All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 471 - Chapter 480

552 Chapters

第471話

グループ本社、社長室。 デスクの上に置かれた新規プロジェクトの報告書と、若葉が提出したAI自動化技術の計画書にざっと目を通すと、小夜はそれを相手へ押し返した。目の前の隆栄を真っ直ぐに見据え、再び端的に断りをいれる。 「駄目ですよ。岸本さん、役員会でも何度も言ったはずですよ。このプロジェクトは、今の技術チームでは到底体制が追いついていません。計画書をいくら手直ししたところで根本的な解決にはなりません。資金を食いつぶすだけの穴になるのは目に見えています。……あなた、頭がどうかしましたの?会社のために他にやれることがないわけじゃないでしょう」 小夜の声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。 長年グループに貢献してきた大株主である人間だ。あまりきつい言い方はしたくなかった。けれど、ここまで頑なに話が通じないと、さすがにうんざりしてくる。 若葉はこの男に、いったい何を吹き込んだのか。 それとも、この男がただの馬鹿なのか。 「しかし社長、このプロジェクトの発想そのものが優れているのは事実です。将来性も計り知れません。機会さえ与えていただければ、十分に成功する可能性があります。もし初期投資が大きすぎると懸念されるのでしたら、まずは少額で立ち上げ、様子を見ながら段階的に……」 隆栄が食い下がりかけている、その途中だった。 彼の手元のスマホが震えた。取り上げてそのまま切ろうとした隆栄だったが、続けて届いたメッセージを見た瞬間、顔色がサッと変わった。小夜に「失礼」と一言だけ短く告げると、慌ただしく部屋を出ていった。 ようやく静寂が戻った。 秘書の奈々にデスクの上の書類を片付けさせながら、小夜はふと壁の時計を見上げた。もう少しで、樹を学校へ迎えに行く時間だ。 今夜はちょうどスケジュールが空いている。 樹を連れて外で食事でもして、どこかで遊んでから帰ろう。 しばらく、母親としてまともに相手をしてやれていなかった。せっかくの帰国なのだから、少しは埋め合わせをしてやらなければ。そう思って自分のスマホを取り出し、子供が喜びそうなイベント情報を調べようとした。 その時だった。 ドアが乱暴に開いた。隆栄が血相を変えて戻ってきて、小夜を憎々しげに睨みつけた。 「社長。私への当てつけのつもりか知らないが、私の提案を通したく
Read more

第472話

いや、まさか。樹は決して黙ってやられっぱなしになるような性格ではない。認めたくはないが、樹は圭介によく似ている。外見だけでなく、決して損な役回りを引き受けない負けん気の強さまで、そっくりそのまま受け継いでいるのだ。本当にいじめられているなら、絶対に黙っているはずがない。ということは、今回が初めてなのだろうか。推測を重ねても不安が募るだけだ。小夜は彰に急ぐよう促し、まずは学校へと急いだ。……陽光小学校にて。小夜が医務室に入ると、部屋の中の凄惨な光景に思わず足が止まった。担任によって引き離されている二人の子供は、どちらも顔が青や紫にひどく腫れ上がっている。「ママ!」姿を見るなり、樹は口から舌足らずで不明瞭な声を上げながら飛びついてきた。彼女の腰に抱きつき、わあわあと大声で泣き崩れる。「ママ、あいつらが僕をいじめたんだ!殴られて、歯まで折れちゃったよ!」その言葉を聞いた瞬間。事情を尋ねる余裕など吹き飛び、小夜は慌ててしゃがみ込んだ。青あざだらけの無残な樹の顔を、恐る恐る両手で包み込む。泣叫ぶために開かれた口からは、確かに上の前歯が一本欠けており、唇には血が滲んでいて、言葉も隙間から漏れていた。見る間に、彼女の胸の奥で怒りが燃え上がった。なんてひどい手出しをするの!「あの、樹くんのお母様、事情の経緯は……」傍らにいた女性の担任が気まずそうに説明しようとした矢先、ドアがバンと音を立てて乱暴に開かれた。少し遅れて車で学校に到着した隆栄が、怒りを露わにして、二人の屈強なボディーガードを従えて踏み込んできたのだ。「私の息子はどこだ!」「パパ、うわあああん!」同じく顔を青く腫らした澄人が、ずっと静かに涙を拭っていたものの、隆栄の顔を見た途端に堪えきれずに大泣きし始めた。樹よりも大きな声で泣きわめきながら、告げ口をする。「パパ、長谷川が僕を殴ったんだ!それに、僕のことを馬鹿にした!」「嘘だ!お前たちが僕を馬鹿にして、殴ったんだ!僕の歯まで折ったくせに、嘘をつくな!」樹はさらに声の限りに叫び、小夜の手を強く握りしめた。「ママ、あいつらが僕をいじめたんだよ、うわあああん」一瞬にして、医務室は、二人の泣き叫ぶ声で埋め尽くされた。お互いに声を張り上げ、全く事情が呑み込めない。双方の大人た
Read more

