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8.桃瀬穂乃として①

Auteur: 鷹槻れん
last update Dernière mise à jour: 2026-02-22 16:06:16

 私は今日から、名実ともに〝桃瀬ももせ穂乃ほの〟として歩き出す。

 そう心の中で言い切ったはずなのに、玄関で靴を揃える指先が、わずかに震えていた。

 私の帰宅を察知するなり走り出てきた愛犬うなぎが、足元にぴたりと寄り添う。動物特有のあたたかな体温が、じんわりと伝わってくる。

 温度差のせいかな。

 眼鏡のレンズが曇って、視界が白くかすんで見えた。

「ワンっ」

「ただいま」

 声は、思っていたよりも穏やかだった。

 奥から梅本先生が顔を出す。

「お帰り。……雨、ひどかったな」

「はい。少しだけ……濡れちゃいました」

 髪先から雫が落ちるのを見て、梅本先生が短く息を吐く。

「眼鏡、曇ってんじゃん」

「外、結構寒かったので」

「そうか。風呂、沸いてるから入って来いよ」

「……え?」

「雨だしな。濡れて帰るだろうと思って沸かしといた」

 何気ない言い方。

 特別なことみたいにしない。

 それが余計に胸に響いた。

「ぼんやりしてないで入って来い。熱、ぶり返したら困るだろ?」

 ――梅本先生は覚えてくださっている。

 私が風邪を引いていたことも。

 体力がまだ戻りきっていないことも。
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  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   8.桃瀬穂乃として①

     私は今日から、名実ともに〝桃瀬穂乃〟として歩き出す。 そう心の中で言い切ったはずなのに、玄関で靴を揃える指先が、わずかに震えていた。 私の帰宅を察知するなり走り出てきた愛犬うなぎが、足元にぴたりと寄り添う。動物特有のあたたかな体温が、じんわりと伝わってくる。 温度差のせいかな。 眼鏡のレンズが曇って、視界が白くかすんで見えた。「ワンっ」「ただいま」 声は、思っていたよりも穏やかだった。 奥から梅本先生が顔を出す。「お帰り。……雨、ひどかったな」「はい。少しだけ……濡れちゃいました」 髪先から雫が落ちるのを見て、梅本先生が短く息を吐く。「眼鏡、曇ってんじゃん」「外、結構寒かったので」「そうか。風呂、沸いてるから入って来いよ」「……え?」「雨だしな。濡れて帰るだろうと思って沸かしといた」 何気ない言い方。 特別なことみたいにしない。 それが余計に胸に響いた。「ぼんやりしてないで入って来い。熱、ぶり返したら困るだろ?」 ――梅本先生は覚えてくださっている。 私が風邪を引いていたことも。 体力がまだ戻りきっていないことも。「……ありがとうございます」 お礼を言う私に、梅本先生はそれ以上何も言わない。 バスタオルと……いつの間に用意してくれたんだろう? 女性ものの部屋着を手渡してくる梅本先生の手元を、私は茫然と見つめた。 ここは、仮の居場所のはずだった。 なのに――。 あまりの至れり尽くせりぶりに、差し出された布物を受け取れずにいたら、促すように声を掛けられる。「桃瀬先生」 呼ばれて、私はわずかに顔を上げて彼を見やった。 いつもと同じ呼び方。 なのに、どこか違って感じられてしまうのは何故だろう?「……はい」「遠慮すんな」「……え?」 突然の脈絡のない言葉に、タオルと着替えを受け取らないことを言われているのかと思ったら、続く言葉でどうやらそうではないと悟った。「ここに帰ってくんの、遠慮しなくていい」 胸の奥が、ひくりと揺れた。 言葉が追いつかない。 梅本先生が一歩、近づいてくる。 近い。 けれど決して身体は触れ合わない距離。「ほら」 差し出されたタオルを受け取ろうとして、指先が触れる。 ほんの一瞬。 けれど、確かに。 逃げようと思えば逃げられた。 でも、私

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    「またとか冗談じゃねぇ! お前の顔なんて、二度と見たくねーわ!」 乱暴にテーブルへ紙を叩きつけ、ペンを掴む。 ぐしゃ、と紙を押しつけるようにして名前を書き殴る。 苛立ちがそのまま文字になったような、汚い字。 書き終えると、腹立たし気に捺印を済ませ、それを私へ突き返してきた。「勝手にしろ! お前なんかいなくても俺は平気だ!」 震えたのは、私じゃなかった。 私はその紙を静かに封筒へ戻す。「……ありがとうございます」 それだけ告げると、孝夫さんはさらに顔を歪めた。 もう、言葉は必要ない。 私は踵を返すと、一度も振り返ることなく玄関へ向かう。少しだけ足が震えているけれど、大丈夫。ちゃんと歩ける。 手にしたままだった合鍵を、そっと下駄箱の上へ置いた。 これでもう、二度とこの部屋へ入ることはない。そう思った――。*** マンションを出ると、本降りの雨音が一気に耳へ流れ込んできた。 傘を差し、住み慣れた建物を後にする。 未練がましく振り返ったりしない。 マンションの敷地を抜けるころには、膝の震えも止まっていた。 ――終わらせた。 その足で役所へ向かう。 雨のせいか、窓口はそれほど混んでいなかった。「離婚届の提出ですね」  淡々とした声。 必要事項の確認。「不備はありません。本日付で受理されました」 受付印が押される、乾いた音。 それだけ。 あっけないほど、静かに。「以上で手続きは完了です」 その一言で、私と孝夫さんとの関係は、戸籍から消えた。 私は小さく頭を下げ、役所を出る。 雨はまだ降っていた。 けれど、さっきまでとは違う音に聞こえる。 もう、あの部屋へ戻る理由はない。 傘

