All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1171 - Chapter 1180

1339 Chapters

第1171話

「もうしない。お願い……どうか、一度だけチャンスを……」怜央は、喉の奥でくつくつと笑った。「その出来の悪い頭で、仁志の前に一歩でも出てみろ。瞬きする間もなく見破られる……清子。お前は俺にとって、価値ゼロだ。豚みたいな足手まといなんざ、役に立つどころか邪魔なんだよ」怜央は手をひらひらと振り、部下に命じた。「優芽利に渡せ。好きにさせろ。殺しても構わない」清子など、とっくに捨て駒だった。もとから大した価値はない。仁志が彼女をそばに置いていたのも──どうせ大きな波など立てられないと分かっていたからだ。ついでに優芽利を刺激して、二人が初恋を巡って争う様子を眺めて楽しむため。悪趣味以外の何ものでもない。仁志にとって使えない駒は、怜央にとっても不要だ。せいぜい優芽利のガス抜きにでも使わせればいい。怜央は一度も振り返らず、その場を後にした。背後では、清子の悲鳴じみた声が響き続けた。「司馬さん!わ、私は……仁志の秘密を、たくさん知ってるよ!きっと、お役に立てる!本当に……本当にできるから!」怜央は最後まで聞こえないふりを決め込んだ。頭も悪い。根性もない。そんなゴミみたいな女など──星の足元にも及ばない。怜央の頭が腐ってでもいないかぎり、こんな女と組むはずがなかった。……星は蛇に噛まれたものの、毒の処置が早かったおかげで、少し休むとすぐに回復した。本来なら、雅臣はそろそろZ国へ戻る予定だった。だが星の失踪騒ぎで、雅臣と翔太はM国にさらに一週間、足止めを食うことになった。星の体調が完全に戻ったのを見届けてから、雅臣は名残惜しげに翔太を連れて帰国した。というのも、山田グループのほうで突然大きなトラブルが持ち上がったからだ。航平の会社もようやく立ち直りかけており、自社のことで手一杯。山田グループを助けたくても、手を回す余裕がない。雅臣はすでに勇からは手を引いているものの、神谷グループと山田グループの共同案件はまだ多い。山田グループが破綻すれば、神谷グループにも被害が及ぶ。だからこそ、雅臣は直接戻って状況を確認するしかなかった。一方そのころ、星が率いる会社は急激に伸びていた。小林グループの買収。忠の会社を底値で引き取る──その一連の動きによって、雲井グループの多くの株主が、彼女を見直し始めて
Read more

第1172話

そこまで一気に言うと、彩香は星に早口で別れの言葉を告げ、そのまま通話を切った。星は、通話の切れた携帯の画面をしばらく無言で見つめていた。けれど結局、かけ直すことはしなかった。仁志は、彼女の険しい表情に気づき、穏やかに声をかけた。「何かあったんですか?」星は、彩香から聞いた話を一通り説明した。そして、きゅっと眉を寄せた。「彩香、しばらく姿を消すって……たぶん司馬家に潜り込んでる。どこからその情報を手に入れたのかは分からないけど……危険すぎる。どうにかして彩香を助け出さないと」仁志の瞳は、底の見えない古井戸のように深く、暗い波が静かに揺れていた。「その人のこと、心配してるんですね?」星は自分の思考に沈み込んでいて、彼のわずかな変化には気づかない。「簡単に彩香に連絡はできないの。もし潜入してるのがバレたら、もっと危なくなる。仁志……彩香の安全を守ったうえで助け出す方法、何か思いつかない?」顔を上げた星が視線を向けた先で、仁志の深い黒い瞳が、真っ直ぐに彼女を映していた。その視線の圧に、胸がほんの少し跳ねる。星は瞬きをした。「……どうしたの?なんでそんなふうに見るの?」仁志はゆっくりとまぶたを伏せた。「あなたがこの情報自体を疑うと思いました」しかし、彼女の第一反応は──情報の真偽ではなく、彩香の安否を案じることだった。星は一瞬ぽかんとし、それからようやく、彼がそんな目で見ていた理由に思い当たる。「彩香は、子どもの頃からの友達なの」窓辺の観葉植物に視線を移し、静かに言葉を継いだ。「彼女がどれだけ衝動的でも、どれだけトラブルを起こしても……私は彼女を見捨てない。心を鬼にしなきゃ、大きなことなんて成し遂げられないのも分かってるんだけどね」そこで小さく息をつき、淡々とつぶやいた。「でも……私はきっと、生まれつきそういう大きなことをする人間じゃないんだと思う」仁志が口を開いた。「あなたのような人と友達でいられるのは、幸せです」星は苦笑した。「あなたが、私を感情的すぎるなんて思わないなら、いいんだけど」仁志は星に、多くのことを教えてくれた。星も、頭では理解している。だが、分かることと、実際にできることは別だ。「雅臣さんと翔太さんは、あなたの価値を見抜けていませんでした」仁志の言葉に
Read more

