جميع فصول : الفصل -الفصل 520

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第511話

光の顔から、笑みが消えた。「佑介。先生が君を探さなかったのは、長谷川家が君の情報を隠していたからだ。先生は、自分のたった一人の子供が外に残されていることさえ知らなかった。そもそも、長谷川家が卑劣な手で先生と君の母親を引き裂いた。君と君の母親を引き離し、君たち三人をこれほど長い歳月、ばらばらにしたんだ。二十年だよ、佑介。君は両親と再会したくないのか。一族のもとへ戻って、もう二度と離れずに暮らしたいとは思わないのか。あそこが、君の本当の家なんだ」「違う!」佑介は突然、怒鳴った。手の中のタブレットをテーブルに叩きつける。胸が大きく上下し、呼吸がどんどん乱れていく。ようやく少しだけ息を整えたあと、佑介はかすれた声で口を開いた。「ここが僕の家だ。僕は小さい頃からここで育った。僕は……」なおも言い募ろうとした佑介の瞳に、ふっと迷いが浮かぶ。ここは本当に、僕の家なのだろうか。光が笑った。「家?小さい頃に君を外へ追いやり、この何年もほとんど足を踏み入れさせなかった場所が?どこへ行っても君を警戒し、縛りつけてきた場所が?その家とやらは、君のことなんて少しも大事にしていない。君の血に流れているものも、その目も……いつまで、その偽物の仮面をかぶり続けるつもりだ。佑介、もう、自分が誰なのかさえ分からなくなっているんじゃないのか」「黙れ!」それまで必死にこらえていた佑介が、ついに爆発した。手元のタブレットを力任せに投げつける。だが、光はそれを受け流した。タブレットは床に叩きつけられ、画面に蜘蛛の巣のようなひびが走る。佑介は赤く染まった目で光を睨みつけた。喉からこぼれる声は、怒りよりも先に、泣き声を押し殺したように震えていた。「黙れ!」自分には家がある。そう怒鳴り返したかった。けれど、どうしても言葉が出てこない。家。光に反論するために、頭の中でその姿を描こうとした。けれど、何も浮かばなかった。どれほど必死に記憶を探っても、温かな光景はひとつも見つからない。そこにあるのは、冷たく、空っぽな別邸だけだった。佑介はそこで育った。二十年、ただ同じように。光の言うとおりだった。佑介は、あまりにも偽物めいた生き方をしてきた。いつも仮面をかぶり、本当の顔を誰にも見せられない。心の奥にあった、認める
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第512話

ダイニングのテーブルには大きな鍋が置かれ、中には骨付き肉の煮込みがぎっしり詰まっていた。部屋着のニットワンピースに身を包み、黒髪を無造作にまとめた小夜が、骨の出汁がたっぷりと溶け込んだスープを椀によそって飲んでいる。 小夜は眉をひそめ、いかにも痛そうに一口ずつスープをすすっていた。喉を通るたびに顔をしかめているのに、その表情はどこか満ち足りている。 ――お姉さん、やっぱり食いしん坊だ。喉が痛くて固形物は食べられなくても、スープの味だけは堪能したいんだな。 佑介は反射的にそう思った。 可愛い。 その瞬間、強張って沈んでいた佑介の表情に、少しだけ生気が戻った。佑介は無意識に、部屋の中へ一歩踏み出した。 「あ、お帰り」 小夜は佑介に気づいて思わず声を出したが、すぐに喉の痛みに顔をしかめ、「うぅっ」と情けない声を漏らして口を閉じた。それからスマホを取り上げ、素早く文字を打ち込んでホームロボットのクラウドスピーカーへ送信した。 するとリビングに、やけに張りのある電子音声が響き渡った。 【こんな時間までどこに行っていたの。骨付き肉を煮込んだから、早く食べに来なさい】 その声は隣のダイニングにもはっきり届くほど大きい。小夜は満足そうにうなずき、また文字を打ち込んだ。 【家にホームロボットがあるのを急に思い出したの。これなら私の代わりに喋ってくれるでしょ。どう?】 小夜は、自分の閃きにご満悦のようだ。 佑介が戸口のそばに立ったまま動かないのを見ると、小夜はさらに楽しげに文字を送った。抑揚のない電子音声が、またリビングに響く。 【早く食べに来なさい。まさか外で済ませてきたんじゃないでしょうね?】 「食べてません」 佑介はようやく我に返り、反射的に答えた。 【なら、早くおいで】 小夜は嬉しそうに文字を打ち続けた。 【午後に少し仕事をしていたら、固形物は無理でもスープなら飲めるって気づいたの。それで、あなたがこの前人と喧嘩したことも思い出して、骨にひびでも入っていたら大変だと思って。こういう時は、栄養のあるものを食べたほうがいいでしょ。ほら、食べて。このお鍋ぜんぶ、あなたの分だから】 自分の代わりに喋ってくれる「口」を見つけた途端、小夜のおしゃべりは一気に止まらなくなった。 佑介は肉のしっかりつい
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第513話