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   7.もう一度、歩き出す前に⑨

    今日は青葉小学校の創立記念日で、休校日だった。 平日だけれど、私も梅本先生も出勤する必要はない。 アパートの部屋を出ると、雨が降っていた。 本降りだった。 玄関先に立てかけられた傘を手に、建物の外へ出る。 細かい雨粒が、容赦なくアスファルトを打ちつけていて、傘に当たる音が、やけに大きく聞こえた。 冷たい空気が頬に触れる。 昨夜よりも、ずっと現実的な朝だった。 雨降りの日の外出は嫌い。でも、今日は雨だからって尻込みしたりしない。私は傘の持ち手をぐっと握りなおして気合を入れる。 梅本先生のご自宅からマンションへ向かう道を歩くのは、これで二度目だ。 距離も曲がり角も、もう分かっているはずなのに、前とはまるで違う道のように感じる。 前の時は、まだ迷いの中にいた。 もしかしたら孝夫さんの出方次第では、私は彼に流されていたかもしれない。 でも、孝夫さんは何も変わっていなくて……当然のように私をないがしろにした。まるでそれが当たり前で、私が彼の横暴を受け入れるのは言うまでもないことだという顔をして……。 浮気をしておきながら、その証拠を突きつけたら〝男の甲斐性〟だなんて有り得ないことを言った。そんなバカな孝夫さんに、一瞬にして目の前の男が〝夫〟に見えなくなった。 私はもう、今までの私じゃない――。 離婚届の入った封筒が、鞄の中で小さく角ばっている。 これをリビングのテーブルの上へ置くだけ。 それだけでいい。 *** マンションの前で、私は一度だけ深呼吸をした。 合鍵は、まだ鞄の奥に入っている。 指先で触れると、金属の冷たさが伝わった。 ――これを使うのも、今日で最後。 静かに鍵を差し込み、回す。 カチャリ、と軽い音がして、扉が開いた。 玄関には、脱ぎ散らかされた靴。 廊下の先から、バタバタと慌ただしい物音が聞こえる。 「ネクタイどこだよ……! なんでアイロンかかってねぇんだ!」 苛立った声。 リビングに足を踏み入れた瞬間、孝夫さんと目が合った。 いつもならとっくに出社している時間帯だと思って来たのに、まだ孝夫さんが家の中にいることに驚いた。 ワイシャツは半分しかボタンが留められておらず、ネクタイは片手に握ったまま。 テーブルの上には、食べかけのパンと

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   7.もう一度、歩き出す前に⑧

    次に目を覚ましたとき、部屋の空気が少し変わっていた。 カーテン越しの光は柔らかく、外はもう夕方に近い。 身体を起こそうとすると、頭が少しだけふらつく。 カチャカチャという音がして、梅本先生が盆を手にすぐそばまで来ていることに気がついた。彼の手元から、ふわりと鼻をくすぐる匂いが湯気とともに立ち上る。 (……お粥?) 盆ごとテーブルの上に置かれたものを見やれば、小ぶりの器に盛られた白いお粥と、湯気の立つお茶。そうして小さな小鉢には、だしの香りがほんのりするすりおろし大根が添えられていた。 「飯できたから起こそうと思ってたけど……起きたんだな」 すぐ近くで梅本先生の声がして、そっと額に手を添えられる。 ヒャッと身を固くした私に、梅本先生がくすくす笑いながら「熱、下がったみたいでよかった」と伸ばしていた手を引いた。 「食べられそうなだけ食べて? 胃に優しいやつにしといたけど、全部食べ切ろうとか……無理はしなくていい」 「……ありがとうございます」 スプーンですくって口に運ぶと、驚くほどやさしい味がした。 塩気も控えめで、身体にすっと染み込んでいく。 副菜につけられた大根おろしを混ぜると、味が少し変わって、それもまた食欲を誘った。 「……美味しいです」 それだけ言うと、胸の奥が少し熱くなった。 梅本先生はただ「そりゃよかった」とだけ返す。 その日はそれ以上、何も起こらなかった。 テレビもつけず、会話も多くはなく。 ただ、静かに時間が流れていった。 *** 翌朝。 目が覚めると、身体のだるさはすっかり引いていた。 完全ではないけれど、ずい

