Lahat ng Kabanata ng 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Kabanata 481 - Kabanata 490

552 Kabanata

第481話

なんとも、気まずい。 しかし、どう声をかけるべきかというその悩みは、長くは続かなかった。ふわりと上品な薔薇の香りが横合いから漂ったかと思うと、視界の端に、節の立った細く長い指――白く美しい手が、すっと差し出されてきたのだ。 手首には、透かし彫りが施された銀のブレスレットがはまり、その透かしの隙間を縫うように細い赤い組紐が通され、剥き出しになった前腕にするりと巻き付いている。銀の硬質な冷たさと、赤い紐の繊細な柔らかさ。その取り合わせは思いのほか絵になっていて、どこか言葉にしづらい、淡い色香すら漂わせていた。 「はじめまして。白石光(しらいし ひかる)です」 声は、思いがけず厚みのある、穏やかな響きだった。 小夜がゆっくりと視線を上げる。目に入ったのは、滑らかに澄んだ白い顎のライン。ほんのり色づいた薄い唇は、かすかに弧を描いている。鼻筋は細く、まっすぐに通っていた。さらに視線を持ち上げれば、切れ長の瞳がやわらかく笑みをたたえて、こちらをじっと見つめ返していた。やや長めの黒髪は無造作に乱れ、片側は耳にさらりと掻き上げられ、もう片側は白い頬へと流れ落ちている。輪郭は鋭く、ともすれば冷たげに見える顔立ちだが――笑うと、一転して驚くほど柔らかい。 大叔母様は嘘などついていなかった。この男は、本当に、息を呑むほど整った顔をしている。それに、これだけの相手を本気で探し当ててきたということだ。 長年アートの世界に身を置き、美しいものには目がなく、鑑賞欲も人一倍強い小夜である。見惚れている自分の無礼にようやく気づいたのは、ずいぶん経ってからのことだった。 小夜は慌てて手を差し出し、申し訳なさそうに詫びた。 「ごめんなさい。あまりにお綺麗だったので……つい、見惚れてしまって」 ところが相手は、その手を握り返す代わりに、指先をそっと掬うように取り、ふわりと引き寄せた。そして、小夜の頬にごく軽く唇を落とす。イギリスで最もありふれた、ごく標準的な挨拶――頬へのキスだった。 唇を離すと、光は静かに微笑んだ。 「お褒めに与り光栄です」 小夜は一拍遅れて思い出した。そういえば大叔母様が、「あの子は長年向こうで暮らしていて、このままイギリスに腰を落ち着けるつもりなのよ」と話していた。頬へのキスも、向こうの習慣として身についたものな
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第482話

小夜は愕然とした。 いま聞こえた言葉は、聞き間違いではないはずだ。まだ学生?大学院生とはいえ、二十四歳?大叔母様は、いったい何を考えているのか。 若すぎる。あまりにも若すぎる。 一瞬にして、小夜の光を見る目がすっかり変わった。少し逡巡してから、おずおずと切り出す。 「あの……私に子供がいること、ご存じですよね?今年で九歳になるんですけれど」 「ええ、もちろん。お写真も拝見しました。とても愛らしいお子さんですね。私は子供が好きな方です」光は柔らかく微笑んだ。 「……どうも、ありがとうございます」小夜は、返答に困ったように短く答えた。 ちょうどそのタイミングで店員が料理を運んできて、場に一時の沈黙が落ちる。店員が下がるのを見届けてから、小夜は覚悟を決めて口を開いた。 「あのですね。せっかく大学院で学ばれているのなら、まずはご自分の研究に専念なさった方がいいと思うんです。こういうお話、別に急ぐようなことでもありませんし。結婚というものは、やはり慎重に考えるべきですから」 「つまり、私が修了するまでお待ちくださるということですか?そうだとすると、あと何年かかかってしまうかもしれません。博士課程まで進むつもりでおりますので」光はごく穏やかに返した。 「そうではなくて……」小夜は、ゆっくりと息を吸い込んだ。「あなたは私よりずっとお若いですし、これからいくらでも未来が開けている方です。私たちは、合わないと思うんです」 テーブルに、ふっと沈黙が落ちた。 やがて、光が静かに尋ねた。 「つまり、高宮さんは私がお気に召さない、ということでしょうか」 「――違うんです。ほかのことなら何とでもなります。ただ、結婚だけは、やはり無理なんです。私たちには合いません」小夜は嘆息した。 「分かりました」 そう口にした途端、それまで控えめな笑みをたたえていた光が、ふっと大きく息をついた。ほどけたように表情が緩み、笑みがぐっと明るくなる。 「そういうことでしたら、話がずっと早いです」 「……?」 「実を申しますと、両親が、私が学業にばかり没頭しているのを快く思っていなくて。二年ほど前から、ずっと結婚を急かしてくるんです。あれやこれやと揉めに揉めまして、どうにも耐えきれなくなって……少し逃げるつもりでこ
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第483話

