志保がカフェを出た瞬間、朝日の中を駆けてくる星也の姿が目に入った。「展覧会は忙しいんじゃないの?どうして外に?」志保の顔色が変わっていないのを見て、星也はようやく胸をなで下ろし、手を差し出した。「展覧会のことはアシスタントに任せられるけど、君のことはそうはいかない」彼の肩が上下し、額には汗がにじんでいた。志保の胸の奥が少しだけあたたかくなる。自然と、彼の手を取っていた。ふたり並んで会場に戻る道すがら、志保はふと思い出したように顔を上げて尋ねた。「さっき、展覧会で私に会いに来た人の名前、どうして知ってたの?啓介のこと、調べてたの?」星也は口角をわずかに上げて、うなずいた。「だいぶ前から調べてたよ。それに、あいつをぶん殴ってやりたいって思ってたのも、本当さ」志保は一瞬足を止めると、胸の奥に温かい何かが広がっていくのを感じた。星也って、やっぱり特別なのかもしれない。その後も、日が沈むまで展覧会は来場者で賑わい続け、ようやく人波が引いたころ、志保と星也は閉館の準備を始めた。すると、アシスタントがタブレットを抱えて慌てて駆け寄ってきた。「田辺さん!先ほど、あるお客様があなたの展示している全作品を購入したいとおっしゃっていました。一枚あたり1億の高額で、全てです!」志保と星也は顔を見合わせた。志保は若い頃、一時的に名を馳せたこともあったが、それも、腕を負傷した後のことで、ブームの波にうまく乗ることはできなかった。その後は新作を生み出すこともできず、自然と表舞台から姿を消した。今回の展覧会も、来場者のほとんどは一星の名前を目当てに来た人たちだった。だからこそ、展覧会も終わりに差しかかったこのタイミングで、まさか彼女の絵を目当てに、ここまで大きな額を提示する人物が現れるとは、誰も思わなかった。アシスタントはすでにスタンバイを整え、志保がうなずきさえすれば、すぐにでも作品を梱包しようとしていた。しかし志保は、ふと眉をひそめ、きっぱりと一言だけ口にした。「売りません」アシスタントは目を見開き、思わず言葉を失う。が、それよりも先に、星也が彼に向かって静かに首を振った。「田辺さんの言う通りにしてください」アシスタントは名残惜しそうに肩を落とし、その場を後にした。「こんな大金を断るなんて、信じられ
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