それに、佑介の生まれについて、小夜にも思い当たる節がないわけではなかった。何か確固たる証拠を掴んだわけではないが、疑念がまったくないと言えば嘘になる。 とはいえ、まだ何も確かなことはない。 それに佑介の顔立ちには、異国の血を感じさせるような特徴が少しも見当たらなかった。だから小夜は、その疑念を胸の奥底に封じ込めておくだけにしていた。 けれど、生まれに本当に秘密があるかどうかはさておき、今の佳乃に、自分には子供が二人いると突きつけるのはあまりにも危険すぎる。その衝撃は、きっと並大抵では済まない。 そんな不安定な状態で、どうして二人を会わせられるだろうか。 小夜はすぐに答えられず、しばらく黙り込んだ。 「お姉さん、母さんの具合は……かなり悪いんですよね?」 佑介は小夜の肩から顔を上げた。その声は驚くほど静かだった。ただ、頬に残った涙の跡だけが、さっき彼がどれほど取り乱し、泣きじゃくったかを物語っている。 ここまで来ると、もう誤魔化しても仕方がない。小夜は小さくうなずき、どうにか言葉を選んで口を開いた。 「今は、少し……記憶が混乱しているの」 会ったところで、意味はないかもしれない。 むしろ、祐介を余計に傷つける結果になるだけだ。 「それでも、一度だけでいいから会いたいんです。お姉さん、僕はもうずっと、母さんの顔を見ていません」 佑介の気持ちは揺るがなかった。 むしろ、佳乃の病状が重いと知ったことで、会いたいという思いはいっそう切実なものになっているようだった。 以前は、年末年始や何かの行事の折には、佑介も長谷川本家へ呼ばれ、佳乃と顔を合わせることができた。たとえほとんど言葉を交わせなくても、同じ空間にいられるだけで彼の支えになった。佑介はいつも、その日を心のどこかで待ちわびていた。 けれど、この一年。いや、正確にはここ二年近く、佑介は本家の敷居をまたぐことすら許されていない。 行事の日が近づくたび、本家のあの父親か、本家の執事から冷ややかな電話が入る。 来なくていい。ただそれだけを、事務的に告げられるだけだった。 佳乃に会うことなど、到底許されるはずもない。 長谷川家が許可しなければ、佑介は佳乃に一歩近づくことすらできないのだ。 佑介には、自分が一体何を間違えたのか分からなかった。
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第514話

