付き合って四年、水谷葵(みずたに あおい)は、これまでに何度も松本哲也(まつもと てつや)にプロポーズしてきた。けれど、そのたびに拒まれた。 葵は、それでも「まだその時じゃないだけ」と信じようとしていた――あの日までは。 哲也が「妹」だと紹介した女性を家に連れて帰ってきたその瞬間、葵はようやく気づいた。自分は、ただの身代わりだったのだと。 愛とは、いつもどこかに後ろめたさを抱えるものなのだろうか。 何度も傷つき、そのたびに心は少しずつ壊れていった。そしてついに葵は、アメリカ行きの航空券を手に入れた。 けれど、葵が離れたあと、なぜ哲也は、彼女を追いかけてきてまで、「戻ってきてくれ」と懇願したのだろうか。
View More思わず足を止めて見入ると、この会社は哲也が率いる国内企業の海外進出部門であり、つまりは彼のグループ会社の一つだということが判明した。少しくらいは心が揺れるかと思ったが、意外にも、葵の胸は静まり返っていた。青年が「何か気になるところはありますか」と尋ねてきたとき、葵は微笑んでこう答えた。「ちょっと見覚えのある名前があって」「知り合いの方がいらっしゃるんですか?」「いえ、見間違いかもしれません」契約書は一週間後、郵便受けに届いた。クライアント側の署名欄に押されていた印鑑には、確かに「松本グループ」と記されていた。葵は静かに契約書を閉じると、他の書類と一緒にファイルへ収めた。その日、もう一通の見知らぬメールが届いた。挨拶も署名もない、たった一行の文だけ。「おめでとう。このスタイルの服はきっとお前にぴったりだ。CMを楽しみにしている」差出人が誰なのか、言うまでもなかった。葵は一瞬ためらったあと、短く「ありがとう」とだけ打ち込み、送信ボタンを押した。その出来事をきっかけに、葵はこのブランドのコンセプトが哲也の発案ではないかと、ふと疑念を抱いた。だが、哲也がどうやって自分の本当の好みを知ったのか、その答えは分からなかった。あの四年間、彼から贈られたものはどれも麻美の趣味に寄せたものばかりで、本当の自分らしさに触れた記憶は、ほとんどなかった。けれども、確かめるつもりはなかった。これは哲也なりの懺悔であり、謝罪なのだろう。許すつもりもなかったが、ただいつか、この人のことを完全に忘れられたら、そう願っていた。今の彼女には、築き上げたキャリアがあり、自分の生き方がある。誰かの代用品でも、付属品でもない。CM撮影が終わって間もなく、またあの見知らぬアドレスからメールが届いた。【とても素敵だ。気に入ってくれるといいな】その一文を目にした瞬間、葵はますます確信を深めた。これは哲也の発案に違いない、と。けれど、哲也がどれほど過去を遡り、どれほどの時間をかけて自分の本当の気持ちを探ろうとしたのか、そんなことは葵の知ったことじゃない。感動する気持ちも、応えようという気持ちも、少しも湧いてこなかった。それは、哲也自身が向き合うべき課題だ。想いが報われるかどうか、今後もその無駄とも思える努力を続けるべきかどうか、それを
久しぶりにその名前を耳にして、葵はしばらく黙り込んだ。静寂が流れるなか、里菜が口を開いた。「あいつ、街中で葵の等身大パネルを叩いてたよ」「何かを罵りながらね。結局、警備員に追い払われたけど」「どうして......哲也は?一緒じゃなかったの?」葵は不思議そうに尋ねた。里菜は首を横に振った。「いなかったよ」その事実は、さらに葵の心をざわつかせた。哲也が自分の世界から完全に姿を消す前、最後に残した言葉がふと蘇った。もしかしたら、あの人は本当に後悔していたのかもしれない。長い沈黙を破るように、里菜が声を張った。「葵、まさかあのクズ男のこと、まだ気にしてるわけじゃないよね?」葵は微笑んだ。「大丈夫、戻ったりしないよ」その答えに、里菜は満足そうに笑みを浮かべた。「それでこそ葵。芸能界にはイケメンが山ほどいるんだから、さっさと新しい人見つけて、あんなクズは忘れなよ。未練なんて持つ価値もないんだから」「うん、そうするよ」電話を切ると、葵はすぐにその話題を頭の片隅に追いやった。麻美の異様な行動は、もしかしたら哲也と関係があるのかもしれない。哲也の言葉通り、麻美のことは本当に好きではなく、彼自身を愛していたのかもしれない。だが、もはやそんな答えに意味はなかった。次々と新しいオファーが舞い込み、気に入った脚本を選び、契約を結んで間もなく撮影が始まった。撮影を終えて自宅に戻ると、郵便受けに一通の手紙が届いていた。差出人はアメリカの新興ファッションブランド。手紙の内容は簡潔で、名刺が一枚同封されていた。会社に来て詳細を話し合いたいという旨が記されていた。約束通り会社を訪れると、出迎えてくれたのは東洋系の若い男性だった。流暢な標準語に、葵は一瞬、懐かしさを覚えた。軽く国内の話題を交わしたあと、彼は本題に入った。「社長が、葵さんのことを非常に気に入っておりまして。ぜひ次期新作のイメージキャラクターをお願いしたい、とのことです」この一年、似たような言葉は何度となく耳にしてきた。最初は恐縮していたが、今ではすっかり慣れていた。やがて社長との対面が叶い、青年の言葉どおり会話は弾んだ。ブランドのスタイルと理念にも強く共感でき、葵は即座に契約を交わすことにした。帰り際、企業文化を紹介する壁面展示が目に留まり、ふと何気な
