جميع فصول : الفصل -الفصل 510

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第501話

路地裏の店は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返っていた。 雪はさらに手に力を込め、小夜の首に当てた箸を深く押し下げる。そのまま、わずかに顔だけを斜め後ろへ向けた。冷酷な視線の先には、スマホを掲げた彰がいる。 二人の間には、少し距離があった。 彰という男のことを、雪は当然知っている。長谷川家における彼の立場も、その存在が持つ意味も、ある程度は把握していた。 だが、それが何だというのか。 そんなものを恐れるくらいなら、最初から小夜の命を脅かしたりはしていない。突き詰めれば、今の長谷川家で実質的な重みと権限を持つのは、雅臣と小夜の二人だけだ。 小夜の命を、雪はすでにこの手で握っている。 ならば、ほかに何を恐れる必要があるというのか。 雪は彰を冷たく一瞥しただけで、すぐに小夜へと視線を戻した。あくまでこのまま小夜を連れ去るつもりなのだろう。だが、彰がもう一度、静かに口を開いた。 「雪様。今日ここで無理に連れ去ったとしても、お子様の問題は根本的には解決しません。この電話は、お聞きになった方がよろしいかと」 雪は振り返らなかった。 短い沈黙のあと、ようやく口を開く。 「誰から?」 「お聞きになれば分かります」 「……もったいぶるのね」 見下すようにそう吐き捨てながらも、雪は顎で合図を送った。 「翔」 向かいの席で身を固くしていた翔は、ようやく動くことを許されたように立ち上がった。青ざめた顔で入口側へ向かい、椅子に座ったまま微動だにしない彰の手からスマホを受け取る。 それから、恐る恐る距離を取ったまま、雪にスマホを差し出した。 雪は半分ほど燃えたタバコを唇に挟んだまま、スマホを受け取った。 合金の箸で首の動脈をギリギリまで押さえつけられている小夜は、その絶体絶命の状況下にあって、すでにどうにか冷静さを取り戻していた。視界の端で、雪の持つ画面を盗み見るだけの余裕さえある。 一瞬だけ見えた画面には、まったく見覚えのない番号が並んでいた。 一体、誰なのだろう。 雪は何も言わなかった。ただスマホを耳に当て、しばらく黙って通話相手の言葉を聞いている。 やがて、細い眉がわずかに持ち上がった。どこか興味を惹かれたような、それでいてひどく嘲るような目で、小夜をちらりと見下ろす。 「……
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第502話

翔は呆然とした。 長いこと言葉も出ず、ようやく信じられないという顔で雪を見つめる。 「姉さん……星文を、いったい何だと思ってるんだ」 「何だと思っているか?昔の私が男を見る目を腐らせて、あんな薄汚い獣と交わって産み落とした、私を裏切るための忌み子よ」 雪は鼻で笑った。その口調には、気にも留めていないような軽さがある。 本当に、子は父親に似るものだ。 雪は急に煩わしそうな顔になり、目の前で呆然と立ち尽くす翔を乱暴に押しのけた。そのまま、路地の反対側の入口に停めてある車へ向かって歩き出す。 翔はしばらくして、ようやく我に返った。慌てて後を追うが、もう何を言えばいいのか分からなかった。 二人は黙ったまま歩いた。 路地を抜ける少し手前で、雪はほとんど燃え尽きかけた煙草を指に挟んだまま、ふいに足を止めた。振り返り、無表情に翔を見る。 「星文の入学手続きを、できるだけ早く済ませなさい。長谷川家の子が通っている学校に入れるの。名前は、長谷川……ええと、樹だったかしら。あの子と同じクラスにしなさい」 「駄目だ!」 翔の顔色が変わった。即座に拒絶する。 一年前、星文と樹が最後に顔を合わせたとき、星文はひどく大きな刺激を受けている。のちにその記憶は失われたとはいえ、翔には、もう一度あの二人を同じ場所に置く勇気などなかった。 長谷川家のあの子の性格を考えれば、再会して何も起きないはずがない。 だが、その事情だけは雪に知らせるわけにはいかなかった。 雪は、星文に対して十分な愛情を注いでいるとは到底言えない。それでも、ほかの誰かに傷つけられることだけは決して許さないのだ。 もし知ってしまったら、何が起きるか分からなかった。 「姉さん、星文は戻ってきたばかりだ。まずは家庭教師をつけて、家で少し見ていけばいい。学校のことは急がなくてもいいだろ。もう少し待って……」 「何を待つの?もう何歳だと思っているの。まだ学校にも行かずに、人が多い場所が怖いなんて言っているから、いつまでも良くならないのよ」 雪は苛立たしげに遮った。 「姉さん……」 「何。私に息子の育て方を教えるつもり?」 雪は氷のように冷たい目で翔を見た。 「俺はあの子の叔父だ!俺がこの六年間、あの子を育ててきたんだぞ!」 翔は腹を括って言い
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第503話