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   7.もう一度、歩き出す前に⑦

    お店を出てからもうなちゃんは相変わらずご機嫌で、カートの中から鼻先をひくひくさせている。 車に戻ると、梅本先生は慣れた手つきで荷物を積み込み、うなちゃんを後部座席へと戻した。 アパートの部屋に入ると、私には休んでおくように言ってから、梅本先生はきびきびと一人動き始める。 私が何か手伝えることはないかと、梅本先生のそばをうろついていたら「休んでないと熱、上がるぞ?」と怖い顔をされてしまった。 しぶしぶ部屋の片隅に座って梅本先生の様子をじっと見つめる。そんな私と、梅本先生との間をうなぎは行ったり来たりと落ち着かない。 梅本先生は、まずうなちゃんを落ち着かせる場所を作ろうと思ったのか、いの一番にケージの箱を開けた。 説明書を軽く流し見しただけで、迷いなく組み立てていく様子に、思わずうっとりしてしまう。孝夫さんはこういうのは一切してくれない――ばかりか微塵も手伝ってくれない――人だったから、私はいつも四苦八苦しながら自分で組み立て作業を頑張っていた。器用な方ではないので、いつもすごく苦労しちゃうんだけど、梅本先生の動作にはよどみがない。 カチ、カチ、と音を立てながら形になっていくケージを、ソファに腰掛けてぼんやり眺めているうちに、体の奥に残っていた熱と疲れが、少しずつ浮き上がってくる。 「……大丈夫か?」 「はい。大、丈夫……です」 そう答えて、どんどん組み立っていくケージを見つめながら時折カクッと頭が落ちそうになる。 船を漕ぎながらも、何とか完成まで見守ったケージは、うなちゃんが今まで使っていたものより一回り大きくてしっかりしている。 「ほら」 梅本先生がうなぎにおいでおいでをして扉を開けると、うなちゃんがあちこちのにおいを嗅ぎながら、恐る恐る中へ入り、くるりと一周してから、すとんと座った。 尻尾が、ゆっくり揺れる。 「……気に入ったみたいですね」 「だな」 短い言葉。でも、声はどこか柔らかかった。 「けど、さすがに何もない状態は殺風景だからベッドとか入れてやらねぇといけないな? ちょっと買ってくるか……」 その言葉に、トロンと落ち掛けていた思考が一気に浮上する。 「あ、あの……」 まさかまだものを増やされるだなんて思っていなくて、ソワソワする私に、梅本先生がニヤリと笑う。 「桃瀬先生

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    会計コーナーに並ぶ頃には、カートの中はすっかりいっぱいになっていた。  フードの大袋、ケージの箱、食器付き食器台、ミツバチレインコート。 そのどれもが、私ひとりでは絶対に選ばなかったものばかりだ。っていうか、こんなに一気に買ったら絶対持って帰れないから、最初からご飯だけ……みたいに品目を絞っていたと思う。 それに……孝夫さんにお財布を握られているから、足が確保できていたとしても、そもそもこんなに自由になるお金自体がない……。 「あ、あの……私、ちゃんとお支払いしたいです。でも……ごめんなさい。今はこれだけしか手持ちがなくて……一気に全額は無理なので……とりあえずご飯と食器のお金だけでも……」 お財布を取り出して、中にあるだけのお札を取り出そうとした私の手を、梅本先生が視線だけで制した。 「いい」 「でも……うちの子のものばかりですし……」 「考えてみろよ。俺が買いたくて入れたもんがほとんどだろ? 桃瀬先生はもともと控えめに買いたがってた」 それでもお財布を手放せずにいたら、 「ほら。今日は桃瀬先生が前に進む日だ。俺はそんな桃瀬先生にエールが送りたいんだよ」 そう言って、少しだけ視線を逸らしてから、「門出の祝い」とか。 「でも……」 「ほら、俺の顔を立てると思って、――な?」 どう考えてもそこまでしていただく義理なんてないのに、梅本先生はまるでそうしてくれないと自分が困るみたいな言い方をして私をじっと見つめてくる。 それ以上お断りの言葉を重ねたら、梅本先生の面目をつぶしてしまう。そんな感じだった。 結局、私はそれ以上言いつのれなくて……支払いをする彼の横で、うなちゃんを撫でながら所在なく立っていた。 「あ、あの……梅本先生、今日は本当に……」 「すみません、は無しだからな?」 「……っ!」 「いつも言ってるだろ? どうせ言われるなら……」 「――お礼がいい?」 「そういうこと」 ニヤッと極悪な笑みを向けられて、私は梅本先生に「ありがとうございます」ってなんとか言うことができた。 「俺の方こそ、うなぎと一緒に暮らせる機会をサンキューな。――あー、犬との暮らし、マジ楽しみ!」 うなぎをよしよしと撫でてくれる梅本先生の横顔を見つめながら、私はこの人には敵

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