All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1181 - Chapter 1190

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第1181話

星は、そっと男の額に手を当てた。体温は少し高い気がしたが、熱があると断言できるほどではない。ほんの少しだけ、胸のつかえが下りる。同時に、じわりと自責の念がわき上がってきた。D国はもともと湿気が多いうえに、昨夜は一晩中雨が降り続いていた。空気はぐっと冷え込み、床からも容赦なく冷気が這い上がってくる。そんな環境で、自分は仁志を床で寝かせた。彼でなくても、星自身がここで一晩横になれば、風邪のひとつやふたつひいてもおかしくない。この大事な局面で仁志の体調に問題が出れば、D国を出るどころか、追っ手から逃げ隠れすることすら難しくなる。星はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。しばらくしてから、もう一度目を開く。ベッドの布団をざっと整え直し、もう一度床で眠る仁志のそばへ戻った。何はともあれ、まずは彼をベッドへ移して、これ以上身体を冷やさせないことが先だ。とはいえ、仁志は背も高く、体格もしっかりしている。身長は雅臣とほとんど変わらない。最近ずっと体を鍛えているとはいえ、成人男性を抱き起こすのは簡単な仕事ではなかった。星は何度も体勢を変えながら、汗だくになってようやく彼の身体を引き起こす。そのときになって、ようやく仁志が目を覚ました。ゆっくりとまぶたが持ち上がり、かすれた声が漏れた。「……どうしたんですか?」その声はひどくかすれていて、いつもの澄んだ声音とはまるで違っていた。彼が目を開けたのを見て、星はぱっと表情を明るくする。「仁志、今どんな感じ?起きられる?とりあえず、ベッドで少し休もう?」彼の視線が、じっと星の顔に落ちる。その目の色は、どこかおかしかった。いつもの澄みきった光は消え、外のどんよりした空みたいに陰っていて、底には氷のような冷たさが沈んでいる。彼は低い声で答えた。「……そうですね」星は彼の腕をとって支え、ベッドへと移動させる。「仁志、まだ頭、すごく痛い?」彼は少し間を置いてから、ゆっくりとうなずいた。「ええ……」「薬、持ってきてない?いつも頭が痛くなったときに飲んでる薬とか、ないの?」しばらく沈黙が続いたあと、ようやく彼は口を開いた。「持病です。薬は効きません」「そうなんだ……じゃあ、とにかくゆっくり休んでて。あとで朝ごはん買ってくるけど、何か食べたいものある
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第1182話

雅人は少し考え込んでから、口を開いた。「えっとですね……丈夫なロープを一本用意して、仁志を先に縛っておく、っていう手もあります。それでも不安なら、手錠と足かせも一緒に使うといいですよ。そうすれば、そう簡単には暴れられませんから」あまりに物騒な提案に、星は思わず固まった。雅人に電話をかけたのは、仁志がふだん飲んでいる薬を知りたかったからだ。なのに返ってきた答えが、「まず縛れ」だなんて。「雅人、本気で言ってる?」本当は、冗談どころか大真面目だ――そう言いたかった。けれど星は、まだ仁志の「本当の状態」も、発作のときの恐ろしさも知らない。雅人は、小さくため息をつき、言い方を少し柔らかくした。「その……仁志の頭の病気って、もう長年の持病なんです。発作が出ると、すごく怒りっぽくなって、感情が極端に不安定になります。下手をすると……身内だろうが誰だろうが、区別がつかなくなる」そこで一拍置き、言葉を選ぶように続けた。「そのときは、ほとんど理性が残ってないんです。今のところ、そういう状態を薬で押さえ込む決定打もなくて。医者にも何十人と診てもらいましたけど、これといった効果は出ていません」「どうして、そんな病気になったの?」「原因はいろいろ絡み合ってて、簡単には説明できません。不眠も一つですし、心のほうの問題も大きい。とにかく、治りにくいタイプですね。お医者さんの話では、この病気を本気でどうにかするには、まずメンタル面からアプローチしないといけないそうです」言い換えれば――この病は、かなりの部分を心の問題に左右されているということだ。もともと、仁志は「いい人」などとは程遠い。だが発作が出ているあいだは、その危うさが何倍にも増幅される。溝口家には、代々引き継がれてきたやっかいなものがある。生まれつき、遺伝子に組み込まれた欠陥のようなものだ。どれだけ腕のいい医者を連れてきても、根本から完全に消し去ることはできない。――人間、誰だってどこかしら欠点を背負って生まれてくる。溝口家の人間は皆、容姿端麗で頭も切れる。天才と呼ばれる人間が、ごろごろしている一族だ。その代わり、精神面にどこかしら問題を抱えていることが多い。正直に言えば、ここしばらく仁志は発作を起こしていなかった。以前なら、一から二か月に一度は必ず症状が出ていた
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第1183話

