Lahat ng Kabanata ng 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Kabanata 491 - Kabanata 500

552 Kabanata

第491話

彰が車を走らせて去っていくと、奈々は慌ただしくスマホを取り出した。口座に振り込まれた特別手当のゼロの数を数えた途端、危うくその場で飛び跳ねそうになる。 やはり、社長についていけば、懐具合には困らない。 …… 「社長。何か、気にかかることでもおありですか」 運転席の彰は、この一日、小夜の様子が明らかにおかしかったことに気づいていた。頃合いを見計らい、静かにそう尋ねる。 そうだ。 しかも、とびきり馬鹿げた心配事だった。 口に出したところで、正気を疑われるに決まっている。小夜自身にも、自分のことがよく分からなかった。意識の混濁した佳乃が口にした、たった一言。それだけでどうしてここまで怯えているのか、理屈ではまったく説明がつかない。 元来、臆病な性分ではないはずなのに。 その夜、ようやく眠りについた小夜は悪夢を見た。 最初に見えたのは、ローマでの宴だった。圭介が小夜を庇って銃弾を受け、薔薇の花が敷き詰められた床へ崩れ落ちる。噴き出した血が真紅の花びらをさらに赤く濡らし、彼の呼吸は少しずつ、少しずつ失われていく。 場面は一転し、冷たい霊園の土の中から一本の手が突き出した。泥と血にまみれた圭介が墓の中から這い上がり、氷のように冷たい指で小夜の首を絞め上げる。耳元で、ひどく掠れた声が響いた。 「こんなに愛しているのに……どうして一緒に来てくれないんだ」 小夜は悲鳴を上げ、ベッドから跳ね起きた。 夢から覚めても、しばらくは魂が抜け落ちたように身動き一つできなかった。長いこと見ないふりをしていた違和感が、深い夜の闇の中でいっそう不気味な輪郭を増していく。どこかがおかしい。たしかに何かがおかしいのに、それが何なのか分からない。 「ママ?」 隣で眠っていた樹が、小夜の上げた物音に目を覚ました。 実はこの夜、小夜は恐怖のあまり、あるいは何かから逃げ出したい一心で、本家へ佳乃の様子を見に行くこともできず、かといって自分の寝室でひとりで眠る勇気も出ず、樹のベッドへと逃げ込んでいたのだ。 だが今となっては、その行動を少しだけ後悔していた。 真夜中、ナイトライトの淡い光の中で、樹の瞳がじっとこちらを見上げている。その目の形は、亡き圭介とよく似た、妖艶な切れ長の目だった。 小夜は無言でベッドから下りた。震えそうになる声を
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第492話

霊園の外。 林道には二台の車が停まっていた。そのうちの一台、ドアが開け放たれたオレンジ色の車の後部座席で、小夜は血の気を失った顔で座り込んでいた。保温ボトルを両手で強く握りしめ、温かい湯を少しずつ口に含んで震えをごまかす。 しばらくしてようやく呼吸が落ち着くと、小夜は車の外に立つ彰をぎろりと睨みつけた。 「……あなたね。真夜中の霊園でいきなり背後に立つなんて、人を呪い殺す気!?」 本当に心臓が止まるかと思った。 どうかしているとしか思えない。 彰の顔にはこれといった感情は浮かんでいなかった。ただ、その声にはわずかな困惑が混じっている。 「奥様、こんな夜更けに、おひとりで突然屋敷を出られましたので。何事かと案じ、後を追いました。まさかあそこまで腰を抜かされるとは……」 「『奥様』なんて呼んでないで!」 「……申し訳ありません、社長」 そこで、小夜は遅れてひとつの不自然さに気づき、声を冷たくした。 「……ごまかさないで。そもそも、なぜ私が屋敷を出たのを知っているの?私を監視しているの?尾行したの?」 彰は当然のように答えた。「私は常に、社長の安全をお守りしなければなりません。 それに、お爺様の屋敷を出られたのであれば、私が気づかないはずがありません」 安全、安全。また安全だ。 いつもその言い訳ばかりだ。小夜はもう聞き飽きていた。ここ数日、立て続けに心を揺さぶられて神経が張り詰めていたことも重なり、とうとう怒りが爆発する。 「それが監視の免罪符になるわけじゃないでしょう!もう私についてこないで。護衛が必要なら、自分で別の人間を雇うから!」 「社長」 彰の声はなおも静かなままだった。 「今は何かと不穏な時期です。外部の人間は、まだ信用できません」 「……分かったわ。長谷川家の人間なら信用する」 小夜は顔を沈ませた。 「でも、長谷川家で人を守れるのが、あなた一人だけなんてことはないでしょう」 「私が最も適任です」 「でも、あなたが嫌なのよ!」 冷たい夜風が林道を吹き抜けた。道の両側で木々の枝がかすかに揺れ、葉擦れの音だけが、静まり返った夜の闇にやけにはっきりと響いている。 二人はそれ以上、何も言葉を発しなかった。 車の中と外。座る者と立つ者。無言の視線だけが、長いあ
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第493話

