All Chapters of もうあの日には戻れない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

哲也は葵の部屋を隅から隅まで探し回った。調度品は以前のまま、何一つ動かされた様子はなかった。だが、彼はすぐに何かがなくなっていることに気づいた。しかし、その「何か」が何なのか、すぐには思い出せなかった。やがて、葵の身分証明書類がすべて消えていることに気づき、彼は確信した。だが、彼女は一体どこへ行ったのか。天涯孤独な身の上である彼女に、彼のもと以外に行くあてなどあっただろうか?そのときちょうど、秘書から連絡が入った。葵の最新の足取りが報告され、三時間前に飛行機で出国したこと、目的地がアメリカのロサンゼルスであることが伝えられた。「アメリカで......何をするつもりだ?」「分かりません」秘書は彼の怒気を察してか、慎重に答えた。哲也は短く「わかった」とだけ返し、無言で電話を切った。次に彼は里菜の家を訪ね、葵がアメリカへ向かった理由を尋ねた。しかし返ってきたのは、皮肉まじりの一言だった。「私が知るわけないでしょ?そもそも、あんたは葵の彼氏じゃなかった?毎日一緒にいたんでしょ?だったら、私よりよっぽど詳しいんじゃないの?」哲也は言い返す言葉もなく、ただ黙り込んだ。里菜は鼻で笑った。「なんだ、あんたも知らないのね。だったらもう、葵がどこへ行こうと、どうでもいいんじゃないの?」「葵は俺の彼女だ。どこにいるか気にするのは、当然のことだろ!」哲也は声を荒げた。だが、里菜も負けなかった。「今さら気にしてどうするの?半月も連絡なしで放ったらかしだったくせに。まるで他人みたいだったわよ?」哲也は馬鹿ではなかった。これ以上問い詰めても何も得られないと察し、諦めて引き下がった。別荘へ戻った彼は、秘書に翌朝一番のロサンゼルス行きチケットの手配を命じ、再び葵の部屋にこもった。無人となった部屋を見渡すと、胸の奥がむず痒くなるような不快感に襲われた。葵が自分を愛していたことは、彼にもわかっていた。彼女が自分なしでは生きていけないことも、疑いようのない事実だった。それなのに、その葵が、自分の前から姿を消した。抑えきれない苛立ちが、哲也の胸を満たした。彼は部屋にある物を手当たり次第に破壊し、葵が黙って去ったことへの怒りと困惑をぶつけた。その隙をついて、外で様子を窺っていた麻美が、そっとドアを開けて入ってきた。「哲也、明日
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第12話

麻美の頬は涙に濡れていた。「あなたが好きなのは私でしょ?どうして今さら、あの代用品を追いかけるの!」「黙れ!」哲也の怒鳴り声に、麻美は呆然とした。彼がこんなふうに声を荒げるなんて、しかも葵のことで。それを思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。「哲也、私......今まで一度も、そんなふうに怒鳴られたことなんてなかったよ」哲也は無言で机に手をつき、深くうつむいた。葵がなぜアメリカに渡ったのか、そして自分がなぜ今、麻美にこんな態度を取ってしまっているのか、思考がぐるぐると渦を巻く。彼は幼い頃から、麻美に対して一度たりとも強い言葉を浴びせたことがなかった。子ども時代を共に過ごしたあの頃も、母を亡くした麻美が父親とともに海を越えて行ったあの時も、彼はただ麻美を哀れみ、限りない寛容さで受け入れてきた。だが今、目の前にいる麻美は、もうあの頃の少女ではなかった。見知らぬ誰かに変わってしまったのだ。目の前で、二つの姿がゆっくりと乖離していく。今の麻美と、かつて母を失い、無理やり異国へ渡った、あの儚い少女の幻影と。こめかみに手を当てながら、哲也は低く呟いた。「......今はそんな話をする気分じゃない。また今度でいいか?」だが麻美は、まるで何かに取り憑かれたかのように彼の腕をつかみ、泣きじゃくりながら懇願した。「葵のところに行かないで!