夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 1191 - チャプター 1200

1339 チャプター

第1191話

ただ――仁志は、ふと横目で星を見た。表情は一つも変えずに。星は、自分とは違う。血なまぐさいやり方を好まない。このまま怜央を殺してしまうのは、たしかに少々もったいない気もする。生かしておいて、ゆっくり痛めつけるのも悪くない――そんなことを考えながら、荷物をまとめつつ、今後の段取りを頭の中で組み立てていく。ある袋を整理していると、中に見慣れない物がいくつか入っているのに気づいた。不思議そうにそれを取り出した。「これは……何でしょうか」声に振り返った星は、仁志の手の中に、やたら凝ったデザインのロウソクが二本あるのを見て、固まった。次の瞬間、顔がぱっと真っ赤になる。あの日の工具店。あの店主の、やけに含みのある笑い顔がよみがえる。会計を済ませたあと、彼はこう言ったのだ。「もし気に入ったら、またおいで。次はまけてあげるから」そのときの星は、深く意味を考えなかった。だが今なら分かる。――あれは、最初からおまけを袋に紛れ込ませていたのだ。しかもこの二本、どう見ても普通のロウソクではない。一目で分かる、そういう用途の品だ。星は慌てて仁志の手からロウソクを取り返し、そのまま袋の中に押し戻した。だが、あまりにも動きが雑すぎて――袋の中身をまとめてひっくり返してしまう。床に転がる、ロープ。床に跳ねる、金属の手錠。そこにさっきの怪しいロウソクが加われば、連想する光景は一つしかない。星は、仁志の視線が、はっきりと変わったのを感じた。何か説明しようと口を開きかける。だが、どこから話せばいいのか分からない。なにせ、これらは本気で彼のために用意した物なのだ。結局、何も言えないまま、床に散らばった物を黙々と拾い集め、平然を装って言った。「……片づいたし、そろそろ行こっか」言うが早いか、仁志が何か言い出す前に、足早に部屋を出ていく。かなり歩いたあとでさえ、背中にひりひりするような視線を感じていた。振り向かなくても分かる。あの透きとおったまなざしが、ずっと自分に注がれている。ほどなくして、仁志も後を追ってきた。彼は何も聞かなかった。さっきの一件にも、一切触れない。おかげで、星はようやく胸をなで下ろした。二人が宿を離れ、前にも通った工具店の前を通りかかる。ちょうど店主が近所の人と立ち話をし
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第1192話

仁志は、一瞬だけ迷ったが、最後には何も言わず、その場をあとにした。彼の背中が角を曲がって見えなくなったところで、靖が口を開いた。「星。D国での一件は、もう全部、耳に入ってる。あの仁志が、ノール一族のノールソンを殺した。今、ノール側は正式に説明を求めてきている」そこでいったん言葉を切り、視線を星へと戻した。「星、この男は、もう家に置いておくべきじゃない」星は、わずかに目を細めて問い返した。「ノール一族のことを知っているなら、ノールソンが私に何をしたかも、知ってるでしょ?」「おおよその経緯は、もう調べさせてもらったさ。たしかにノールソンは、お前の部屋に押し入った。だが、実際には何もしていない。それに、服も乱れていなかったし、ケガもしていなかった」星は、ふっと口元で笑った。「じゃあ私は、実際に傷を負ってからじゃないと、反撃しちゃいけないってこと?」靖は、露骨に眉をひそめた。「そういう意味じゃない。俺が言いたいのは、ノールソンが悪いことをしたのは事実だが、死刑に値するほどではない、ということだ。星、お前の性格は分かっている。理由もなく人を殺すようなやつじゃない」そう言いながら、先ほど仁志が消えていった方角へ、ちらりと視線を向けた。「だけどな星、お前はおかしいと思わないのか。あのボディーガード、やたらとお前の私事にまで口を出してくる。完全に立場を越えている」横で黙って聞いていた忠が、ここぞとばかりに口を挟んだ。「星、お前のボディーガードの言動は、そのままお前のイメージに直結するんだぞ。今、そのボディーガードが、大勢の前で人を殺した。そんな殺人犯をかばうってことは、お前自身も殺人犯側の人間ってことになる。会社の株主にせよ、世間の連中にせよ、この事実を知ったら、絶対に受け入れない」実のところ――星が屋敷に戻るより前に、忠はすでに怜央から、一部始終を聞き出していた。そして怜央とあれこれ相談したうえで、こう結論づけている。「もし星が、仁志を守り通すと言い張るなら、それがいちばん都合がいい」と。そのときが来たら、「仁志は殺人犯だ」という情報を世間に流せばいい。雇い主である星の評判も、一緒に奈落へ突き落とせる。どれほど社内で信頼を集めようと――世間は「殺人犯をかばう人間」に、雲井グループのトップの座を任せ
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第1193話