長い沈黙のあと。 どうにか心を落ち着かせた小夜は、もう彰を責め立てる気力すら失っていた。保温ボトルを抱えたまま、淡々と尋ねる。 「コルシオのことさえ片づけば、あなたは私の目の前から消えてくれるの?」 「……はい」 「あと、どのくらいかかるの?」 「海外は奴の縄張りです。ですが、ひとたびこちらへ入れば、そこから先は我々の領分になります。ただ、今のところ、奴にこちらへ向かう動きはありません」 彰は静かに答えた。 「じゃあ、私はいつまで待てばいいの?」 「長くはかかりません。奴は必ず来ます。その日は、そう遠くないはずです」 彰の口調には、はっきりとした確信があった。 こちら側で最大の脅威となっていた圭介は、すでに死んでいる。どれほど用心深い男であっても、一年も経てば警戒は緩む。狩りに出るには十分すぎる時間だ。 それに、奴自身も、これ以上待つほどの忍耐を残しているとは限らない。 ただし、一度こちらの陣地に足を踏み入れたなら、狩る側と狩られる側、どちらの立場に転ぶかは分からない。 「まさか、もう一年待てなんて言わないでしょうね」 小夜は冷たく鼻で笑った。 「それはありません」 なら、まだ少しは耐えられる。どうせ、この一年だって耐えてきたのだから。 小夜は車を降り、少し離れた場所に停めてある自分の車へ向かった。もう彰の車には乗らず、自分で運転して帰るつもりだった。 ところが、車外に立つ彰は道を譲ろうとしなかった。立ち塞がる彼にぶつかりそうになり、小夜は不快げに眉をひそめる。 「どいて!」 「社長。私がお送りいたします。それから、もう一つ。社長がどうしても私を憎く思われるのなら、気が済むまで罰していただいて構いません。どのような処罰も甘んじてお受けします。私には当然の報いですから」 「……?」 小夜は黙り込んだ。 罵ってやりたい気持ちはあった。だが、すぐに馬鹿らしくなる。この男は、何を言われても決して感情を乱さない。どれほど責め立てても、結局は暖簾に腕押しなのだ。 それでも胸の奥の鬱屈は消えず、最後に小夜は苛立ちを込めて吐き捨てた。 「……どうかしてるわ」 これ以上言い争うのも面倒だった。小夜は諦めて後部座席に戻り、乱暴に車のドアを閉める。ついでに、座席に落ちていた、まだ体温が
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第494話