「ええ」 雪は当然のように答えた。 「だって、あの女は柏木家の人間じゃないもの」 「じゃあ、俺は?」 ――俺の気持ちはどうなるんだ。 「あんたは私の実の弟よ。だからこそ、よその人間のために今日何度も私に逆らった無礼を、こうして許してあげているの。翔、これ以上姉さんを不機嫌にさせないことね」 雪は踵を返し、路地の出口へ向かって歩き出した。 その背中は細く華奢でありながら、抜き身の刃のように鋭く、ピンと張り詰めていた。 翔は黙ってその背中を見つめ、ただ苦く笑うしかなかった。 柏木雪――この翔の実の姉なのだ。 柏木家は、最初から雪を後継者として育てていたわけではない。けれど雪は、幼い頃からあまりにも強く、有無を言わさぬ圧倒的な性格と能力で、常に翔の上に君臨していた。 何をやらせても翔より優れており、頭も切れた。成人してすぐ、会社の末端から凄まじい勢いで実績を積み上げ、一族の評価を力ずくでひっくり返したのだ。 そうして、正当な後継者としての座を実力で奪い取った。 だが、翔は雪の本質をよく知っていた。 雪が後継者の座を奪ったのは、単に「勝ちたかった」からに過ぎない。実家の会社や財産が最終的に誰のものになるかなど、本当のところ、彼女は少しも気にしていなかった。 幼い頃から、骨の髄まで負けず嫌いで、利己的で、わがまま。おまけにひどく強引で、まるで絶対的な暴君のような気質だった。 惚れた男ができれば、家柄が釣り合うかどうかなど一切気にせず、周囲の反対を力でねじ伏せて結婚した。 そして、その男が裏切ったと知るや、迷わず刃を向けたのだ。 そのうえ、法廷でも反省するどころか傍若無人な発言を繰り返し、結果として六年ものあいだ塀の中に入ることになった。 彼女が服役している間、柏木家の実権は当然のように翔の手に渡った。 けれど、出所してきたあとも、雪の性格は少しも丸くなっていなかった。 むしろ、以前よりもさらにタガが外れ、凶暴になっている。 欲しいものがあれば力ずくで奪いに行く。始末したい相手がいれば、誰に止められようと止まらない。 今日、あの電話の主が誰であれ、雪を止めたのは事実だ。だが、今日だけ止まったとして、明日はどうなる。明後日はどうなる。 雪は、一度狙った獲物をそう簡単に諦めるような人間で
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第504話