だからこそ、雲井家には多くの権力者とのコネがあり、人脈の幅は驚くほど広い。だが星が戻ってきてからというもの――まず石油王を怒らせ、次に金融業界の大物を怒らせ、ついでに小林家まで敵に回した。小林家とは形式上、買収という形で「手を結んだ」だが、雲井家との関係は、ほぼ氷点下まで冷え込んでいる。雲井グループと怜央との取引も、多くが中断された。もっとも、中断しなかったところで、今の司馬グループにビジネスを続ける余力などないが。今、司馬グループと組めば――「一緒に撃ち落としてくれ」と言っているようなものだ。靖はふと、あることに気づいた。――怜央は、星に対して、一度も上の立場に立てていない。その一方で、星の勢力は、どこからともなく、じわじわと膨らみつつある。星は、たしかに多くの人間を敵に回した。にもかかわらず、本人はほとんど傷を負っていない。割を食っているのは、いつも雲井家の人脈と、築き上げてきた関係網の方だった。靖の表情は、次第に険しくなっていく。「……明日香の成績じゃ、星を追い抜くのはまず無理だな。だったら、いっそ二人を早めに雲井グループに迎え入れた方がいい。一度会社組織の中に入れてしまえば、星も会社の規則や取締役会の意向に縛られる。これ以上、好き勝手に動かせておくわけにはいかない。それから、今回の件は絶対に、うまく落としどころをつけないといけない。星のそばにいる、あの仁志は……どうあっても残しておけない」仁志は、Z国から星が連れ帰った男だ。忠誠心は、完全に彼女一人に向いている。それは、雲井家にとって決して歓迎すべきことではない。――星の周りに、「使える人間」なんて置いちゃダメだ。翔は、靖に視線を投げた。「兄さん、人間ってさ、押さえつければ押さえつけるほど、逆にくっつきたくなるもんだろ。あの二人を力ずくで引き離そうとしたら、かえって絆を強くするだけだ。仁志を消すにしても、正面からやったらダメだ」靖は、その言葉の含みを読み取って、口元に小さな笑みを浮かべた。「……ほう。何か妙案でも?」翔は、楽しげに肩をすくめた。「攻め方は大きく二つ。一つ目は、仕事の線から揺さぶる。今、星は仁志を相当信頼してる。だったら、まずその信頼を崩せばいい。金と権力――あいつに与えられるものは、星より俺たち
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第1194話