第1173話

星は、もともと社交が得意なタイプではない。それでも、こういう場こそ人脈を広げ、資源を交換するチャンスだということは理解していた。仁志は、星のエスコート役として終始そばについていた。彼女にちょっかいを出そうと、死角から伸びてくる品のない手を防ぐためでもある。ひと通りの挨拶が終わるころには、星はさすがに疲れを感じていた。「少し……休憩室で休みたい」そう口にすると、仁志は即座に頷いた。「はい。行きましょう」ちょうどその頃、少し離れた場所にいた男が、思わず口元をぬぐった。涎が垂れそうになるほど、視線を奪われていたのだ。──これは……最高級の美人だな。スタイルも抜群、顔立ちも滅多にお目にかかれないほど整っている。男の名はノール家の御曹司、ノールソン。今はノール家の後継者として扱われている。ノール家には愛人が山ほどいるが、子どもは一人だけ。Z国風に言えば「代々ひとりっ子」。しかも、なぜか必ず男だ。そのためノール家には、独特の家訓がある。「最初にノール家の子を産んだ者を、正妻とする」。そのあとに別の愛人が子を産めば、それなりの特権や財産は与えられる。しかし──ひとりっ子の呪いは、今もなお続いていた。ノールソンは女好きで、権力も地位もある。気に入った女がいれば、強引に奪うこともしばしば。D国でノール家に逆らえる者など、まずいない。独身女性はもちろん、既婚者も例外ではない。名家の令嬢でも、財閥夫人でも、一度「欲しい」と思った女は、必ず手に入れてきた。ノールソンは後継者ではあるが、まだ家主ではない。だから今回の契約交渉にはノール家の家主が自ら臨み、彼は署名の場には姿を見せなかった。夜の祝賀会になって、ようやく顔を出したのだ。そして会場に足を踏み入れた瞬間、彼の視線は仁志の隣に立つ星に吸い寄せられた。なんて綺麗な女だ……秋の水面みたいに澄んだ目元で、一目見ただけで心がざわつく。長年、数えきれないほどの女を見てきた彼にも分かる。──これは、生まれつきの美人だ。後ろ姿を眺めているだけで、ノールソンの頭の中にはあらゆる妄想が膨らんでいく。「坊ちゃん……!」隣にいたアシスタントが、あわてて小声で注意した。「その女性、雲井グループのお嬢様ですよ!絶対に手を出しちゃいけません!」だがノールソンは鼻で笑った
Read more