あの店での一件は、完全に絶望するにはまだ早い状況だった。 それでも、雪が一瞬でも我を失い、本当に箸を突き込んでくるのではないかという恐怖は確実にあった。小夜の心は、あのとき間違いなく限界まで張り詰めていた。 実際、あと少しで歯を食いしばって要求に頷くところだったのだ。 どうあれ、一度ついて行くだけならついて行けばいい。少しでも時間を稼げれば、その間に何か逃げ道を考えられる。あの場で相手を刺激し、本当に血が飛ぶ事態になるよりはよほどましだと判断したからだ。 正気を失っている相手に、冷静な駆け引きなど期待できない。 それなのに、あの狂気に満ちた雪の行動を完全に止めてみせた人間がいた。 いったいどれほどの力を持つ人物なのか。会ってお礼を言いたいと思うのは当然の理屈だった。 それに…… 電話を受けたとき、雪が自分を見下ろしたあの一瞥が、どうにも頭に引っかかっている。ひどく奇妙な目だった。あの得体の知れない胸騒ぎが、またじわじわと心の奥から浮かび上がってくる。 聞かずにはいられなかった。 運転席の彰は前方を見たまま、表情を少しも変えない。声もいつも通り平坦だった。 「柏木家の目上の方に、少し取り成していただいただけです」 柏木家の目上の人? 小夜は簡単には信じられなかった。「どうして、その方がわざわざ私のために動くの?」 彰は淡々と説明した。「雪様がこの件でまた問題を起こせば、柏木家としても警察に説明がつきません。家の評判にも関わりますし、翔様にも影響が出ます。特に、今後の縁談などには」 縁談?家の評判? 言葉だけを聞けば、いかにももっともらしい。小夜も一瞬、納得しかけた。 だが、もし本当に柏木家の目上の人間が「騒ぎを止めるために警告しただけ」なら、雪が電話を受けたときに見せた、あの興味深げで嘲るような奇妙な視線はどう説明するのか。 それに、あの雪が、本当にそんな素直に目上の言葉を聞き入れる人間なのだろうか。 小夜には記憶がある。 雪の夫殺しの件については、以前、親友の芽衣から聞いたことがあった。柏木家は当時、精神面の問題や莫大な示談金を使って、どうにか彼女の罪を軽くしようと奔走していたらしい。ところが雪本人が法廷で暴言を吐き捨て、結果として自ら重罪を招き、六年も塀の中に入ることになったの
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第505話

次の瞬間、小夜は気まずさから思わず足を止めた。 スマホのライトが照らし出した先では、数人の柄の悪い男たちが地面に倒れ込み、苦痛に呻いていた。小夜の声を聞きつけると、男たちは悪態をつきながらよろよろと起き上がり、拳を握りしめてこちらへ向かってこようとする。 ――十秒後。 地面には、男たちが再び無様に転がっていた。 小夜はそのうちの一人に問い詰める。 「さっきあなたたちが引きずり込んだ人はどこへ行ったの?一体何をしたの?」 「何をしたって、見りゃ分かんだろ!こっちが一方的にやられ……」 男は怒鳴り散らそうとしたが、小夜の隣に立つ無表情な彰へ視線を向けた途端、顔を引きつらせて口をつぐんだ。すっかり怯えたように声を落とし、途端におとなしくなる。 「俺たちは何もしてねえよ。あいつが酔っぱらって、うちの店で暴れたんだ。だから弁償の話をつけようとしただけだってのに、いきなり殴りかかってきやがって……」 事情と逃げた行き先を聞き出すと、小夜は地面に転がる男たちを跨ぎ、さらに路地の奥へと走った。 バーの裏口を通りかかったとき、視界の端にひどく見慣れた背中が映った。小夜は思わず大きな声を張り上げる。 「佑介!」 呼ばれた相手は、聞こえなかったのか、それともわざと聞こえないふりをしたのか分からない。ただ、その背中が一瞬だけビクッとこわばったかと思うと、次の瞬間には逃げるように歩調を速め、バーの人混みの中へと紛れ込んでいった。 「待って、佑介!」 小夜もすぐに後を追う。 後ろに控えていた彰は、その名前を聞いてわずかに眉をひそめた。それでも何も口出しはせず、小夜から一歩も離れずに影のようについていく。 バーの店内は、色とりどりの照明が激しく明滅し、耳をつんざくような大音量の音楽が鳴り響いていた。 小夜は前方の人影から絶対に目を離さなかった。人波をかき分け、男子トイレの前でどうにか追いつく。 さすがに女性の小夜が中へ入るわけにはいかない。小夜は彰を呼び止め、中にいる祐介を引きずり出してほしいと頼んだ。 まだ正面から顔を見たわけではない。 それでも、もう疑いようがなかった。 あの後ろ姿は間違いなく、佑介だ。 あんなに素直な子が、いったいこんな所で何をしているのか。 泥酔して喧嘩沙汰を起こしたというのか。
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第506話

