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もうあの日には戻れない

もうあの日には戻れない

By:  ぷりんCompleted
Language: Japanese
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付き合って四年、水谷葵(みずたに あおい)は、これまでに何度も松本哲也(まつもと てつや)にプロポーズしてきた。けれど、そのたびに拒まれた。 葵は、それでも「まだその時じゃないだけ」と信じようとしていた――あの日までは。 哲也が「妹」だと紹介した女性を家に連れて帰ってきたその瞬間、葵はようやく気づいた。自分は、ただの身代わりだったのだと。 愛とは、いつもどこかに後ろめたさを抱えるものなのだろうか。 何度も傷つき、そのたびに心は少しずつ壊れていった。そしてついに葵は、アメリカ行きの航空券を手に入れた。 けれど、葵が離れたあと、なぜ哲也は、彼女を追いかけてきてまで、「戻ってきてくれ」と懇願したのだろうか。

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Chapter 1

第1話

「監督、今回のドキュメンタリー撮影へのお招き、喜んでお受けします」

「よかった!水谷さん、ずっとこの時を待ってたんだよ!」

電話の向こうから弾むような声が返ってくる。監督の嬉しそうな口ぶりが、そのまま空気を伝って部屋に広がっていくようだった。

「準備期間は一ヶ月あるからさ。国内の友人たちにもこの喜びを分かち合っていいよ。一ヶ月後、現地での再会を楽しみにしてる」

「はい、私も楽しみにしています」

電話を切った水谷葵(みずたに あおい)は、しばし受話器を見つめたまま、監督の言葉を心の中で反芻した。

この喜びを真っ先に伝えたいと思った人は、もう今の私の気持ちなんて、きっと興味もないだろう。

そのとき、部屋のドアの外から男の声が聞こえてきた。松本哲也(まつもと てつや)の声だ。使用人たちに指示を出している。「元・葵の部屋」だった場所に、新しい家具を運び入れるようにと。

今は、そこは清水麻美(しみず まみ)の部屋になっていた。

昨日、海外のドキュメンタリー監督から連絡があり、面接に合格したこと、そして今後一年間アメリカでの撮影に参加することが決まったと知らされた。

葵は喜びに震えた。けれど、哲也と離れるのが寂しくて、彼が帰ってきたら相談して決めようと思っていた。

だが、哲也が帰宅したその日、彼の隣には見知らぬ女性がいた。

何かを訊ねる間もなく、哲也は急いで紹介した。

「妹の清水麻美だ」

その時の彼の表情は、今までに見たことがないほど柔らかく、そして「妹」という言葉を口にする彼の視線は、麻美を情熱的に見つめていた。

麻美はいたずらっぽく笑いながら哲也の腕を軽く小突き、それから葵に向き直った。

「彼のいい加減な紹介、真に受けないでね。私たち、ただのご近所同士。子どもの頃から一緒に育っただけなの」

その瞬間、葵の笑みは唇の端で凍りついた。

こんな顔、哲也が見せたことあった?

どんなに面白い話をしても、どれほど大げさにリアクションをとっても、彼の顔には微笑みすら浮かばなかった。せいぜい、頭を軽く撫でながら「お前の気持ちはわかってる。無理しなくていい」と、そっと言ってくれるだけだった。

冷静で、感情を表に出さない人だと思っていた。けれど、違ったのだ。

彼は、笑うことができる人だった。ただ、その相手が麻美だったというだけ。

視線を麻美に向けた葵の胸に、懐かしさと得体の知れない違和感が一気に押し寄せる。

哲也と麻美は、隣同士で笑いながら昔話に花を咲かせていた。子ども時代の思い出を語るその声は、まるで親密さを証明するかのようだった。

そして、突然、葵の全身が硬直した。

麻美の顔。その顔を、どこかで見た記憶が蘇った。

ふと視線を傍らの鏡に向ける。鏡に映る自分と麻美の顔は、まるで実の姉妹のように似ていた。とりわけ眉と目の形が、驚くほど瓜二つだった。

息が止まった。

頭の中で、過去四年間の記憶がフィルムのように自動再生を始める。

哲也との出会いは、あるホテルの非常階段だった。養護施設を追い出されて三年目。学歴もなければ、特別なスキルもない。唯一頼りにしていた友人の紹介で受けた映画のオーディションも、申込金として払った十万円が戻ることなく不合格となり、希望は完全に潰えた。