小夜は以前から、佳乃をずっと家に閉じ込めたままでは気が滅入ってしまうのではないかと案じていた。だから、ときどき外へ連れ出して気晴らしをさせたいと考えたこともあった。 けれど、雅臣の監視の目があまりにも厳しく、佳乃を連れ出すことなど到底できなかった。その考えは、結局一度も実現しないままである。 そして今、小夜は改めてその計画を実行に移そうとしていた。 佑介を佳乃に直接近づけるわけにはいかない。けれど、遠くから一目でいいから顔を見たいという佑介の悲痛な願いを叶えるなら、本家の中では絶対に無理だ。どうしても外へ連れ出す必要がある。 それでも雅臣が頑なに首を縦に振らないのであれば、小夜にもどうしようもない。 今できるのは、とにかく試してみることだけだった。 小夜はテーブルの上の薬瓶を片付けると、二階の作業室へ戻った。デザイン画の続きを描き始める前に、光へメッセージを送り、会う約束を取り付ける。 ちょうど彼に香水を取ってもらうつもりでもあった。 返事を受け取ってから、小夜はようやく気持ちを落ち着け、ペンタブレットに向かった。 すっかり夜の帳が下りる頃、画面にはウェディングドレスの全体像が描き上がっていた。全体のシルエットは西洋風をベースにしているが、細部にはこちらの国の古典的な意匠をいくつも忍ばせている。 完成品には、刺繍もふんだんにあしらう予定だった。 それは依頼主からの強い希望でもある。相手は遠い異国の王室の人物だが、こちらの伝統的な刺繍の趣をひどく気に入っているらしい。それも、小夜がこの依頼を引き受けた理由の一つだった。 小夜自身、もともとそういった伝統的な意匠を扱うのがいちばん好きなのだ。 初稿の方向性が決まると、小夜はすぐに依頼主へメッセージを送った。細部に込めた意味合いも、わざわざ相手の国の言語で注釈を添えて丁寧に説明する。 送信を終えて、小夜はようやくどっと疲れを感じた。 ふとパソコンの時計を見ると、もう夜の十時を過ぎている。時差を考えれば、相手の国はおそらく明け方の三時か四時だろう。向こうはすでに眠っている可能性が高い。返信を急いで待つ必要はない。 そう思ってスマホを机に置こうとした瞬間、端末が小さく震えた。 こんな時間に返信が来るなんて…… 小夜は少し驚きながら、スマホを手に取った。
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第515話

小夜は、灯りの下で真珠のような艶やかな光を放つウェディングドレスをしばらく眺めた。 認めたくなくても、珠季の技術はやはり頭一つ抜けている。そう思いながらも、小夜は表情を変えず、ドレスを箱へ戻した。 そして、もう一度箱を閉じる。コレクションルームの明かりを消し、小夜は寝室へ戻って休んだ。 …… 寝るのが遅かったうえ、最近は会社のことで慌ただしくする必要もない。小夜は珍しく、遅くまでベッドの中でまどろんでいた。 けれど、早朝に鳴った電話の音に目を覚まされた。 まだ頭がぼんやりしたまま、通話に出る。 「ママ、週末どうして帰ってこなかったの?僕、今日は学校に行く日だよ。ママ、送ってくれないの?」 樹の元気な声が聞こえてきた。 「私……」 小夜が答えようと口を開いた途端、声がひどくかすれた。 「ママ、具合悪いの?」 樹はすぐに気づいた。 「うん、少し喉の調子が悪いの」 まだ話すのはつらいが、どうにか声は出せる。小夜は簡単に事情を説明し、この数日は送っていけないから、いつも通り栄知が手配した人に送ってもらうよう伝えた。 本当は、車で送ること自体はできなくもない。ただ、樹に首のあざを見られたら、きっとあれこれ問い詰められる。この子の性格なら、間違いなく大騒ぎになる。 だから、あざが治ってから会うほうがいい。 「……分かった」 不満そうではあったが、小夜の具合が悪いと分かると、樹はそれ以上わがままを言わなかった。 屋敷の門の前で、樹はあまり機嫌のよくない顔をしながら、ランドセルを提げて出てきた。 車に乗り込むと、運転席に座っていたのは彰だった。 樹は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐ不思議そうに首をかしげた。 「桐生おじさん、ママのそばにいなくていいの?」 彰は、以前ならいつもママの護衛としてぴったりついていたはずだ。 彰は車のエンジンをかけ、淡々と言った。「奥様はご自宅で休んでおられます。私もちょうど手が空いておりましたので、今日は私がお送りします」 樹はもちろん嬉しかった。 けれど、車が学校の門の前に着いたときだった。 車を降り、彰のそばで楽しそうに話していた樹が、突然ぴたりと黙り込んだ。 樹の視線は彰の向こうへ抜け、その背後をじっと射抜いている。瞳には、暗い影が差し
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第516話

