All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

拓海の口づけは強引で、それでいてどこか優しい。彼はキスがうまい。ほんの数回で、玲奈の身体はすっかり力が抜けてしまった。押し返したいのに、指先にすら力が入らない。玲奈はただ、少しずつ息を奪われていくのを受け入れていた。拓海は力の抜けた玲奈を抱きとめ、手を伸ばして胸元のボタンを外しにかかった。だが一つ外したところで、拓海は動きを止めた。拓海は俯き、口づけで赤く熱を帯びた玲奈の頬を見つめる。胸は高鳴り、衝動も抑えきれない。今すぐにでも、玲奈を自分のものにしたかった。けれど玲奈は、まだ離婚していない。そう思った瞬間、拓海は衝動に歯止めをかけた。玲奈の前で、すんでのところで踏みとどまったのは一度や二度ではない。身体の奥が張り裂けそうなのに。それでも彼女の名誉のために、拓海は諦めることを選んだ。玲奈はぼんやりしていて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。拓海は彼女を抱き寄せ、掠れた声を耳元に落とした。「ごめん。俺はまだ、お前を手に入れられない」その声に呼び戻され、玲奈ははっとして目を見開いた。濁っていた視界が、一瞬で澄んでいく。玲奈は身体を起こし、勢いよく拓海を突き放った。同時に胸元のボタンを留め直し、怒りに任せて言い放つ。「須賀君、あなた、恥知らず」玲奈の怒りを見て、拓海は整った顔に笑みを滲ませた。そして静かに、逆に問い返した。「なあ、玲奈。こういうの、刺激的だと思わないか?」玲奈は答えなかった。背を向けてドアを開け、そのまま車を降りた。拓海も慌てて降りる。少し大きな声で追った。「怒った?」玲奈は足を止めない。答える気配もない。自分が怒っているのかどうか、玲奈自身にもわからなかった。胸の奥には、いろいろな感情が渦を巻いていた。玲奈は拓海が嫌いなはずだった。なのにさっきは、折れてもいいと思ってしまった。さっきのキスが、あまりにも心地よくて。このまま続けたいとさえ――けれど冷静になった途端、玲奈は自分が情けなくなった。まだ離婚もしていないのに、別の男と寝たいと思ってしまったのだ。そう思えば思うほど、足は速くなる。拓海は玲奈が自分を無視するのを見ると、数歩で追いつき、手を掴んだ。「本当に怒ってるのか?」玲奈は
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第602話

拓海は俯いたまま、笑みを含んだ声で言った。「誰かと別れたい時ってさ。相手の金、全部使い切りたくなるだろ」言いたいことがあまりに露骨で、玲奈はなぜか腹が立った。顔を上げて睨みつけ、きつい口調で言い返す。「でたらめもいい加減にして」拓海は身を屈め、視線を玲奈の高さに合わせた。探るように見つめ、しばらくしてから言った。「図星だろ?」玲奈は手を上げて拓海を叩こうとした。けれど力が入っていない。その様子が、拓海には甘えているように見えたらしい。拓海は笑った。目の中には甘さと優しさが滲んでいる。玲奈は目を合わせられない。拓海の視線が、熱すぎた。静まり返った空間に、鋭い着信音が響いた。その音は、玲奈にとって救いだった。いつからだろう。玲奈は拓海の目が、少し怖くなっていた。いつも深く思い詰めたような顔で見てくるから、引きずり込まれそうになる。そしてまた、別の深みに落ちてしまいそうで。着信は鳴りやまない。画面を見ると、昂輝からだった。玲奈は迷わず背を向け、そのまま通話に出た。電話口で、昂輝の澄んだ声が弾む。「玲奈。今夜、ご飯でも行かない?」玲奈は首をかしげる。「先輩、どうしたの?」反射的に、誕生日なのだろうかと思った。そういえば昂輝の誕生日がいつか、玲奈は知らない。昂輝は言った。