現実に完全に打ちのめされた葵が、オーディション会場のホテルの非常階段で泣き崩れていた。そこで哲也が現れた。

ハンカチを差し出しながら、「何かお困りですか?」と優しく声をかけてくれた。

その一言は、溺れる寸前で掴んだ命綱のようだった。みっともない姿も、捨てたはずのプライドも構わず、葵は涙ながらに彼に二万円を借りた。

哲也は黙って彼女の涙を拭き、豪華な食事を奢り、さらに二十万円を差し出した。

「この程度、俺にとっては大した額じゃないから」

そう言われても、葵は借用書を書いた。

その後、夢を捨て、昼と夜、二つのアルバイトを掛け持ちして節約し、二十万円を貯めた。そして哲也に連絡した。

返済を終えたとき、哲也は静かに尋ねた。

「俺の彼女になってくれないか?」

後に、なぜそんなことを言ったのかと訊ねた葵に、哲也は「お前の頑張りと誠実さに惹かれたんだ」と答えた。

けれど今、麻美を目の前にして、葵はようやく真実に気づいた。

彼女と麻美は、あまりに似ていた。眉も、目も。

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第1話
「監督、今回のドキュメンタリー撮影へのお招き、喜んでお受けします」「よかった!水谷さん、ずっとこの時を待ってたんだよ!」電話の向こうから弾むような声が返ってくる。監督の嬉しそうな口ぶりが、そのまま空気を伝って部屋に広がっていくようだった。「準備期間は一ヶ月あるからさ。国内の友人たちにもこの喜びを分かち合っていいよ。一ヶ月後、現地での再会を楽しみにしてる」「はい、私も楽しみにしています」電話を切った水谷葵(みずたに あおい)は、しばし受話器を見つめたまま、監督の言葉を心の中で反芻した。この喜びを真っ先に伝えたいと思った人は、もう今の私の気持ちなんて、きっと興味もないだろう。そのとき、部屋のドアの外から男の声が聞こえてきた。松本哲也(まつもと てつや)の声だ。使用人たちに指示を出している。「元・葵の部屋」だった場所に、新しい家具を運び入れるようにと。今は、そこは清水麻美(しみず まみ)の部屋になっていた。昨日、海外のドキュメンタリー監督から連絡があり、面接に合格したこと、そして今後一年間アメリカでの撮影に参加することが決まったと知らされた。葵は喜びに震えた。けれど、哲也と離れるのが寂しくて、彼が帰ってきたら相談して決めようと思っていた。だが、哲也が帰宅したその日、彼の隣には見知らぬ女性がいた。何かを訊ねる間もなく、哲也は急いで紹介した。「妹の清水麻美だ」その時の彼の表情は、今までに見たことがないほど柔らかく、そして「妹」という言葉を口にする彼の視線は、麻美を情熱的に見つめていた。麻美はいたずらっぽく笑いながら哲也の腕を軽く小突き、それから葵に向き直った。「彼のいい加減な紹介、真に受けないでね。私たち、ただのご近所同士。子どもの頃から一緒に育っただけなの」その瞬間、葵の笑みは唇の端で凍りついた。こんな顔、哲也が見せたことあった?どんなに面白い話をしても、どれほど大げさにリアクションをとっても、彼の顔には微笑みすら浮かばなかった。せいぜい、頭を軽く撫でながら「お前の気持ちはわかってる。無理しなくていい」と、そっと言ってくれるだけだった。冷静で、感情を表に出さない人だと思っていた。けれど、違ったのだ。彼は、笑うことができる人だった。ただ、その相手が麻美だったというだけ。視線を麻美に向けた葵
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第2話