「ああ、それね」 小夜は気にしていないというふうに言った。 「ちょっと頭のおかしい人に絡まれただけよ。もう大丈夫だから。それより今は、あなたの話をしているの」 「頭のおかしい人?」 佑介の瞳に、さらに深く暗い影が落ちた。 「まずはあなたのことを聞かせて。どうしてあんなにお酒を飲んで、喧嘩までしたの。最近、何か……ゴホッ、何かあったの?」 二、三言話すだけで、小夜は痛む喉をこらえきれず激しく咳き込んでしまう。 「お姉さん、無理して話さないでください」 喉が痛むことに気づき、佑介は慌てて止めた。だが、すぐにためらいがちに言葉を継ぐ。 「……でも、僕のことは、深く聞かないでくれませんか」 「どういうこと?」 小夜は不審げに眉をひそめた。 「お姉さん、聞いてください」 佑介は人知れず奥歯を噛みしめ、ようやく腹を括って打ち明けた。 「最近、少し厄介なことがあって……気持ちが荒れて、酒を飲みすぎて、あんなことになってしまいました。もう二度としないと約束します。だから、今はこれ以上何も聞かないでくれませんか」 小夜はしばらく佑介を見つめたあと、声を落として尋ねる。 「……私には、知ってはいけないことなの?」 「はい」 佑介は深くうつむいた。 「お姉さんに嘘はつきたくありません。でも、その件について自分の中で整理がついたら、必ず一番にお姉さんに話しますから……ごめんなさい、お姉さん」 「謝ることなんてないわ」 一日中ひどく沈んでいた小夜の顔に、不意に心からの笑みが浮かんだ。目元をやわらかく細め、嬉しさと心配を同時に滲ませながら、佑介の少し癖のある髪をそっと撫でる。 「言いたくないなら、無理に言わなくていいの。誰にだって、人に言いたくない秘密くらいあるわ。私にもそういう時はあるもの。分かっているわ。でも、どうしてもひとりで解決できなくなったら、必ず私のところへ来てね。できる限り力になるから」 「はい」 「ただし、これだけは先に約束して……ゴホッ。手を出さずに済むなら、絶対に暴力は使わないこと。暴力では何も解決しないし、結局は自分まで傷つける、一番割に合わないやり方だから」 佑介は小夜の手を取り、気遣うように言った。「分かりました。お姉さん、そんな喉で無理に話さないでください。まず
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第507話

通話が切れた。 寝室で、佑介はベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。 次にスマホが震えて低く唸ったとき、ようやく我に返る。反射的に通話をつなぐと、注文した品が到着したという知らせだった。 佑介は部屋を出た。小夜の寝室の前を通るときだけ足音を殺し、一階へ下りる。玄関を開け、庭を横切って門へ向かった。 だが、門の外で待っていたのは深夜の配送員ではなかった。 彰だった。 静まり返った夜の中、通り沿いの街灯がぽつぽつと淡い光を落としている。彰は届けられた紙袋を手に、門の前に立っていた。何も言わず、ただ冷ややかに佑介を見据えている。 佑介も口を開かなかった。 別邸の鉄門は半分だけ開いている。その内と外で、二人は無言のまま向かい合った。 先に沈黙を破ったのは彰だった。 彰は袋を差し出し、拒絶を許さない声で告げる。 「明日には出ていけ。もうここへ来るな」 「お姉さんがいいって言ったんだ。君には関係ない」 佑介は紙袋をひったくるように受け取るなり、音を立てて門を閉めた。これ以上、彰と一言でも言葉を交わす気はなかった。 彰は少しも意外に思わなかった。 佑介が本当に素直で手のかからない性格なら、圭介がこの数年間、あれほど頭を悩ませることもなかったはずだ。圭介がいた頃は、絶対的な力で押さえ込み、佑介が余計な真似をしないよう完全に封じ込めることができた。 だが、圭介がいなくなってまだ一年、この男は、早くもじっとしていられなくなっている。 とはいえ、せいぜい少し厄介な程度だ。 彰は少し考えたあと、部下に電話をかけた。 「何人か手配しろ。佑介様を見張れ。少しでもおかしな動きがあれば、その場で押さえ込め」 今は大事な時期だ。 この男に、またくだらない騒ぎを起こさせるわけにはいかない。 指示を終えると、彰は通り沿いに停めていた車に乗り込んだ。だが、遠くへは行かない。ほど近い隣の別邸へ車を回し、その夜はそこで待機することにした。 旦那様に請け負った以上、奥様のそばを片時も離れるわけにはいかなかった。 …… 真夜中。 届けられた紙袋を手に、佑介は浴室へ入った。酒の匂いが染みついたスポーツウェアの上下を無造作に脱ぎ捨て、鏡の前に立つ。 ゆっくりとカラーコンタクトを外すと、かすかに血走
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第508話

