夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 1211 - チャプター 1220

1332 チャプター

第1211話

航平は、肝心な局面ほど慎重な男だった。ほとんど隙を見せない。仁志もいくつかの手掛かりは握っている。ただ、どれも「言い逃れできる程度」にとどまる。まだ弱い。その程度で航平の仮面を剥がすつもりはなかった。何より、航平は深く正体を隠している。彩香も、奏も、翔太も――誰もが航平を「温厚で品があり、頭のいい人物」だと思っている。親友の雅臣ですら、最近になってようやく違和感を掴み始めた程度だ。航平の本性を皆に見せる。今はまだ現実的ではない。だが、仁志は焦っていなかった。時間がある。仁志が求めているのは、一撃で決められる確証だ。それまでは、航平を少し苛立たせるのも悪くない。むしろ効率がいい。仁志の言葉が積み上がり、ついに航平の理性が切れた。航平は仁志の胸ぐらを掴み上げる。「……お前ごときが、私に張り合う資格があるとでも?」航平は知っている。星の心の中に居場所を作るため、自分がどれだけ時間と策を費やしてきたか。傷つく芝居を打ち、何度も苦肉の策を演じて、ようやく信頼を取った。星が過去に雅臣に深く傷つけられたことも知っている。だから踏み込むのは簡単じゃない。それでも――雅臣より上で、雅臣より尽くさなければ、星が自分を選ぶ理由はない。そこまでして積み上げてきたのに。途中から仁志という異物が割り込んできた。仁志は表情を崩さない。声は静かで、「ええ。それと、女性が薔薇を受け取る意味くらいは知ってるでしょう」ベッドサイドの薔薇を視線で示す。「星野さんはもともと、カスミソウのほうが好きです。薔薇が特別好きというわけではない。でも、あの薔薇だけは気に入っていました」淡々と続ける。「枯らすのが惜しい、と。数日後にプリザーブドにして、毎日オフィスに飾るつもりだと言っていました」航平の堪えが切れる。花瓶を勢いよく払い落とした。――ガシャン!乾いた音。床に砕けるガラス。水が広がり、薔薇が転がる。同時に病室のドアが開いた。「仁志、どうしたの?」星だった。薬膳の器を手にして立ち尽くし、目の前の光景に言葉を失う。仁志の襟を掴む航平。床に散った破片。倒れた花。航平も我に返った。冷水を浴びせられたように熱が引く。「星、私は――」言いかけた航平の声を、仁志が先に遮った。「星野さん。鈴木さんの言う通り
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第1212話

一連の騒ぎがようやく落ち着いて、星は「航平がこの件を知ったのは、さっき仁志が口にしたからだ」と思っていた。星は静かに続ける。「司馬家の屋敷は地形が複雑なの。それに怜央は、事前に情報を掴んでたみたいで、かなり準備してた」言葉を区切り、息を整える。「……仁志が生きて出てこられたこと自体、当たり前じゃない」そう言いながら、星は床に落ちていた薔薇をそっと拾い上げた。花瓶は割れて水が広がり、花びらが散っている。星は航平に目を向ける。「航平。仁志は怪我人よ。先に手を放して。静養させてあげて、お願い」声はいつも通り穏やかで淡々としていた。けれど航平には、その言葉の奥に「距離」が混じったのが分かった。航平は深く息を吸い、ゆっくり仁志の襟から手を離す。「……すまない。少し感情的になっていた」素直に非を認める。この場で何を言っても言い訳にしかならない。下手に弁解すれば、余計に印象が悪くなる――航平はそれが分かっていた。しかも仁志の言い分は、反論しづらい。「気に食わないから」なら、まだ取り繕いようがある。だが仁志ははっきり言った。「役に立たないと思った」と。その上、航平は実際に、襟を掴み、花瓶を叩き落としている。どう説明する?仁志が自分を陥れるために自傷の芝居を――?挑発されたから――?星が信じるはずがない。なら、非を認めたほうが誠実に見える。案の定、星の表情は少しだけ和らいだ。星は視線を落として、散った花びらに気づく。その瞳に、薄い惜しさが浮かぶ。しゃがみ込み、花びらを一枚ずつ拾い集めた。本気でプリザーブドフラワーにするつもりだったのだろう。それほど、この一輪は美しい。「花の王」と呼ばれても大げさじゃない。薔薇に執着のない星でさえ、珍しく心から気に入った。その様子を見て、航平の胸を小さな棘が刺す。驚きと――嫉妬。航平も身をかがめ、そっと言った。「星、私がやるよ」だが星は静かに手を避けた。「ありがとう。でも、私がやるわ」航平の動きが止まる。ふと視線を上げた瞬間、ベッドにもたれた仁志と目が合った。含みのある、薄い笑み。航平は無意識に拳を握る。――やはり、わざとだ。星は責めなかった。けれど仕草と距離感だけで分かる。今回の衝動は、確実に星の中での評価を落とした。その瞬間、
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第1213話