「私からのご提案、どう思われますか?」 レストラン二階の窓際で、光がやわらかく問いかけた。その右手の指先は、左手首にはまる銀のブレスレットと赤い組紐を、無意識にゆっくりと辿っている。 「ご提案というのは……」 小夜が口を開きかけた、ちょうどそのとき。傍らのバッグの中で、スマホが低く震え始めた。向かいの光はにこやかに手を上げ、どうぞお気になさらず、と仕草で示してくれる。 小夜は礼を目で返し、スマホを取り出した。画面に表示された名前を見て、一瞬言葉を失う。 ――どうして青山から? 先日、茶室で交わしたやり取りが脳裏をよぎり、続けて今この瞬間の状況を思い出すと、小夜はどうにも気まずくなった。もっとも、それはほんの少しのことだ。光に片手で小さく断りを入れ、少し離れた隅の方へ歩いていってから、応答ボタンを押した。 「青山?」 「ああ、僕だよ。夕飯はもう済ませた?最近また美味しいお店を見つけたんだ。よかったら、これから迎えに行こうか?」 耳に届いた声は、いつものようにやわらかく穏やかだった。聞き慣れた誘い文句に、小夜は一瞬、時間の感覚が揺らぐような錯覚を覚えた。 ずっと昔、七、八年も前、大学生だった頃。二人はいつもこんなふうだった。街のあちこちを歩き回り、美味しい店を開拓しては、面白いものや楽しい出来事を分かち合った。あれは学生時代の、一番楽しかった日々だ。 無意識のうちに「いいよ」と頷きかけて、小夜はすんでのところで我に返った。少し困ったように、やんわりと断る。 「ごめんなさい、今日はちょっと無理なの。外で人と食事をしている最中で」 ――電話の向こうで、ほんの一瞬、沈黙が落ちた。 やがて青山の声が、また耳に戻ってくる。起伏の薄い、穏やかな口ぶりだった。 「外で、仕事の打ち合わせ?ごめん、邪魔をしてしまったね。じゃあ、また別の日に改めて――そうしようか」 「そうじゃないの」 過去のことがふと頭をかすめたせいか、それとも隠し立てするつもりがはじめからなかったからか、小夜の口調はさらりと率直だった。 「大叔母様に段取りされたお見合いなの。相手は大叔母様の古いご友人のお孫さんで、無下にもできなくて。ちょうど今日到着されたから、空港まで迎えに行って、そのまま食事を、という流れで。だから、今夜
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第484話