「このしばらくは……」雅人は少し迷ったあと、それでも念を押すように言った。「星野さんは、できるだけ彼に近づかないでください。ケガでもされたら困りますから」今の仁志の頭の中は、ほとんどいつも霧がかかったみたいにぼんやりしている。ときには、自分が何をしているのか、まったく分からなくなることさえある。人が人間であって獣ではないのは――礼儀や恥を知っていて、自分を制御できるからだ。だが今の仁志は、その理性を失った獣に近い。近づく者は、誰であっても危険だった。星は、そんな仁志にとって特別な存在だ。だからこそ、雅人も星の安全を賭けに出るような真似はできない。もし仁志が正気に戻ったあと、星を傷つけたことを思い出してしまったら――そのとき、彼はいったいどうなってしまうのか。雅人は少し考え込んでから、続けた。「彼を部屋に閉じ込めて、鍵をかけておいてください。食べ物は置かなくて構いません。水だけ用意しておけばいいです。安心してください。仁志は、あなたを責めたりはしません」食べ物がなければ、当然、体力は落ちる。そうなれば、仁志の危険度も、かなり下がるはずだ。以前、あの人も同じやり方を使っていた。話を聞きながら、星は思わず眉をひそめた。本当にこれが、普通の人間に対する扱いなのだろうか。たとえ安全だと言われても、三日間も部屋に閉じ込めて、水だけで食事は一切なし――そんなことをされたら、誰だって飢えで頭がおかしくなる。ふと、星は仁志の言葉を思い出す。自分には友達がいない、と笑っていたこと。雅人とも、たいして腹を割って話す仲じゃない、とこぼしていたこと。――そうなるのも、無理ない気がするんだけど。この雅人、本当に頼りになるのだろうか。どう考えても、あまり信用していいタイプには見えない。そう思いはしたが、口に出すことはしなかった。「分かった。ありがとう」雅人は、星が納得してくれたのだと受け取ったようだ。「星野さん、そちらで何か必要なものがあれば、いつでも僕に電話してください」「はい」電話を切っても、星の眉間のしわは消えなかった。ヴァイオリンを弾く、という案は、やはり現実的ではない。仮に無理やり一曲だけ弾けたとしても、それで効果があるかどうか分からないうえに、確実に周りの注意を引いてしまう。そのときノール
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第1184話

