遥は小さな画板を背に、静かに山を下りてきた。道ばたで出会ったおばあさんたちに、にこやかに挨拶を交わした。山の空気は澄んでいて、遥の心身をじんわりと癒してくれる。そのおかげか、身体の傷の治りも、どこか早くなったように思えた。ここへ来た当初、電話のSIMカードを買ってスマホも手に入れようと思っていたが、気づけば、そんなものは必要なかった。もともと電波の入りも悪いし、連絡を取る相手もいない。だから、自然とスマホのことなど忘れてしまったのだ。家に戻ると、玄関先で小さな影がそわそわと周囲を窺っていた。「菜々子(ななこ)ちゃん、また来たの?」遥は山から採ってきた果物をひょいと差し出した。菜々子はそれを両手で受け取り、ちょっと恥ずかしそうに笑うと、遠慮がちに尋ねた。「今日も……遥さんの家にいて、いい?」「もちろん。いつでもおいで」そう答えると、菜々子の顔がぱっと明るくなり、無邪気な笑顔が広がった。菜々子は、遥がこの地に来てから出会った小さな女の子だった。家には年老いたおばあさんしかおらず、彼女は毎日市場で薬草を売って、生計を立てているという。学校に通う余裕もなく、生活は決して楽ではない。遥にできることは多くはなかった。せめて、少しずつ字を教えるくらいだ。それに、菜々子は遥の息子・健翔と同じ年頃だった。こんなに素直でいい子なのに、食べ物も服も十分でない。そのことが、遥の胸に痛みをもたらし、同時に憐れみの気持ちを強くさせた。「遥さん、今日ね、桜井さんも来るって。一緒にご飯、食べない?」桜井さん――それは、遥の隣人だった。普段はとても神秘的で、朝早く出て、夜遅くに帰ってくる。遥が越してくる前から、彼はたまに菜々子の面倒を見てくれていたらしい。遥はこれまで、彼とほんの数回顔を合わせた程度で、しっかり話したことはない。どこか、山の住人とは思えないような雰囲気を纏っている人物だった。けれど遥は、他人の私生活に立ち入ることに興味はない。だから、彼について詳しく知ろうとも思わなかった。「桜井さん、ご飯の時間に間に合わないんじゃないかな……」実際、桜井はこれまで一度も食事を共にしたことがなかった。それなのに、菜々子はなぜか、遥と桜井を一緒に食卓につかせようと、妙にこだわっている節があった。遥が台所で料理の準備をしている
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