お願い、行かないで!」哲也はその顔を見つめ、問い返した。「なぜだ?」「だって、私のこと好きなんでしょ?私......哲也の彼女になってもいい。付き合っても、いいよ」その瞬間だった。哲也の中で、麻美という存在を覆っていたすべてのフィルターが、一気に砕け散った。彼は完全に悟った。麻美は、変わってしまったのだ。記憶の中にいる彼女ではなく、声を枯らし、羞恥も忘れて縋りつく、別人のような女へと。哲也は彼女の手を振り払った。「部屋に戻れ。二度と言わせるな」その冷たい一言に、麻美は完全に彼を怒らせてしまったことを悟り、仕方なくその場を後にした。部屋には再び、哲也一人が残された。めちゃくちゃにひっくり返った室内を無言で見渡し、やがて使用人を呼び、片付けを命じた。作業が進む中、使用人の一人がクローゼットの奥に押し込まれていた箱を見つけ、彼に確認を求めてきた。開けて
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第13話

哲也はスタッフを振り切るようにして、まっすぐ葵に向かって駆け出そうとした。しかし、ようやく駆けつけた二人の男性スタッフが、なんとか彼を押さえつけた。「葵、話があるんだ」葵は眉をひそめた。「どうやってここまで来たの?」哲也の騒ぎは撮影現場にまで影響を及ぼしていた。そのため、葵はやむを得ず彼の前に姿を現したのだった。まさか里菜が自分の居場所を教えたとは思えない。しかし同時に、哲也なら手段を選ばずに辿り着くこともあり得ると、葵は不安になった。「......里菜に何をしたの?」「彼女とは関係ない」その一言に、葵は安堵の息を漏らした。哲也は続けた。「お前、一体どういうつもりなんだ?」責めるようなその言葉に、葵は一瞬言葉を失った。「何のこと......?」「とぼけるな」そう言うなり、哲也は彼女の手をぐいと引こうとした。「帰るぞ」葵は彼の手を振り払い、冷ややかに笑った。「哲也、現実を見なさい。私たち、もう別れたのよ」そのはっきりとした拒絶の言葉に、哲也の表情が歪んだ。だがすぐに彼は顔つきを変え、再び葵の手を取り、今度は優しい声で囁いた。「葵......最近、お前のことをないがしろにしてたのは悪かった。一緒に帰ろう。ね?」その声を聞いた瞬間、葵の胸に鈍い痛みが走り、哲也の顔をじっと見つめた。もし、彼が何度も麻美のために自分を裏切る姿を見ていなければ、この懇願に心を動かされていたかもしれない。葵は深く息を吸い、もう一度、言葉を重ねた。「私たち、もう終わったの」哲也の手に力がこもった。葵の細い手首を掴む指は、肉に食い込むほど強く、その目には怒りの色が滲んでいた。声は低く、鋭くなった。「葵」その呼びかけには、あからさまな警告の響きがあった。葵の背筋に冷たいものが走る。長年の付き合いの中で、彼に合わせ続けてきた日々。何度も妥協し、気づかぬうちに反抗しない癖が染みついていた。「葵、家に帰ろう」哲也は一転して穏やかな声を取り戻し、静かに告げた。「帰ったら結婚しよう。お前がずっと望んでいたことだろう?」その一言に、葵の胸に寂しさが広がった。四年間、願い続けてきた夢。けれど今、その願いはまるで、値引き交渉の材料のように彼の口から語られた。哲也にとって自分の出奔は、ただ結婚を迫るための
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第14話

哲也が帰国した。葵の言葉が胸に残っていた。彼は、自分がただ「愛されることに慣れているだけ」なのかを確かめるために、少し距離を置くことを決めたのだった。玄関のドアを開けたその瞬間、麻美が勢いよく駆け寄ってきた。「哲也、やっと帰ってきたね」出国前の口論で、哲也は感じていた。自分は、今の麻美を理解できていない、と。最後に別れたあの日、麻美はまだ十二歳だった。あのとき、麻美の母親が突然この世を去り、麻美は父親とともにシンガポールへ移り住んだ。それ以降、二人は直接会うこともなく、細々とネット上のやり取りだけが続いていた。