第473話

子供があんな残酷な言葉を、自分から口にするはずがない。 間違いなく、周りの大人が「教え込んだ」のだ。 小夜の冷え切った視線が、ゆっくりと隆栄の顔へ向かう。隆栄は一瞬ばつが悪そうに目を逸らしたが、すぐに強気に睨み返し、悪びれもせず言い張った。 「うちの澄人は昔からおとなしい子なんだ。小動物を可愛がるような子で、蟻を踏むのさえ避けて歩くくらいでね。自分から人に手を出したり暴言を吐くなんてあり得ない。そちらの樹くんが、何か刺激したに決まっている。だいたい、あの父親の血を引いているんだから……」 ダンッ。 小夜が力強くテーブルを叩いた。反動で薬瓶が跳ねる。氷のように鋭い目が、隆栄を射抜いた。 「岸本さん、言葉を選びなさい」 隆栄は言葉に詰まった。 内心では、自分が澄人に吹き込んだ悪口が原因だという後ろめたさがある。だが、自分の澄人の前で小夜に頭ごなしに押さえつけられるのは我慢ならなかった。反論しようと口を開きかけた時――小夜の斜め後ろに控えていた彰が、無表情のままスッと半歩前に出た。隆栄は、開けた口を黙って閉ざすしかなかった。 小夜を怒らせるだけなら、まだいい。その女は道理をわきまえているし、ビジネスの分別もある。追い詰めても、多少の逃げ道は残してくれる。 だが、彰という男は違う。 とっくに死んだ圭介と、まったく同種の人間だ。一切の道理が通じない。本気で怒らせたら最後、逃げ道など一切残さず、相手が生まれてきたことすら後悔するまで徹底的に追い詰めてくる。想像するだけで胸糞が悪くなる。 圭介が死んだ時、隆栄は「自分もグループの大株主なのだから、ようやく好きにやれる」とほくそ笑んだ。ところが、また思わぬことが起きた。誤魔化しも通じず、一切の妥協を許さないこの「高宮小夜」という女は、決断の速さと容赦のなさが圭介にそっくりだった。おまけにトップとしての立場は正当であり、あの狂犬のような彰までが彼女に完全に従っている。彼女の地位は、今やびくともしない。 厄介この上ない女だ。 だが、グループの経営方針については一時的に我慢できても、子供のトラブルは別だ。先に手を出したのは向こうなのだから、今回はこちらに理がある。今日こそ、きっちりと落とし前をつけさせてもらう。 もちろん、小夜も全く同じことを考えていた。 このまま
Read more

