Mag-log in副業の開発において、まず泉は膨大な知識を吸収する必要がある。音川が開発したオリジナルAIの挙動や思考パターンを理解するだけでも数週間は要するだろうし、そこから派生するAIカウンセラーは患者データの数に比例して増えていくわけで……
泉は自分が即戦力にならないことを重々理解しており、しかも、会社の仕事より遥かに挑戦することが多く、やりがいを感じずにいられない。 こんなにも胸が踊るような時間を過ごせる上に賃金を受け取るなんて都合が良すぎると主張したが、音川は「大した額じゃないし勉強にも金は掛かる」と無給にはしてくれなかった。そこで泉は、せめてもの礼として食事の用意をさせてくれと申し出た。
音川には「料理の練習台が欲しいだけだろ」と揶揄われたが、実際、自分たちで選んだ調理器具や食器だけで構成されたキッチンの使い勝手の良さは、実家とは比べ物にならない。それに、作業後すぐに解散とならず、料理をして一緒に食べて後片付けをする、という余分な時間が増えることを期待しているのは否定できない。 音川が所有するワークステーションに接続して作業を行うのだから、副業の日は必ず彼の元を訪れることになる。 泉は、現在の保護されているという環境が一時的であることを分かっていた。何としても音川との私的な繋がりを保ちつつ、仕事で成果が出せるようになるまでに他のことで役に立ちたかった——したたかな計画というよりかは、少しでもフェアな存在になることを目指したいという思いが強い。 職場において、音川と泉の関係は上司と部下であり先輩後輩。どうあってもこの関係が崩れることはない。しかしプライベートならば——社会的な差は適用外なはずだ。関係性の差を縮める機会はきっとある。その日、音川は仕事部屋に籠るかと思いきや、リビングでノートPCを開き、じっと何かを熱心に読み込んでいた。
泉も客間で自分のデスクを使い、メモを取りながらAIが記述した自身の設計書を読み進める。英語なのがやっかいだが、やり甲斐はある。 各々自分の作業に集中し、腹が減れば残り物で闇鍋的スムージーを作ってみたり、音川が手当たり次第コンビニで買ってきていたインスタント食品で済ませ、一歩も外に出ないまま日暮れとなったが、退屈とは程遠く、知識を出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m
音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過
部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。「……どなたですか?」ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」泉は一瞬、言葉を失った。わざわざ届けに……?訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。「そんなに警戒しなくても」「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」「それなら……いいです。でもわざわざ……」泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」その言葉に、泉の心は小さく波立った。どう返せばいいのか、わからない。ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。イーサンはビールの蓋を開け、泉のグ
「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。「うるさい」音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」「50%だけのくせに、言うね」音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。「俺もお前も、心は100%日本人だよ」
互いを特別な存在だと認め合った夜——泉の希望により、2台のベッドが触れ合う中心で寄り添うようにして横になった。もちろん揃ってきっちりとナイトウェアを着て、だ。 大都会の中心にあるホテルだが——いや、だからこそ、夜は驚くほどに静寂で、夜風に揺らされる木々のざわめきが微かに聞こえる。 先に眠りについたのは泉で、音川はマットレスに肘をついてそちらに身体を向けた。 うっすらと微笑んでいるような寝顔を見つめていると、感情の海に沈んで行くような感覚に陥る。 長い睫毛の微かな震え、少しだけ眉間に寄せられた皺、目の下の薄い皮膚に毛細血管が微かに見え、音川はそれを親指でそっと撫で、髪に顔を寄せる。音川にとっては、泉の前で自分の全てをさらけ出した夜だった。 抱えていた苦悩を共有することで、泉への愛着が一層強まり——それは所有欲にも似た感情で、音川を戸惑わせる。 保木の問題では、自分に守らせて欲しい、と願っていた。 今では、どの状況下においても——どこにいても、他の誰でもなく自分だけが泉の守護者でありたい——と思う。 その許可を、音川は切実に望んでいた。それでも、感情や欲望だけで進められない大人の事情がある。 今、突っ走ればいずれ——罪悪感や背徳感で押しつぶされてしまうだろう。 現在の上司と部下という関係は、どう転んでも変えられない—— お互いの精神衛生上いかなるネガティブな要素も抱えたくなく、また、相手に抱えさせるべきではないと考えていた。早朝、軽く目を覚ました音川は、自分の右腕が微動だにしないことに気がついた。首を捻ると、そこは泉によってがっちりと抱きかかえられており——しかもよりによって——手の甲が泉の中心に当たっている。 それは柔らかく主張する彼の突起を想像させるのには十分すぎた。 音川は低く唸り声をあげると、右腕は切り捨ててしまったものとして考え、無理矢理に思考の窓を閉じて二度寝についたのだった。 そして、チェックアウト後すぐに泉をマンションまで送り届けた音川は、部屋への誘いを断り、その代わりに、泉に負担のない程度で週末は地元へ
首筋をきつく吸う唇の熱さ、抱きしめられた胸の鼓動、低く囁かれた言葉。全てが竜巻のように泉を取り囲み、音川にとって自分は『特別』であると叫んでいる。泉はしばらく、その歓喜の嵐のなすがままになっていた。しかし、そこにははっきりと音川の葛藤も存在していた。泉は目を伏せ、絡められた指から伝わる熱を感じることに集中する。言葉にできないのか、したくないのか、すべきでないと思っているのか——それは唇へのキスも同じで——泉には分からなかった。自分が引いた境界線に阻まれて、音川は留まっている。それを強引に崩すのは——きっと間違っている。音川の中に、こんなにも熱い葛藤を起こさせるほど、自分という存在が大きいのだ。それだけで、もう何も要らないと思わせる。しばらく無言で、お互いの絡まる指を見つめていた。微かに音川が息を吐き、少し身じろいでまた静かに泉の額に唇を落とす。そうして二人の手がほどけ、泉は顔を上げるとはにかむように微笑む音川と目が合う。優しく濡れたグリーンの瞳。再びこめかみに唇が触れたかと思うと、音川はスッと立ちあがった。「俺はジムでも行くかな。今朝行けてないし」などと言いつつドアへ向かう。「ウェアあるんですか?」そんなことを聞きたいわけではないのに、口をついて出た。「館内で売ってるだろ」「そんな、買ってまで……?」心底不思議そうな問いかけに音川が見せた表情は、泉が釘付けになるほどに妖艶な自嘲を浮かべていた。「……体力を使い果たすまで戻ってこないから、安心してゆっくりしてて」「あ……まっ、」引き止める間もなく音川がドアの向こうへ消えた後、泉は顔のほてりを抑えるために両手を頬に当てたが、余計に熱くなるだけだった。音川の大人の男の色気は凄まじく、傍にいれば自分がどうにかなってしまっただろう。場を離れてくれたのは正解なのかもしれな