車椅子の男は、怜央とどこか似ていた。整った顔立ち、端正な輪郭。名家の長子らしい品も残っている。ただ――近くで見ると、両目は焦点を結ばず、光も感情も宿っていない。静まり返った陰鬱な廊下に、低く磁力のある声が響く。「月澄。外で何が起きてる?ずいぶん騒がしい」月澄(つきすみ)と呼ばれた女は、淡々と報告した。「ご報告します、若様。何者かが屋敷へ侵入し、怜央様を襲撃したようです。寝殿付近が爆破されたとも……怜央様は重傷だと聞いています」男は少し間を置き、意味深に呟いた。「……都合がいい話だな」月澄が思わず聞き返す。「都合がいい、ですか?」「あぁ」男はわずかに口元を上げた。「つい先ほど連絡があった。怜央の荷が奪われたそう。相手とは二十年の取引。輸送ルートも固定で、今まで襲撃なんて一度もない。それが今回は奪われ、指揮を執るはずの怜央は刺殺されかけて重傷」月澄は短く答える。「……確かに、出来すぎていますね」男は思い出したように言った。「月澄。彩香という女性を知っているか?」月澄の表情が、一瞬だけ固まる。幸い、男の虚ろな目には何も映っていない。月澄は首を横に振った。「いいえ。存じ上げません。どうかなさいましたか」男は静かに続ける。「弟が数日、庄園で彩香を探していた。地面を掘り返す勢いで探したのに見つからない。それで、数年来誰も寄りつかないこの場所にまで来た……面白いと思わないか」月澄は作り笑いを浮かべる。「ええ。とても興味深いです」月澄――その少女こそ、彩香本人だった。彩香は本名で応募するほど愚かじゃない。偽名と偽の身分で司馬家に入り込んでいた。司馬家の庄園は広い。怜央は静けさを好む。一族はそれぞれ離れた場所に住み、同居しているわけではない。そして――健人。家主争いに敗れ、両目を失った彼は、庄園の中でも最も人目につかない場所へ追いやられていた。山に近く、年中日差しが弱い。昼でも薄暗い。健人のもとで働きたがる使用人はほとんどいない。担当が決まっても辞めていくばかりで、補充はない。追放された敗者。足も不自由で、視力もない。再起の可能性は限りなく低い。ここで働くのは、自分の将来を捨てるのと同義だ。今この屋敷にいるのは三人だけ。執事の佐原(さはら)、五十代の白倉(しらくら)、そして
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第1214話