第474話

樹と澄人が最初に殴り合ったのは、監視カメラの死角となる狭い角だった。そこの映像は確認できない。 だが、医務室のカメラは部屋全体を鮮明に映し出している。 小夜の腹は決まっていた。 もしこの映像で、樹が先に手を出していたなら、素直に認める。親としてきちんと詫びるつもりだ。だが、樹の体に残された傷を、うやむやにして終わらせるつもりは毛頭ない。 澄人が酷く殴られたのは紛れもない事実だ。 吐かれた言葉も、子供の喧嘩の度を越していた。 すぐに学校側の責任者も駆けつけ、映像が再生された。大人たちが医務室のモニターを囲み、無言で一部始終を確認していく。 優奈の証言通りだった。 二人は医務室に来てからもまだ激しく口論を続けていて、別々の部屋に分けられた。しばらくして、顔に傷を負った樹が突然澄人の部屋に飛び込み、腕を掴んで外に引きずり出そうとしたのだ。 その瞬間に、澄人が力任せに殴りかかった。 樹は、まったく反撃しなかった。 殴られた勢いのまま、テーブルの角に顔を強く打ちつけた。前歯が折れたのは、この時の衝撃だった。 その生々しい瞬間を見た小夜は、樹を握りしめている手に無意識のうちにぎゅっと力がこもった。心臓が跳ね上がる。もしあれが前歯ではなく、目に当たっていたら。もっと脆い急所だったら。 歯で済んだのは、不幸中の幸いだった。 それでも、母親にとっては十分すぎるほど重い傷だ。 映像が終わると、その場にいる全員が押し黙った。 外での喧嘩は、どちらが先に手を出したか確たる証拠がない。だが、医務室での映像は明白だ。先に殴ったのは澄人の方だった。 小夜は眉をひそめ、深く息を吸い込んだ。荒れ狂う感情を無理やり胸の奥に抑え込み、自分にすがりついて声を殺して泣いている樹の小さな背中を、そっと叩いてやる。それから、視線を静かに隆栄へと向けた。氷のように冷たい声が響く。 「岸本さん。ご覧の通りだ。どう説明してくださるのかしら」 隆栄の顔色は土気色になっていた。 小夜の言葉を無視し、傍らにいる自分の息子を睨みつける。声にかすかな怒りが滲む。「澄人。お前が殴ったのか!」 「違うよパパ!あいつが、パパは死んだ、外に別の子供がいてもう僕なんか要らないんだって言ったから……だから殴ったんだよ。あいつが避けないと思わなかった
Read more

第475話

「あり得ん!」 隆栄は頑なに拒絶した。「調子に乗るなよ。自分の子供には一切非がないとでも思っているのか。監視カメラでどう言い繕おうと、最初に殴ったのはそっちだ。うちの息子は昔からおとなしい子で、嘘などつかない。そっちの子だって、うちの息子を何か罵ったんじゃないのか」 隆栄はさらにまくし立てた。 「とにかく、この場で痛み分けとしてチャラにするか、それとも病院に行って徹底的に検査するかだ!どっちの怪我が重いか、はっきりさせようじゃないか。なんなら法廷で決着をつけても構わんぞ。まさか、社長の権力でなんでも押し通せるなどと勘違いしているんじゃないだろうな」 「……いいわよ」 隆栄の言葉が、ぴたりと止まった。 小夜は迷うことなく樹の手を引き、部屋を出ようと立ち上がった。そして、隆栄を冷ややかに一瞥する。「病院に行こう」 隆栄の顔がどす黒く濁った。 行くなら行ってやる。もし澄人の方が重傷だったら、どう言い訳するつもりだ。 …… 病院に着いて、検査を終えるなり、小夜は医師に怪我の具合は重いのか、折れた歯は無事に生え変わるのかと聞いた。 幸いにも軽傷で済んだと聞き、小夜はふうっと長いため息をついた。 学校で隆栄と無駄な言い争いをして時間を食わなければ、もっと早く連れてこられたのに。 それでも、大事に至らなくて本当によかった。 「……こういうことがあったら、まず一番にママに言いなさい」樹の顔に薬を塗りながら、小夜は少し咎めるように諭した。「ママに言えなかったら、お爺ちゃんでも、彰おじさんでも、先生でもいい。暴力は一番愚かなやり方よ。相手を傷つければ、結局は自分も傷つくことになるの。わかった?」 「うん……ママ、ごめんなさい。僕が悪かった」 樹はおとなしく自分の非を認めた。傷口に薬が沁みたのか、顔をしかめて身をよじる。また大粒の涙がこぼれ落ち、小夜は慌てて優しくなだめた。 手当てを終えると、 小夜はもう一つ、大切なことを告げた。「でもね、あなたが先に殴ったのは事実よ。澄人くんにも、ちゃんと謝らないといけないわ」 「なんで!?あいつが先にひどいこと言ったのに!」 樹は納得がいかずに反発したが、小夜の静かで揺るぎない目を見つめ返しているうちに、だんだんと勢いがしぼんでいった。彼は
Read more