翌日。「仁志が人を殺した」というニュースは、案の定ネットを騒がせた。星は、もともと知名度も影響力も高い有名人だ。彼女の名がつく話題なら、どんな小さなゴシップでも、すぐ大きな議論になる。その生い立ちは、昼ドラ顔負けの波乱万丈。歩んできた人生だって、十分「伝説」と呼べるレベルだ。ヴァイオリンについて言えば、デビューと同時に一気に頂点へ。実家に戻って家業を継いでからも、その手腕で会社をどんどん拡大させてきた。彼女を羨む者もいれば、嫉妬する者もいる。中には、心底から憎んでいる者さえいる。そんな相手が、ついに「大きな失敗をした」と聞けば――ここぞとばかりに叩き、引きずり下ろそうとするのは、ある意味当然だった。星のもとには、雅臣と影斗から、ほとんど同時に連絡が入る。「手助けが必要なら言ってほしい」と、二人とも申し出てきた。「大丈夫。この件は、別に考えがあるの。二人とも、本当にありがとう」そう告げると、彼らはそれ以上勝手に動いて足を引っ張るような真似はしなかった。星は、世間のバッシングをわざと放置した。したのは、「しばらく外出を控える」程度のことだけだ。彼女が気にしていたのは、ネットの中傷や世論の重圧に、仁志が耐えられるかどうか――その一点だった。だからこそ、彼に向き直って、はっきりと言った。「仁志、この件は心配しなくていい。私が何とかするから」仁志は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。「ええ、分かっています。星野さんが対応してくれると」ちょうどそのとき、オフィスのドアがノックされた。「星野さん、お客様がお見えです。お会いになりますか?」凌駕の声だ。――また、仁志をクビにしろって言いに来た株主かな。星は、小さくため息をついた。「通して」いずれ雲井グループに戻るとき、株主たちの支持を取りつけるには、今から関係をこじらせるわけにはいかない。それに、中には本気で彼女を心配してくれている者もいる。ところが。入ってきた人物を見て、星は少し目を見開いた。株主ではなかった。姿を現したのは――航平だった。星は、思わず席を立つ。「航平、どうしてここに?」航平の顔には、長旅の疲れがはっきり残っていた。「こっちでトラブルがあったって聞いてさ。様子を見に来た」その視線が、星の背後に控える仁
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第1195話

航平は、眉間にうっすらしわを寄せたまま、心配そうな表情を崩さなかった。「でもさ、もう証拠はがっつり揃ってるんだろ。仁志が殺人犯って事実を、今さらひっくり返すのは難しいんじゃないか?私が聞いた話だと、ノール一族は仁志を国際裁判所に訴えるつもりらしい。もし裁判所が正式に有罪判決を出したら、仁志は国際指名手配だ。そうなったら、お前だってタダじゃ済まない」そう言われても、星の唇に浮かんだのは、冷えた笑みだった。「国際裁判所に本当に力があるなら、怜央は今ごろお気楽に歩いてないし、石油王や金融界の大物の息子たちも、とっくに裁かれてるはずだよ。ここで言う公平なんて、所詮は普通の人にだけ適用されるルール。権力を握ってる連中は、その公平や法律の、ずっと上のところに立ってる。自分たちがどれだけ悪事を重ねても、罰なんて受けないくせに、自分たちの利権を少しでも傷つけられた途端、今度は「法律」っていう武器を振りかざしてくる」声は淡々としていた。「いいとこ取りして、全部自分の思い通りにしたい――そんな都合のいい話、この世にあるわけないのにね」航平は、ぼんやりしたように彼女を見つめた。その瞬間、ふと気づいた――星は、もうすっかり変わってしまった。清子に追い詰められて、崖っぷちに立たされて、誰かに手を引いてもらわなきゃ闇から出てこられなかった、あの頃の星じゃない。今の彼女は、誰の手も借りずに、強大な敵を前にしても、自分の力だけで渡り合えるところまで来ている。胸の奥に、言葉にならない不安がじわりと滲んだ。もし星が、もう誰の助けも必要としていないのだとしたら――自分がここにいる意味は、どこにある?そんな考えに沈みかけたとき、星の声が、その思考を断ち切った。「航平、心配してくれてありがとう。そっちは、もう片づいたの?」航平は、はっとして我に返った。「ああ。どうにか、ひと区切りはついた」星は、数日前に見たニュースを思い出した。「山田グループが、かなり大きな問題を抱えてるって聞いたけど。今、そんなに危ない状況なの?」「そうなんだ」航平は、苦い顔でうなずいた。「雅臣が全力で手伝ってくれてるけど……今回は、勇自身があまりにも油断してた。ろくに調査もしないで投資に踏み切って、そのまま丸ごと騙し取られた。そこに葛
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第1196話