「もう少し寝ていく?」 運転席の青山が身体をこちらへ向け、微笑みながら尋ねた。 「もう……どうして起こしてくれなかったの?」 小夜は慌てて身を起こす。肩に掛けられていた白いコートがするりと滑り落ちた。鼻先をかすめる清々しい植物の香りに、なぜか耳のあたりがほんのりと熱を帯びる。 「あまりにも気持ちよさそうに眠っていたからね」 青山はふわりと笑い、さりげなく問いを重ねた。 「眠れなかったのは、仕事のせい?それとも、何か別の理由があるのかな」 「ただの悪夢よ」 小夜は軽く答え、窓の外に広がる静かな路地へ目を向けた。 「ここはどこ?お店らしきものが見当たらないけれど」 「店はまだ先だよ」 青山は少し身を乗り出し、小夜のシートベルトを外してやる。 「ここから先は、少し歩くんだ。車が入れるような道じゃないからね」 「なるほど」 小夜は頷き、車のドアを開けて外へ出た。 外に出た途端、綿毛のようなものがふわりと宙を舞ってきた。路地の入り口には、淡い桃色の小さな花を枝いっぱいに咲かせた木が一本立っている。 その奥へと続くのは、細く曲がりくねった石畳の小路だ。周囲には高さも造りもまちまちな古い家屋が並び、どこかノスタルジックで落ち着いた気配が漂っている。 繁華街から少し離れた場所によくある、昔ながらの街並みだった。 車を降りた青山は、通りを一本隔てた場所に停まっている車へ何気なく目を向けた。彰が車のドアにもたれかかり、淡々とした視線をこちらへ向けている。 青山は小さく鼻で笑い、その鬱陶しい視線をあっさりと無視した。そして、花の木の下で辺りを珍しそうに眺めている小夜へ声をかける。 「ささよ、行こうか。店はまだこの奥だよ」 「ええ、今行くわ」 …… 路地はひっそりと静まり返っていた。 薄灰色のシャツを着て腕に白いコートを掛けた青山と、珍しくカジュアルなニットのロングワンピースに身を包んだ小夜。二人は並んでゆっくりと歩き、時折、楽しげな笑い声をこぼしている。 彰は少し距離を置き、無言で二人の背中をつけていく。 しばらく歩いたところで、彰は何かを記録するかのようにスマホを取り出した。そして、前を歩く二人に向けて、慣れた手つきでカメラを構える。 無音でシャッターを切った、その瞬間だった。
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第495話

曲がりくねった石畳の路地の中で、小夜は思わず足を止めた。隣でいつも通り穏やかな笑みを浮かべている青山を、驚いたように見つめる。 ――彰をどう思っているか。 どう思うも何も、そもそも青山と彰はまともに口を利いたことさえない間柄だ。それに、青山が他人のことにこれほど露骨な興味を示すこと自体、ひどく奇妙だった。 「どうして急にそんなことを聞くの?」 小夜は不審げに眉をひそめた。 「少し確かめたかっただけだよ。ささよが本当にあの男を嫌がっているなら、僕が何とかして遠ざけてあげる。君が心穏やかに過ごせるようにね」 「何とかって、どうやって?」 小夜がさらに問い詰める。 青山は穏やかに微笑んだまま、答えなかった。 方法ならいくらでもある。だが、それを小夜に聞かせるわけにはいかない。しかも実行すれば、間違いなく長谷川家と揉めることになる。彰は長谷川家が飼い慣らしてきたいい飼い犬だ。けれど、その手綱を握る絶対的な主がいなくなった今、もはやいい飼い犬とは言えなかった。 以前なら、青山も黙っていられた。海外のコルシオと長谷川家との血生臭い因縁も知っていたし、小夜がすでにその抗争の渦中へ巻き込まれていることも理解していた。彼女を守る護衛の駒が一つ増えるぶんには、悪いことではないと考えていたのだ。 けれど、今は違う。 制御する鎖を失い、いつ新しい主に牙を剥くか分からない狂犬を、どうして愛しい彼女のそばに置いておけるだろうか。 何しろ、長谷川家が裏で育て上げた人間だ。あの男が真に認める主人は、あくまで亡き前当主だけのはずだ。小夜があの男を完全に御せるとは、青山には到底思えなかった。 長谷川家が人を飼い慣らすやり方は、苛烈を極める。幾重もの茨の道を踏み越えて当主の側近にまでたどり着き、なおかつ長くその傍らに立ち続けた男が、ただの従順な使用人であるはずがない。 そんな男が、自分を縛るものを失ったのだ。 そのうえ、抱くべきではない身の程知らずな執着まで抱き始めている。 災いの種でしかなかった。 「どういう方法なの?」 青山が沈黙しているため、小夜はもう一度尋ねた。その視線は、まっすぐ青山の顔に注がれている。 「ささよは、どうしたい?君が一言そう望むなら、僕が何とかして、君のそばから遠ざけるよ。もうすぐ、僕自身の動き
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第496話