二人の身内はいずれも海外に住んでいる。それなら、偽装のカモフラージュもさほど手間はかかるまい。そう判断して、小夜はこの提案を受け入れることにした。 とりあえずは、珠季の気を鎮めておきたい。小夜自身、いつまでもせっつかれ続けるのはもう限界だった。 「――ただ、『お互いを親族の前でかばい合う』というのは、あくまで『それなりに好感を持っていて、もう少し時間をかけてお付き合いしてみたい』と伝える、その一点に限ります。時間を稼ぐための口実として、それだけよ」 小夜は強くそう釘を刺した。 「もちろんです……では、どうぞよろしくお願いいたします、高宮さん。――これからは、友人として」 光は笑みを浮かべ、手を差し出した。 「ええ、こちらこそよろしくお願いします」 握手を交わし終えると、二人はほとんど同時にほっと一息ついた。これで当面のあいだ、終わりの見えない見合いの応酬からようやく逃れられる。たとえそれが、かりそめの避難所にすぎないとしても。 悩みの種が一つ消えた途端、テーブルの料理が急に美味しそうに見えてきた。二人は軽やかに語り合いながら、ゆっくりと夕食を楽しんだ。食後、「年上だから」という理由を崩さず小夜が支払いを済ませ、二人は連れ立って階下へ降りていく。距離が近づいた分、小夜の鼻先に、光の身にまとう薔薇の芳香がふたたびふわりと届いた。 決して強い香りではない。むしろ、清らかで淡い印象のものだ。それでいて、残り香がしぶとく漂い続け、そこに何か言葉にしづらい独特の気配が溶け込んでいる。市販されている薔薇の香水とは明らかに違う、一度嗅いだら忘れがたい、不思議な引力を持つ香りだった。 彼の実家は代々、調香を生業にしているのだった。ともなれば、おそらく業界でもかなりの名家なのだろう。小夜自身、仕事柄、香水についてはそれなりの素養があるはずだったが、この香りに関してはどうにも香料の全貌を嗅ぎ分けきれない。好奇心に抗えず、小夜は素直に訊ねてみた。 光は微笑した。「ああ、『一夢華年』のことですね」 小夜は小さくその名を口のなかで繰り返し、感嘆を漏らした。「……一夢華年……素敵な名前ですね。何か、由来でもあるんですか?」 光は穏やかに答えた。「それが、私にもよく分からないのです……この香水は、私が香料の配合バラ
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第485話

「先生――あの女の人に会ってまいりました。……ええ、先生がおっしゃっていた通りです。あの方が調香なさった『一夢華年』を、あの女の人はたいそう気に入った様子でした。おそらく例の方へ贈るおつもりでしょう。ええ、先生にまずお伺いを立ててから、とお伝えしておきました」 シャツのボタンを外し終えると、光はそれを無造作に床へ落とした。露わになったのは、うっすらと小麦色に灼けた肌。なめらかな線を描く引き締まった背中には――よく目を凝らさなければ気づかないほどの、うっすらとした傷跡がいくつか走っている。それは全体の美しさを損なうどころか、かえって一抹の危険な色気を添えていた。 半裸のままバスルームへと向かう男の背後に、脱ぎ捨てられた衣服が点々と床を散らかしていく。 「承知いたしました……先生がご自身の手で仕上げられた香水のうち、何本かを、次にお目にかかる際、あの女の人にお渡しいたします――きっと、心からお喜びになるかと」 通話が切れた。バスルームからはシャワーの水音がざあざあと響き、湯気が白く立ち込めていった。 …… 宵闇に、街のあかりが眩しく瞬いている。 この時間帯ともなれば、都心の道はいつも通り渋滞で身動きが取れない。窓の外、遅々として進まない車の列に目をやってから、小夜は思い立って珠季に電話をかけることにした。 向こうは、どうやらずっと報告を待ちわびていたらしい。呼び出し音がほんの数度鳴ったかと思うと、すぐに繋がり、待ちきれない様子の声が飛び出してきた。 「どう?気に入った?その気になれそう?」 「……大叔母様、まだ一度お会いしただけよ」小夜はため息まじりに苦笑した。 「あら、それがどうしたっていうの。縁というものはね、一目会ったその瞬間に決まることだってあるのよ」珠季は、当然とばかりにそう言い切った。 光と取り交わした「協力関係」のことを思い出し、小夜は慎重に、そしてどちらともとれるように言葉を濁した。 「……まあ、悪くはないけど……」 「それで、いつ結婚するの?」言葉が終わりきらないうちに、珠季が弾んだ声で割り込んできた。「今回ばかりは、あなたのウェディングドレスは私が自ら手がけるわ。結婚式も、それはもう盛大にやらなくちゃね。世界中の誰よりも美しい花嫁に仕立ててあげるんだから!」小夜
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第486話