第1174話

部屋の中に、見覚えのない外国人の男が立っていた。歳は二十代後半くらいだろう。きっちりスーツを着こなし、顔だけ見ればそれなりに整っている。だが、その目が落ち着きなくぎょろぎょろと動き回り、見ているだけで生理的な嫌悪感が湧いた。間近で星を眺めた瞬間、男――ノールソンは、さらに目を見張る。……やっぱり、すげえこれまで自分のまわりにいた、厚化粧で着飾った女たちとはまるで違う。星のメイクは驚くほど薄い。それなのに、いや、それだからこそ、隠しようのない華やかさが際立つ。一目で分かる――まさに高嶺の花だった。常識外れのレベルの美人だった。ノールソンは喉をゴクリと鳴らし、星を舐めるように見つめた。「嬢ちゃん、俺はノールソン。ノール家の次期後継者だ」まずは名乗りを上げ、いやらしく目を細めて星の顔に視線を貼りつける。声までねっとりとしていた。できれば、相手のほうから靡いてきてほしい。そうなれば、無理やりにする必要もない――彼は本気でそう思っていた。星は表情ひとつ変えず、冷えた声で口を開いた。「ノール様、お部屋をお間違えではありませんか?」その澄ました顔を見た瞬間、ノールソンの中で征服欲に火がついた。下卑た笑みを浮かべ、星へじりじりと近づいていく。「なあ、美人ちゃん。さっきお前の隣にいた、あの色白のガキな。女より顔は整ってるくせに、中身はスカスカの張りぼてだ」ねちっこい声で続けた。「一回、俺と試してみろよ。この俺様が、本物の男ってやつを教えてやる」それでも足りないと感じたのか、さらに言葉を重ねた。「俺の女になりさえすりゃ、契約だの注文だの、全部丸く収まる。欲しいだけ仕事、回してやるよ」そこまで言い終えたときには、もう自制心など残っていなかった。ノールソンは星めがけて、獣のように飛びかかる。……が。星の表情は、最初から最後まで静かなままだった。男が飛びかかってきたその瞬間、彼女はその手首をがしっとつかみ、くるりと反対方向へひねり上げる。そのまま床へねじ伏せ、ハイヒールの踵で体を踏みつけた。これまで何度となく、こういう嫌な目に遭ってきた星は、専門の先生について護身術を習っていた。達人と呼べるほどではないものの――酒と女に溺れきった、ノールソンのような腑抜けを相手にするには、十分すぎる腕前だった。華
Read more

第1175話

ノールソンの言葉が最後まで出きる前に、仁志はすでに彼の目の前に立っていた。ヒヨコでもつかむみたいに、片手でノールソンの体をひょいと持ち上げる。暗く沈んだ瞳が一片の感情も見せず、ノールソンを見下ろした。低く落とされた声は、骨の髄まで凍らせるように冷たい。「それで、どうするつもりですか?」部屋へ戻る途中、さきほどわざと彼に酒をぶちまけたウェイターと鉢合わせた。ああいう稚拙な小細工を見抜けないほど、仁志は甘くない。すべて察した彼は、そのまま引き返してきたのだ。どす黒く沈んだ瞳と目が合った瞬間、ノールソンは魂が半分抜けかける。生きている人間で、これほどまでに冷たく、恐ろしい目を見たことがなかった。自分は見たことがない。――まるで、死者の眼球だけを生者の顔にはめ込んだような、背筋の寒くなる視線だった。だが、この時点でノールソンは、ただ本能的に恐怖を覚えているだけで、事態の重さまでは理解していない。「お、お、俺が……あいつを処分する。あとで何か問題になっても、全部俺が責任を取る!」どもりながら、それでもどうにか言葉をひねり出す。仁志の黒い瞳が、さらに深く沈んだ。「彼女を……あなたに任せろと?」ノールソンは、その問いかけを、仁志が折れたサインだと早合点する。「そんなにあの女に未練があるなら、一緒に遊んでやっても……うぎゃあああああっ!」言い終える前に、肺が裂けるような悲鳴がノールソンの喉から絞り出された。あまりにも凄まじい叫び声で、廊下で待機していたスタッフたちの耳にも、はっきりと届く。その中には、ノールソンのアシスタントもいた。さきほど、仁志の足止めに失敗したアシスタントは、本来ならすぐに戻ってノールソンに報告するつもりだった。だが、たった一歩遅れた。その一歩が命取りになった。耳慣れた主の悲鳴を聞いた瞬間、胸騒ぎが一気に膨れ上がる。もはや迷っている場合ではないと悟り、慌てて応援を呼びに走った。ノール家の当主――ノールソンの父のもとへ、すぐに知らせが届く。報告を聞いたノールは、顔色を変え、その場で駆け出した。現場の部屋の前にたどり着いたときには、すでにドアの外は人だかりになっていた。集まった者たちは皆、どこかおかしな表情を浮かべている。顔は青ざめ、体を小刻みに震わせていた。ノールは人垣をかき分け、
Read more