「応援の気持ちを込めて、奢りたいんだ」「応援」という言葉で、玲奈はすぐにわかった。明日は院試の日だ。昂輝は、励ましたいのだ。少し考えてから、玲奈は断らなかった。「……わかった。お願いするわ」玲奈の返事を聞き、昂輝はようやく笑う。「じゃあ、仕事終わったら迎えに行く。住所を送って」「わかった」玲奈は考える間もなく答えた。通話を切ったあと、まだ携帯をしまいきらないうちに、拓海が寄ってくる。口元をわずかに上げ、痞っぽい笑いを浮かべた。「なあ、玲奈。俺だって応援くらいできるけど?」玲奈は、ろくなことを言わない気がして、どういう応援かは訊かなかった。声を沈めて言った。「いらないわ」拓海を避けて立ち去ろうとした。だが拓海はふいに玲奈の耳元へ寄った。、熱い息が耳たぶにかかる。「腹は満たしてもさ。別のとこが腹ペ
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第603話

地下駐車場から慌ててモールの上階へ上がると、玲奈の背中には汗がうっすら滲んでいた。冬だというのに、身体じゅうがべたつく感じがする。さっき見ていた店の前まで来たとき、玲奈は智也の声を聞いた。智也が店員に尋ねている。「俺の妻は?」その言葉に、店員たちは顔を見合わせた。すると、責任者らしき女性が出てきて、智也に説明した。「お客様、奥様はお手洗いに行かれました」その女性は一切ためらわず、平然と言い切った。玲奈は入口に立ったまま、その返答をはっきり聞いた。智也は眉間に皺を寄せ、強い口調で迫った。「そうか?」店員が答える前に、玲奈が自分から歩み寄った。「どうして来たの?」玲奈の目には、疑問だけが浮かんでいる。玲奈の姿を見て、智也はようやく薄く笑った。「疲れたかと思って。迎えに来た」玲奈は表情を変えずに言った。「うん。見終わったから、帰ろう」本気で探せば、ここにも気に入る服はある。けれど今は、買い物を続ける気分ではなかった。玲奈が手ぶらで出ようとすると、智也は目を細くした。「一つも買わないのか?」玲奈は頷いた。「うん。気に入るのがなかった」智也はすぐに言った。「じゃあ別の店も見よう。俺が付き合う」玲奈は疲れていた。もう歩き回りたくない。「いい」智也は玲奈を見つめ、そこで初めて気づいた。玲奈の唇が、赤い。服の話は追わず、訝しげに訊いた。「唇、どうした?なんでそんなに赤い」玲奈は一瞬、言葉に詰まった。赤いのは、拓海に口づけされたせいだ。もちろん、そんなことは言えない。玲奈は目を泳がせ、すぐに理由を作った。「口元に産毛があって。剃ったから赤くなったの」苦しい言い訳だ。智也は半信半疑の顔をした。「……そうか?」玲奈は迷いなく言い切った。「そう」玲奈があまりに断言するので、智也はそれ以上は追及しなかった。ただ言った。「行くぞ。もう少し見よう」智也が譲らないので、玲奈も断らなかった。「……うん」智也は玲奈を連れて上の階へ行き、靴とバッグを見せた。そして最後に玲奈は、かなり高価なバッグを一つ選んだ。小ぶりなのに、値段は八桁。買い物を終えて店を出ると、智也が玲奈の顔
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第604話

そう言われ、玲奈は顔を上げて、訝しげに智也を見た。本当は訊きたかった。彼は本当に心配しているのか。それとも、監視したいだけなのか。けれど玲奈は訊かなかった。そして、ただ智也に言った。「先輩と食事するだけよ。心配しなくていい」智也は、自分の変化に気づいたのだろう。一瞬、言葉に詰まり、それから短く答えた。「……うん」そして付け足す。「食べ終わったら、迎えに行く」玲奈は頷いた。「うん」それきり二人は黙り込み、無言で下へ降りた。モールの入口に着くと、玲奈が少し待っただけで、昂輝の車が着いた。智也もそれを目にした。黒いアウディ。