彰が知っている小夜という女性は、そう簡単に誰かを気に入るような人間ではない。 ――ましてや相手は、たった一面識しかない男だ。人となりなど、彼女が何ひとつ分かっているはずがないだろう。ましてや、結婚という一生の大事だなんて。 ――もっとも、認めざるを得ないところもある。白石光という青年は、確かに際立って整った顔立ちをしていた。 ――だが、奥様は今までだって、整った顔の男には腐るほど接してきた人間だ。光より端正な顔の男だって、いないわけではない。旦那様がその最たる例だろう。 ――では、若さと容姿に惹かれたのか? しばし押し黙ったまま思案したものの、やはり気がかりは拭えない。 ――どうせ聞くのだ。疎ましがられようと、聞くしかない。 渋滞で車が止まったその隙に、彰は言葉を吟味しながら、それでも踏み込んで尋ねた。 「奥さ……社長。失礼だが、再婚を考えているのか」 彰相手となると、小夜の口調には加減が働かない。返ってきた声は、先ほどまでよりもずっと冷ややかだった。 「――それが、あなたに何か関係が?」 こちらの警護へ勝手に手を出すのだけでも十分だというのに、私事にまで首を突っ込んでくるとは。 暇を持て余しているのではないか、と皮肉の一つも言いたくなる。 彰はあくまで静かに返した。 「そういう意味で言ったのではない。 ……ただ、旦那様の遺言にも明記されている通りでね。社長が再婚を望む折には、まず長谷川のほうで相手の人品骨柄を見極めたい、と。 その上で相手に問題がなければ、長谷川家が式のいっさいを取り仕切り、最高格のしつらえですべてを整えさせてもらう。 そうすれば、あの世の旦那様も……きっと安らかに眠っていられるだろうから」 ――人品骨柄の見極め? 小夜は、短く鼻で笑った。 圭介という男が、いったいどの口で「他人の人品を見極める」などと宣えるのか――これ以上、彼のような男と二度と関わらずに済むだけで、神様に感謝したいくらいだ。 それに、圭介がそんなものを親切心から遺していくような男でないことくらい、よく知っている。 この男が善意で動くなどと考えるくらいなら、いっそこう祈ったほうがいい。 ――本当に再婚の日が来たとしても、どうか墓の中からわざわざ這い出してきて、難癖をつけに来ませんように、と。
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第487話

――なんだ。佳乃にだって、こんなにも明るくみずみずしい風景画を描くことができたのだ。あの闇をくぐり抜ける前の彼女の心の中には、本当は、こういう風景が息づいていたのだろうか。こんなにも光に満ちて、美しい。 ――記憶の退行。それは彼女にとって、果たして幸運だったのか、それとも不幸だったのか。 小夜には、もう判断がつかなかった。 物思いに沈みかけた耳元に、佳乃の弾んだ催促の声が飛び込んでくる。 「ねえ、どう?これ、イタリアの海辺の島の町を描いたのよ」 ――イタリア。その一言を、小夜の耳はひどく敏感にとらえてしまった。我に返った彼女は、瞳の奥にすうっと暗い影が差していくのを抑えきれないまま、無邪気な笑顔を浮かべる傍らの女性をじっと見つめ返し、小さくその言葉を繰り返した。 「……海辺の、島の町?」 「そうよ」佳乃は嬉しそうに笑った。「小さい頃ね、おじいちゃんが国際的な芸術祭の表彰式に私を連れていってくれたの。それで、しばらくあの街に住んだことがあって――本当に、息を呑むくらい綺麗な場所だったの。私、そのときにおじいちゃんに言ったの。『大人になったら、絶対にまたフィレンツェに行く!あの芸術の街で、絵の勉強をするの!』って」 そこまで言うと、佳乃はたちまち機嫌を損ね、頬を膨らませて不満そうに続けた。 「もうちゃんと年齢も条件も満たしてるのに――雅臣のやつ、私を留学に行かせてくれないのよ!それどころか、家に閉じ込めて一歩も外に出してくれないの!ひどいわ、もうあんな人のこと、絶対に口をきいてあげないんだから!」 小夜はここにきてようやく、先ほど雅臣が見せていたあの表情の意味を悟った。 ――記憶が、もうここまで戻ってしまっているのだ。 十八歳の、佳乃。 不満に唇を尖らせる女性の顔を、小夜は改めて見つめる。不機嫌なはずなのに、澄んだ瞳は生き生きとした光を湛えてきらめき、頬は明るく、表情のどこをとっても感情が余すところなく溢れ出している。その無垢なあどけなさに、ただただ胸が締めつけられ、愛おしさが込み上げてくる。 ――では、あの苦しみは、この十八の年から先に待ち受けていたものだったのか。 当時、誰にも止められず、胸いっぱいの夢と憧れを抱いてあの芸術の街へと発っていった佳乃。――彼女は、そこから先であ
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第488話