医師の診断によれば、葵の命に別状はなく、原因は一時的な意識の喪失とのことだった。哲也は病室のベッド脇に腰を下ろし、静かに目を閉じたまま眠る葵を見つめていた。ふと気がつくと、目の前の葵は、ずいぶんと痩せたように見えた。哲也はそっと彼女の頬に触れた。その感触は、なぜか遠くかすんだ記憶のように思えた。それが、どれだけ長いあいだ自分が彼女と向き合うことを怠っていたのかを、彼に教えてくれた。静まり返った病室の中で、ようやく哲也の心にも静けさが訪れた。そして彼は、二人の間に起こったすべてを、ゆっくりと振り返る時間を得た。ホテルの階段室でふと耳にした泣き声が、彼にとってのパンドラの箱を開けた。その時に出会った、麻美とうり二つの瞳を持つ女性に、彼は抗いがたく心を奪われたのだった。あの始まり自体が、最初から間違いだったのかもしれない。哲也はうつむいた。もしも出会いがもっと自然な形で訪れていたなら、もしも葵が麻美の代わりとして現れなかったなら、果たして二人は、違う結末に辿り着けたのだろうか。わからない。哲也にはもう、その答えを知る術がなかった。かつて哲也は、葵を心優しい人間だと信じていた。だが、今思えば、それは葵が彼を愛していたからこそ見せていた姿だったのだ。数々の傷を受け、毅然と彼のもとを去った葵の心は、いまや鉄のように冷たく、固くなっていた。ようやく哲也は、それに気づいた。そして、自分には誰をも恨む資格などないことも、彼は知っていた。自分の惰性と怠惰が、葵の気持ちと向き合うことを拒み続けていたのだ。傲慢だった。彼は、葵が自分を愛してやまないと疑わず、決して離れていかないと信じていた。その愛情に、あたりまえのようにすがりつきながら。愛が、尽き果てるその時まで。日が暮れかける頃、葵はゆっくりとまぶたを開いた。「葵、大丈夫か?」哲也が心配そうに声をかけた。葵は落ち着いた口調で問った。「あなたが......病院に運んでくれたの?」哲也は黙って頷いた。「ありがとう」「礼なんて言うな、当然のことを......」そう言いかけた瞬間、哲也ははっとした。二人のあいだには、もはや何の関係もないという事実が、言葉の続きを飲み込ませた。「......どういたしまして」葵は彼の戸惑いに気づいたが、深く追及すること
葵の表情には微塵の動揺もなく、終始、穏やかで礼儀正しい微笑みが浮かんでいた。「実はね、何度もチャンスをあげたの。麻美が現れたあとでさえ......あなたに、最後の機会を与えようとした。でも、あなたはそれを自分の手で手放したのよ」哲也には、もう何も言い返す言葉がなかった。あの日、病院で葵に懇願されながらも、冷たく拒んだ記憶、そのときの葵の哀しげな瞳が、今も鮮やかに蘇った。弁解の余地などどこにも見つからず、哲也はかろうじて「......わかってる」と小さく呟くしかなかった。「......あの子どもに、何かあったのか調べた」その二文字をどうしても口に出す勇気が持てず、言葉を切ってから続けた。「あの日、お前からの電話を拒んでしまった。ごめん......本当に、ごめん......」どれほど謝れば償えるのか、見当もつかなかった。こみ上げる熱に目頭が焼けるようで、哲也はゆっくりと顔を上げた。「これから......俺たちは、もう他人になるのか?」「友達でいいわ。それ以上にはなれない」葵の言葉は柔らかくも、揺るぎない意志が込められていた。それでも哲也は、まだ諦めきれなかった。「しばらくここに滞在したいんだ。ロケ地に行っても、いい?」葵はふっと口元を緩めた。「私の意見を聞くなんて、あなたにしては珍しいわね」「......ごめん」その短い謝罪に、葵は静かに頷いた。こうして哲也は、毎朝決まった時間に撮影隊に同行し、夜遅くまで、許された範囲で葵のすべての動きを見守り続けた。見れば見るほど、哲也は痛感した。もう二度と、この人を手に入れることはできないのだと。ロケ現場の葵は、まばゆいほどに輝いていた。心から仕事を愛し、持てる力を余すことなく注いでいるその姿は、これまで哲也が一度たりとも見たことのないものだった。あの豪奢な別荘、それは結局、彼女を閉じ込めるための檻でしかなかったのだ。葵もまた、彼が毎日姿を見せることに次第に慣れていった。だが、ひと月が経ったある日、突然、哲也の姿は消えた。スタッフたちは笑いながら、「あの熱心なファンも、ついにあなたの冷たさに負けたみたいね」と冗談めかして言った。葵がロケ現場を見回しても、たしかに彼の姿はなかった。これが、きっと二人の最終的な結末なのだろう。そう思った。互いに