第1176話

その場にいた誰ひとりとして、反応する暇すらなかった。星でさえ、呆然と立ち尽くすしかない。止めに入る余裕など、かけらもなかった。ここはD国だ。M国ではない。いや、もしM国だったとしても、ノール家の後継者をこんなふうに始末していいはずがない。ノール家は、決して「取るに足らない小さな家」などではなかった。星の胸が、きゅっと強く締めつけられる。最初に仁志が現れたとき、彼女はあえて止めなかった。ノールソンに、一度思い切り痛い目を見せてやりたい気持ちもあったからだ。こんな男、死んだって誰も惜しまない――そう思っていたのも事実だ。だが、まさか本当に命を奪うとは思っていなかった。再起不能にするだけでなく、完全に。やがて、騒ぎを聞きつけた足音が、廊下のほうから近づいてくる。ここまで来てしまえば、何を言ってももう手遅れだ。――この場に長く留まってはおけない。そう悟った星は、仁志のもとへ歩み寄り、低い声で言った。「仁志、まずはここを出よう」仁志は黙ったまま、小さくうなずいた。ノールソンの放蕩ぶりは、とうの昔にD国中に知れ渡っていた。だがノール家の権勢と地位を恐れ、誰ひとり正面から逆らおうとはしなかった。どれだけひどい目に遭わされても、人々は泣き寝入りするしかなかったのだ。誰もが、このまま彼は好き放題に生きていくのだろうと高をくくっていた。まさか、こんなにもあっさりと自分より格上の相手にぶつかり、その場で命を落とすとは、誰も想像していなかった。ノールソンが踏みにじってきた女たちは、数えきれない。まさに「悪事身に返る」報いが遅れていただけで、消えてなくなったわけではなかった。やがて、ノールソンがその場で射殺されたという噂は、瞬く間にD国中を駆け巡ることになる。その知らせを耳にした多くの者が、心の中で快哉を叫んだ。ノールソンの死は、世の中から害を一人分取り除いたようなものだ、と。それは、多くの名門の男たちも同じだった。誰だって、自分の妻や娘があのクズに目をつけられ、辱められ、それでもなかったことにして耐え続けなければならない未来など、望んでいない。……車に乗り込むなり、星はすぐに凌駕へプライベートジェットの手配を指示した。一刻も早くD国を出なければならない。ノールソンが死んだ――それは決して小さな事件で
Read more

第1177話

星は、にじむような夜の闇をぼんやり眺めながら、もう一度携帯を耳に当てた。数コールも鳴らないうちに、明るい声が飛び込んできた。「星?仕事終わったの?よかったー!明日さ、D国案内してあげようと思ってたんだよ!てか今どこ?迎えに行くから場所教えて。せっかくD国まで来たんだし、夜遊びの予定もちゃんと入れとかなきゃ!」晴子。今はD国在住だ。卒業後はいったんM国で仕事をしていたが、すぐに家族に呼び戻され、またD国で暮らしている。星と澄玲、瑛、それから晴子。四人は頻繁に会えるわけじゃない。それでもメッセージはこまめに送り合い、共通のグループチャットまで作っていた。今回の出張で星がD国に来ると聞いたとき、晴子は大騒ぎで喜んでいた。「仕事終わったら絶対連絡して!」と、何度もしつこいくらい念を押されたのだ。星も、彼女と会うのは久しぶりで、楽しみにしていた。……はずだったのに、こうなってしまっては、もはや一緒に出かけて遊んでいる場合ではない。星は、自分の状況を手短に説明した。「晴子、ごめん。ノール家を怒らせちゃってさ。たぶん今回は、会いに行けない」その一言で、電話の向こう側の空気が変わった。「星……何があったの?どうしてあの人たちを怒らせることになるわけ?」「ノールソンが、急に私の部屋に押しかけてきたの。で……ちょっと、手加減を間違えた」ノールソンがどういう人間か、晴子は嫌というほど分かっている。ついさっきの、街全体の封鎖騒ぎが脳裏をよぎり、すぐに事態の重さを悟った。詳しいことはあえて聞かず、声を落として言った。「星、ノール家はD国じゃ完全に絶対権力側だからね。さっきみたいに全市封鎖までやるってことは、しばらくまともに出国なんて無理だと思う。だったらさ……うちに来て、しばらく身を隠さない?望月家も、D国ではそれなりに力あるから、さすがに家の中まで捜索はしてこないはず」それを聞いた星は、即座に首を振った。「晴子、その気持ちは本当に嬉しい。でも、それはダメ。私が行ったら、あなたまで巻き込んで、一族ごと潰されかねない」電話の向こうで、晴子の背筋に冷たいものが走る。「……そこまでヤバいの?」「D国って、私あんまり土地勘なくてさ。検問とか捜索を避けやすいところ、どこか心当たりある?」星は、まずは今回の嵐が過ぎる
Read more