――考えれば考えるほど、そう思わずにはいられない。あのコルシオという男は、本当に、死んで然るべき外道だった。 …… 寝室の中。 枕を二つ、ぬいぐるみをいくつか投げつけられたところで、不意に雅臣がついに動いた。布団ごと佳乃を胸の中にすくい上げると、腹いせのようにその髪をぐしゃぐしゃにかき乱していく。怒った佳乃が拳を振り上げて叩いてくると、今度はその拳を掴まえて唇を寄せ、甘噛みしては口づけを落とす。 「やっ――!」 佳乃が真っ赤な顔で叫び声を上げた。 ちょうど考えごとに気を取られていた小夜は、佳乃の悲鳴のような声を耳にして、とっさに助けに入ろうと身を乗り出しかけた。――が、室内の様子をはっきり目にした途端、顔をみるみる真っ赤に染め、慌てふためいてその場から逃げ出した。 勘弁してほしい――年下の身内としては、できるだけ目に入れないでやってくれ! 以前、コルシオのアトリエで見てしまった異常な絵の数々ですら、いまだに真正面から向き合えずにいるというのに。お願いだから、お互いのためにももう少し距離を置かせてほしい。 「今夜は、佳乃のことをどうか頼む」 ほどなくして、雅臣が寝室から出てきた。髪も衣服もすっかり乱れ、頬にはいくつか真新しい引っかき傷が走っている。――それでいて、その表情は拍子抜けするほど平然としていて、小夜に現場を見られたことへの照れも決まり悪さも、微塵も浮かんでいなかった。 ……できれば年長者の悪口など言いたくはないのだが。 小夜は心の中でつい独りごちた。 ――これが、いわゆる長谷川家代々の、筋金入りの面の皮の厚さというものなのだろう、と。 「ご安心ください。ちゃんと見ておりますから」 雅臣の口ぶりには、もとより何の不安もないようだった。 佳乃は、あれほど多くの人や出来事を忘れてしまっているのに、なぜか、あとから出会ったはずの小夜のことだけははっきり覚えていた。それどころか今や親友のように懐き、誰よりも深く信頼を寄せているのだ。出会った当初から、小夜という存在は、彼女にとって何か特別な意味を持つものだったらしい。――そして、今はなおさらだ。 幸いにして、小夜はこれまで一度として、その信頼を裏切ったことがなかった。 …… 深夜。 寝室には、ひとつだけ小さな常夜灯の
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第489話