派手さはないが、普通の人にとっては安い車ではない。昂輝の収入は、世間で言えば十分に上位だ。ただ――玲奈のそばには、智也と拓海がいる。昂輝はどうしても霞んでしまう。昂輝が車を降りてきた。今日は珍しく正装だ。黒いコートの内側はスーツ。応援飯というより、どこか見合いに来たみたいだった。なぜだろう。その姿を見た瞬間、智也は玲奈を行かせたくない気持ちが湧いた。だがもう許可している。歯を食いしばり、黙っているしかない。昂輝は大股で玲奈の方へ近づく。コートの裾が風に揺れ、前髪も整えられて額が見える。整った顔立ちに、そのコートがよく似合い、まるで絵から抜け出したようだった。玲奈は近づいてくる昂輝を見ながら、智也に言った。「帰っていいよ。私、先輩とご飯に行くから」その言葉に、智也の胸が痛んだ。拒みたい。けれど無理に飲み込み、頷いた。「……うん」昂輝が目の前まで来ると、智也は彼に視線を向け、笑みを浮かべた。「東さん。妻にご馳走してくれて、ありがとう。妻のこと、お願いするよ。あとで迎えに来るから、東さんが送る必要はないよ」軽い口調なのに、言いたいことは全部入っている。玲奈は自分の妻だ。迎えは自分が行く。その短い言葉で、昂輝の芽を摘む。昂輝は智也の意図を汲んだ。返事もしない。智也のほうも見ない。玲奈は智也の言葉を気にせず、階段を下りて昂輝のほうへ向かった。だが数歩進んだところで、また智也の声が飛んだ。「玲奈、ちょっと待って」その声を聞いた瞬間、玲奈は思わ
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第605話

車内で昂輝がそう口にした途端、空気がすっと静まった。玲奈は横を向き、車窓の外の人波を眺めた。昂輝の言葉を反芻し、智也のことを思った。智也は確かに変わった。最近は、昔なら絶対にしなかったことをいくつもしている。以前の玲奈なら、そういう変化を望んでいた。けれど今は、その変化が玲奈の重荷になっている。玲奈が答えず、思い詰めた顔をしているのを見て、昂輝が心配そうに尋ねた。「どうした?」玲奈はそこで我に返り、さっきの話題に答えた。「……そうかもしれない。でも、もう大事じゃないわ」玲奈が何に答えているのか、昂輝にはわかっていた。昂輝は口元を引いた。けれど心は晴れない。玲奈が智也を気にしていないことは、昂輝にも見えている。だが途中から、拓海という男が入り込んできた。昂輝は怖かった。自分に、智也ほどの重みがあるとも思えない。拓海みたいに、しつこく食らいつくこともできない。自分にあるのは、ただの不器用な勇気と優しさだけだ。玲奈が欲しいのは、そういうものではないのかもしれない。昂輝の気持ちは、ふっと沈んだ。玲奈は道中ずっと、離婚のことを考えていた。離婚の手続きも、もうすぐ終わる。なのに、なぜか胸騒ぎがする。一つは、最近の智也の態度の変化。また余計なことをしでかしそうで怖い。もう一つは、愛莉だ。最近、幼稚園にも行っていない。その二つを思うだけで、玲奈の心は乱れた。車が繁華街で停まると、昂輝は玲奈を連れて、人混みの中を歩いた。店は予約していない。歩きながら眺め、入る店を決めるつもりらしい。食べ歩きの通りを一周してから、昂輝はしゃぶしゃぶに決めた。二人なのに、昂輝は料理をたくさん頼んだ。食事中は医学の話をし、二人ともよく笑った。気づけば、二時間が過ぎていた。玲奈はまだ話し足りなく感じた。だがその時、携帯が鳴った。画面を見る。智也だ。出たくない。それでも切れる前に、渋々通話に出た。電話の向こうで、智也の低い声がする。「終わりそうか?」玲奈は少し考えてから答えた。「まだ」智也は怒らなかった。声を落として言った。「じゃあ、ゆっくり食え。外で待ってる」その言葉を聞き、玲奈は慌てて外を見た。智
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第606話