第1178話

異変にようやく気づき、星はあわてて声をかけた。「仁志、大丈夫?どこか痛いの?」仁志は、痛みを堪えるように眉間を指で押さえ、軽くもみながら答えた。「……問題ありません。少し、頭が痛むだけです」星は、不安そうにじっと彼の顔を見た。「本当に?」仁志は、かすかにうなずく。だが、その顔色はどう見ても「大丈夫」とは言い難い。星にとって、こんな仁志はほとんど初めてだった。あの交通事故のときでさえ、ここまで壊れやすそうな雰囲気はなかった。仁志は、視線を彼女に向けたまま口を開いた。「今日の件は僕の責任です。多くの目撃者がいます。……僕を引き渡せば、ノールはあなたを追わないはずです」星は、きゅっと眉根を寄せた。「仁志、何言ってるの?」仁志は、彼女の言葉をそっと遮った。「星野さん。まず、聞いてください」黒い瞳が静かに、まっすぐ彼女をとらえた。「あなたは雲井家の令嬢で、手は汚していません。ノールも簡単には手を出せない。しかし、僕と一緒にいれば、危険が続きます。ノールは僕を許さず、必ず追ってくる。あなたも巻き込まれます。僕には自力で逃げる力があります。あなたが出国された後は、自分で対処します」星は、さらに顔をしかめた。「じゃあもし、私があなたをノールに引き渡して、その場で目の前で撃ち殺されたら、どうするの?」「……彼は僕を楽な死に方はさせないでしょうか。息子を殺したのですから」「どこにも保証はないよ。その場で衝動的に撃ち殺す可能性だって十分ある。私はね、あなたの命を賭けるような真似は、絶対できない」「一緒にいるのは危険です」星は、ふっと口元をゆるめた。「私が雲井家に戻ってから、安全な日なんて一日もなかったよ。こういうの、もう何回も何回も経験してきた。じゃあ次、何かあったときも、「先に逃げて」って言って、あなたを置いて、私だけ何とかしろってこと?」仁志は、困ったように眉を寄せた。「あなたを守るのは僕の仕事です」今度は星が、彼の言葉を遮った。「部下ひとりに全部押しつけないのも、ボスとして当然の筋でしょ」仁志は一瞬ぽかんと彼女を見つめ、それからふいに笑みをにじませた。「……分かりました」人の気持ちというのは、つくづく矛盾していて、不思議だ。先に言い出したのは自
Read more

