫んだ。「我らが帝国の騎士よ! 来い!」 しかしシュテファンの声に反応するものはない。「騎士たち! どうした、来い!」「もてなそうとする人々の前で護衛を呼ぶとは失礼ですよ。どうせ誰も来ないのですから、おとなしく花の国の歓待を受けてください」「……ライナー。お前、何をしたんだ? まさか」「そんなに心配する必要はありません。外で待機している帝国の人たちは後で呼びに行ってあげますよ。僕がもう一度、シュテファンのフリをしてね」「なんだと? 待て、ライ――」 言いかけたシュテファンがぎくりとした様子で口を閉じたのは、ライナーが
last updateLast Updated : 2025-07-03
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