「お姉さん、それ……」 佑介はスプーンでチャーハンをひと口すくい、ふと顔を上げた。そこで、小夜の恨めしさに満ちた視線とまともにぶつかり、思わず苦笑する。 小夜はスマホに文字を打ち込み、無言のまま画面を佑介に向けた。 【食べていいよ。私は匂いだけもらうから】 小夜はもともと食べることが好きだった。一年前、異国の古城で空腹に苦しんでからは、食事への執着がさらに強くなっている。たかが朝食を一回抜いただけだとしても、気分はまったく晴れなかった。 しかも、この喉の腫れ具合では、あと何食抜くことになるか分かったものではない。 ――あの忌々しい柏木雪め。 ――ああいう狂った人間は、私の人生からまとめて消え失せてくれればいいのに。 胸の中で怨念を膨らませていると、小夜が掲げていたスマホが突然鳴った。 画面に表示された発信者の名前を、先に目にしたのは佑介だった。チャーハンをすくっていた手が、その場でぴたりと止まる。黒い瞳の奥に、瞬く間に暗く冷たい色が沈んだ。 ――白石光。 小夜も表示された名前に気づいた。 二秒ほど考えて、ようやく思い出す。珠季が紹介してくれた、あの見合い相手だ。互いに恋愛感情はなかったが、お見合いに成功したふりをする協力関係がまとまった相手でもある。 ただ、今の小夜は声が出せない。 少し考えた末、小夜は通話を切り、すぐにメッセージを送った。 【喉の調子が悪くて、電話に出られません。すみません】 相手はとても物分かりのいい男だった。丁寧に体調を気遣う言葉をいくつか返したあと、本題である「一夢華年」という香水について知らせてきた。先生に確認したところ、あの香水は以前の約束どおり、初対面の贈り物として小夜へ渡しても構わないという。 小夜は慌てて辞退した。 あの香水は、香りだけでも十分に特別だった。しかも特殊な薔薇から作られており、背後には何か深い物語まであるように思える。そんな大切なものを、何の対価もなく受け取るのはどうしても気が引けた。 そこで、小夜はきちんとお金を払って買い取るか、別の価値あるものと交換したいと申し出た。 だが、光から返ってきた文面は、穏やかでありながら絶対に譲る気配のないものだった。 【あれは先生が作った非売品です。金銭や利益の交換にしてしまうと、その香水に込められた
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第509話