葵がその衝撃から立ち直る間もなく、哲也は静かに言った。「麻美は体が弱くてね。医者から、日当たりのいい部屋にするようにって言われてるんだ」この別荘で南向きの部屋は二つだけ。ひとつは哲也の部屋、もうひとつは葵が使っている部屋だった。「葵、すぐに部屋を移ってくれ」夜が明けるのを待つことすらできないのか、哲也はもう使用人に合図を送り、葵の荷物をまとめるよう指示していた。「今すぐじゃなきゃダメ?」葵はかすかに笑ってそう言った。どこか乾いた、諦めにも似た笑みだった。哲也はその頬に優しく手を添え、なだめるように微笑んだ。「わがままを言わないで。麻美はほんとに体が弱いんだ。義姉として、譲ってやってくれよ」「お義姉さん、ありがとう」無邪気な声で麻美が続いた。義姉。その一言が、胃の奥をひどく揺らした。哲也の口からその言葉が出ると、皮肉以外の何ものでもない。この四年間、哲也は一度も「結婚」という言葉を口にしなかった。それでも葵は、家庭を持ちたい一心で、自分から何度もプロポーズしてきた。けれど、そのたびに哲也は笑って、あるいは真剣な顔で、それをやんわりと拒んだ。葵にはわかっていた。哲也は、自分に「妻」という立場を与えたくなかったのだ。それなのに今、麻美の前であえて「義姉」という言葉を使い、彼女に部屋を譲らせようとしている。聞いてやろうかと思った。今なら、私と結婚してくれるの?けれど、胸の奥どころか内臓のすべてが痛んで、もうその問いを口にする力すら残っていなかった。「どうでもいいわ」ぽつりと呟き、葵はソファに横たわって目を閉じた。仮眠を装いながら、ただ現実を遮断した。葵は孤児だった。子供の頃から施設で育ち、ずっと誰かと同じ寝室で暮らしていた。成人して施設を出たあと、ようやく自分だけの部屋を手に入れた。けれど、それも「自分の家」ではなかった。三年間で八回も引っ越しを繰り返し、どこにも根を下ろせずに生きてきた。哲也に出会うまでは。彼は、葵にこれまで手にしたことのない「ちゃんとした生活」を与えてくれた。そして、あの広い別荘で独立した一部屋をくれた。引っ越してきた初日、葵は割り当てられた部屋で声を殺して泣いた。二十年間の彷徨が、ようやく終わった気がしたから。やっと家を持てた、そう信じたかった。でも、違
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第3話
哲也と深く愛し合っている。そう信じて過ごした四年間。葵は幾度となく、彼との間に子供を授かることを願った。何度も哲也にプロポーズした。満席のレストランで、客たちが「承諾してあげなよ!」と声を上げるほどの雰囲気の中でさえ、哲也は静かに首を横に振るだけだった。「葵、まだその時じゃない」彼はそう言った。「お二人にお子さんがいらっしゃらないからじゃないかしら?」そんなふうに言う人もいた。哲也の家柄は普通ではない、だから子供ができれば結婚するのでは、と。そんな言葉に、葵はいつしか期待を抱くようになっていた。愛が最も深まったその瞬間に、命を共に育む。それが結晶となって生まれくるなら、そう願っていたのだ。けれど、今となっては、その子がなぜもっと早く現れてくれなかったのかと悲しくなった。もしそうだったら、すべてが違っていたかもしれない。それでも同時に、今でよかったのかもしれないとも思う。遅れて訪れたその命が、彼女の人生にまだ選択肢を残してくれたのだから。放心状態のまま病院のロビーに着いたとき、周囲のざわめきは彼女の耳に一切届かなかった。巨大な悲しみが心を覆い、お腹にそっと手を当て、小さな声で呟いた。「ごめんね......お母さん、なにもできない。あなたを守ることも、連れてきてあげることも......できないんだ」報告書を破り、ロビーの外にあるゴミ箱へと捨てた。もう、この子を残さないと決めた。哲也と完全に無関係な、自分自身の人生を、新しく始める必要があった。ビザの手続きを終えて家に戻る頃には、すでに夕暮れが迫っていた。家には哲也が一人だけ。「どこに行ってたんだ?」淡々とした視線を彼に向けたまま、葵は何も言わず部屋へと向かう。「友達に会ってた。言ったでしょ」「葵、いったいどうしたっていうんだ?」哲也は彼女のそばに来て肩に手を置いた。「麻美のことをなぜそこまで拒絶するんだ?麻美は俺の妹だ。それだけのことだよ」「彼女が妹なら、じゃあ私は何なの?」葵はかろうじて笑顔を作り、そう問いかけた。「お前は俺の恋人で、彼女の義姉さんだろう?」込み上げる吐き気を必死にこらえながら、できる限り平静を装って葵は言った。「じゃあ、私と結婚してくれる?」肩に置かれた彼の指が、ぴたりと強ばった。哲也はほんの少し眉をひそめた。
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第4話