「桐生おじさん!」 校門の前で、樹は怒りを爆発させた。 「なんで止めるの?あいつは嘘つきだよ。僕をだましたんだ!それに、ママにまで……」 樹は怒りのあまり、その先を言葉にできなくなった。 「坊ちゃま」 彰は表情ひとつ変えず、静かに言った。 「以前は、お好きになさって構わないと申し上げました。ですが、今回はいけません」 「なんで!」 樹は信じられないという顔で彰をにらみつけた。 「桐生おじさん、あいつをかばうの?」 樹の声は大きく、ほとんど叫び声だった。登校時間で、校門の前は人目が多い時間帯だ。周囲の視線が一斉にこちらへ向く。 彰は見世物になる趣味などない。怒って暴れる樹を強引に車へ連れ戻し、ドアと窓を閉め切った。 「坊ちゃま」 彰は落ち着いた声で切り出した。 「奥様はご自宅で休んでおられます。ここで騒ぎを起こして、また奥様にご心配をかけるおつもりですか」 その一言で、樹はぴたりと静かになった。 それでも樹は歯を食いしばり、悔しそうに言った。 「でも、我慢できない。あいつ、よく僕の前に出てこられたよ。前のことだって、僕はまだ許してないのに」 「焦ってはいけません」 彰は樹の柔らかな髪を撫で、淡々と言った。 「まだ少し早いかもしれませんが、学ぶにはちょうどよい機会です。坊ちゃま、嫌いな相手だからといって、必ずしも正面から怒りをぶつける必要はありません。まずは、あの子とふたたび『友達』になってみてください」 「え?」 樹は目を見開いた。 「なんで僕が!」 「手を汚さずに敵を排除する方法を学びたいとおっしゃっていたでしょう」 彰は顔色を変えない。 「直接手を下すのは下策です。相手に何かあれば、真っ先に疑われるのは坊ちゃまです。自らを不利な立場に追い込んではいけません。『君子危うきに近寄らず』です」 樹は納得できない顔をした。 「僕があいつを殴ったって、何が悪いの?桐生おじさんが隠してくれればいいじゃん。ママには分からないよ!」 樹はどうしても我慢できなかった。 彰は容赦なく言った。「私は隠しません。 あの子に手を出したら、私はすぐ奥様に報告します。それに、同じ手は二度も通じません。奥様はもう、坊ちゃまの言い分を信じたりはなさいませんよ」 彰が口
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第517話

雪に言わせれば、周りがいつも腫れ物に触るように甘やかすから、子供はますますプレッシャーに弱くなるのだ。 それなら、いっそ一度で済ませたほうがいい。 あの薄く脆い芯を、徹底的に叩き割る。そこから自分の足で這い上がれるなら、それでいい。もし立ち上がれないのなら、そこまでの器だったというだけのことだ。 そこまでなら……そこまででいい。 また別の方法を探せばいいだけだ。 そう考えると、雪は煙を吐き出し、ふっと笑った。 「私から見ると、樹くんは悪くないわ。あの年で、父親譲りの容赦のなさが少しあるもの……交換する?」 彰は目の前の女を一瞥し、くだらないとばかりにそのまま車に乗り込んだ。 車はすぐに走り去る。 雪は肩をすくめた。 数年会わないうちに、昔なじみはずいぶん冗談が通じなくなったらしい。 ただ、雪は本当に少しだけ小夜が羨ましかった。 樹は優秀で、しかも他者を蹴落とす容赦のなさも持ち合わせている。雪はああいう強い子が好きだ。 惜しいのは、母親であるあの女が、子供のそういう長所を伸ばすタイプではないことだ。あの子の本来の性格は、明らかに押さえつけられている。 若い頃の圭介ほどの非情さには、まだ届かない。 それでも、十分近いものはある。 ひるがえって、星文は、いったいいつになったら少しは見込みを見せるのだろうか。 そう考えた途端、雪の顔は陰った。不機嫌そうにタバコを揉み消した。 …… 車がしばらく走ったところで、彰は電話をかけ、スピーカーに切り替えた。 ほどなく通話がつながり、低くかすれた、耳に残る男の声が車内に流れた。 「送ったか。樹はどうだ?」 「はい」 彰は答えた。 「坊ちゃまは、試してみるとおっしゃいました」 向こうで、男が低く笑った。 「成長したな」 彰はわずかに眉をひそめた。 「旦那様、このやり方はやはり危険です。あの子が耐えられるとは限りません。万一、心が壊れでもしたら……」 「実の母親である雪が怖がっていないのに、お前が心配してどうする」 男は他人の子供の命など気にも留めていないように笑った。 「私が心配しているのは、坊ちゃまが罪悪感を抱くのではないかということです……」 「見ていればいい」 男の声は淡々としていた。 「本当に限
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第518話