十年以上の歳月が流れても、哲也の記憶に残っていたのは、十二歳のあの少女のままだ。天真爛漫な笑顔で彼のあとを追いかけ、「哲也」と優しく名を呼んでくれた、あの麻美。哲也は麻美より三つ年上で、当時十五歳。思春期まっただ中の彼にとって、それは初めて抱いた恋心だった。けれど、初めて知る愛情の不確かさに怯えた。テレビや小説で見かける「一度別れたら二度と関わらないカップル」のような関係になってしまうことが、何よりも怖かった。だからこそ、彼はその気持ちを心の奥にしまい込み、兄と妹という関係を崩さずにきた。家族であれば、永遠に離れることはないと信じていた――葵に出会うまでは。葵は、麻美に驚くほどよく似ていた。その存在に、哲也は目を離すことができなかった。四年間の交際を経て、いつしか哲也は、葵を「麻美の影」として見るようになっていた。すべてが変わったのは、一ヶ月前。麻美から「帰国する」と連絡があったときだった。国内にはもう、彼女の家族はいなかった。麻美は、哲也に「しばらく泊めてほしい」と頼み、彼は迷うことなく快諾した。しかし、彼は葵の鋭さを甘く見ていた。麻美を目にした瞬間、葵はすべてを察したのだろう。「......哲也」麻美の声に思考を引き戻され、哲也は彼女を見やった。「どうした?」哲也は気づいていた。玄関のドアを開けたときから、麻美がずっと自分の背後を気にしていたことを。そして、自分がひとりで帰ってきたと知ると、彼女が小さく安堵の息をついたことも。「......あの日の言葉、本心だったよ」麻美のその言葉に、哲也は彼女を見つめながら、しばし言葉を失った。ロサンゼルス行きの飛行機の中で、何度も彼
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第15話

麻美は涙を流したまま、冷ややかに笑った。「哲也、あなたってほんと傲慢よ。まるで、すべての女があなたを好きになって当然だと思い込んでる。でも実際、葵以外に、心からあなたを愛してる人なんていた?みんな、あなたのお金や地位が目当てなだけ」「葵」という名前が、静かに、しかし確実に哲也の心に波紋を広げた。麻美の言葉が真実であると、彼は気づいた。これまで出会った女性たちのなかで、全身全霊で彼を愛してくれたのは、葵ただ一人だった。彼女の瞳は、他の誰とも違っていた。そこにあったのは、欲望も打算もない、ただ純粋な喜びと憧れに満ちた光。それは、本当に人を愛した者だけが持つ眼差しだった。哲也は静かに目を閉じた。暗闇の中に、過去四年の間、変わることなく彼を見つめ続けてきた葵のまなざしが浮かび上がった。もう、あの真っ直ぐな瞳を見ることは二度とない。深く息を吸い込み、哲也は低く問うた。「じゃあ......お前は?」「私?」麻美はかすれた声で笑い、やがて高笑いへと変わった。「行くあてなんてないのよ。他に私を受け入れてくれる人なんて、誰一人いない」「どういう意味だ?」麻美は顔を上げた。裁判官のように冷やかな目をした哲也と、まっすぐに視線を交わす。「文字どおり、私を必要としている人なんて、この世にいないってことよ」「お前の父親は?」その問いが終わる前に、麻美はかぶせるように叫んだ。「アイツのことなんて、もう知らない!シンガポールに移って二年目に、あの人は再婚して、息子が生まれたの。遺言まで書いて、その子に全財産を相続させるようにしてた。私は何も残されてない。何度も口論して、ついには追い出されたわ」そう言い終えると、麻美は哲也を真っ直ぐに見つめた。「で、あなたは?今から私を追い出すつもり?」目の前にいる女は、かつて青春時代に憧れていた面影とはまるで別人だった。それでも、かつて心を奪われた存在には違いなかった。今となっては、もう恋愛感情など微塵もないにせよ。「追い出したりしない」哲也は静かに言った。「ここに住み続けていい。追い出すつもりはない。ただし、あの話はもう終わりだ」麻美にはすぐにわかった。彼が言う「あの話」とは、自分が求めていた「結婚してほしい」という願いを指しているのだと。「......あな