智也は顔を冷たくし、声をかけてくる連中を次々追い払った。待てば待つほど、苛立ちが募る。だが、我慢が尽きかけた頃になって、ようやく玲奈が昂輝と一緒に店から出てきた。玲奈の姿を見た途端、智也の顔に笑みが浮かんだ。手にしていた煙草を捨て、ゆっくり歩いて玲奈の前まで行った。昂輝の存在は無視し、玲奈にだけ微笑みかける。「食べ終わったか?」玲奈は顔を上げた。「うん」智也は大きな手を差し出す。「じゃあ帰ろう」玲奈は伸ばされた手を見つめたまま、なかなか握ろうとしない。しばらくして、玲奈は昂輝に向き直った。「先輩、今日はごちそうさま。明日の院試、頑張るわ。自分がなりたい自分になれるって、信じてる」昂輝は玲奈の自信に満ちた顔を見て、思わず笑った。「よし。吉報、待ってる」玲奈も口元を緩める。それから言った。「じゃあ、帰るわね」昂輝は名残惜しく感じた。だが変えられないものがあることも、わかっている。だから、仕方なく頷いた。「うん。家に着いたら、連絡して」玲奈も頷く。「うん」そう言って、玲奈は智也の車へ向かった。智也は助手席のドアを開ける。玲奈が身をかがめて乗り込むと、窓を下ろして昂輝に言った。「先輩も早く帰って。じゃあ、また」昂輝は手を振る。「うん。またな」挨拶が終わると、智也も運転席に乗り込んだ。走り出してから、智也が口を開く。「今夜は楽しかったか?」玲奈は遠慮なく答えた。「うん。楽しかった」智也は怒らなかった。むしろ真剣に言った。「じゃあ明日、俺が送ろうか?」玲奈は考える間もなく拒んだ。「結構よ」それきり智也は何も言わなかった。車は悦園に着いて停まった。智也は素早く降り、玲奈のドアを開けようとする。智也はいつも動きが早い。なのに、いつも一歩遅い。ドアに手をかける前に、玲奈が先に降りてしまうのだ。玲奈がここまで自分の世話を拒むのを見て、智也の胸はざわついた。二人は時間差で小燕邸へ戻った。玲奈がホールに入る前から、愛莉と沙羅のはしゃぐ声が聞こえてくる。「ララちゃん、ちがうよ。そこ、置き方ちがう」「どこがちがうの?もうすぐ私が勝つよ」「ララちゃん、子ど
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第607話

玲奈が院試を受けると知った沙羅は、心の底から面白くなかった。以前から、玲奈は成績優秀だと聞いている。ただ結婚してからは、医学の世界から距離を置いていた。それが今、また勉強をやり直そうとしている。沙羅はすでに院生だ。それでも、玲奈に注目をさらわれるのが怖かった。だから心の奥に、玲奈にうまくいってほしくないという種を、そっと落とした。そんな思いを抱えたまま、沙羅はほとんど眠れずに夜を明かした。翌朝。まだ空も白みきらないうちに、沙羅は智也の部屋へ忍び足で向かった。客室のドアが開く音がした瞬間、沙羅はすぐに智也のドアを開けた。沙羅は艶っぽい格好をしていた。真っ赤なシルクのガウン。乱れた髪に、火照った頬。顔には色気が滲み出ている。昨夜、何があったのか。玲奈には想像がついた。玲奈は沙羅をちらりと見ただけで、階下へ向かおうとした。自分をまるで相手にしない玲奈を見て、沙羅の胸に怒りが噴き上がった。その時、下から愛莉の声が飛んだ。「ママ!」玲奈は階段の途中にいて、愛莉が自分を呼んだのだと思った。反射的に返事をする。「なあに」だが次の瞬間、愛莉が顔を上げる。玲奈が返事をしたとわかると、笑みが一気に消えた。そして言い添える。「呼び間違えた。ララちゃんが下りてきたのかと思った」その言葉に、玲奈の身体がわずかに震えた。それでも平静を装い、短く返した。「……そっか」玲奈はそのまま階段を下りていく。階段の上にいた沙羅は、玲奈の一瞬の硬直を見逃さなかった。