樹は呆然とした。 そんなに力を入れて押し倒したわけではない。 「おい、わざと倒れただろ!僕、全然力なんて入れてないからな!」 樹は思わず一歩後ずさった。 星文は床にへたり込んだまま、うつむいて一言も発しない。その様子を見ると、樹の中にまた苛立ちがこみ上げた。 けれど、彰の言葉が頭をよぎる。 耐える。友達になる…… 樹は腹が立って仕方なかった。怒りをどうにか押し込めながら、樹は床に座り込んでいる星文の腕をつかんだ。 「おい、立てよ!」 だが、星文は動かない。 何度か引っ張られても、星文は苦しそうに小さくうめくだけだった。それ以外の声が出ないのだ。小さな顔は真っ青で、額には冷や汗がびっしりと浮いている。 樹はようやく、何かがおかしいと気づいた。 深く考えている暇はない。 樹は本能的に、床に座り込んでいる星文を力任せに引き起こした。星文は樹より一つ年上のはずなのに、樹よりもずっと軽く、ひどく華奢だった。樹は自分の力に任せ、半分肩を貸して引きずるようにして、星文を医務室へ運んでいった。 普段から喧嘩をすることが多い樹にとって、医務室の場所は目を閉じていても行けるほど通い慣れている。 医務室に着くと、知らせを聞いた担任の優奈がすぐに駆けつけてきた。 校医が星文の様子を診ている間、優奈は厳しい顔で樹に言った。 「樹くん、またお友達に手を出したの?お母さんに連絡するよ」 前に喧嘩騒ぎがあったあと、小夜は優奈に直接連絡先を渡していた。何かあれば、すぐに電話してほしいと伝えてあるのだ。 「手なんか出してない!」 樹はその場で噛みつくように言い返した。 「ちょっと押しただけだよ。力なんて入れてないのに、勝手に倒れたんだ。僕のせいじゃない!」 「……先生」 ベッドで少し落ち着いたのか、星文が弱々しい声を絞り出した。 「僕が……足に力が入らなくて、立っていられなかっただけです。樹くんが、ここまで連れてきてくれました……」 「ほらね!」 樹はすぐに声を上げた。 「本当に?」 優奈はまだ信じきれない顔をしている。なにしろ、樹は普段からあまりにも騒ぎを起こしすぎるきらいがある。 星文がこくりとうなずくと、そばにいた校医は腹部を軽く押して痛む場所を確かめ、いくつか質問した。
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第519話