小夜は思わず笑って首を振り、さほど気にしていない様子で言った。 「どうして、みんな同じことを言うのかしら。彰も、あなたから離れた方がいいって言っていたわ」 言い終えると、小夜はそのまま前を向き、また歩き出した。 青山は一瞬だけ虚を突かれたように動きを止めたが、すぐに追いつき、同じように苦笑した。 「そうなんだ。じゃあ、ささよもそう思っている?」 小夜も笑った。「そう思っていたら、今日ここには来ていないわ」 目的は目的だ。青山をこの件に巻き込みたくはないし、長谷川家が事態を解決する力を持っていることも信じている。 けれど、ひとりの人間として信じられるかどうかという話になれば、小夜の中で、長谷川家の人間はやはり、学生時代から知っている青山には遠く及ばない。 実際、長谷川家の人間と違い、青山はこれまで一度も小夜を傷つけたことがなかった。一緒にいて、いつも心が安らいだ。 だから、彰の言葉などまともに受け取る気にはなれなかった。 さんざん自分を深く傷つけてきた側の人間が、これまで一度も傷つけたことがなく、むしろ何かと支えてくれた相手を指して「あの男は危険だ」「いずれ害になるかもしれない」などと忠告してくるのだ。 悪い冗談にもほどがある。 二人は声を潜めることも、会話の内容を隠すこともしなかった。大きすぎず小さすぎないその声は、耳のいい彰には当然、最初から最後まで筒抜けだった。 それでも彰の顔には、終始これといった感情の色は浮かばなかった。 前方を歩く二人を視線の端に捉えながら、彰は先ほど撮った写真を特定の連絡先へ、手慣れた様子で送信した。 前を並んで歩く二人は、いくつもの路地を抜けたところで、ようやく足を止めた。 「ここだよ」 …… 小夜は顔を上げた。 路地の片側に、小さな店がひっそりと建っている。朱塗りの木戸は開いていたが、店名を示す看板はどこにも見当たらなかった。 青山は小夜を中へ案内しながら、穏やかに説明した。 「ここは知る人ぞ知る隠れ家的な店なんだ。店主が気の向いたときに趣味で開けているだけでね。自由気ままな人だから、営業日もまちまちだし、看板も出していない。来る客は、だいたい常連からの紹介だよ」 小夜はすぐに合点がいった。 世の中には、金にも時間にも困っておらず、ただ好き
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第497話

ひと口で、すっかり心を奪われた。 小夜の箸は、しばらく止まらなくなった。 小夜が気に入った様子を見て、青山の笑みが少し深くなる。青山は手が汚れないよう薄手の手袋をはめ、手慣れた様子で海老の殻を剥きながら、やわらかく声をかけた。 「ほかの料理も食べてみて。どれも悪くないよ」 「ええ、美味しいわ」 小夜は大学芋をもう一切れ食べてから、慌てて箸を止めた。 「海老くらい自分で剥けるわよ。青山も早く食べて」 「分かったよ」 青山は剥き終えたいくつかの海老を小夜の小皿に入れると、それ以上は押しつけなかった。手袋を外し、自分も箸を取る。 青山は小夜のことをよく知っている。小夜が許容できる距離の限界も、どこまでなら不快に感じないかも、完璧に把握していた。 だからこそ、ほんの少しだけ踏み込み、頃合いを見てすっと引く。小夜にとって一番負担のない形で、少しずつ自分の近さに慣れさせていく。 自分の存在を、当たり前のものとして染み込ませていく。 そして、彼女の心の壁をゆっくりと溶かしていくのだ。 青山が望んでいるのは、穏やかに寄り添い、長く続いていく関係だった。 それには根気が要る。幸い、青山に最も欠けていないものが、その根気だった。 かつて、小夜が結婚を考えたとき、真っ先に思い浮かべた相手は青山だったのだ。 青山は、今でもあの時のように小夜の一番になれると信じている。その自信があった。 ただし、いつまでも昔と同じ受け身のやり方ではいけない。 そう思いながら、青山は何気ない動作で牛肉を一切れ取り、小夜の小皿へ入れた。 「ささよがこの大学芋を好きなのは知っていたから、この店を見つけたとき、すぐ連れてきたいと思ったんだ。ただ、ここの献立は毎日店主の気分次第だからね。今日食べられるかどうかは運次第だったんだよ。今度、店主に頼み込んで作り方を教えてもらうつもりだ。覚えたら、これからは君が食べたいときにいつでも作ってあげられるからね」 「あの店主、教えてくれるのかしら?」 小夜の思考は、料理の話題の方へ跳んだ。 「根気さえあれば、聞き出せないことはないよ」 「私も一緒に習っていい?」 小夜も、この思い出の味を自分でも作れるようになりたかった。 「いいよ。僕が教える。でも、本当はささよは覚えなくてもい
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第498話