健人の助手が状況報告に来た日。彩香は物陰から盗み聞きして、知った。司馬家は協力先と長年取引している。輸送ルートは驚くほど固定され、ほとんど変わらない。司馬家はM国で絶対的な権勢を持つ。怜央は悪名高く、手段も苛烈。彼の荷に手を出せば――まず生きて帰れない。だから司馬家は、ルートを変えない。「ここは司馬家の道だ。触るな」そう見せつけるためだ。星と彩香がM国へ来たのは復讐のため。他人が奪えないからといって、彼女たちが奪えない理由にはならない。情報が真実かどうか、彩香にも確信はなかった。それでも星に伝えることを選んだ。怜央は闇の毒蛇だ。慎重なだけじゃ倒せない。賭けに出る勇気がないなら、ここまで来た意味がない。彩香は知っている。星はこの好機を見逃さない。そして星の頭なら、必ず逃げ道も用意する。――まさか、本当に成功するとは。彩香はさらに驚いた。健人のもとで聞いた話が、どうやら事実だったのだ。やはり健人のそばに残った判断は正しかった。後継者だった男が握る情報は、想像以上に多い。そう思うと、血が熱くなる。健人は歩けない。目も見えない。信用さえ取れば、情報を少し借りるなんて簡単だ。その時、健人の声が彩香の思考を切った。「今回、荷が奪われたのは……確かに妙だね」彩香ははっとして意識を戻す。「妙……ですか?」健人は続ける。「司馬家は長い間、何も起きなかったのに、今回急に大事件が起きた。助手が掴んだ話では――司馬家が同じ荷を複数へ売り、あとで横取りされたことにして穴埋めしたのではないか、と」彩香の目がぱっと輝いた。彩香は、星が荷を奪って怜央を苛立たせるだけだと思っていた。違う。星はもう一枚上の芝居まで仕込んでいた。相手に「怜央が闇バイトをやった」と思わせ、憎しみを向けさせる。しかも怜央は昏睡。指揮も釈明もできない。――完璧だ。健人が低くため息をつく。「司馬家は最近、情勢が良くない。怜央の性格なら……そういう手に出ても不思議ではない」身内ですら信用しない。外ならなおさらだ。彩香は笑いを抑えきれなかった。どうせ見えない。だが健人は、目が見えなくても耳が鋭い。「月澄……笑っているのか」彩香は咳払いして、わざと正義感ぶった口調で言う。「はい。怜央様は若様をこんな状態にしたんです。あいつ
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第1215話

彩香は怜央が負傷したのは知っていた。だが、ここまで酷いとは思っていなかった。しかも――手が使い物にならない?胸のつかえが、一気に落ちる。星の手を壊した報いだ。自業自得。彩香は言う。「今は医療も進んでますし。手、治る可能性もありますよね」健人は首を横に振った。「ない」彩香は眉を上げる。「若様、どうして言い切れるんですか?」健人は静かに告げた。「――今も怜央の手下が、切断された腕を見つけられていないから」……昼夜をまたぐ救命処置の末、怜央はようやく目を覚ました。傷は致命傷ではない。命に別状はない。だが意識を取り戻した直後、助手が青い顔で駆け寄ってきた。「司馬さん……例の輸送の件ですが。誰が流したのか分かりませんが、エデ家が『あなた方が意図的に闇喰らいをした』と言って説明を求めています!司馬さんが表に出てこないので、やましいから黙って認めたと取られ、あちこちで騒ぎになっていて……」助手は息を呑み、続ける。「すでに複数の一族が取引を一時停止しました。このまま手を打てなければ……司馬家は本当に大問題になります!」星が司馬家を何度も暴いたことで、企業価値は大きく削られていた。だが司馬家は頂点の豪門だ。その程度で崩れはしない。司馬家の最大の拠り所は――武器の取引。M国では合法でも、表に出せる商売じゃない。ここが揺らげば話は別だ。致命傷になり得る。怜央の目が冷たく沈む。「荷を奪ったのは誰だ――特定できているのか」助手は頭を下げたまま、言いよどむ。「そ……それが……」怜央の青白い顔に怒気が差す。「言え。歯切れの悪い話し方をするな」助手は震えながら吐き出した。「今回の襲撃は……奇妙です。エデ家の護衛たち、銃撃戦すら起きていません。それどころか……死傷者が一人もいないんです……ほぼ全員、無傷のまま奪われました」怜央の瞳が、さらに暗くなる。彼はずっと、この件は仁志と無関係じゃないと思っていた。タイミングが出来すぎている。だが怜央は仁志を調べている。あの男は「根を絶つ」タイプだ。彼が絡めば血が出る。エデ家が無傷。それは仁志のやり方ではない。怜央はすぐに思い当たった。自分に情報を流してきた、あの人物。仁志は怜央が現れた瞬間、確かに少し意外そうだった。つまり裏で情報を流した者は、二
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第1216話