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第16話

秘書は、哲也が必要としていた物と、葵が残していった箱を一緒に持ってきた。哲也はその箱を見た瞬間、またしても葵に振られた記憶が蘇り、込み上げる怒りに任せて箱を蹴り飛ばし、秘書に持ってこさせたことを激しく後悔した。箱は頑丈ではなく、彼の一蹴りであっけなくひっくり返り、中身が床に散らばってしまった。「葵......お前、いなくなっても、残した物で俺を困らせるつもりかよ......」そう文句をつぶやきながらも、哲也はしゃがみ込み、散らばった物を一つずつ拾い始めた。中身のほとんどは、彼がかつて葵に贈った服やアクセサリー、そして別荘で使っていた日用品だった。哲也は服を一枚ずつ拾い上げ、丁寧に畳んでいった。しかし、その服の数々に、どこか見覚えのあるような気がした。目を凝らして見ると、それらは最近、麻美と旅行へ行った際に買ったドレスによく似ていた。麻美が十一、二歳の頃から既にファッションに興味を持ち、当時からこんなスタイルのドレスを好んでいたことを思い出した。その瞬間、哲也の中で何かが繋がった。自分は無意識のうちに、葵を麻美のように着飾らせていたのだ。ふと、葵が麻美のドレスを試着していた場面が脳裏に蘇り、哲也は皮肉めいた笑みを浮かべた。あのとき彼は、替え玉として葵に告白したその瞬間だけが、彼女を傷つけたのだと思い込んでいた。だが実際には、もっと前から、ずっと葵を悲しませていたのだ。哲也は思いを振り払うように、ドレスを脇に寄せ、他の服の整理を続けた。すると、ふいに一枚の紙切れがひらりと舞い落ちた。ゴミだと思って拾い上げ、捨てようとしたそのとき、紙の上部に記された四文字が目に飛び込み、動きが止まった。――妊娠確認。破れた紙切れで、「娠」の字は四分の三ほどしか残っていなかったが、判別するには十分だった。哲也はその紙を手に取り、上下左右からじっと見つめた。しかし、これがどこから出てきたのか、この診断結果が本当に葵のものなのか、確かめる手段はなかった。すぐさま葵に電話をかけたが、応答はなく、ほとんど即座に切られてしまった。何度かけ直しても、結果は同じだった。何度も、何度も、彼女は一度たりとも出ようとはしなかった。次に哲也は里菜の顔を思い浮かべ、彼女に電話をかけた。だが、里菜の声は相変わらず不機嫌だった。葵が妊娠しているかどう
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第17話

その前に、哲也には、この報告書の持ち主を確認する必要があった。翌朝早く、秘書から葵のこの一ヶ月間の行動記録が送られてきた。そこには二つの異なる病院の名前が記されており、そのうちの一つには、彼自身にも覚えがあった。麻美との旅行中、哲也は家政婦から電話を受けた。葵が突然倒れ、病院に運ばれたという。電話を切ったあと、旅先での浮かれた気分はすっかり消え去り、彼の頭の中は「なぜ葵が倒れたのか」という疑問でいっぱいになった。そんな哲也の様子を見て取った麻美が、葵のお見舞いに戻ろうと提案し、彼もそれに頷いて、半日かけて病院へ駆けつけた。病室に到着したとき、葵はまだ目を覚ましていなかった。蒼白な顔は痛々しく、今にも壊れてしまいそうなほど儚く見えた。だが、葵が目を開けた瞬間、口をついて出たのは、棘のある言葉と皮肉だった。元々抱いていた心配や焦りは一気に怒りへと変わった。哲也はすべての予定を放り出して見舞いに来たのに、返ってきたのは冷たい言葉だった。部屋の空気は瞬時に凍りついた。その記憶があったからこそ、麻美が倒れた時、哲也は一度も振り返ることなく病室をあとにしたのだ。あのとき彼は、「もう葵を過剰に気にかけるべきではない」と考えた。数日放っておけば、葵も「自分の彼女」としてどうあるべきかを思い知るだろうと、そんな傲慢な思いが、彼の中にあった。だからこそ、麻美が仮病を使っていると気づいていても意に介さず、わざと葵の見舞いには行かなかった。しかし、もう一つの病院は?