さらに二日ほど養生すると、小夜の喉はようやく少しよくなった。声を出すとまだ喉の奥がむずがゆいが、少なくとも普通に話せるレベルには回復している。 首のあざはまだ完全には消えていない。けれど、ファンデーションを重ね塗りすれば隠せる程度にはなっていた。 外へ出る分には支障がない。 小夜は彰を伴い、あらかじめ用意していた贈り物を持って出かけた。 向かった先は、もちろん光との約束の場所だ。 二人とも余計なことに時間をかける性格ではない。一緒に食事をし、香水のことを少し話し、互いの贈り物を交換すると、あっさり別れた。 小夜は、一方的に物をもらいっぱなしにできる性分ではない。その香水は、香りを確かめただけでも破格の貴重品だと分かる。光には何度も断られたが、小夜は小さな贈り物を用意し、食事にも招いた。 せめてもの礼だった。 香水を受け取ると、小夜は一息つく間もなく長谷川本家へ向かった。 一つには、たしかにもう何日も佳乃に会っていなかったからだ。香水が手に入ったら持ってくると、佳乃にも約束していた。 もう一つの理由は、佑介の件である。 どうにかして、外へ連れ出せないか試してみる必要があった。 本家へ着くと、雅臣が家にいた。 ちょうどよかった。これならわざわざグループの本社ビルまで探しに行かずに済む。 佳乃を外へ連れ出して気晴らしをさせるなら、万一に備えて、まず雅臣に話を通しておかなければならない……もっとも、佳乃のほうは間違いなく外へ出たがるはずだ。 小夜がこの話を持ち出すのは、これが初めてではない。 雅臣が佳乃を目の届く家に置いておきたがる気持ちも、その過剰なほどの心配も、小夜には痛いほど分かる。けれど、このままでは佳乃の回復はどうしても遅くなる。 それに今の佳乃は、記憶が薄れていくにつれ、外へ出たいという欲求をますます強くしているのだ。 小夜はこれまでにも何度か提案したことがある。だが、そのたびに冷たく却下されてきた。 今回も、最初から大して期待はしていなかった。ところが意外にも、書斎の重厚な机の向こうに座っていた雅臣は、しばらく沈黙して考え込んだあと、ふいに同意したのだ。 「今、何と言いました?」 小夜は自分の耳を疑い、すぐには反応できなかった。 同意した。 本当に、同意したのだろうか。
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第520話

「本当?」 佳乃の潤んだ瞳が、ぱっと明るく輝いた。 「もちろん」 佳乃が嬉しそうにするのを見て、小夜も笑った。 「じゃあ今から一緒に計画を立てようか。どこへ遊びに行きたい?」 「遊園地!」 佳乃はほとんど考える間もなく答えた。 小夜は途端に困り果てた。 安全面を考えると、小夜と雅臣の考えは一致していた。外へ出るのはいい。けれど、人が多すぎる場所は避けなければならない。かといって、人けのない場所も危ない。 遊園地のように不特定多数の出入りが激しく、誰が来るか分からない場所は、当然ながら警備上もっとも難しい。 ボディーガードの配置も散漫になってしまう。 もちろん、事前に遊園地を丸ごと貸し切りにして、一般客を入れないようにすることはできる。けれど、それでは本末転倒だ。 佳乃を外へ連れ出すのは、外の空気に触れ、社会の活気や人の気配を感じさせるためでもある。 貸し切りでは意味がないのだ。 どう説得しようかと小夜が思案していた、そのときだった。 寝室のドアが開き、雅臣が入ってきた。口元には浅い笑みを浮かべている。 「いいだろう。佳乃の言う通り、遊園地へ行こう」 小夜は耳を疑い、黙り込んだ。 佳乃はもう歓声を上げている。願いを聞き入れてくれた雅臣のことまで少しはましに見えたらしく、その場で追い出そうとはしなかった。 ただ、まだ少し意地を張ったように聞く。 「何しに来たの?」 「小夜が持ってきた、君への贈り物だ」 雅臣は苦笑し、検査を終えた香水の小瓶を差し出した。 「わあ、あの香り!」 佳乃は香水を受け取り、手首の内側にひと吹きした。 ふくよかで淡い薔薇の香りが、ふわりと広がる。他の薔薇の香水とは違う、どこか特別な香りが絶妙に混じっていて、思わず深く吸い込みたくなる。 あの日、小夜から香ったものとまったく同じだった。 本当に持ってきてくれたんだ。 佳乃はたちまち嬉しくなり、小夜へ飛びついた。そのままぴったり寄り添い、すり寄るように甘える。 「ありがとう、小夜ちゃん。私、これすごく好き」 その無邪気な様子を見て、雅臣は胸が詰まるような気分になった。 このところ雅臣は、何をしても佳乃に嫌がられている。寝室を分けてからもずいぶん経つ。今の佳乃の中での自分の立場は、息
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