――航平。怜央の脳裏に、その名前が浮かぶ。最近あの男はM国にいた。しかも以前、優芽利を拉致し、商業機密を吐かせようと脅した前科がある。もっとも、こちらも気づいたあと、逆にその手を利用して――航平が黒幕だと突き止めた。つまり、あの男が手札を持っている証拠でもある。ならば。今回、司馬家の荷を奪ったのも、航平――その可能性が高い。怜央は、氷のように吐き捨てた。「航平……あの薄汚いハエめ。前に叩き潰し損ねたから、また這い上がって来やがった」片方の耳は包帯で塞がれ、もう片腕はない。それでも怜央の目だけは、黒く燃えていた。「俺の荷にまで手を出す?命が惜しくないらしいな」助手が、恐る恐る口を開く。「司馬さん……で、では……今、どうなさいますか……?」怜央は眉間に皺を寄せた。荷は価値が高い。条件なしでエデ家に渡すなどあり得ない。だが航平はすでに、司馬家が闇喰らいをしたという噂を流している。ここで対応を誤れば、信用は地に落ちる。以後、誰もまともに取引などしないだろう。怜央が頭を回していると、病室のドアがノックされた。入ってきたのは、妹の優芽利。その後ろに明日香が続く。「お兄ちゃん。明日香がお見舞いに来たよ」怜央が倒れてから、優芽利はずっと病院に張り付いている。庄園の爆発は事実だが、怜央が負傷して入院したことは徹底的に伏せられていた。当然だ。これは事故では済まない。漏れた瞬間、仇敵が群がってくる。だからエデ家が誤解して騒いでいても、司馬家は「怜央が負傷した」とは言えなかった。怜央は助手を一瞥する。「下がれ」助手は軽く会釈し、二人に挨拶して病室を出た。明日香がベッド脇へ寄る。「司馬さん……ご容体は、大丈夫ですか?」今の怜央は、これまでにないほど無残だった。耳はぐるぐる巻きの包帯。腕も固定され――いや、途中からない。怜央は視線を落とし、空っぽになった場所を見て顔色を変える。「……俺の腕は?」優芽利は目を泳がせた。「お兄ちゃん、腕は……下の人たちが探してるけど、見つからなくて……」搬送は間に合っていた。腕さえあれば、再接合できた可能性もある。だが、腕がないならどうにもならない。怜央は、はっと優芽利を睨みつけた。「……つまり、人数を動かしても仁志を捕まえられなかったっ
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第1217話

優芽利は小さな声で言った。「あの夜、あんなに暗かったんだよ。監視カメラにも仁志は映ってないし……お兄ちゃんが見間違えてても、おかしくないと思う」一拍置いて、刺す。「……この前だって、お兄ちゃん、仁志のこと誤解したじゃない」優芽利は最初から、仁志が怜央を襲ったとは思っていなかった。彼女には、それが「兄が自分と仁志を引き離すための口実」に見えていた。怜央は怒りきって、逆に笑った。「腹の内が読めない男のために、実の兄を疑うのか。いい、いい……本当にいい妹だな!」怜央が倒れてから、優芽利は病院で一日一晩つきっきりだった。それなのに感謝もなく責められる。優芽利も冷笑が漏れる。「明日香のためなら、お兄ちゃんだって何でもするじゃない。いざって時、実の妹を見捨てたくせに……私を責める資格、あるの?」それは以前、優芽利と明日香が同時に誘拐された時――怜央が明日香を優先して救った件だった。その言葉に、明日香の目がわずかに揺れる。表情は崩さず、優芽利を一瞥した。優芽利がずっと触れなかった話題だ。蒸し返したくないのは当然。だから明日香も、二度と口にしなかった。だが――ここまで恨みを抱えていたとは、思っていなかった。怜央も一瞬固まり、言葉を失う。病室の空気が、一気に凍る。長い沈黙。それを破ったのは、突然のノックだった。明日香が立ち上がる。「私が出ます」ドアの向こうは宅配員だった。「こんにちは。怜央様宛てのお荷物です」返事を待たず、小さな箱を渡して立ち去る。明日香は手のひらサイズの箱を見つめ、眉をひそめたまま病室へ戻った。怜央が問う。「明日香、それは何だ」「宅配の方が、司馬さんの荷物だと……」優芽利が唐突に言う。「……まさか、時限爆弾じゃないよね?」明日香の手が止まる。怜央が低く命じた。「明日香。箱をこっちに寄こせ。お前と優芽利は、先に出ろ」明日香はすぐに微笑む。「大丈夫です。私が開けます」果物ナイフで箱を切り開いた。中身は爆弾ではない。小さなUSBメモリが一本。明日香は少し考え、優芽利に言った。「優芽利、ノートパソコン……少し借りてもいい?」優芽利は付き添いの暇つぶしにドラマを見ていた。さっきの感情も少し落ち着き、ノートパソコンを差し出す。「どう
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第1218話