「病院に行ったの?」診察券に具体的な診療科が記されていなかったのは、せめてもの救いだった。葵は努めて平静を装いながら答える。「胃の調子が悪くて」「薬は飲んだ?」哲也の手のひらから伝わる温もりが、服越しにじんわりと伝わってくる。顔を上げると、心配そうにのぞき込む彼の瞳が、かつて麻美が現れる前とまったく同じ色を湛えていた。冬になると決まって、生理痛に苦しめられる葵は、ソファにうずくまり湯たんぽを抱えて動けなくなることが多かった。そのたびに哲也は両手をこすって温めては、そっと彼女のお腹に当ててくれた。「もし赤ちゃんができたら、手のひらをお腹に当てれば、赤ちゃんの動きが感じられるかもね」そんな冗談を、葵は何気なく口にしていた。哲也は決して笑わず、反論することもなかった。当時は、黙って受け入れてくれているのだと思っていた。けれど今思えば、あの沈黙こそが、そんな未来が訪れないことを悟っていた男の、静かな拒絶だったのだろう。二人の未来に夢を見ていたのは、初めから葵ひとりだけだったのだ。いま、このお腹の中で、新しい命が育まれている。その事実が、罪悪感となって胸を刺した。葵はそっと哲也の手を押しのけた。「どうした?」彼が眉をひそめた。首を振りながら診察券を彼の手から受け取り、「別に......ご飯に戻ろう」と言葉をこぼした。食卓に戻ると、麻美が気遣うような声で、上辺だけの心配をいくつか並べた。だが葵には、まともに取り合う気力も残っておらず、ただ黙って無視することにした。「お義姉さん、怒ってるんですか?辛い料理ばかり頼んでしまって、本当にごめんなさい」麻美の声が震えている。目には涙がにじんでいた。「子供の頃、母がよく激辛料理を作ってくれた。でも母が亡くなってからは、ずっと海外暮らしで、何年も口にすることがなくて......今日はつい、懐かしくなってしまって。お義姉さんが辛いの苦手なんて、知らなくて本当にすみません」顔を上げると、哲也が麻美の手首を握り、慰めるように言葉をかけていた。「麻美ちゃんのせいじゃないよ。自分を責める必要はない。辛い料理が好きなら、お手伝いさんにもっと作ってもらえばいい」その光景があまりに和やかで、親密に見えて、葵は思わず反吐が出そうになった。箸を置き、「気分が悪い」と
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第5話
哲也の目に、動揺の色が浮かんだ。窓の外をじっと見つめたまま、しばらくしてようやく口を開いた。「麻美は......ただの妹だよ」「違うわ」葵の声は静かだったが、迷いはなかった。彼の稚拙な嘘など、すぐに見抜けた。その瞬間、ふと何かが胸に閃いた。なぜ、哲也は本当に愛している麻美ではなく、その代用品でしかない自分と付き合っているのか。その理由が、今になってわかる気がした。恋人であれば、別れがある。夫婦でも、離婚という結末が待っていることがある。でも、家族は違う。ましてや、愛を秘めた「偽物の家族」ならば、その絆は簡単には壊れない。哲也は、心の奥を見透かされたと感じたのか、答えをはぐらかすようにそっと葵の頬に触れ、なだめるような声を出した。「考えすぎだよ。麻美とは幼なじみで、ほとんど本当の兄妹みたいなもんだ。それに、あいつの家には事情があって、今はひとりぼっちなんだ。俺が面倒を見るのは当然だろ?」爪が手のひらに食い込むほど、葵は拳を握りしめた。ひとりぼっち。その言葉が、鋭く胸に突き刺さった。哲也は、気づいていないのだ。目の前にいる、この自分こそが、本当の「ひとりぼっち」だということに。心が、音を立てて崩れていく。過去の数年間、共に過ごしてきた時間は、結局はすべて偽りだった。哲也は、麻美への想いを、自分という存在に投影していただけ。そんな「偽りの愛」に、しがみつく価値なんてあるだろうか。「うん......」葵は無理に笑顔を作った。「わかってる」哲也は、いつものように葵の従順さに安堵した様子で、額にキスを落とすと、そのまま部屋を出ていった。ドアが閉まった瞬間、葵はその額をティッシュで乱暴に拭き取り、嫌悪感を込めてゴミ箱に投げ捨てた。その夜、葵は一晩かけて荷物を整理した。自分の持ち物と、哲也からもらったものをきっちり分けて、それぞれ別の箱に詰め、クローゼットの奥に隠した。交際が始まってすぐの頃、葵はもう一度哲也から金を借り、演技学科の学業を終えた。卒業後、撮影現場のオーディションを受けに行こうとしたとき、哲也が引き止めた。「遠距離になっちゃうだろ。寂しいよ」そのときの葵は深く考えずに言った。「会いに来てくれればいいじゃない。現場は面会OKなんだし」だが、哲也は頷こうとはしなかった。「仕事が忙しくて
