All Chapters of 世界で最も難解なアルゴリズム: Chapter 11 - Chapter 20

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#11 朝がつなぐもの

13時からの打ち合わせまであと5分という時、ソファで寝入っていた泉の身体がびくりと動き、マックスが驚いて飛び降り、音川は1人と1匹を撫でていた両手をパッと宙に上げた。どうやら泉のスマートウォッチが会議のアラートを発したようだ。泉は束の間もぞもぞとしていたが、急にガバっと起き上がり「音川さん!」とコーヒーテーブルに腰掛けた音川の太腿にすがるように手を置いた。「会社、間に合わないですよね?」「ここから繋げばいいよ」「すみません……」「いや、俺が起こさなかったせいだから」「そんな……寝ちゃったの僕ですし」先週までの泉のがんばりを考えれば、週が開けても疲弊していて当然だ。脳も筋肉と同じように、使いすぎると回復に時間がかかる。——それは事実だろうが、音川にとっては都合のいい言い訳でもある。泉を起こさなかったのは間違いなく音川の意図で、両の掌に等しく残っているふわりとした柔らかい感触が名残惜しい。「じゃあ、泉を寝かしつけていたマックスさんのせいということで」「あ……」初めて名を呼び捨てにされ、泉はぐいと心臓を掴まれたような気がして思わず胸を押さえた。音川にはそれが物理的な痛さに写ったようで、「5キロあるから重かっただろ」と無頓着に言う。「俺は仕事部屋から繋ぐよ。あと、カメラはOFFで」「はい、僕がここに居ることは言わないほうが……?」「今日のところは」泉は敬礼のジェスチャーで了解を表すと、床においていたバックパックから手早くノートパソコンを取り出し、音川からWiFiのパスワードを受け取る。そうしてリビングと仕事部屋に分かれ、それぞれの端末をオンライン会議に接続した。インド側では、高屋がすでに画面を共有して待機しており、挨拶もそこそこに、システムの動作検証が始まった。泉により新たに構築されたサーバー上で、アプリケーションは今まで以上の
last updateLast Updated : 2025-09-01
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#12 認めることすら許されない

泉が仕事を終えて社屋を出ると、すでに陽はとっぷり暮れていた。区切りの良いところで業務を終えるつもりがいつの間にか夢中になり、つい時間を忘れてしまっていた。できれば、明るいうちに帰宅したかったのだが——飲み屋から掃き出されてくる酔人で賑わう繁華街を、人混みの方が警戒せずに済む利点もあるか、と背後に若干注意を払いながら駅へ向かう。駅前にはちょっとした広場があり、ベンチや噴水が設置されていて、ここも待ち合わせの人々で賑わっている。広場を突っ切ると改札口だが、ふと何かが燃えているような、不快な煙臭が泉の鼻を点いた。その方角に目をやると喫煙エリアがあった。きっとマナーの悪い奴が火を消さずにタバコを放置したかだろう。タバコの煙ならまだしも、フィルターが燃える化学的な煙は我慢がならない。顔をしかめ足早に通り過ぎようとしたとき、アクリル板で仕切られた喫煙スペースの出入口に——保木部長の姿があった。正確には元部長だ。以前のような、いかにも高給取り然とした押しの強い服装ではなかったが、ギラついた顔つきは変わっていない。幸いにも、まだこちらを認識していないようで目は合っていない。しかし、ここ最近感じていた奇妙な視線が、気のせいではなかったと泉は確信した。死角になるよう駆け足でその場を離れ、駅の反対側にあるロータリーからタクシーに乗り込む。痛い出費だが、見つかって絡まれるのに比べればずっとマシだ。運転手には自宅方面にあるショッピングセンターを行き先として告げた。万が一後をつけられたとしても、人混みに紛れるチャンスがあるだろう。実家住みの泉にとって、住所を知られるのだけはなんとしても避けなければならなかった。家族に被害が及びでもしたら一大事だ。両手の掌が汗で湿る。保木は、解雇された会社がある街で、一体何をしているのか——セクハラ事件の被害者が留学のために日本を発っていることだけが、泉にとって唯一の安心材料だった。ショッピングセンターでタクシーを降りると、特に混雑しているフードコートや食品売り場を適当に歩き回り、背後を十分に確認
last updateLast Updated : 2025-09-02
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#13 じわりと滲む境界線の上で

