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第14話

Auteur: ドラゴンライド
「晴奈は俺と帰る、子供もだ!」

「お前たちはもう離婚しただろ?彼女を連れ戻す権利はないんだ!」

二人の男の声が激しくぶつかり合う中で、晴奈の耳にはノイズのような歪んだ音が響いていた。

さっき外れた補聴器は、もう使い物にならないらしい。金属のこすれるような異音と頭のくらつきに、彼女は立っているのがやっとだった。

その異変に、近くで遊んでいたボーダーコリーがいち早く気付き、咆哮を上げて飛びかかるように駆け寄ったが――間に合わなかった。

晴奈の体が、ふっと崩れ落ちた。床に倒れ込んだ衝撃に驚いた赤ん坊が、ベビーカーの中で大声で泣き始める。

……

晴奈は夢を見ていた。長い長い夢を。

飢えと寒さの中、街角をさまよっていた自分に、優しく手を差し伸べてくれた人がいた。

その人は、彼女を豪奢な屋敷に連れていき、街を、四季を、人生の断片を共に歩んでくれた。

彼女はその人に恋をした。でも、その人の言葉はいつも優しさと冷酷が背中合わせだった。

「お前は、はるなには敵わない」

「彼女の代わりにもなれない」

「お前はただの身代わりだ」

「いつでも捨てられる存在だ」

……

否定、嘲笑い、無視、蔑み。それらの言葉はまるで重たい石のようだった。

彼女はもがき、あの「はるな」が好きなドレスを着て、好きなアクセサリーを身に着けて――愛されるために必死だった。

けれど、その人の手が振り上げられた瞬間、花瓶が宙を舞った。

逃げる間もなく、飛んできた枝が自分の左耳を貫いては、その先端で花を咲かせた。

こんな光景を見たあの人は笑った。明らかに酔っているのだ。

「今のお前のほうが、はるなより可愛いかもな」

でもその時、彼女はもう聞こえなくなっていた。

彼女は恐怖に陥っていたのだ。

不完全な自分では、もうはるなの影すら踏めない。

……そう思った瞬間、追い出される未来がはっきりと見えた。

だから彼女は嘘をついた。

あの人が酔いから覚め、彼女の包帯で隠された耳を見て尋ねた時――

彼女はただ、「……ちょっと、ぶつけただけ」と笑って誤魔化した。

大丈夫、もう嘘にも、望月はるなになりきることにも慣れているのだから。

しかしある日、彼は別の女性を連れてきて、こう言い放った。

「代わりを見つけた。お前はもういらない」

その言葉に、彼女は奈落の底へと突き落とされた。

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