ビルを出た途端、航平の顔から笑みがすっと消えた。ついさっき別れたばかりだというのに、あの仁志は、もう星にとってそんな存在になっている。奥歯をぎりっと噛みしめ、表情が暗く歪んだ。……駄目だ。もう、これ以上は待てない。今回Z国へ戻る前に――何としてでも、仁志を片づける。そう、心の中で静かに決めた。……世間の世論と非難の声がピークに達した頃、星は記者会見を開き、全世界同時配信の生中継を行うと発表した。その話を聞いて、忠は思わず鼻で笑った。「お、また生配信作戦かよ?俺たちは清子みたいな間抜けじゃねえぞ。今回あいつが記者会見を開くってんなら、喜んでやるさ。その場で叩き落としてやる」会社を底値で買い叩かれて以来、忠にとって星は、完全に仇そのものだった。翔は眉をひそめて、兄をたしなめる。「忠、星が記者会見を開いて負けたことなんて、一度でもあったか?そのネタで煽るのは、やめておいた方がいい」忠は、それでも悔しさを隠さない。「父さんも兄さんも、星が汚い手使って、俺を破産させたの分かってるくせに、誰も助けてくれなかった。ただ黙って、俺が会社を失うのを見てるだけだ。あいつらが復讐してくれないなら、俺が自分でやる」翔は、穏やかな口調のまま問い返した。「忠、父さんと兄さんがどうして動かなかったか、考えたことあるか?」忠は歯ぎしりしながら吐き捨てた。「どうせ、あいつが雲井家の人間だからだろ。身内だから情でも移って、手を出しづらいんじゃないのか」だが翔は、静かに首を振った。「星はたしかに雲井家の人間だ。うちの娘と言っていい。父さんと兄さんが、ずっと星の原株を買い取りたがってたのは知ってるだろ。でも、無理やり奪うような手を一度も使ってない。なぜか分かるか?」それは、忠にも前から理解できなかった点だった。父と兄のやり方をもってすれば、星相手に少し仕掛けるだけで、いくらでも痛い目を見せられる。それなのに二人は、何度も何度も譲歩してきた。理由が、まるで読めなかった。翔は、ゆっくりとかみ砕くように説明する。「星が雲井家に戻った以上、星が手に入れたものは全部、最終的には雲井家のものだ。彼女が小林グループを飲み込んだのも、お前の会社を底値でさらったのも、手にしている原株も――どれもこれも、突き詰
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第1197話

「ノール一族の権勢はあまりにも強大で、こうした女性たちの家族は、訴えようにもどこにも訴え出ることができません。これからお見せするのが、ここしばらくのあいだに私が集めた証拠です」カメラが切り替わる。ノールソンが大勢の人間の前で殴る蹴るの暴行を加え、さらには女性を力ずくで連れ去ろうとする映像が、次々とスクリーンに映し出された。中には、あまりに酷すぎてそのままでは流せず、やむなくモザイク処理を施された映像もいくつかある。ノールソンのいやらしい手つきを振り払った女性が、無理やり車の中へ引きずり込まれる場面もあった。それを見ているだけで、会場にいる人々は思わず拳を固く握りしめてしまう。――もし、あれが自分の家族や友人だったら。そう想像して、平然としていられる親などいるはずがない。会場には、忠が潜り込ませた記者もいて、本当は鋭い質問を浴びせるつもりで機会をうかがっていた。だが、星はまだ「質問タイム」を設けていない。全世界同時の生中継の場で、ルールを破って目立つ度胸のある者はさすがにいなかった。今この空気の中でノールソンの肩を持つのは、自殺行為に等しい。会場と配信の向こうの感情が、十分に高まったのを見届けると、星は、すっと話題を切り替えた。「きっと多くの方が、こう思っておられると思います。――ノールソンがどれだけ悪人だったとしても、私は裁判官ではありません。彼を裁く資格はないのではありませんか、と。おっしゃるとおりです。彼を裁く権限は、私にはありません」そこで、わずかに間を置いた。「ですが――私は、自分の身を守るための『正当防衛』を行う権利は、持っています」そう言うと、事件当日の映像が画面に映し出された。「当時、私は控え室で休んでいました。ドアには「専用室・使用中」のプレートがかかっていて、中に人がいることは、一目で分かる状態でした。それにもかかわらず、ノールソンはカードキーを使って、勝手に私の部屋に侵入してきたのです」星の声は、終始落ち着いていた。「ご存じの方も多いと思いますが、D国はプライバシー保護を非常に重視している国です。許可なく他人の居住空間に踏み込んだ者に対しては、家の所有者が武力を行使し、侵入者を殺害しても、法的責任を問われない――そう定めた法律があります。事件当日、私は控え
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第1198話