まんじりと眠れぬ夜を過ごした泉は、朝9時になるのを待ちかねてホテルをチェックアウトした。一心に音川の顔を思い浮かべながら、北通り商店街まで早足で向かう。喫茶のドアを開けるとすぐに音川と目が合った。すっかり二人の定位置となった店内奥のテーブル席で、ソファの背に片腕を乗せ広い胸を開き、反対の手には新聞を持ったままで、泉に笑顔を向けている。毎朝、最初に目が合う瞬間は心臓がドクリと動く。それは日を追うごとに大きくなっているように思うが、今朝のそれは格段に大きかった。身体ごと跳ねるかと思うほどに心臓が跳ね上がり、一気に全身へ血液を送り出す。「音川さん!」「ん?おはよう」勢い付いている泉に対して音川は普段よりゆっくりと発声し、それに合わせてほほえみも次第に強くした。「早起きしたのか。偉いぞ」泉が座ってまもなく、「おすそ分け」と喫茶のママがテーブルにメロンが入ったガラスの器を置いた。よく熟れてつやつやと輝いている。今朝は、そんなことでも泣きそうになるほど嬉しい。泉は早速フォークを手に取り、柔らかい果肉を口内で押し潰した。「俺のも食べて」音川の低く滑らかな声はとても甘美で、メロンの果汁と共に体の細胞一つ一つに染み渡っていくようだった。そして泉は、その言葉にありもしない性的な誘惑を見出してしまい、身体を熱くした。どうやら、寝不足と疲労で自律神経が狂ってしまったらしい。「……メロン、嫌いなんですか」「ん?普通、かな」音川は気もそぞろに返答した。特段好き嫌いは無いが、今は、目前の泉に見蕩れていることを気取られなければなんでもよかった。「……おいしい?」「すごく美味しいですよ。本当に食べちゃっていいんですか?」「うん」「では一つだけどうです?」そう言いながら泉は一口大に切られたメロンをフォークに刺し、音川の口元に持っていった。「おい、」「甘いですよ」唇に当たるほど間近に差し出されてい
last updateLast Updated : 2025-09-03
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#14 優しさの奥にある疼き

泉の視線は、無人となった脱衣所に縛り付けられていた。音川の裸の上半身はつややかに光るほど水々しく、そしてスウェットパンツに手をかける仕草で——鼠径部のマーメイドラインがくっきりと現れてしまい、それは泉の下半身に身震いするほどの痺れを走らせた。もし通話の呼び出しがかからず、『背中を流そうか』など体育会系のノリで(そんなことはあり得ないが)、裸の音川が浴室に入って来ていたなら、あの美しいグリーンの両目にシャンプーで目潰しをして逃げるか、一生湯船から出られなくなっていただろう。硬く反応した下半身が見られたりすれば、もう一巻の終わりだ。ハァ、と泉は全身の緊張を解くために大きくため息をついた。「冗談キツいよきみのパパ……。それにしても、どうしてあんなにかっこいいんだろ……僕も鍛えればあんなふうになれると思う?」バスタブの角に陣取っているマックスに問いながら、蛇口から水を出して手に掬って差し出すと、満足気にゴロゴロと喉を鳴らして飲み始めだ。実家の猫と同じく、風呂場の水は特別美味しく感じるらしい。泉はバスタブから出て、少しの間縁に腰掛けた。まだ数分しか浸かっていないのにもう逆上せそうだった。彼の存在は刺激が強すぎる。一方、仕事部屋にほとんど駆け込むように戻り通話を受けた音川は、デスクに両肘を付き、長身を折り曲げるようにして頭を抱えた。救いの神は課長だった。つい先程、連絡が欲しいとチャットを送っていたのが功を奏した。「助かった……」あのまま浴室にいればどうなっていたのか想像するのも怖い。「なにが?」「いや……折り返しの連絡をもらえたから」と誤魔化す音川に、「そりゃ音川君なら最優先でしょ」と課長はさもありなんとばかりに言い、本題に入った。課長が音川に相談しているプロジェクトは、東京都内にあるT製薬会社の帳票出力システムの開発だ。すでに開発は終わりプロジェクトは最終段階にある。この段階では、エンドユーザーが実際の業務に沿って作成されたシナリオに基づき
last updateLast Updated : 2025-09-04
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#15 恋人未満、夫婦以上

