「監督、今回のドキュメンタリー撮影へのお招き、喜んでお受けします」「よかった!水谷さん、ずっとこの時を待ってたんだよ!」電話の向こうから弾むような声が返ってくる。監督の嬉しそうな口ぶりが、そのまま空気を伝って部屋に広がっていくようだった。「準備期間は一ヶ月あるからさ。国内の友人たちにもこの喜びを分かち合っていいよ。一ヶ月後、現地での再会を楽しみにしてる」「はい、私も楽しみにしています」電話を切った水谷葵(みずたに あおい)は、しばし受話器を見つめたまま、監督の言葉を心の中で反芻した。この喜びを真っ先に伝えたいと思った人は、もう今の私の気持ちなんて、きっと興味もないだろう。そのとき、部屋のドアの外から男の声が聞こえてきた。松本哲也(まつもと てつや)の声だ。使用人たちに指示を出している。「元・葵の部屋」だった場所に、新しい家具を運び入れるようにと。今は、そこは清水麻美(しみず まみ)の部屋になっていた。昨日、海外のドキュメンタリー監督から連絡があり、面接に合格したこと、そして今後一年間アメリカでの撮影に参加することが決まったと知らされた。葵は喜びに震えた。けれど、哲也と離れるのが寂しくて、彼が帰ってきたら相談して決めようと思っていた。だが、哲也が帰宅したその日、彼の隣には見知らぬ女性がいた。何かを訊ねる間もなく、哲也は急いで紹介した。「妹の清水麻美だ」その時の彼の表情は、今までに見たことがないほど柔らかく、そして「妹」という言葉を口にする彼の視線は、麻美を情熱的に見つめていた。麻美はいたずらっぽく笑いながら哲也の腕を軽く小突き、それから葵に向き直った。「彼のいい加減な紹介、真に受けないでね。私たち、ただのご近所同士。子どもの頃から一緒に育っただけなの」その瞬間、葵の笑みは唇の端で凍りついた。こんな顔、哲也が見せたことあった?どんなに面白い話をしても、どれほど大げさにリアクションをとっても、彼の顔には微笑みすら浮かばなかった。せいぜい、頭を軽く撫でながら「お前の気持ちはわかってる。無理しなくていい」と、そっと言ってくれるだけだった。冷静で、感情を表に出さない人だと思っていた。けれど、違ったのだ。彼は、笑うことができる人だった。ただ、その相手が麻美だったというだけ。視線を麻美に向けた葵
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