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第6話
葵は、ただぼんやりとしていた。当時の彼女は、哲也が自分を心から愛してくれていると信じて疑わなかった。哲也はすでに、何不自由のない豊かな生活を与えてくれていたというのに、それでもまだ、自分は十分に尽くせていないと思い込んでいたのだ。まさに、「愛とは常に不足を感じること」という言葉そのものだった。けれど今、哲也は何のためらいもなく、何も思い煩うこともなく、麻美と旅行に出かけてしまう。その姿を前に、葵がこれまで「愛の証」だと信じて疑わなかった「常に不足を感じること」は、実のところ、哲也が巧妙に装ったただの言い訳にすぎなかったのだと、痛感せざるを得なかった。彼女はあまりにも愛されたくて、わずかな幻想にもすぐに心を委ねてしまう性質だった。だからこそ、あの態度を哲也の愛情表現だと、都合よく勘違いしてしまったのだ。「葵さん」使用人のおばさんの声が、彼女の回想を遮った。「お昼は、何がよろしいですか?」葵は無意識のうちに、自分のお腹をそっと撫でた。あの日、麻美が注文した脂っこい料理の数々で、つわりがひどくなっていた。薄味の料理をお願いすると、ソファに身を預け、出国前に済ませておくべきことについて考え始めた。哲也と麻美がいないことが、むしろ安堵に繋がっていた。二人の仲睦まじい様子を目にするたび、過去四年間の自分の境遇と無意識に比べてしまっていたからだ。何度も胸が締めつけられ、何度も心が死んでいった。愛という名で覆われた嘘は、麻美の登場によって、完全にその仮面を剥がされ、もはや隠れる場所を失ってしまった。この数日間に起きたことは、葵が四年かけて築き上げた信念を、音を立てて崩してしまった。気持ちはまったく落ち着かず、思考はどこまでも混乱を極め、ついにはお腹が痙攣を始めた。次第に強まる痛みに、葵は腰を折り曲げたまま、長いあいだ立ち上がることができなかった。使用人が異変に気づき、慌てて病院へと連れて行ってくれた。完全に意識を失う直前、葵は最後の力を振り絞って医師の手を握りしめ、誰にも妊娠のことは言わないでほしいと頼んだ。医師は事情を察し、静かにうなずいた。そして、葵の意識は闇の中へと沈んでいった。再び目を覚ました時、ベッドの前には哲也と麻美が立っていた。哲也は不機嫌そうな顔をしており、麻美は心配げに眉を寄せていた。葵が目を
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第7話
哲也は慌てて彼女の身体を支えた。「麻美、どうしたんだ?」麻美はかすかに首を振った。「大丈夫。きっと、急いで歩きすぎて疲れちゃったの。ちょっとめまいがして......」「検査に行こう」そう言うなり、哲也は一度も振り返ることなく、彼女の肩を抱いて病室を出ていった。葵はその背中を見送り、ほっと息をついた瞬間、胸の奥に針で刺されるような細やかな痛みが広がった。目を覚ましてから、哲也は一度として彼女の体調を気遣う言葉をかけてくれなかった。それなのに、麻美が額にそっと手を当てただけで、あんなにも慌てふためいて心配していた。目を開けた瞬間に見えた哲也の顔を見て、もう灰になったはずの心に、ほんの一瞬だけ小さな炎が灯りそうになった自分が、情けなくて仕方なかった。哲也と麻美が去った後、医者が一度病室を訪れた。葵のベッドのそばに誰の姿も見えないのを確認すると、医者はわずかに眉をひそめて訊ねた。「ご家族の方は、来られていないのですか?」哲也の顔が一瞬、脳裏に浮かんだが、葵は静かに首を振った。「家族はいません」医者は少し驚いたように目を見開き、言葉を変えた。