――ありえない! 今、自分はいったい何を耳にしたのだろう? 小夜はベッドの上でぴくりとも動けないまま、頭の中だけが騒音のように鳴り響いていた。そのままどれほど時間が経ったことか、一度は「聞き間違いだったのでは」とすら疑った。だが、こんなにも静まり返った夜だ。寝室に居るのは、ベッドの上で頭を寄せ合うようにして横たわる、佳乃と自分のふたりだけ。――耳がおかしくなったわけでもないだろうに。 妖艶な切れ長の目をした、嫌な男――?婚約者――? ……「婚約者」という部分はひとまず措くとしても、佳乃が口にした「男」というのは、圭介のことを指しているのだろうか? まさか樹のことということはあるまい。記憶が退行し混線してしまっているため、佳乃はもう樹が存在することすら覚えていない。刺激を避けるため、樹を本家に連れてきていない日が、もうずいぶん続いている。 それに、年齢だって合わない。あんな小さな子どもを、大人と取り違えるはずもない――なにせ佳乃は、その「男」を小夜の「婚約者」として語っていたのだ。 けれど――圭介は、とっくにこの世にはいないはずではないか! いったい、どういうことなのか。まさか、佳乃は記憶の混乱に加えて、今やもう幻覚まで見始めているというのか? そうでも考えなければ、説明がつかない。 深夜。小夜はふいに背筋がひやりと冷たくなり、得体の知れないざわめきに襲われて、慌てて布団の端を引き寄せ、自分の身体を布団の中へと小さく埋めた。 ――明日、きちんと訊いてみよう。 そうは思ったものの、気の迷いのせいか、それとも説明のつかない予感のせいか――その夜、小夜は結局ひと睡もできなかった。目を見開いたまま、朝の光が差し込むまでただじっとしていた。夜が明けるやいなや、青黒い隈を目の下に貼りつけたまま、目覚めたばかりの佳乃をつかまえて、たたみかけるように問い質す。 「え?婚約者って……なに?妖艶な切れ長の目をした、あの嫌な男って、誰のこと?」 目覚めたばかりでまだ眠気の残る佳乃は、欠伸混じりにきょとんとして答えた。 「何それ?小夜ちゃん、いつのまに婚約なんてしてたの?私に内緒でなんて、ひどいじゃない!」 最後のひと言を言い切る頃にはすっかり目を覚ました様子で、佳乃は逆に小夜の腕を引っ張って問い詰めてくる。 全
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第490話

高山先生は、佳乃の主治医である。 小夜は反射的に、診察室へ向かう雅臣のあとを追って歩き出した。 医師が到着し、さまざまなやりとりと問診が交わされたあと、こんどは佳乃のもとへ足を運び、脈を診ての診察が始まる。 そうしてひと通り家の中が慌ただしく立ち働くなか、小夜の胸の内にはまだ割り切れない疑念がわだかまっていたものの、それを口に出すきっかけは、結局どこにも見つからないままだった。 佳乃にこれだけのことがあった以上、雅臣は当然、本社に出ていける状態ではない。小夜は暇を告げると、ひとまず一人で本社のほうへと向かった。 けれど、胸の内にはずっと、薄暗い影がかかったままだった。 …… ――おそらくは、かつてあの男が私の心に残していった影響が、あまりに大きかったからなのだろう。 ただ耳にしただけの、荒唐無稽としか言いようのない憶測であっても、それは小夜に、心臓をぎゅっと掴まれるような動悸を覚えさせるのに十分すぎた。 ――けれども、あの診断書は嘘ではない。佳乃の精神状態がここ最近ひどく不安定だったというのも、確かに辻褄が合う話だ。――それに、あの日のあの街での出来事は、私自身がこの目で確かめたもの。あれが、偽りであるはずなどあろうか? 頭では、これ以上ないほど確信しているのだ。それなのに、どういうわけか、いくら言い聞かせても心だけは一向に落ち着こうとしない。 まるで、どこかに仕掛けられていた不安の蓋がひとたび開いてしまったかのように、心の均衡は崩れたまま、もう元には戻ってくれない。気がつけば意識は勝手に宙を漂い、しまいには小夜自身、自分が何にこんなに思い悩んでいるのかすら、判然としなくなってきていた。 ――佳乃の病状のことなのか。それとも、あの、およそあり得べからざる荒唐無稽のほうなのか。 自分の思考の向かう先すら掴めぬまま、その状態は、はた目にもはっきり分かるほど悪化していった。丸一日、気もそぞろなままで過ごすうち、ついには仕事にも差し障りが出始めていた。 「社長?社長?」 会食の個室。長卓の向かい側、石油系企業の代表が、先ほどから一人で熱心に話し続けていた。――が、向かいに座るきりりとした黒いスーツ姿の小夜は、無表情のままそこに座したきり、ずいぶんと長い間、ひと言も発しない。どう受け止められているのか
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