星の体がびくりと固まり、全身の産毛が一気に逆立つ。本能が、言葉にならない危険信号を鳴らしていた。それは、彼女が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたときだけ、湧き上がる感覚だ。足がぴたりと止まり、その場に釘で打ちつけられたみたいに動けなくなる。入ってきた相手が誰なのか分かったのか、仁志の視線がわずかに揺れた。「……星野さんですか」星は、はっと我に返る。ぐっと息を飲み込み、そのまま仁志のそばへ歩み寄った。「仁志、少しでも食べない?このままだと本当に倒れちゃうよ」仁志は、無意識に眉間を指で押さえた。「頭が痛いです。食べません」星は、少し語気を強めった。「食べないと、余計に頭痛くなるよ。体だって回復しないし。ちょっとでもいいから口に入れたほうがよくない?」男の瞳孔が、ふらふらと揺れた。この瞬間、彼の世界は血の色の膜に覆われているようで、何一つはっきり見えない。ただ、その視界の中でひときわ鮮明だったのは――目の前の女の、不安に揺れる瞳だけだった。その瞳を見つめるうちに、仁志の理性が、ほんの少しだけ戻ってくる。彼は伏し目がちになり、「……分かりました」とかすれた声で答えた。星は、ゆっくりと彼の体を起こした。男の手は、まるで冷え切った翡翠のように冷たかった。両手は固く握りしめられ、手の甲には青い血管が浮き上がっている。何かを必死に押さえ込んでいるのが分かる。呼吸もどこか荒い。星はただ事ではないと感じ、思わず彼を見上げた。その瞳の奥で、猩々緋の光がちらりと瞬く。一瞬だけ、裸の殺気が浮かんでは消えた。異様にかすれた声が、男の喉から漏れた。「……星野さん、早く行ってください」男の喉仏が、大きく上下に動いた。その顔つきは一段と険しく、歪んで見える。ただ自分を暴走させまいとするだけで、彼の力はすでに限界まで削られていた。頭の中に残った最後の理性は、張りつめた一本の糸のようだ。少しでも触れれば、すぐにぷつりと切れてしまう。そうなれば彼は、自分を抑えられない狂人と化し、近づく者すべてに、見境なく手をかけてしまうだろう。星の顔色が、わずかに変わった。「仁志……」その名を呼んだ次の瞬間、彼女の首がぐいっと掴まれた。男の冷たい指先が首筋に触れ、星の背筋にぞくりと寒気が走る。仁志は、冷ややかに
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第1185話

もしかしたら気のせいかもしれない。だが今回は、これまでのどの頭痛よりもひどい気がした。こうして意識ははっきりしているのに、痛みだけはまったく引いてくれない。反射的に頭に手をやると、指先に包帯の感触が触れた。その瞬間、記憶が波のように一気に押し寄せて来た。仁志は、何が起きたのかをすぐに思い出した。溝口家に代々受け継がれてきた持病は、骨の髄に刻まれた呪いのようなものだ。我を失っているあいだは、自分が何をしているのか分からない。だが正気に戻れば、そのとき自分が何をしたのか、すべて思い出してしまう。中には、暴走した拍子に、自分が一番大切にしている人を手にかけてしまう者もいる。そして正気に戻り、その記憶を取り戻した途端、完全に崩れ落ち、狂ってしまう。二度と元には戻らない。ある者は、自分が狂ってしまう前に、自分の手で人生に幕を下ろす道を選ぶ。それは、溝口家の歴代当主たちに課せられた宿命のようだった。頭が切れれば切れるほど、その分だけ壊れやすい。例外はない。仁志は、表情を引き締めて、本能的に周囲を見渡した。いつの間にか、外の雨は止んでいた。窓から差し込む陽の光が、部屋の空気に淡い色をつける。その柔らかな光の中に――彼女がいた。ベッドのすぐそば。肘をベッドの縁に乗せ、手の甲に頬を預けるようにして、星が座り込んでいる。こくり、こくりと頭が揺れ――次の瞬間には、完全に眠りに落ちていた。実際には、「落ちそう」なのではなく、とっくに限界を超えて眠ってしまっているのだろう。ふと視線を動かすと、彼女の目の下にはくっきりとしたクマができているのが見えた。眉間には疲労の色が濃く刻まれている。どう見ても、ろくに休めていない。仁志は、そばで眠りこけている星を、ただじっと見つめていた。どれくらい時間がたっただろうか。同じ姿勢を保ち続けていた星の腕が、とうとう限界を迎える。ぐらりと身体が傾き――仁志が思わず支えようと手を伸ばしかけた、そのとき。星は先に、ぱちりと目を開けた。目と目が合い、二人とも一瞬だけ固まる。先に我に返ったのは星だった。手近にあったスタンドライトを素早くつかみ、小さな声でたずねる。「仁志、具合はどう?」仁志は、その動きを目にして、条件反射のように自分の頭の傷に触れ、口元をひくりとさせた。もし少
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第1186話