鼻先にふわりと柔らかな感覚がして、泉はパチリと目を開いた。見慣れない天井が、必要以上に泉を安堵させる。昨日の昼前からベッドを借りているから、居酒屋へ出かけた時間を除いてほぼ丸一日眠ったことになる。実家ですらここまでぐっすりと眠り続けた覚えがないほどだ。昨夜、音川はリビングのソファに横になると、半ば強制的に泉を寝室へ追いやった。「また腰を痛めますよ」と泉は説得を試みたが——「客間に布団を敷くのが面倒」と気怠げに言い目を閉じてしまった。「そんなの、僕が敷いて客間で寝ます」「いい。そのままベッド使って。さっきまで泉が使ってたんだから」その発言を受けて、「もしかして、僕が使った後のベッドシーツは嫌だ、とか?」と潔癖症の発言をしたが、音川は目をふっと開いて、なにか言いたげな顔をしただけで、再びすぐに目を閉じた。これ以上の返答は望めないと判断し、泉は礼を述べてリビングを後にしたのだった。夏用の薄い羽布団はとても心地がよく、いつまでもくるまっていたい誘惑にかられながら、泉は今日の予定をなんとなく想像していた。まず、シーツを洗濯してベッドを返さなければ。確かにソファは座面が広く、適度な跳ね返りもありベッドと大差なさそうではあるが、長身の音川には狭すぎる。客間にデスクとチェアも用意してもらっているのだから、そこを居候の場とさせてもらえるか聞いてみよう。もちろん光熱費は支払う前提だ。長過ぎる睡眠で固まった体をほぐすために両手を広げて伸びをすると、掛け布団から飛び出した腕にエアコンの涼風を感じる。広いベッドの真ん中に一人と一匹。当然だが、寝入った時と同じだ。泉は想像を巡らせる。——音川も、一人でこんな風に目覚め、時には寝坊をしてモーニングを食べそこねたり、マックスの柔らかい毛を皮膚に感じながら二度寝するのだろうか。それとも——時にはこのベッドを伴にする相手が——以前、速水との会話の中では恋人がいないと取れるようなことを言っていたが——あ
last updateLast Updated : 2025-09-05
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#16 新婚さんいらっしゃい

音川は性質的に統一感を好む傾向があり、百貨店で調理器具からカトラリーまですべて同じブランドで揃えることができたことに非常に満足しながら支払いを終えた。そして当然のように重量がある方の買い物袋を持ち、さらに「寄越せよ」と泉の手から食器類が入った紙袋を奪う。ホームファニシングフロアの女性店員たちはいつの間にか全員集合しており、多層構造の鍋類がいくつも入った重い紙袋を難なく持つ強靭な両腕と、紳士的な態度のコンビネーションに感嘆のため息をついていた。そんなことはつゆ知らずの音川は、合計3つの紙袋を両手にぶら下げたまま、エレベーターのある方向へ歩き出し、ふと、途中で立ち止まった。「どうしたんですか」「いや、枕のオーダーメイドなんてあるんだな、と」「ほんとですね。でも僕たち、誤解されたままだし……今、寝具の前で立ち止まるのはどうかと」先程の店員たちからまだ送られている熱い視線を察知して、泉は音川の腕を軽く引いた。「俺が良い旦那になりそうだって言っていただろ」「はい」「寝具も揃える?」「……音川さんが考える良い旦那さん像はそれですか。荷物、重いでしょ?早く降りますよ」泉は音川の腕を引っ張って寝具売り場から引き剥がし、エレベーターへと足早に向かった。まともに顔を見れず、早く人目のない所へ移動したくてしようがなかった。そんな泉に引かれるまま、階下行きのエレベーターに乗り込み、音川は不思議と、眼の前の薄い膜が切り開かれるような、暗い部屋でカーテンが開けられたような、明るい心地よさを感じていた。これまで幾度か結婚式に出席してきたが、『喜ばしいイベント』であることは理解するものの、どこか別次元の出来事のように感じていた。若い時は自分が適齢期でないだけだと収めていたが、30に近付いてくるとそう言ってもいられず……音川は、結婚という文化制度と自分の間にある奇妙な溝について向き合ってみた結果、結婚という制度に完全に賛同できていないせいだと考え至った。たとえば言語や思想のように、自
last updateLast Updated : 2025-09-06
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#17 唇に残る喜びと後悔