第476話

小夜はひとつため息をつくと、しゃがみ込んで樹を抱き寄せた。その背中を優しく叩きながら、ゆったりと穏やかな声で語りかける。「樹、よく覚えておいて。暴力は一番まずいやり方なの。何も解決できないし、かえって事態をややこしくするだけよ。あなたも傷つくし、相手も傷つくわ。今回はかすり傷で済んだけれど、もし万が一、取り返しのつかないことが起きてしまったら……ママはどうすればいいの?これからは何かあったら、まずはママか、周りの大人に相談すること。いいわね?」樹は、そんなことにはならない、と言いたかった。ひいおじいちゃんやおじいちゃんから、見た目は派手でも実は大した怪我にならない殴り方を教わったことがある。中には、痕もほとんど残らないやり方だってある。ただ、まだ完全には身についていないだけだ。それに、同級生たちはひどく弱っちくて、どうせ自分には敵わない。だが結局、樹は何も言い返さず、ただ甘えるように小夜の胸へすり寄った。ママがこんなふうに自分を真っ直ぐ見つめ、真剣に向き合ってくれるのは、本当に久しぶりだった。歯の一本や二本抜けたところで、安いものだ。こうして心配そうに見つめてくれるママが好きだった。これこそが、ママの心の中で自分が一番大切で愛されている宝物なのだという、揺るぎない証なのだ。パパが言っていた通り――――僕はママのたった一人の子供。ママはずっと僕を愛してくれる。――僕は、ママにとって唯一の存在なんだ。……その夜、小夜は樹を栄知のいる別邸へ送り届けた。喧嘩の経緯を説明したが、栄知はさほど腹を立てた様子もなく、ただ樹を自身の書斎に行かせた。そして小夜には、あと数日こちらに滞在してはどうかと勧めた。樹がこんな騒ぎに巻き込まれたばかりで、小夜自身も気がかりだったため、その申し出を受け入れた。ただ、珠季にどう伝えるかだけが頭を悩ませる問題だった。間違いなく、激怒するだろう。覚悟を決めて珠季に電話をかけた。樹の喧嘩のことは伏せておいた。珠季はこの曾孫に対してすでにかなり複雑な感情を抱いており、騒ぎを知れば、絶対に小夜をこちらに留めておいてはくれない。ところが意外にも、あと数日滞在すると伝えても、電話の向こうの珠季は怒るどころか、妙に機嫌よく、嬉しそうな口ぶりだった。しばらく話を聞いて、ようやくその理由が分かった。小夜は黙り込んだ。「とにか
Read more

第477話

書斎の扉が開き、栄知から説教を受けたばかりの樹が、ぴょんと飛び出してきた。喧嘩でしわだらけになった濃紺の制服のジャケットを手にぶらぶらと揺らしながら、先に立って歩いていく。彰がその後に続き、静かに書斎の扉を閉めた。二人が前後になって、重厚な石材と赤みを帯びた銘木でしつらえられた長い廊下を進んでいく。 しばらく歩いたところで、樹がふと足を止め、振り返って彰を見上げた。 「桐生おじさん、今回もやっぱり僕が間違ってたの?でも、ママは怒ってなかったよ」 目的は、ちゃんと果たした。誰の手も借りていない。なのに、どうしてひいおじいちゃんはあんなに怒ったんだろう。 彰も歩みを止めた。少し身を屈め、消毒薬の匂いをさせ、まだ青あざの残る樹の顔に静かに目を落とす。 「坊ちゃま。大おじい様も奥様も、おっしゃる通りです。暴力は確かに効きますが、たいていの問題は根本から解決できませんし、後々まで禍根を残します。それに何より、今回の坊ちゃまのやり方は、お世辞にも上手いとは言えませんでした」 もし樹が自ら怪我を負うような真似をしておらず、小夜も我が子可愛さに冷静さを失っていなかったなら。さらに、現場があれほど混乱していなかったとしたら――一歩引いて全体を見て、今回の件に散りばめられた様々の綻びなど、いとも容易く見抜かれていたはずなのだ。細かく問い詰められれば、すぐに崩れる代物でしかない。 彰は少し考えを巡らせてから、言葉を継いだ。 「少なくとも旦那様であれば、似たような状況に置かれたとしても、あのような稚拙なやり方は決して選ばれません」 「パパが?」 樹の瞳がぱっと輝き、けれどすぐにまた翳りを帯びた。彰にそっと近寄り、きっちり糊の利いた黒いスーツの裾を掴んで、軽く揺さぶる。 「桐生おじさん、パパならどうするの?」 「旦那様ですか……旦那様であれば、そもそも誰にも口を開く隙すらお与えになりません。この件が奥様のお耳に入ることなど決してなく、何事もなかったかのように、音もなく片付いていたでしょう」 ――もっとも、旦那様の気性からすれば、そもそも彼を前にしてそんな小賢しい真似をしようなどと――そんな考えが芽生えることすら、誰にも許されないのだが。 樹は小首をかしげ、きょとんとした顔で尋ねた。「殴って、口を利けなくするっ
Read more