店の中には、穏やかな笑い声が戻っていた。 そのとき、朱塗りの木戸が開き、誰かが遠慮のない足取りで入ってきた。立てる物音は決して小さくなかった。ちょうど入口側を向く席に座っていた小夜は、その来客の姿をはっきりと目にする。動きが、そこでぴたりと止まった。 入ってきた二人の顔を、小夜はどちらもよく知っていた。 雪と、その弟の翔だった。 相手もまた、小夜の存在に気づいた。肩に深紅のジャケットを無造作に引っかけた雪の顔には、これといった感情は浮かんでいない。だが、その後ろを歩いていた翔の顔には、驚き――というよりも、明らかな狼狽が浮かんだ。ほとんど反射的に前を行く姉の腕を掴み、今すぐこの店から引き返そうとする。 けれど、雪が彼の手で止められるような人間であるはずがなかった。 次の瞬間には、雪はもう小夜と青山のそばまで歩み寄っていた。少しの遠慮も見せず、空いている席へ勝手に腰を下ろす。そして振り向きざま、厨房の店主に向かって取り皿と箸を増やすよう声をかけた。 「姉さん、どう見ても込み入った話の途中だろ!何してるんだよ」 翔が慌てて雪の腕を引こうとする。だが、その手はあっさりと払いのけられた。雪は冷たい目で翔を一瞥する。 「食べないなら、さっさと帰りなさい」 「…………」 翔は絶句した。 雪は弟をそれ以上相手にせず、小夜へ視線を戻した。淡々と言い放つ。 「この卓のお代は、私が持つわ」 「その必要はありませんよ。申し訳ありませんが、この席は僕がささよを誘ったものです。お引き取りいただけますか」 小夜が口を開くより早く、青山が遮るように言った。あからさまな退出の促しだった。 雪の視線が、そこでようやく青山へと向けられる。 けれど、雪は彼の言葉に返事をしなかった。どこか苛立ったように、肩に掛けた深紅のジャケットから金属製のシガレットケースを取り出す。細い煙草を一本弾き出し、唇に咥えて火をつけようとした。 「すみません。ここは禁煙です」 青山はさらりと言った。その顔に張り付いた穏やかな笑みは、少しも崩れていない。 「そうそう、姉さん、ここでは吸っちゃ駄目だって!ここ、俺の友達の店なんだから!」 翔も慌てて止めた。だが、雪の何にも縛られない破滅的な性格を思い出し、すかさず言葉を足してなだめようとする。
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第499話