両方の会社の手配を済ませると、小夜はようやく気持ちを落ち着けた。よく着ている部屋着のニットワンピースに着替え、別邸の作業室へ向かう。 机に向かうと、イギリス王室のウェディングドレスのデザイン画に取りかかった。 依頼主は急がないと言っている。 けれど、この手のオーダーメイドのウェディングドレスは、もともと工程が複雑で、時間もかかる。油断して後回しにできる仕事ではない。何より、小夜自身がこの一件に大きな期待を寄せていた。 同じ頃。 部屋を出た佑介は、すぐに光のもとへ向かったわけではなかった。 まず学校へ行き、あれこれ用事を済ませる。週末の人混みで校内も周辺もごった返す中、佑介はその混雑に紛れるように裏門から抜け出した。 そして、待たせてあった車へ乗り込む。 車はあっという間に人波の中へ消えた。 ほどなくして、車はとあるプライベートクラブの地下駐車場へ滑り込んだ。 黒いベースボールキャップを目深にかぶり、黒い半袖のスポーツウェアに身を包んだ佑介が車から降りる。エレベーターで上階へ向かい、案内された個室へ入った。 入った瞬間、佑介は不快げに眉をひそめる。 個室の中は、あからさまな乱痴気騒ぎというほどではなかったが、決して居心地のいい場所でもなかった。 露出の多い艶やかな服を着た女。清楚でおとなしそうな女。柔らかく愛嬌のある可愛らしい女。まるで趣味の違う十数人の女性たちが、部屋いっぱいに座り込んでいる。 淡いブルーのシャツの前を大きく開けた光は、日に焼けたような肌と、くっきり割れた腹筋を惜しげもなくさらしていた。腕の中には、身体の線を強調する服を着た女を抱いている。 光はそのまま、入口で立ち止まった佑介を見て、薄く笑った。 「入ってこないのかい」 光が軽く手を振った。すると、可愛らしい雰囲気の若い女が佑介へ歩み寄り、その腕に絡みついた。甘えるような声が耳元に落ちる。 「ねえ、お兄さん。少しだけ一緒に遊んでいかない?」 問いかける形をしていながら、その手はすでに佑介を中へ引き込もうとしていた。 背後で個室のドアが閉まる。 女が佑介の膝に座ろうとし、さらにシャツのボタンへ指を伸ばした瞬間、佑介の顔がすっと冷えた。 伸びてきた手を無慈悲に払いのけ、女を押し退ける。 その氷のような視線は、向か
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第510話

腹の底には、まだどす黒い怒りの火種がくすぶっている。それでも佑介は、自分が何のためにここへ来たのかを忘れてはいなかった。深く息を吸い込んで感情を抑え、ソファに腰を下ろす。差し出された酒には一切手をつけず、タブレットだけを受け取った。 画面に表示されたのは、まさに佑介が求めていた情報だった。 小夜が昨日、どこへ行き、誰と会ったのか。青山との会話の内容。さらには雪との口論から、首に箸を突き立てられた一件まで。あまりにも詳細だ。 青山の身の程知らずな執着を嗤う余裕も、雪の常軌を逸した凶行に激怒する余裕もなかった。佑介がまず覚えたのは、背筋を冷たいものが這い上がるような異様さだった。 佑介はゆっくりと顔を上げ、氷のように鋭い目で光を見据えた。 「君たち……お姉さんを尾行して、監視しているのか」 佑介が知りたかったのは、小夜が前日に誰と接触したのかということだけだ。 それを手がかりに、誰が小夜を傷つけたのかを自らの手で探るつもりだったのだ。 だが、この資料はただの「身辺調査」の域を完全に超えている。誰と会ったかという行動履歴だけでなく、当人同士しか知り得ない会話の内容まで、一言一句細かく記録されていた。 「尾行?」 光は可笑しそうに笑って首を振った。 「そんな真似はしないよ」 「じゃあ、お姉さんのそばにスパイでも潜り込ませているのか」 佑介は疑いの目を向けた。顔を険しく沈ませ、手の中のタブレットを軽く掲げる。 「そうじゃなきゃ、どうしてお姉さんが何を話したかまで完璧に分かるんだ」 光は余裕めいた微笑みを浮かべて答えた。「それは、こちらの情報網の優秀さだよ。けれど、尾行だの、人を潜り込ませるだの、そんな物理的な干渉はしたくてもできないさ。君が一番よく分かっているはずだ。長谷川家の人間が、彼女の周りを隙間のない鉄壁のように固めている。外から手を出す余地なんてない」 佑介にも、それは痛いほど分かっていた。 一年前までは、佑介も自分の手で小夜の動向をこっそり調べることができていた。だが、圭介が海外であの一件に巻き込まれてからというもの、どれほど裏から手を尽くしても、小夜の身辺情報には一切触れられなくなったのだ。 すべてが長谷川家によって厳重に封じられ、覆い隠されている。 だからこそ、佑介は手っ取り早
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