第478話

それこそが、樹と圭介の決定的な違いだった。樹には、必要なときに弱さを見せることができる。彰は時折、こう考えることがあった。――もし旦那様も坊ちゃまのように、奥様の前で泣いたり弱音をこぼしたりできていたなら、ここまでこじれはしなかったのではないか――と。だが、圭介という男は、最期まで自らの弱さを晒す術を身につけることができなかった。自分自身が弱くあることを、決して許さない男だったのだ。たとえ相手が小夜であっても、愛する者の前であっても。彼がほんの数えるほど見せた弱さの奥には、常に強引さと威圧感が鎌首をもたげるように潜んでいた。拒絶も後退も、一切を許さない。そんな歪な「弱さ」の見せ方は、相手に安堵ではなく、かえって恐れと拒絶を呼び起こすだけだった。皮肉なことに、無防備な涙と弱さの露出こそが、小夜に対しては最も効く武器となる。――そこが、坊ちゃまの最も賢いところなのだ。いつ、誰に対して、どのタイミングで自分の脆さと甘えをさらけ出せば、身を休める港が手に入るのか。樹はそれを、ほとんど本能で弁えている。これこそが、圭介と樹の唯一にして最大の違いだ。もっともそれは、彼がまだ幼いからこその賢さなのかもしれないが。大人になったときにも同じでいられるかは、分からない。彰は胸のうちで小さく息をつき、樹の髪をそっと撫でてやった。「坊ちゃま、どうかご自身の望むようになさいませ。若いうちは、何にも縛られず突き進むべきものです。ましてや坊ちゃまは、なおのことそうあるべきお方です」長谷川の血を引き、いずれこの家を背負って立つ子供だ。何事においても迷わず前へ進むべきであって、細事にぐずぐず悩み、要らぬ弱さを背負い込むような真似は似合わない。だから、恐れる必要などない。ためらうことも、ないのだ。……樹は分かったような分からないような顔で頷いた。歩き出す足取りは、先ほどよりもずっと軽い。だが、数歩進んだところでふと立ち止まり、くるりと振り返った。彰は、すぐ後ろに立っていた。そのとき、樹はふっと気づいた。――物心ついたときから、桐生おじさんはいつも、そうやってパパの後ろを黙って歩いていた。パパがいなくなってからは、今度はママの後ろを。そして今は、自分の後ろを。ずっと、ずっと、そうだった。樹は駆け戻り、彰の手を
Read more