音川が副業で開発しているアプリケーションは、平たく言えば、AIによるカウンセリングツールだ。英語圏であれば似たサービスが確認できるが、音川は日本人のIT従事者をメインターゲットに据えている。開発を進めるにあたり、大学時代からの友人で心療内科クリニックを運営している藤宮という男からデータ提供という形で協力を得ている。藤宮とは、ドイツ哲学のゼミで知り合った。職種に似合わず音川は哲学科の出身である。当然のように情報工学の人間だと思われがちだが、元来、根本的なところを掘り下げて論理を丁寧に積み上げていく思考をなによりも楽しむことができる音川にとって、哲学専修以外への進振りは考えられなかった。藤宮は医学科でドイツ語に触れるうちに興味を持ったとかで、教授の好意による傍聴参加という立場だったが、原書への知識は哲学科の連中に劣ることがなかった。ポーランドからの帰国子女である音川は在学中に義務課程で6年間ドイツ語を習い、ドイツ系である祖父には毎日ジュブナイル向けの哲学書や詩集を朗読させられていた。その経験から原書を読むだけでなく会話も流暢なため教授に目をつけられ、ゼミにはボランティアの語学教師役として強制参加だった。なんとなく他の学生から浮いた存在であった二人は気安く話すようになり、最も仲の良い友人となった。藤宮は、家業であるメンタルクリニックを継がなければならない立場を冷静に受け止めてはいるが、その実、若者のこころの健康について学問を続けたいという夢がある男だった。同様にして、音川がエンジニアのメンタルヘルスに興味を持ったのは、この業界に就職する前だ。10代の頃、音川は若さが持つ情熱をすべてプログラミングに注ぎ混み——目の前のモニターに映し出されているソースコードの前面に、うっすらとした塔らしき何かを見たのだ。それはとても奇妙な映像で、前面のようにも背面のようにも見え、モニターと自分との空間にある立体物にも見えた。ただ確かに言えることは、音川にとってその光景は『事実』だった。マシンと自分の精神の狭間にあるその塔は、二者の絶妙な共鳴によって現れ、塔立の状態を保つことができていた。それが音川に、細い線で区切られてい
last updateLast Updated : 2025-09-07
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# 18 しらないふりをした夜に

副業の開発において、まず泉は膨大な知識を吸収する必要がある。音川が開発したオリジナルAIの挙動や思考パターンを理解するだけでも数週間は要するだろうし、そこから派生するAIカウンセラーは患者データの数に比例して増えていくわけで…… 泉は自分が即戦力にならないことを重々理解しており、しかも、会社の仕事より遥かに挑戦することが多く、やりがいを感じずにいられない。 こんなにも胸が踊るような時間を過ごせる上に賃金を受け取るなんて都合が良すぎると主張したが、音川は「大した額じゃないし勉強にも金は掛かる」と無給にはしてくれなかった。そこで泉は、せめてもの礼として食事の用意をさせてくれと申し出た。 音川には「料理の練習台が欲しいだけだろ」と揶揄われたが、実際、自分たちで選んだ調理器具や食器だけで構成されたキッチンの使い勝手の良さは、実家とは比べ物にならない。それに、作業後すぐに解散とならず、料理をして一緒に食べて後片付けをする、という余分な時間が増えることを期待しているのは否定できない。 音川が所有するワークステーションに接続して作業を行うのだから、副業の日は必ず彼の元を訪れることになる。 泉は、現在の保護されているという環境が一時的であることを分かっていた。何としても音川との私的な繋がりを保ちつつ、仕事で成果が出せるようになるまでに他のことで役に立ちたかった——したたかな計画というよりかは、少しでもフェアな存在になることを目指したいという思いが強い。 職場において、音川と泉の関係は上司と部下であり先輩後輩。どうあってもこの関係が崩れることはない。しかしプライベートならば——社会的な差は適用外なはずだ。関係性の差を縮める機会はきっとある。その日、音川は仕事部屋に籠るかと思いきや、リビングでノートPCを開き、じっと何かを熱心に読み込んでいた。 泉も客間で自分のデスクを使い、メモを取りながらAIが記述した自身の設計書を読み進める。英語なのがやっかいだが、やり甲斐はある。 各々自分の作業に集中し、腹が減れば残り物で闇鍋的スムージーを作ってみたり、音川が手当たり次第コンビニで買ってきていたインスタント食品で済ませ、一歩も外に出ないまま日暮れとなったが、退屈とは程遠く、知識を
last updateLast Updated : 2025-09-12
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#19 きみの棘ごと抱きしめたいのに