口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。――今のは、多少なりとも効いただろう。玲奈が車で出て行ってから、沙羅は智也の部屋へ戻ろうとした。部屋に入ると、智也がベッドの端に座っていた。寝間着を羽織り、胸元の筋肉が照明に蜜色の艶を帯びている。それを見た瞬間、沙羅の胸がきゅっと締まった。智也も顔を上げた。だがその目は鋭く、冷たい。智也は沙羅を問い詰めた。「朝っぱらから俺の部屋に来て、何がしたい」智也はわざと目を閉じたままにしていた。沙羅が何をするつもりか、見たかったのだ。その言葉を聞いた沙羅の顔が、さっと赤くなった。沙羅はわざと傷ついたように言った。「智也……。私、会いた
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第608話

試験会場の門前は、思ったより車が少なかった。それでも玲奈が外へ出ると、昂輝の黒いアウディと、智也の目立つマセラティがすぐに目に入った。ただ、智也本人はいない。運転席にいるのは菅原勝だった。昂輝も早くから来ていて、外でしばらく待っていたらしい。昂輝と勝の姿を見た瞬間、玲奈は思わず目を見張った。勝のほうが動きは早い。一歩前に出て、玲奈に言う。「奥様。新垣社長が、奥様のために打ち上げを用意しています。必ずお迎えするように、と」玲奈は勝をちらりと見ただけで、視線を昂輝へ移した。それから視線を戻し、勝に言う。「智也に伝えて。今夜は、帰りが少し遅くなるって」それを聞いて、勝は困ったように眉を寄せた。「奥様……どうか私を困らせないでください」玲奈は声を落とす。「じゃあ、私のことも困らせないで」勝は言葉に詰まった。「ですが奥様、これは社長のご意向で……」智也の名前を出せば、玲奈が折れると思ったのだろう。けれど玲奈は折れない。玲奈は昂輝に言った。「先輩、行きましょう」昂輝はドアを開け、玲奈が乗り込んでから運転席へ回った。今夜、昂輝はあらかじめ店を予約していた。もつ鍋の店だ。着くと、もう一人いた。一華だ。一華を見た玲奈は意外そうに、昂輝と一華を見比べた。昂輝が口を開くより早く、一華が言う。「なに、そのキョロキョロした目。医学界なんて狭いんだよ。会おうと思えば、わりと会える」玲奈は半信半疑のまま、昂輝が引いた椅子に座った。玲奈の表情を見て、一華が説明する。「私、久我山で出張手術があってさ。その日たまたま東先輩も手術してて。終わったらご飯行こうって話になって、また連絡ついたの。そしたら今日、あんた院試終わったから集まろうって、東先輩から連絡きたの」玲奈は昂輝を見てから、一華に言った。「そういうことだったんだ」そこで昂輝が、ちょうどよく口を挟んだ。「試験が終わって、気分もいいだろ。それに一華はルームメイトだったから、ちょうどいいと思って」玲奈は淡く笑い、昂輝に言った。「じゃあ座って」テーブルは窓際の長方形で、窓側には座れない。玲奈と一華は、長辺に向かい合って座っていた。昂輝は通路側に立っている。
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第609話

昂輝の言葉に、玲奈は全身がびくりとした。空気が一瞬で固まる。短い沈黙のあと、玲奈は笑って昂輝と一華に言った。「食べましょう。どれも美味しそう」玲奈は、昂輝の想いに無視で返した。あまりに直球で言われると、みんなが余計に気まずくなる。玲奈はそれが怖かった。昂輝もそれ以上は何も言わなかった。取り箸を手に取り、甲斐甲斐しく玲奈の皿へ料理をよそった。一方で一華には、顔を向けて言うだけだった。「篠原、ここの味はいい。食べてみて」一華は部外者だから、状況がすぐに見えた。昂輝は玲奈が好きだ。一華は長い間、昂輝に片想いしてきた。けれど昂輝は優秀で、周りに女が途切れたことがない。