男の深いまなざしが、星の方へと落ちる。「あなたはあの頃、コンサートの準備で毎日練習してましたよね。ほとんど毎晩のようにヴァイオリンを弾いていた……あなたの音を聴いていると、不思議とよく眠れたんです」星は、なんとなく予想はしていた。それでも、その言葉を聞いた瞬間、表情がわずかに陰る。数秒ほど考え込んでから、口を開いた。「じゃあさ、他の人のヴァイオリンの音でも、ちょっとはマシになるとか……そういうのは、ない?」「……あなたほどの腕前は他にいません。他の演奏では効果がありません」星は、ハリーに勝ったことがある。すでにマエストロと呼ばれてもおかしくない段階に足を踏み入れていた。世界中を探しても、彼女より上手いヴァイオリニストは、片手で数えられるほどしかいない。そういう人たちはたいてい自尊心も高く、毎日、仁志ひとりのためだけにヴァイオリンを弾いて、病気の治療に付き合う――などという契約を素直に受けるとは考えにくい。「それって、いわば心の治療みたいなものでしょ。だったら、音楽にこだわらなくても、似たような安心できる何かなら他にも効くかもしれない。いろいろ試してみてもいいと思うんだ。ねえ、音楽以外で、似たようなことって今まで試したことある?」「ありません」星は小さくうなずいた。「だよね。じゃあまずは、他の方法から試してみよ」ふと、彼女は翔太を寝かしつけていた頃のことを思い出す。毎晩、寝る前に絵本を読んであげたり、その場で作ったおやすみ前の物語を話して聞かせたりしていた。――じゃあ、仁志にも効いたりしないかな?考え込むように視線を向けると、仁志もまた、静かに彼女を見つめ返していた。気のせいかもしれない。けれど、あの野外で襲撃された事件以来、ときどき彼の視線が妙に重く感じられる瞬間がある。じっと見つめられていると、胸の奥に変な圧がかかるのだ。星はそっと視線をそらし、立ち上がって水を汲みに行く。背中に、少しかしゃがれた男の声が落ちてきた。「……僕が怖いですか」星の手が止まり、振り返って彼を見る。「病気なんだから、普通じゃない行動しちゃうのも当たり前だよ。それに、あのノールセンに関しては、正直言って、死んで当然のことしてたし。ただ……」星の目は、水みたいに澄んでいる。そこには、彼への嫌悪も、あからさまな恐
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第1187話

「残りのことは、もう全部手配してあるから」そう言ったのは、仁志だった。「申し訳ありません。役に立てず、騒ぎを起こし、看病までさせています」星が何か言い返そうとしたとき、ポケットの中で携帯が震えた。画面をちらりと見る。表示された名前は――奏。星は通話ボタンを押した。「先輩」奏の、聞き慣れた声が飛び込んできた。「星、俺はもうD国に着いた」「先輩、しばらくは目立つように動いて。できるだけノール一族の注意を、そっちに引きつけておいてほしいの」奏は、くすっと笑った。「それくらいなら、いくらでもやってやるよ」少し間を置いてから、真面目な声に戻った。「星、本当に、俺の手を借りなくて大丈夫か?」「もう十分助けてもらってるよ」「星、俺たち、一緒にここから出ることだってできるんだぞ。ノールに見つかったとしても、さすがに俺には手を出してこない」「うん。私も先輩と一緒に行くことはできる。でも、仁志は無理。あいつらが、仁志を手放すはずがない」彼女は振り返り、仁志を一瞥した。彼はちょうど、自分の携帯の画面をゆっくりスクロールしているところだった。星は、声を落として続けた。「仁志は、今まで何度も私を助けてくれた。だから今回は、私が絶対に、仁志の安全を守らないと」奏もまた、義理堅い男だ。自分だけ助かるために、誰かを切り捨てるような真似はできない。だからこそ、星の言葉を、すぐに理解した。小さくため息をついた。「じゃあ、気をつけろよ。何か少しでもおかしい動きがあったら、すぐ電話しろ。すぐ飛んでく」「先輩、大丈夫。こっちはもう迎えの段取りもつけてあるから。ちゃんと動けるはず」小林グループを買収し、忠の会社を底値で買い叩いたあと――夜の側についていた株主たちは、星の腕を目の当たりにした。そして、かつて夜が残していった部下や勢力を、安心して彼女に引き渡したのだ。そうして星は、ようやく自分名義と言える勢力を、少しばかり手に入れた。奏は、星がいつも慎重なのをよく知っている。だから、それ以上は強くは言わなかった。通話を切ると、星はくるりと振り返る。「仁志、ちょっと休んでて。ご飯買ってくる」「分かりました」仁志は、短く答えた。今は多少落ち着いてはいるが、まだ危険な時期を抜けたとは言
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第1188話