明日香は、重い顔のまま雲井家へ戻った。玄関に入ると、忠と翔が立ち上がる。「明日香。怜央の具合はどうだ?」「どうなってる?」明日香は小さく首を振った。「……あまり良くない」忠が眉を寄せる。「何があった。なんで庄園が爆破されて、怜央は負傷して、荷まで奪われるんだ」明日香は前後の流れを一通り話した。「司馬さんは襲撃を受けた。腕を一本失っていて、耳も重い損傷よ」忠が目を見開く。「……誰だよ。そんな度胸のあるやつ。荷を奪って本人まで襲うとか、正気じゃねぇ」忠は短気だが、筋は読む。荷の強奪と襲撃は繋がっている――直感で分かった。明日香は黙ったままだった。仁志のことを、兄たちに言うべきか迷っている。翔はその沈黙にすぐ気づく。「明日香……何か知っているな?」明日香は口を開きかけ、結局飲み込む。翔は淡々と続ける。「明日香。今の司馬家を見れば、もう望みは薄い。怜央は負傷したせいで、当分表に出て指揮できない。仇も敵も、この機会を逃すはずがない」そして、冷たい笑み。「それに司馬家は外患だけじゃない。内憂もある。状況は明らかに下り坂だ。怜央の座も安泰じゃない」視線を真っ直ぐに。「明日香。怜央という一手は、捨てるべきだ」翔は目が利く。これは単なる株価や時価総額の減少では済まない――そう見抜いている。荷を一度奪われた程度で司馬家が潰れることはない。だが、ここを境に怜央の立場は揺らぐ。明日香はため息をつき、ついに言った。「……実は。今回、司馬さんを襲ったのは……仁志だ」忠は目を丸くする。「仁志!?じゃあ星の差し金だろ!度胸ありすぎだろ……殺して奪うとか!」だが翔は単純に乗らない。「明日香。詳しく言え。どういうことだ?」明日香は答えず、逆に尋ねた。「……世界一の富豪、溝口家。知ってるよね?」翔の眉が動く。何かに気づきかけた顔。一方、忠は即答。「もちろん。うちみたいな大きい一族と並ぶだろ。でもあそこ、ぐちゃぐちゃじゃん。揉め事ばっかで、関わりたがる家なんていねぇ」翔は明日香を見据える。「仁志と溝口家に……関係があるのか?」忠が鼻で笑う。「関係って?苗字が同じだけだろ。身の程知らずのボディーガードが、色で売ってさ。星みたいな恋愛バカを転がしてるだけじ
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第1219話