哲也は記憶をたどったが、その場所に心当たりはなかった。そのことに、哲也はざわついた。おそらく、この報告書の出所は、もう一つの病院に違いない。彼はすぐに秘書に命じて診療記録を調べさせた。案の定、葵は確かにその病院を訪れていた。しかもそれは、麻美が帰国した翌日のことだった。病院の産婦人科で、哲也は葵の完全な検査報告書を手に入れた。そこには、はっきりと「妊娠確認」の文字が記されていた。医師は報告書の扱いに不満を述べながらも、適時の検診の必要性を強く訴えた。哲也は黙って頷き、指示を受け入れた。ふと、医師が何かを思い出したように眉をひそめた。「そういえば、水谷さんは近いうちに海外へ行くと話していました。海外でも定期検診を受けるようにしてください。お子さんのためにも、ご自身のためにも、
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第18話

「どういう意味だ?」哲也の頭にガツンと衝撃が走り、次の瞬間、思考が真っ白になった。信じられないという表情のまま、彼女を凝視した。「この子は......もういないのか?」葵は彼の視線を避けるように、無言で自分の車へと向かった。「あなた、何でも調べられるんでしょ?自分で調べればいいわ」その言葉に突き動かされるように、哲也はすぐさま国内の秘書に電話をかけた。五時間後、秘書から数枚のファクスが届いた。どれも葵の入院を証明する書類だった。入院中の治療内容、処方された薬、すべてが克明に記録されている。そして、そこには決定的な記述があった。妊娠中絶手術。実施されたのは、麻美が仮病を使い、哲也が彼女に付き添って病院を出た直後だった。哲也はその時のことを思い出す。あの後、葵から一度電話があり、会いたいと頼まれた。だが、自分はその申し出を断っていた。電話越しの葵の声が、驚くほどか細かったことを、彼は今もはっきりと覚えている。だが当時の哲也は、葵に少しでも反省させようという思いから、彼女の願いを簡単には受け入れなかった。まさか、そんな理由があったとは夢にも思わなかったのだ。ファクスの束を握りしめ、哲也は胸を押さえてその場にうずくまった。呼吸すらままならないほどの苦しみに襲われる。すべてのつじつまが、ようやく合った。あの日以来、葵の態度は目に見えて冷たくなり、それに苛立った哲也の怒りはさらに募り、二人の関係は氷点下にまで落ち込んでいた。哲也は、葵の性格が変わったのだと疑っていた。だが、真実はその逆だった。自分が彼女の心に、致命的な傷を負わせていたのだ。どうすればいいのか、哲也にはわからなかった。せめて子どもさえいれば、まだどこかで繋がっていられると思っていた。いつか葵に許してもらえる日が来ると、そう信じていた。だが、最後の希望さえも、自らの手で壊してしまった。償う機会すら、もはや残されていない。自分が葵にどれほどの借りを作ったのか、考えるたび、胸が締めつけられる。息をするたび、身体が震えるように痛んだ。ホテルの部屋で、哲也は一晩中目を閉じることができなかった。葵と過ごした四年間を振り返る。けれども、彼女に優しくした記憶は、ほとんど思い出せなかった。最初にホテルの階段で差し伸べた、あの手以外に。自分が葵に何を与え
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第19話

退院の日、哲也は思いがけず葵と再会した。「葵、来てくれたのか!」驚きと喜びが一気に胸に込み上げ、哲也は声を上ずらせた。あの電話を切って以来、哲也は葵に一度も連絡していなかった。もう彼女に何かを求める資格など、自分にはないと思っていたからだ。そんな彼の前に、病院の入り口で葵が現れるなんて、まるで夢のような嬉しい誤算だった。「あなたの秘書から電話があって、今日退院だと聞いたの」少し間を置いてから、葵は続けた。「私に来てほしいって、言ってたわよ」哲也は心の中で唇を噛んだ。そんなに効くなら、もっと早く頼んでおけばよかった。「ありがとう」四年間も共に過ごしたはずの相手なのに、手足の置き場さえわからず、何を話せばいいのか必死で考えていた。