星は、ぽかんと目を瞬いた。「え、私?」仁志は穏やかに問い直した。「あなたは今夜、どこで寝るんですか」床でそのまま寝る、という選択肢は最初からない。D国の夜は冷える。こんな状況で体調を崩すわけにはいかない――それは星もよく分かっていた。「椅子で一晩くらいなら大丈夫だよ。仁志、今はあなたの病気の方が優先」仁志は、ふと自分の下の広いベッドに視線を落とす。少しためらった末、それでも意を決したように口を開いた。「ベッドは広いです。一緒に寝ませんか」別の男がこんなことを言ったなら、星は間違いなく「下心あり」と即判定していた。けれど、それを仁志が言うと、不思議なくらいそういう空気がまったくない。本当にただ、同じベッドを使う案をまじめに提案しているだけに見えてしまう。「遠慮しとく。私は椅子で平気」星はあっさり断り、視線を落として、さっきメモしておいたおやすみ前の物語の内容をめくり始めた。仁志は、星の性格をよく分かっている。これ以上勧めれば、かえって気まずくさせるだけだと理解していたので、それ以上は何も言わなかった。準備が整うと、星は照明を少し落とし、眠りを誘うアロマを焚いた。そして、静かな声でおやすみ前の物語を語り始める。五つ話し終えても、仁志に眠気が訪れた様子はない。以前なら、三つ目の物語に入る前に、翔太はもうすやすや眠っていた。もちろん、重い不眠症を抱えた仁志と、子どもの頃の翔太を同じ扱いにはできない。星は焦らず、根気よく物語を重ねていく。今夜のために、ざっと三十本分のお話を用意してある。もしそれでも眠れないのなら、そのときはまた明日の夜、別の方法を試せばいい。ただ――昨夜は仁志を見守っていて、ほとんど眠れていなかった。そんな状態で、眠気を誘うような穏やかな物語を延々と語り続ければ……先にまぶたが落ちてくるのは、話している側の方だった。仁志は、星の疲れ切った眉間と、目の下の濃いクマに気づく。薄い唇をきゅっと結んだ。七つ目の物語に入ったところで、仁志はそっと目を閉じた。星は、もう開けているのもしんどくなってきた目をこすりながら、それでも続けようとして――そのとき、彼が静かに眠っていることに気づき、思わず目を丸くした。小さな声で彼の名前を呼んでみる。反応がないのを確かめて、ようやくほっと息をつい
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第1189話