第1179話

だが今は、この湿った冷え方が、やけに身体に堪えた。しばらくして、あれほど大声で電話をしていた女将が、ようやく受話器を置いた。口に爪楊枝をくわえたまま、上から下まで二人をねめ回す。「……泊まりかい?」星はうなずいた。「はい。部屋を二つ、お願いします」女将はぶっきらぼうに言った。「二部屋で、合わせて四千円だよ」「お願いします」「じゃ、ID出して。記帳するから」星は、声を少し落とした。「その……ID、うっかり失くしてしまって。すみません、なんとか泊めてもらえませんか?」女将はまぶたをぴくりと持ち上げ、もう一度じろじろと二人を眺める。何かに思い当たったように、ふっと鼻で笑った。「じゃ、宿代八千。保証金八千。合わせて一万六千」さっきの金額の、ちょうど倍。その場で値段を釣り上げられても、星は何も言わず、静かにうなずいた。「分かりました」金を払い終えると、女将は鍵をつかんで立ち上がり、二人を部屋まで案内する。きしむ階段を上り、三階へ。女将が一つのドアを開け、壁のスイッチを押した。「ここが、あなたらの部屋だよ」三十平米ほどのダブルルーム。かなり手狭だが、最低限の設備はそろっていて、見た目にもそこそこ清潔そうだ。……それでも、星は思わず眉をひそめてしまう。「部屋は二つお願いしたはずなんですが」女将は冷たく言い捨てた。「もう、この部屋しか空いてないよ」「でも、さっき通ってきたところ、何部屋かドア開いてましたよね……」おそらく換気のためだろう。廊下から見えた部屋は、どこもドアが開け放たれ、人の気配はなかった。「全部もう予約済みさ」星がなおも言いかけたところで、女将が先に冷ややかな声で切って捨てた。「あなたら二人、誰ひとりIDも出せないくせに、一部屋用意してやっただけでもありがたいと思いな。こっちは罰金食らうかもしれないリスク背負って、泊めてやってんだよ。よその宿なら、一部屋だって貸しちゃくれないからね」この女将は、長年ここで安宿を切り盛りしてきた。どんな客でも、見飽きるほど見てきている。目の前の二人は、顔立ちも雰囲気も、どう見ても普通の旅行客ではない。どこかの名家の坊ちゃんとお嬢さんが駆け落ちしてきた――そんな線も普通にある、と踏んでいた。「部屋は二つで」な
Read more

第1180話

星は、子どものころこそ大金持ちの家に生まれたわけではないが、欲しいものが手に入らなくて困った記憶は一度もなかった。当然、こんな安宿に泊まったことなんて、これまで一度もない。仁志は、部屋の隅から隅まで視線を滑らせる。天井や出入口のあたりまで念入りに確認し、監視カメラがついていないと分かって、ようやく肩の力を少し抜いた。ふと振り返ると、エアコンの前に立ち尽くしている星がいた。「どうかしましたか?」「暖房が、全然効かないみたい」仁志は「失礼」と小さく言い、リモコンを受け取って何度かボタンを押してみる。だが表示が切り替わるだけで、肝心の暖房機能はうんともすんとも言わない。完全に壊れているようだった。彼はエアコンの電源を切り、「まずお風呂に入ってください。女将に聞いてきます」と言った。星は、さっきの女将の刺々しい態度を思い出し、思わず首を横に振った。「やめとこ。もういいよ、ほんとに」女将の言い分にも、一応の筋は通っている。IDも出せない身の上で、あれこれ要求できる立場ではない。ここは星付きホテルでもなければ、彼女たちも正規の手続きでチェックインしたわけじゃないのだ。「大丈夫です。少し聞いてくるだけですから」仁志が穏やかな声でそう言い、引かないので、星もそれ以上は止めなかった。ほどなくして、彼は戻ってきた。ちょうどそのとき、星はシャワーを浴び終えたところだった。ドアが開き、顔を上げた瞬間――星は、仁志の表情だけで、大体どうなったか察した。やっぱり、何もしてくれなかったんだ……下手したら文句まで言われたかも。「仁志も、お風呂入ってきて。そのあいだに、私が布団敷いておくから」「……ありがとうございます」星はクローゼットを開け、予備の布団一式を引きずり出す。まずは床をもう一度、念入りに拭き上げてから、その上に布団を敷いた。二人が通された部屋は、ダブルベッドの部屋だった。名前のとおり、ベッドは一つだけ。ツインルームなら、まだましだった。同じ部屋で過ごす気まずさはあっても、せめて寝床は分けられた。いくら考え方が自由だといっても、見知らぬ土地で、夫でもない男と一つのベッドで横になる――さすがに、そこまで割り切ることは星にもできない。仁志が「床で寝ます」と自分から言ってくれたのだから、そこは遠慮なく甘えること
Read more
PREV
1
...
116117118119120
...
134
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status