雅人は、ハッと息を呑んだ。そして、うすうす何をしようとしているのか察し、声を落として言う。「溝口さん。司馬家には死士や暗衛がうじゃうじゃいるんですよ。あいつらのテリトリーに無闇に踏み込むのは、本気で危険です」前にうまくいったのは、単にその時、怜央が別の国にいたからだ。ここM国は、紛れもなく司馬家の本拠地。仁志はたしかに強い。だが、決して無敵ではない。雅人は知っている。仁志にとって「必ず消す」と決めている相手――それが怜央だということを。少し考えたあと、彼はおそるおそる提案した。「じゃあ……溝口さん。こちらで人手を集めて、実行はそいつらに任せるっていうのはどうです?」「司馬家は、怜央の縄張りだ。どれだけ人をかき集めても、彼の手勢より多くなることはないだろう。それにM国は、各大家族が集まる場所だ。大勢動けば、それだけでどこかの目に引っかかる。人数が多ければ多いほど、こちらから今から行くぞって警告して回っているようなものだ」一度でも怜央に気づかれれば、こちらは全滅もあり得る――それが、この国で司馬家を敵に回すということだ。「それに……」仁志は、冷ややかに目元を引き締めた。「この男だけは、俺が自分の手で始末する」一回決めたことは、そう簡単には曲げない男だ。これ以上言っても無駄だ――雅人はそう悟り、それ以上の説得をあきらめた。代わりに、ずっと気になっていたことを口にする。「溝口さん。そもそも、どうしてあのときノールソンを殺してしまったんです?自分で手を下すにしても、あんな大勢の前でやる必要はなかったはずですよね……」あの頃、仁志の頭の病は、再発していた。そのせいで多少は判断に影響が出ていたのかもしれない。だが、あの瞬間の彼は、完全に理性を失っていたわけではない。自分の行動を選べる程度には、まだ意識ははっきりしていた。「……あの時点で殺しておかなければ、あとから始末するのは、ずっと難しくなる。それに――」淡々とした声でそう告げるとき、仁志の黒い瞳には、うっすらと冷たい光が宿っていた。「生かしておけば、絶対に星を誘惑された側だと言い張るだろう」その一言で、雅人はようやく全部を理解する。第一に、あのとき彼らがいたのはD国だ。もしあの場でノールソンを逃していたら、短期間で行方を突き止めるの
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第1199話