「お子さんの父親は――」葵は自分の腹にそっと手を当てた。「これは......予期せぬことでした。子どもは、諦めようと思っています」カルテをめくりながら、医者は淡々と訊いた。「今なら、手術の手配が可能ですが。どうされますか?」「お願いします」葵は迷いのない声で答えた。手術室へ向かう途中、葵はずっとお腹に手を添えていた。検査の日、医者に「あと数日もすれば、赤ちゃんの心音が聞こえてくるでしょう」と言われたことを思い出した。今日を過ぎれば、もう二度とその音を聞くことはない、その現実が胸を締めつけた。もっとずっと先の話になると思っていた。だが、縁のない出会いは、早く別れた方が傷も浅いのだと、現実が皮肉にも教えてくれた。再び目を覚ましたとき、葵は救急病棟から産婦人科の病棟に移されていた。その間、哲也は一度も姿を見せなかった。隣のベッドでは、若い女性が両親や恋人に囲まれ、温かな気遣いに包まれていた。それに対して、葵はひとりぼっちだった。彼女はスマホを握りしめ、長いあいだ迷った末に、意を決して哲也に電話をかけた。何度かコールののち、ようやく繋が
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第8話
哲也は麻美の肩を抱きながら、ロビーの前を通り過ぎた。ストレッチャーに乗せられた葵の姿が、ふたりの目に飛び込んできた。その瞬間、哲也と里菜の視線がふと交差した。哲也の瞳が、ふと陰った。そんな彼の様子に気づいた麻美が、彼の視線の先を追いながらたずねた。「どうしたの、哲也?誰か見たの?」哲也は小さく首を振り、「いや、見間違いかもしれない」とつぶやくように答えた。葵はふたたび手術室から姿を現したが、すっかり衰弱し、言葉を発することすらままならなかった。里菜は、そんな彼女のそばを片時も離れなかった。少しずつ意識が戻りはじめた頃、里菜は葵にそっと伝えた。「手術室に運ばれる途中で、哲也を見かけたの」「......彼、私のこと、見てたの?」葵はわずかに息を呑んだ。「たぶん、見てなかったと思う」里菜は少し躊躇いながら言葉を続ける。「彼、麻美と一緒だったの......葵、大丈夫?」「うん、大丈夫」葵は静かに微笑んだ。「私はもう、振り返らないから」葵が入院し、静かに回復していく間、哲也は一度も彼女のもとを訪れなかった。退院の日が来て、やっと自宅へと戻ったそのときまで。玄関のドアを開けると、麻美が興奮した様子で新しいドレスを哲也に見せていた。「哲也、このドレス、似合うかな?」哲也は微笑み、うなずいた。「麻美ちゃんはいつだって、このスタイルがよく似合うよ」葵はまた痛む腹を押さえた。手術室のベッドに身を横たえていた彼女の存在をよそに、哲也と麻美は仲睦まじく買い物を楽しんでいた。誰ひとりとして、葵が今どこにいるのかを気にかけてはいなかった。玄関のドアが開く音に、ふたりは同時に振り返った。「......帰ったか」哲也が低く、冷えた声で言った。麻美もまた、手にしたドレスを嬉しそうに見せびらかした。「お義姉さん、このドレス、私に似合う?旅行のときに哲也が選んでくれたの。帰ってきてからなかなか着る機会がなくて......今日、やっと試せたの」葵が何かを言う前に、麻美は続けた。「あの日、病院で具合が悪くて......退院してからもしばらく調子が悪かったの。やっと今日、よくなったのよ。お姉さん、怒ってないよね?」「......何を怒るの?」麻美はちらりと哲也を見やり、控えめな口調で続けた。「哲也を独り占め
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第9話