星がちょうど何か言おうと口を開きかけたとき、その言葉をさえぎるように、仁志が先に口を開いた。「事情はどうあれ、一人を椅子で寝かせるわけにはいきません。夜は前半と後半でベッドを交替しましょう。公平です」同じベッドで寝たわけではないので、星もそれほど気まずさは感じなかった。それどころか、むしろ申し訳なさの方が勝っていた。本来なら、自分が仁志の治療をするつもりだったのに――結局ベッドでぐっすり眠っていたのは、自分の方だったのだ。「昼間は外に出ないので、部屋で寝直せます。ぼんやりしているよりはましです」わざと軽く言って、自分に負い目を感じさせないようにしている――星には、その意図がはっきり分かった。「分かった。じゃあ、先に顔洗ってくるね。このあと朝ごはん買いに行ってくる」星が部屋を出てから、十分ほどたったころ。ドアがこんこんとノックされ、そっと扉が開いた。仁志は、てっきり星が戻ってきたのだと思った。だが、入ってきたのが中年の女性だと気づいて、わずかに目を瞬く。この宿の女将だった。女将は、事情を説明するように言った。「星野さんならね、あなたのご飯を買いに出てったよ。そのあいだ、私にあなたを見ててほしいって頼まれてさ。何か必要なものがあったら、遠慮しないで言ってちょうだい」仁志は、どこか距離を取った丁寧な声で答えた。「ご親切にありがとうございます」女将は慌てて手を振った。「とんでもない、とんでもない。本当なら、最初から私がちゃんとやっとくべきことでさ。この前は、その……」女将は軽く咳払いをし、気まずそうに視線をそらした。「こっちこそだよ。あなたたちへの態度、ちょっとひどすぎたね」仁志の瞳が、静かに深くなった。「女将さんが急に態度を変えられた理由は何ですか」女将は、地方の中年女性らしく、子どもたちは遠方で働きに出ていて、ふだんはあまり話し相手もいない。だからこそ、一度しゃべり出すと止まらない。「だってね、あなたと星野さん、顔立ちも雰囲気もさ、一目でいいとこの坊ちゃんとお嬢さんって感じなんだよ。こんな古くさい安宿に泊まるタイプには見えなかったの」女将は、少し肩をすくめて続けた。「でもね、ああいうお坊ちゃんお嬢さんカップルって、今までも何組か来ててさ。たいてい親に反対されて一緒になれないとかで
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第1190話

女将はとりとめもなく話し続けながら、「自分と一緒に、いい時も悪い時も乗り越えてくれる女の人はね、ちゃんと大事にしなきゃダメよ」と、何度も何度も言い聞かせるように繰り返した。ふだんなら、仁志は「よくしゃべる人だ」と内心うんざりしていたはずだ。だが今日に限って、その声が不思議なくらい心地よく耳に入ってくる。とくに、女将が当たり前のように口にする「あなたの彼女さん」という言葉が、妙に胸に響いた。胸の奥にこびりついていた暗い影まで、風に吹かれて少し薄くなったような気がする。……ほどなくして、星が戻ってきた。女将は、自分でもよく分からないテンションのまま、星ににっこり笑いかけ、ぽん、と肩を軽く叩いた。「あなたの彼氏さんね、なかなかいい男じゃない」女将は二人の関係を、完全に誤解している。だが星は、わざわざ訂正しなかった。余計な話題は、どこから火がつくか分からない。その夜も、星はいつも通り、仁志に寝る前のお話を聞かせた。仁志もまた、彼女の声に導かれるように、静かに眠りの底へ沈んでいく。こうして三日という時間は、驚くほどあっさり過ぎていった。あるとき、星の携帯が震えた。「星野さん、ヘリコプターの準備が整いました」彼女は時計に視線を落とした。奏がこのD国を発つのは、三時間後だ。そのとき、彼はノール一族の注意を一身に引きつけてくれる。その隙に、星は仁志を連れてヘリに乗り、まず封鎖されたこの街を飛び立つ。それから隣の市に移動し、用意しておいたプライベートジェットに乗り換える手はずだ。一度別の国を経由し、最終的にM国へ戻る――それが今回のルートだった。奏が突然D国に現れれば、ノールが警戒しないはずがない。彼と星の関係は、公然の秘密のようなものだ。ノールは必ず、「奏は星を助けに来たのではないか」と疑い、その行動を重点的に監視するだろう。今日、奏がD国を出ようとしたとき――ノールは彼を足止めし、「彼女をどこへ匿った」と問い詰めに来るに違いない。奏は川澄家の後継ぎだ。ノールといえど、軽々しく手を出せる相手ではない。たとえ星を見つけたとしても、「渡せ」と迫るのが精一杯だろう。もし見つけられなければ、今度はノールの方が「言いがかりをつけている」立場になってしまう。最悪の場合、奏に頭を下げる羽目になるかもしれない。奏な
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