「今日は仕事じゃないのか?」「今日は撮影が入ってないから、休みなの」「そうか」哲也は間の抜けたような返事しかできなかった。この歳になって、まさか初恋の少年のような気分を味わうことになるとは。ニヤニヤしているばかりで、それ以上何もできなかった。そんな哲也を見て、葵が小さくため息をついた。「時間ある?一緒に食事でもどう?」哲也は慌てて、何度も大きく頷いた。葵の運転する車で、二人はレストランへ向かった。「運転、うまいんだな」道中、なんとか会話を繋ごうと、哲也は必死に糸口を探していた。「こっちに来てから習ったのか?」「あなたと知り合う前からできたわよ」返答に詰まりかけた哲也に、葵はどこか晴れやかな笑みを見せた。「いいの。あの四年間、あなたが本当の私を知ろうとしてなかったこと──ちゃんとわかってるから」「今からでも知りたい!」哲也は慌てて声を上げた。「もういいの、哲也」久しぶりに名前を呼ばれ、胸がぎゅっと締めつけられる。葵が愛想を尽かして去っていった日から、二人の間の親密さはとうに失われていた。それでも、その呼び名に、かつて愛されていた頃の記憶が一瞬よみがえる。だが次の言葉が、哲也を現実に引き戻した。「今日の食事は、正式な『さよなら』にしましょう。これを食べ終わったら、あなたはあなたの人生を、私は私の人生を歩く。それでいいわね?」「ダメだ!」立ち上がりかけながら、哲也は叫んだ。「俺の未来には、お前が欠けてるなんて、考えられない!」
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第20話

葵の表情には微塵の動揺もなく、終始、穏やかで礼儀正しい微笑みが浮かんでいた。「実はね、何度もチャンスをあげたの。麻美が現れたあとでさえ......あなたに、最後の機会を与えようとした。でも、あなたはそれを自分の手で手放したのよ」哲也には、もう何も言い返す言葉がなかった。あの日、病院で葵に懇願されながらも、冷たく拒んだ記憶、そのときの葵の哀しげな瞳が、今も鮮やかに蘇った。弁解の余地などどこにも見つからず、哲也はかろうじて「......わかってる」と小さく呟くしかなかった。「......あの子どもに、何かあったのか調べた」その二文字をどうしても口に出す勇気が持てず、言葉を切ってから続けた。「あの日、お前からの電話を拒んでしまった。ごめん......本当に、ごめん......」どれほど謝れば償えるのか、見当もつかなかった。こみ上げる熱に目頭が焼けるようで、哲也はゆっくりと顔を上げた。「これから......俺たちは、もう他人になるのか?」「友達でいいわ。それ以上にはなれない」葵の言葉は柔らかくも、揺るぎない意志が込められていた。それでも哲也は、まだ諦めきれなかった。「しばらくここに滞在したいんだ。ロケ地に行っても、いい?」葵はふっと口元を緩めた。「私の意見を聞くなんて、あなたにしては珍しいわね」「......ごめん」その短い謝罪に、葵は静かに頷いた。こうして哲也は、毎朝決まった時間に撮影隊に同行し、夜遅くまで、許された範囲で葵のすべての動きを見守り続けた。見れば見るほど、哲也は痛感した。もう二度と、この人を手に入れることはできないのだと。ロケ現場の葵は、まばゆいほどに輝いていた。心から仕事を愛し、持てる力を余すことなく注いでいるその姿は、これまで哲也が一度たりとも見たことのないものだった。あの豪奢な別荘、それは結局、彼女を閉じ込めるための檻でしかなかったのだ。葵もまた、彼が毎日姿を見せることに次第に慣れていった。だが、ひと月が経ったある日、突然、哲也の姿は消えた。スタッフたちは笑いながら、「あの熱心なファンも、ついにあなたの冷たさに負けたみたいね」と冗談めかして言った。葵がロケ現場を見回しても、たしかに彼の姿はなかった。これが、きっと二人の最終的な結末なのだろう。そう思った。互いに
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