夜。哲也はいつものように食事を手に、葵の部屋を訪れた。ドアをノックし、返事を待たずに中へ入ってくる──これも、もういつものことだった。葵はベッドに横たわったまま、足音だけで相手が誰かを察した。ますます自分の惨めさが身に染みる。これほどまでに哲也を知り尽くしていながら、彼の偽りの優しさに気づけなかったなんて。哲也は食事を机の上に置くと、ベッドの端に腰を下ろした。「この数日、どこに行ってた?」葵はゆっくりと目を開けた。「今さら聞くの?」「どこに行ってたんだ?」哲也はもう一度、言葉を重ねた。まもなく国外へ発つ葵の胸に、ひとつの思いがよぎった。もしその日が来たとき、哲也は自分の行方など気に留めず、ただ帰りを待ち、戻ったらそのとき初めて詰問するのだろうか?それでもいい、とも思った。自分がすでに国を離れ、二度と戻らないと知ったとき、彼がどんな顔をするのか見てみたい気もした。哲也は葵が答える気がないと察し、机の上の食事を指さした。「麻美が届けてくれって。ちゃんと食べるように、ってさ」葵はぷいと背を向けた。「返して。食べたくない」哲也は眉をひそめたが、いつものように、葵をなだめるような柔らかい口調で言った。「葵、わがまま言うなよ。俺の忍耐にも限界がある」その言葉には、どこか諦めの色がにじんでいた。まるで葵が理不尽な要求ばかりして、それに彼が我慢強く応えてきたかのような、そんな物言いだった。胸の奥がぎゅっと締めつけられた。麻美が現れてからの半月間、哲也の口から最も多く聞いた言葉は、「わがままを言うな」と「言うことを聞け」だった。彼にとって、葵は麻美に似た「代用品」でしかなかったのだ。そして今、哲也の言葉にうっすらとにじむ脅しに触れ、葵はようやくはっきりと理解した。この四年間、表面上の関係が維持されていたのは、自分が哲也の前でひたすら従順でい続けたからに過ぎない。ほんの少しでも反抗を見せれば、哲也はすぐに苛立ち、そして脅しをちらつかせる。けれど、それでも葵は、試してみたくなった。「もし、わがままを言ったら?」「麻美のことか?」「そうよ」そう答えながらも、葵は心のどこかで、最後の小さな期待を抑えきれなかった。哲也はじっと、葵を見つめた。「やめておけ」その一言だけ残し、哲
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第10話
哲也の電話は、思ったよりも早くかかってきた。しかし、葵はすでに転送設定をしていたため、応答したのは里菜だった。電話がつながるなり、哲也は吐き捨てるように言った。「葵、もういい加減にしろ」その言葉を予想していた葵は、あらかじめ里菜に「返事はしなくていいから、こう伝えて」と言い含めていた。里菜は鼻で笑った。「葵からの伝言よ。あんたにとって、葵なんてどうでもいい存在。ただ、彼女があんたから離れられないと思ってるだけ。葵がどれだけあんたとの家庭を望んでいたか、一番よく知ってるのはあんたのはず。でも、あんたは一度も彼女の気持ちを顧みなかった。彼女は長いこと『家』を持てなかったの。だから今、自分の家を探しに行くって」その言葉は、哲也の胸を容赦なく締めつけた。「どういう意味だ?」「そのままの意味よ」それ以上、里菜とやり取りを続ける気はなかった。「電話を葵につなげろ。直接話す」「これは私の電話。それに、葵はもうあんたに会う気なんてないって」そう言って、里菜はあっさりと電話を切った。哲也は、里菜の言葉を信じなかった。葵が自分から離れるなど、あり得るはずがない。どうせ二人で仕組んだ、くだらない悪戯に違いない。すぐに折り返し電話をかけたが、「電源が入っていません」のアナウンスが流れただけだった。怒りのあまり、彼はスマートフォンをテーブルに叩きつけた。その音に驚いた麻美が、飛び上がるようにして声を上げた。「哲也さん、どうしたんですか?......お義姉さん、まだ怒ってるんですか?」哲也は彼女に一瞥をくれただけで、平静を装いながら言った。「お前には関係ない。退院したばかりだろ、休んでろ。俺はちょっと出かける」乱暴に部屋を出て行く彼の背中を見送りながら、麻美は唇を強く噛みしめた。血の気が引いた唇は、色を失っていた。哲也はすぐに里菜の住所を調べ上げ、玄関のドアを激しく叩いた。しばらくして、文句を言いながら里菜が現れた。「なによ、うるさいわね」「葵はどこだ。出てこい」里菜は唇を尖らせ、つまらなそうに返した。「いないって言ったでしょ」「葵!」哲也は半ば強引に部屋の中へと踏み込んだ。「迎えに来たぞ。家に帰るぞ」里菜の部屋は一目で見渡せるほど狭く、そこに葵の姿がないことは明らかだった。哲也は振り返
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