翔の目が揺れた。「明日香。その情報は確かか?清子が嘘をついている可能性は?あるいは仁志が詐欺師で、皆まとめて騙されたとか」明日香は頷く。「私もその線は考えた。だから今まで言わず、裏を取ろうとしていた」落ち着いた声で続ける。「清子が雅臣を騙すために用意した病歴と医師――それを買収して動かしたのは、実は仁志だった。仁志の手がなければ、清子が雅臣を騙し切れるはずがない」さらに、言葉を足す。「それに……」明日香は、清子や星の力だけでは到底できないことをいくつも挙げた。そして最後に静かに結論を落とす。「星が突然、あれだけの資金で小林家を買収できたのも、裏に仁志がいた可能性が高い。……状況証拠を積むと、仁志が溝口家の当主だという線は、かなり濃いと思う」忠が顔をしかめる。「当主ならなおさらだろ。堂々たる家主が、星の横でボディーガード?目的は何だよ。殺猪盤でもやってんのか?」明日香は答える。「今見えている範囲だと……仁志の野心は相当大きいはず。司馬家を呑み込むつもりかもしれない。それだけじゃなく、私たち雲井家にも手を伸ばす可能性がある」それが、いちばん筋の通る説明だった。明日香は怜央とは違う見方をしていた。荷を奪ったのは航平ではなく、むしろ仁志――そう感じている。翔がふと思い出したように言う。「そういえば明日香。お前、溝口家の令嬢……由芽と仲が良かったな。彼女は内情を話さなかったのか?」明日香は首を振る。「知り合った頃、何度か家の話になった。でもその時、当主はまだ仁志ではなかった」明日香が由芽と知り合ったのは偶然だ。溝口家は外界との接触が少ない。だがゼロではない。ただ――世間は溝口家を蛇蝎のように避けた。関われば呪いが移るとでも言うように。当時、溝口家では当主にまた不幸が起きた時期で、由芽でさえ露骨に孤立していた。友達になろうとする者はおろか、話しかける者すらいない。明日香は、その窮状を見ていた。何度か手を差し伸べるうちに、由芽は明日香を「親友」と呼ぶようになった。明日香は続ける。「由芽は、家のことをほとんど話しない。私も無理に聞かなかった。たまに触れても、言葉を濁すだけで……深く語りたがらない。でも、ひとつだけ確かなのは――仁志の身分は、たぶん偽りではない」明日香は
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第1220話

どれほど沈黙が続いたのか、もう分からない。やがて翔が、ぽつりと口を開いた。「明日香。怜央は、もう捨て駒だ。仁志を……こっちの駒にできないか?」明日香は目を細め、頭の中で手順を組み立てる――すぐに言葉が出なかった。仁志は、彼女が今まで見てきた男たちと違う。底が見えない。明日香ですら、確信を持てない相手だった。翔は、明日香が即答しない時点で察する。「……お前でも難しいなら――」言い切る前に、明日香は何かを掴んだように顔を上げた。「……やってみる。でも、結果は保証できない」忠が思わず割り込む。「でもさ、明日香。優芽利って、仁志のこと好きで好きで仕方ねぇんだろ?それ知ったら、優芽利、明日香に噛みついてくんじゃね?」明日香は忠を見て、根気よく言い聞かせる。「兄さん。手駒にするやり方は、いくらでもあります。男女の情だけが手段じゃない」忠は、はっとした顔になってから、悔しそうに眉を寄せた。「……悪い。明日香。俺、視野が狭かった」明日香は軽く笑って、それ以上は何も言わなかった。……星は、ここ最近ずっと忙しい。仕事が詰まっている。怜央の荷物の処理もある。それに加えて、仁志の世話まで。仁志は、自分の任務のせいで負傷した。なら看病するのは当然だ、と星は思っている。病室にもノートパソコンを持ち込み、空いた時間で仕事を片づけた。そんなある日。星の受信箱に、匿名のメールが一通届いた。開くと――中身は、怜央の違法の証拠の数々。勢力固めのため、手段を選ばず異分子を潰した件。数えきれない悪行。そのうえ、親族にまで手をかけた痕跡まである。文章は長い。読み進めるほど、星の眉間が深く寄っていった。その時、仁志は携帯で情報を確認していた。星のそばにいる時間が長くても、仕事がないわけではない。基本は携帯で処理している。謙信へのメッセージを送り終え、ふと顔を上げた仁志は、星の表情がいつの間にか冷え切っていることに気づいた。「星野さん。何かありましたか?」星が集中している時、仁志は普段、余計な口を挟まない。星はまだ粗いところはあるが、雲井グループに入った頃よりずっと落ち着いて動けるようになっていた。判断が必要な場面も、少しずつ一人で任せている。足りないところだけ、彼が助言する。最後に取捨選択するのは、星だ。星は
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