一度でも「許さない」と決めてしまったら。一度でも「距離を置こう」と腹をくくってしまったら――そのとき仁志という男が、性格的にどんな極端な行動に出るのか。それは、誰にも予測できない。そこまで考えてから、雅人は顔色ひとつ変えず、そっと主の表情をうかがった。今回の一件で、仁志はたしかに星に、決して小さくない厄介ごとを背負わせている。このところずっと、星は彼を守るために、相当な時間と神経をすり減らしてきた。仁志の部下という立場であっても、雅人は認めざるを得なかった――星は、自分の側にいる人間に、本当に手厚い。彩香に対してもそうだった。そして今は、仁志に対しても、同じように。だからこそ彩香は、命懸けで司馬家という、鬼の巣窟みたいな場所に潜り込み、星のために情報を盗み出そうとしたのだろう。ただ、このまま進めば――仁志は間違いなく、引き返せないところまで沈んでいく。もともと仁志は、「善人」なんて言葉とは真逆の男だ。もし星が、彼の求めるものを返してやれなかったとしたら――その先に待っているものを、雅人はあえて想像しないようにした。だがひとつだけ、はっきりしていることがある。この関係は、二人の間に埋め込まれた時限爆弾のようなものだ、ということだ。そのとき、仁志は再び携帯を手に取り、生配信の画面へ指を滑らせた。おそらく、生まれて初めて「誰かに守られている」という感覚を味わっているのだろう。薄い唇が、無意識のうちにふわりと上がる。見ていれば分かるくらい、機嫌がいい。その様子を眺めれば眺めるほど、雅人の胸の内は、ひやりと冷え込んでいく。――これって、どう見ても……世間で言う「恋愛バカ」ってやつじゃないか?……こうして、仁志の一件は、星の手によって、拍子抜けするくらいあっさりと片づけられた。今やネット上は、彼を称える声であふれている。オフィスに戻ってから、仁志は星に尋ねた。「そこまで確信していた理由は何ですか?もし世論が受け入れなかったら、どうするおつもりだったんですか?」「絶対に受け入れてくれるわよ」星は水をひと口飲み、ふっと笑った。「仁志。時代は変わったの。もう昔みたいに、何でも白か黒か、悪には徳で返せ、なんて世界じゃない。今の人たちが求めてるものは、本当に単純。たった二文字――公平」星の声は、柔らか
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第1200話

仁志は、何かを噛みしめるように、ゆっくりとうなずいた。そのとき、星の携帯が震える。画面には「奏」の名前。奏も、さっきの生配信をチェックしていた。ノールソンの死に、彼は一片の同情も抱いていない。当然の報いだと思っており、仁志のしたことは間違っていないと感じていた。「星、記者会見は大成功だったな」電話口から聞こえる声は、いつもより少し明るい。「あのスピーチ、俺まで胸打たれたよ。今回の件で、ノールソンは完全に犬死にだし、ノール一族も、これからずっと汚名をかぶって生きていくことになる。お前の会見が終わった途端にさ、ノール家の時価総額がガクッと落ちたんだ。資本だって、もうノール家に遠慮なんかしてくれないだろう。たぶんノールも、もうそう簡単にはお前にちょっかい出してこられない」今回、少しでも星の力になれたことが、奏には素直にうれしかった。以前の自分はあまりにも非力で、星が雅臣に好き勝手されるのを、止められなかったのだから。「それにな」奏は何かを思い出したように、声のトーンを変えた。「浩太の父も、今回の配信を見て、内心ほっとしてるはずだ。あのとき、お前の買収に応じておいて、本当に良かったって。もし断ってたら、今ごろひどい目に遭ってたのは、あの家の方だった」「そうね」星も、あっさりと同意した。奏が、ふと別の名前を出した。「そうだ。最近、彩香は何してる?ずいぶん連絡がなくてさ。一昨日電話したけど出ないし、メッセージも返ってこない。彩香、どこ行ったんだ?」その名が出た瞬間、星の眉間に、うっすら影が差した。「彩香は、たぶん司馬家に行ってる。数日前に、一度だけだけど、向こうから情報が来たわ」奏の声色が、わずかに低くなった。「司馬家?怜央のテリトリーだぞ。もしあいつに見つかったら……彩香、本気で危ない」「だから、彩香を救い出すつもり」奏と彩香も、昔からの友人だ。彼女の救出とあれば、手を貸さない、という選択肢はない。「星、もう計画は立ててあるのか?」「ええ。前に彩香が言ってたの。近いうちに、怜央がかなり重要な取引をするって」星は、その取引の内容を、ひとつずつ詳しく説明していく。「その取引に合わせて、彩香を奪還するつもりよ」「どうやって助け出す?」星は、口元にいたずらっぽい
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