だが、ほどなくして雪がふいに口を開いた。「前に、うちへ来るよう誘ったでしょう。うちの馬鹿息子が、ずいぶんあなたを気にしているのよ」誘った、などという穏やかなものではなかった。宴会で一度顔を合わせたあと、雪はどこで小夜の連絡先を知ったのか、何度も電話をかけ、メッセージまで送ってきた。柏木家へ来いという内容だったが、そこには招待らしい遠慮も礼儀も欠片ほどもない。ほとんど命令と変わらなかった。相手に善意がないことは分かっていたし、その態度もあまりに横柄だったため、小夜は当然断った。しつこく続いたため、最後にはその連絡先を遮断したほどだ。だから、会った回数こそ少ないものの、小夜は目の前の女の性質を、ほんの少しは理解しているつもりだった。考えてみれば、こういう類の人間にはこれまで何度も遭遇してきた。理屈が通じず、相手の都合など意に介さず、自分の望みだけを当然のように押し通す人間。慣れたと言えば、慣れてしまったのかもしれない。今さら強引に相席されようが、勝手に奢ると言われようが、心は少しも揺れなかった。腹を立てることさえ、感情の無駄遣いだ。星文を馬鹿息子と呼ぶことには賛同できないが、そこは他人の家の親子の話でもある。雪がまたその話を持ち出した以上、小夜は余計な回り道をせず、はっきり答えた。「行きたくありません」こういう相手には、直接言うしかない。どうせ、遠回しな言い方など通じないのだから。「私は来てほしいの。うちの馬鹿息子も来てほしがっている。食べ終わったら、そのまま私と一緒に来なさい」雪はあっさりと決めつけた。「……」「私がまだ普通に話しているうちに、断らない方がいいわよ」小夜の返答を見越していたかのように、雪はこともなげに付け加えた。「姉さん!」「あなたも黙っていなさい」雪は自分の弟を冷たく一瞥し、翔が口を噤むのを見届けてから、再び小夜へ向き直る。「で、どうするの」店内が、一瞬で静まり返った。……入口側の席で、並んだ料理にひと口も手をつけていなかった彰が、こちらへ視線を向けた。だが、すぐにゆっくりと目を戻し、また外を見つめる。青山は口を開きかけたものの、向かいの小夜が小さく首を振ったため、そのまま言葉を飲み込んだ。無闇に割って入ることはしなかった。小夜の表情は変わ
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第500話

「誰も動かないで」 雪は箸の先端をさらに深く押し当てた。むき出しになった細い前腕には青筋が浮き、狂気じみた力が込められているのがはっきりと見て取れる。押さえつけられた小夜の首筋は、たちまち赤く鬱血した。 周囲の男たちの顔色が一斉に険しくなる。それでも、誰も迂闊には動けなかった。下手に刺激すれば、雪はためらいなく箸を突き立てるだろう。 誰も、彼女がここまで常軌を逸した真似に出るとは思っていなかった。 頭上には、監視カメラが作動しているというのに。 雪は片手で箸を小夜の動脈に押し当てたまま、もう一方の手で耳の後ろに挟んでいた細い煙草を取った。カチッとライターで火をつけ、深く吸い込む。 吐き出されたミントの煙が、雪の冷ややかな顔を白く曇らせた。 何度か煙草をふかし、ニコチンの渇きを満たした雪は、ようやく口を開いた。その声は、ひどく平坦だった。 「高宮。私は我慢が利かない性質なの。世の中には、耐えられないことが多すぎるのよ。……前の夫が不倫をしたうえに、私に手を上げようとした。だから切り裂いてやったの。包丁でね。ちょうど、今こうして押さえている場所よ。ここを一筋、ざっくり開いたら、血がたくさん噴き出したわ。あの男、市場で買ってきた生きた鶏みたいに、喉を押さえて、痙攣して、痙攣して……そのうち動かなくなった。私、鶏のスープだけは絶品なのよ。早死にした夫も大好きだったわ。ねえ、本当に私の家へ味見に来なくていいの?」 小夜の心臓が、氷水に沈められたように冷え切った。 身体が本能的な恐怖で震える。 今の小夜にはもう、雪が本当に自分を殺せる女だということを疑えなかった。なにしろ、この女はすでに一度、ためらいなく人を殺しているのだ。 雪はさらに、どこか懐かしむような口調で続けた。 「あの夜のこと、今でも鮮明に覚えているわ……楽しかった。あのとき、私はもうあの人を恨まなくなったの。私たちの誓いを裏切って、よその女のところへ行ったけれど、最後には許してあげた。でもね、高宮。星文は私の息子よ。私が捨てようが、放っておこうが、少しも愛せなかろうが、あの子は私の腹を痛めて産んだ子供なの。ほかの女を『ママ』だと呼ぶことだけは、絶対に許さない。分かるでしょう、この気持ち」 小夜は何か言おうとした。 だが、箸で喉元を押さえ
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