それでもずっと独り身でいられたのは、どこかおかしいか、心に誰かがいるかだろうと思っていた。一華は、その誰かが誰なのか知らなかった。だが今夜の昂輝の気遣いを見て、すべて腑に落ちた。悔しさはある。それでも一華は、昂輝の一途さにどこか感心もしていた。昂輝がまた料理を玲奈の皿に入れる。玲奈は慌てて、礼儀正しく言った。「ありがとう」昂輝の目は優しく、甘さが滲んでいる。「俺に、そんなにかしこまるな」玲奈は小さく笑い、黙った。一華は反対側で、ずっと自分で箸を動かしていた。気まずくならないように、玲奈は話題を探し、一華に話しかけ続けた。幸い、一華は嫉妬深いタイプではなかった。昂輝が好きなのが玲奈だと知っても、変な顔はしなかった。食事は、ひとまず穏やかに進んだ。だが、まだ半分も食べていない頃。玲奈が向かいの一華を見上げたその瞬間、視界の端に、入口から入ってくる拓海が映った。外は雨だったのだろう。暖簾をくぐって入ってきた拓海の肩には、細かな水滴がついている。拓海は店内を一周見回し、迷いなく玲奈を捉えた。視線がぶつかった瞬間、玲奈はすぐに目を逸らした。それでも拓海はゆっくり近づいてきた。そして、拓海は昂輝の隣に立った。それから、玲奈に向かって低く言った。「なあ、玲奈。友だちと飯?」玲奈は顔も上げない。答える気もない。玲奈が黙っているのを見て、拓海は痞っぽく笑った。そして昂輝へ向き直って言った。「俺も混ぜてもらっていいですか。東さん、気にしな
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第610話

そう言うと拓海は手を上げ、店員を呼んだ。二品追加してから、メニューを閉じる。店員は注文を書き留め、背を向けて去っていった。拓海が本当に居座る気だとわかり、玲奈は一気に気分が沈んだ。玲奈は昂輝と一華に向かって言った。「先輩、一華。場所、変えない?」だが昂輝は拒んだ。「大丈夫。俺たちは俺たちで食べればいい」昂輝にはわかっていた。拓海はこの場所を突き止めた。なら次の店も突き止める。今夜いくら移動しても、拓海は追ってくる。昂輝が「大丈夫」と言ったことで、玲奈も遅れてそれに気づいた。だから玲奈は、もう移動の話はしなかった。皆が席を立たないのを見ると、拓海は昂輝の背後を回り込み、玲奈の隣に座ろうとした。だが昂輝の反応は早かった。一歩先に玲奈の隣へ座った。拓海は眉を寄せた。それでも怒らない。舌先で頬の内側を軽く押し、面白がるように言った。「さすが医者。反射神経いいね、東さん」昂輝は笑っていない笑みで返した。「須賀さんこそ。褒めてもらって光栄だ」結局、拓海はどうにもならず、さっき昂輝が座っていた場所に腰を下ろした。座るなり、拓海は隣の一華がずっと自分を見ているのに気づいた。拓海は面白がって、顔を向けた。「どうも」一華は頬杖をつき、丸い目で拓海をじっと観察している。見惚れているわけじゃない。ただ拓海の顔が妙に見覚えがあった。どこかで見た気がする。でも、どうしても思い出せない。拓海が声をかけたのをきっかけに、一華が言った。「なんか……見たことある気がするんだけど」その台詞は拓海も聞き慣れている。拓海は薄く笑った。「ナンパの定番だな。みんなそう言う」一華は真顔だ。「違うよ。ほんとに、どこかで会った気がする」女の口説き文句は見慣れている。拓海は本気にしなかった。冗談めかして訊いた。「夢の中とか?」それを聞いた一華は、一瞬で白けた。息を吸って、冷めた声で言った。「自意識過剰」拓海は笑った。「まあ、ほどほどに」二人のやり取りは、玲奈も耳に入っていた。一華が「見たことある」と言ったことで、玲奈の胸にも疑問が湧いた。――拓海が言っていた助けてくれた人は、別にいるのかもしれない。
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