本社の会議室で、速水は紙袋をひょいと泉に手渡した。泉は目を輝かせて「見ていいですか?」と早速デスクに袋の中身を並べ始めた。「2冊もある。スパイスもたくさん……名前、高屋さんが書いてくれたんですか?」いくつもの小瓶にラベルが貼られ、スパイス名が几帳面なカタカナで書かれてあった。「おれじゃないんだ。味見しながら書いて貰った」「まさかインドで?」と速水が高屋に尋ねると、「いや、ヒューゴに」と答える高屋の頬にさっと赤みが走ったが、泉は先輩二人からのインド土産に夢中で気が付かなかった。色とりどりの小瓶を手にとっては目の前に掲げて、瞳を輝かせている様子に、「料理というよりまるで薬剤師だな」と音川にからかわれながら。 それから土産話が始まり、最初はあちらのベンダーの様子や内情など仕事にまつわる話だったが、そのうちに雑談になり、高屋の口説かれ話へと流れていった。 「シラフで聞いてらんねえ」と大笑いの音川を、「次、インドに呼び出されたら音川さんたちに行ってもらうからね」と高屋が目を光らせた。「うそだろ」戦々恐々の様子の音川を指差し、「おれより絶対にモテる」と高屋が更に脅す。「それはヤバいな」と速水が口を挟んだ。「こいつ、来るもの拒まず去る者追わずでさ、音川が歩いた後にはペンペン草一本も残らないと言われている。次は音川が原因でボイコットが起こるぞ」「そんなに!?」と高屋が大げさに反応すると、「信じるなよ」と音川は泉に鋭く忠告した。音川にまつわるコッチ系の噂は、こうして速水によって作られてきたのだ。「あっ、泉くんだけ?おれは信じていいの?」そう目ざとくつっこむ高屋を音川は「どのみち、高屋さんは騙されないだろ」と一瞥して、速水が調達してきたレシピ本を手に取る。「僕は騙されやすいってことですか?」「信憑性があると思わない?なんせ、音川伝説は事実を少し脚色しただけだからね」と速水が泉に釘をさすが、「事実無根だよ」と音川は更に食い下がる。「なんだよ、いつもなら笑って流すくせに」「教育係であるからには信頼度を上げておきたい」泉は本人や速水と交流する
last updateLast Updated : 2025-09-12
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#20 この夜に、きみと

音川は自宅マンションのエントランスでカードキーを取り出そうとして、泉に渡したんだったと思い出した。 スマートフォンのアプリでも解錠できるが、わざわざ起動してパスワードを入力するのが面倒で、普段から物理的なカードキーを持ち歩いている。そのあたりアナログだが、エントランスと部屋の玄関ドアとで2度起動して2度パスワードを入れなければならないため面倒が先に立つ。室内に泉が居るはずだが、オートロックの呼出を押したところで応えるとは思えなかった。 そうして部屋まで戻ると、「おかえりなさい!」とマックスを抱いた泉が小走りで玄関までやってくる。その明るい笑顔とはずんだ声は、音川の帰宅を待ちわびていたことをありありと表していた。 辛い状況にあるはずなのに、いつも絶えない笑顔。(俺を信用して頼ってくれているはずだが……理由や動機はまだ話してはもらえない……)速水に胸中を告げたことにより、音川は嫌でも自分の想いを自覚させられた。気持ちが加速したかのように胸が燃える。 表面上の静けさからは想像もつかないだろうが、音川は狂おしいほどに泉の心の奥に触れたかった。ただの上司としてでなく——しかし今の社会的な関係性を保ったままで、それを叶える方法が分からない。 音川は自分が自嘲していることに気が付かないまま、「ただいま」と泉を見つめた。 束の間、泉は呆けたように突っ立って、「お、おつかれさまです」と猫脱走防止柵を中から開ける。「意外と早かったんですね。今、買い出しに行こうかと」「何か作ってくれるつもりだった?」「はい、手持ち無沙汰だったので……」「そりゃ嬉しいが、そんなに気を遣わないでいいよ。出前にしようぜ、俺もう腹減ってるけど、泉は?」音川は仕事部屋から宅配メニューが入ったクリアファイルごと持ち出してきて渡し「俺のも頼んどいて」と告げると浴室に消えた。 速水に指摘されたような怒りや暗さ、それに己の内側から生じる黒い欲望をまだ纏っているかもしれず、それを泉が居る場所に持ち込むのが我慢ならなかった。早く気分を洗い流して、マックスと三人で穏やかな夕餉のひとときを過ごしたい。「スムージーで
last updateLast Updated : 2025-09-12
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