退院の日、哲也は思いがけず葵と再会した。「葵、来てくれたのか!」驚きと喜びが一気に胸に込み上げ、哲也は声を上ずらせた。あの電話を切って以来、哲也は葵に一度も連絡していなかった。もう彼女に何かを求める資格など、自分にはないと思っていたからだ。そんな彼の前に、病院の入り口で葵が現れるなんて、まるで夢のような嬉しい誤算だった。「あなたの秘書から電話があって、今日退院だと聞いたの」少し間を置いてから、葵は続けた。「私に来てほしいって、言ってたわよ」哲也は心の中で唇を噛んだ。そんなに効くなら、もっと早く頼んでおけばよかった。「ありがとう」四年間も共に過ごしたはずの相手なのに、手足の置き場さえわからず、何を話せばいいのか必死で考えていた。「今日は仕事じゃないのか?」「今日は撮影が入ってないから、休みなの」「そうか」哲也は間の抜けたような返事しかできなかった。この歳になって、まさか初恋の少年のような気分を味わうことになるとは。ニヤニヤしているばかりで、それ以上何もできなかった。そんな哲也を見て、葵が小さくため息をついた。「時間ある?一緒に食事でもどう?」哲也は慌てて、何度も大きく頷いた。葵の運転する車で、二人はレストランへ向かった。「運転、うまいんだな」道中、なんとか会話を繋ごうと、哲也は必死に糸口を探していた。「こっちに来てから習ったのか?」「あなたと知り合う前からできたわよ」返答に詰まりかけた哲也に、葵はどこか晴れやかな笑みを見せた。「いいの。あの四年間、あなたが本当の私を知ろうとしてなかったこと──ちゃんとわかってるから」「今からでも知りたい!」哲也は慌てて声を上げた。「もういいの、哲也」久しぶりに名前を呼ばれ、胸がぎゅっと締めつけられる。葵が愛想を尽かして去っていった日から、二人の間の親密さはとうに失われていた。それでも、その呼び名に、かつて愛されていた頃の記憶が一瞬よみがえる。だが次の言葉が、哲也を現実に引き戻した。「今日の食事は、正式な『さよなら』にしましょう。これを食べ終わったら、あなたはあなたの人生を、私は私の人生を歩く。それでいいわね?」「ダメだ!」立ち上がりかけながら、哲也は叫んだ。「俺の未来には、お前が欠けてるなんて、考えられない!」
「どういう意味だ?」哲也の頭にガツンと衝撃が走り、次の瞬間、思考が真っ白になった。信じられないという表情のまま、彼女を凝視した。「この子は......もういないのか?」葵は彼の視線を避けるように、無言で自分の車へと向かった。「あなた、何でも調べられるんでしょ?自分で調べればいいわ」その言葉に突き動かされるように、哲也はすぐさま国内の秘書に電話をかけた。五時間後、秘書から数枚のファクスが届いた。どれも葵の入院を証明する書類だった。入院中の治療内容、処方された薬、すべてが克明に記録されている。そして、そこには決定的な記述があった。妊娠中絶手術。実施されたのは、麻美が仮病を使い、哲也が彼女に付き添って病院を出た直後だった。哲也はその時のことを思い出す。あの後、葵から一度電話があり、会いたいと頼まれた。だが、自分はその申し出を断っていた。電話越しの葵の声が、驚くほどか細かったことを、彼は今もはっきりと覚えている。だが当時の哲也は、葵に少しでも反省させようという思いから、彼女の願いを簡単には受け入れなかった。まさか、そんな理由があったとは夢にも思わなかったのだ。ファクスの束を握りしめ、哲也は胸を押さえてその場にうずくまった。呼吸すらままならないほどの苦しみに襲われる。すべてのつじつまが、ようやく合った。あの日以来、葵の態度は目に見えて冷たくなり、それに苛立った哲也の怒りはさらに募り、二人の関係は氷点下にまで落ち込んでいた。哲也は、葵の性格が変わったのだと疑っていた。だが、真実はその逆だった。自分が彼女の心に、致命的な傷を負わせていたのだ。どうすればいいのか、哲也にはわからなかった。せめて子どもさえいれば、まだどこかで繋がっていられると思っていた。いつか葵に許してもらえる日が来ると、そう信じていた。だが、最後の希望さえも、自らの手で壊してしまった。償う機会すら、もはや残されていない。自分が葵にどれほどの借りを作ったのか、考えるたび、胸が締めつけられる。息をするたび、身体が震えるように痛んだ。ホテルの部屋で、哲也は一晩中目を閉じることができなかった。葵と過ごした四年間を振り返る。けれども、彼女に優しくした記憶は、ほとんど思い出せなかった。最初にホテルの階段で差し伸べた、あの手以外に。自分が葵に何を与え
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