第479話

「旦那様……」 「申し訳ございません。先ほどまで奥様と坊ちゃまがいらして、少し手が離せなかったものですから……」 「承知いたしました」 …… 別邸にある、樹の寝室。 夕食を済ませ、樹に薬を飲ませ終えたあと、小夜は机の傍らに腰を下ろし、彼が宿題に取り組むのをそばで見守っていた。 ――とはいえ、手取り足取り教えているわけではない。 樹の勉強については、小夜が口を出す必要など昔からまるでなかった。 彼女はただノートパソコンを膝に抱え、自分の作業を進めながら、宿題に向かう樹のそばにいてやる。それだけのことだった。 今回の喧嘩で怪我もしていることだし、大事を取って一週間ほど学校を休ませ、宿題も数日くらい休んでいいと伝えたのだが。意外にも、樹から拒まれてしまった。学校を休むのは構わないが、宿題だけはやる――そう言って、きっぱりと譲らなかったのだ。 信じがたいほどの勤勉ぶりだった。 樹がここまで素直に、自分から積極的に宿題に向かう日が来るなど、小夜自身、想像したこともなかった。もともと地頭は悪くなかったが、以前の樹は勉強よりもゲームやアニメに夢中で、宿題の時間になるといつも家中が大騒ぎになっていたものだ。 口うるさく言うのにも疲れて、やがて放任するようになった。ところがどうだろう、今ではこちらが何も言わなくても、自分で時間の配分を考え、きちんとこなすようになっている。 たった一年だったのに…… やはり、栄知の躾の賜物なのだろう。 自分では到底無理だった、と小夜は胸の内で苦笑する。これほど素直な樹の姿など、今まで見たことがなかった。 感慨深く首を振ってから、小夜は意識を切り替え、液晶タブレットを取り出してノートパソコンに繋いだ。描きかけのウェディングドレスのデザイン画を開き、ペン先を滑らせていく。 イギリスの大口顧客が、スプレンディドを通して、小夜にウェディングドレス一着のデザインを名指しで依頼してきた。 依頼主とはまだ直接顔を合わせていないが、聞くところによれば、イギリス王室のある王子の結婚式のため、花嫁となる女性のドレスをスプレンディドに特別注文してきたのだという。 この一年。 長谷川家の事業とスプレンディドの経営に追われ、国の内外を飛び回る日々が続いていた。とはいえ、それらはあくまで情勢に押さ
Read more

第480話

小夜はデザインの仕事であれ会社の業務であれ、樹の前でそれを隠したことは一度もなかった。樹が興味を持って尋ねてくれば、できるだけ噛み砕いて説明してやった。たとえ話の大半が理解できなくとも、それはそれで構わない。 日々の中で自然に耳にしているうち、何かしら心に残るものがあればいい。 それもまた、一種の情操教育のようなものだ。 だが、今回ばかりは樹にもはっきりと内容が呑み込めたらしい。ウェディングドレスの絵――それが何であるか、何のために着るものなのか、さすがに樹だって知っている。 「ママ、結婚するの?」 樹の機嫌は、あからさまに急降下した。 小夜は思わず吹き出し、首を横に振って否定した。 「違うわ。これは、お客様の結婚式のためにデザインしているの。ママが着るものじゃないのよ」 ――ただ、そこまで言って、ふと閃くものがあった。 ちょうどいい機会かもしれない。再婚というものについて、樹がどう感じているのか、一度聞いておくのも悪くない。 そう思って、小夜はタッチペンを置き、微笑みながら水を向けてみた。 「……ねえ、樹。もしよ、もしママがいつか再婚したいって思ったとしたら……樹は、新しいパパがいた方がいい?」 樹は露骨に顔を曇らせた。 「――いらない。新しいパパなんかいらない。僕が欲しいのは……」 かつてのパパはいつだって厳しく、自分を笑顔にはしてくれなかった。それでも、もし選べるなら、欲しいのはあのパパだけだ。けれど、パパの話を持ち出せばきっとママを悲しませてしまう。 そう思い直した樹は、言葉を呑み込んで、ただこう続けた。 「僕は、ママだけいてくれれば、それでいいんだもん。それに、ママがもし結婚したら、ほかに子供ができちゃうんでしょ?そんなの絶対やだ!そんなの、絶対に好きになれない!」 ママは、ずっと自分だけのそばにいてくれればそれでいい。自分だって、ずっとママのそばにいる。 樹の言葉を聞いて、小夜は苦笑するしかなかった。せいぜい「新しい父親を受け入れがたい」と言うくらいだろうと思っていたのに、まさか将来生まれるかもしれない弟妹のことまで想像してみせるとは。こちらの予想をはるかに上回る拒否反応だった。 もっとも幸いと言うべきか、今の小夜自身に、再び家庭を築こうなどという気はまったくなかった。
Read more
PREV
1
...
4647484950
...
56
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status