LOGIN部下に恋をするなんて、あるはずがなかった。 それなのに、彼のまっすぐな眼差しに、無防備な笑顔に、心が、身体が、抗えず揺れていく。 IT企業の技術責任者・音川は、冷静沈着にして論理的思考の持ち主。 ヨーロッパの血を引く美貌と、仕事に対する誠実さで周囲を魅了するが、社内恋愛などもってのほかの堅物。孤高の男だった。 そんな彼の理性の均衡が、一人の部下——泉によって静かに崩れていく。 屈託のない素直さと、理屈では測れない鬼才を併せ持つ稀有な存在で—— 彼の笑顔に、沈黙に、音川は揺らぐ心を止められない。
View More音川の仕事部屋にコーヒーを持って行った泉は、パソコンに向かう恋人の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、(よほど仕事が楽しくて仕方がないんだな)と理解したが、それは思い違いだった。確かに最近の音川は泉が入手した暗号データの解読に取り憑かれていたが、それはこれが、長年苦しめられてきた自アプリの不正改ざんについてのヒントがそこにあるからだけではない。 この、自分に明るい未来を与えてくれるであろうデータは、泉が身を挺して手に入れたものだからだ。 彼が、右も左も分からない環境で独り、どれほど苦心していたか……どれほど勇気のいることだったか、想像に難くない。 すべて、音川の過去の傷を慮ったためだ。 その——とっくに愛されていたのだという事実が、音川の胸を焦がす。 ゆえに、暗号化解読中の音川には常に微笑が浮かんでいた。 実際、解読作業が楽しいのは間違いない。しかし、さすがにニンマリと笑いながらでは、まるで映画に出てくるハッカーだ。泉は恋人の集中力の妨げにならぬよう、持ってきたコーヒーは自分で飲むことにして、ソファにどかりと座り出窓にカップを置いた。こうなっている時の音川の集中力は凄まじく、声をかければ返事は帰ってくるが空返事で、後で確認しても会話の内容は何も覚えていないことが多い。 泉自身にも思い当たる節があり、お互い様だから気にもならない。集中している場面であっても存在が邪魔にならない——むしろ、居てくれる方が心地が良いのは、特別なものだと泉は感じていた。 これが音川以外の人間であったなら、例え無言でその場に居るだけでも気が散ってしまうだろう。コーヒーを一口のみ、ほろ苦さに若干眉をひそめながら本棚に詰められている背表紙を眺める。どれを読もうかと選別してみるものの、結局はいつものように、ひときわ擦り切れた一冊を手に取る。 The code bookと題されたそれは音川が小学校に上がると同時に祖父から贈られたものらしく、裏表紙には著者のサインが入っていた。 初めて見た時、「こんなものを7歳から読んでたんですか」と驚きに目を見開いて音川に尋ねると、「このせいで俺は暗号世界の住人になったんだ」と自嘲気味に笑う。 泉がたまらなく好きな、少しの自虐と、照れが混ざった笑顔。あれから——音川は最高技術責任者として社に残ったが、大半の業務は泉が引き継いだ。重責を半分
寝室の扉を開いたのは泉だった。音川の手を握り、引き入れるように誘う。その遠慮がちながらも情熱の籠もった眼差しに音川の胸は激しく高鳴り、泉に触れる瞬間を待ち望む思いが募ってゆく。音川の手によって静かにベッドに横たえられると、親指が優しく頬を撫でる。腰を引き寄せられ、身体のラインがぴたりと重なった瞬間、泉は音川の男の熱さと硬さにはっと息を呑んだ。期待と不安が熱となり体の芯へと広がってゆく。「この時を、どれほど待ったか……」音川が呟く。その唇はゆっくりとじらすように泉の素肌を滑り降りてゆく。「……ん……どれ、くらい……?」「何ヶ月も。きみを押し倒して自分のものにしたいという衝動と、何ヶ月も闘い続けてきたんだ」音川は上体を起こしてわずかに頭を傾け、泉の頬に鼻先をすべらせながら、耳元でそっと息を吐いた。その声は低くかすれ、抑えきれない欲を滲ませている。泉の背筋をぞくりと震えが走った。胸の奥で、言葉にならない想いが膨れ上がる。音川はその一瞬の隙を見逃さず、唇で泉の首筋をゆっくりとなぞり始めた。肌に触れたその熱が、瞬く間に泉の全身を灼く。泉の指は無意識に音川の黒髪に絡みついた。髪を掻き抱くその感触に、音川もまた反応し、僅かに身を震わせる。泉の指先に呼応するように、欲望が頭をもたげる。音川の唇が泉の首の敏感な一点を探り当て、吸い上げる。泉の口から、抗いきれない吐息が漏れる——その響きは、寝室の空気を熱く揺らした。「おと、かわさん……」音川は頭を少し引き、泉を見下ろした。その瞳は欲望に濡れ、普段の冷静さはどこにもない。乱れた髪、わずかに開いた唇、荒く上下する胸——今にも理性が崩れそうなその姿はあまりに妖しく——泉は自分の中心が堅く痛いほどに張り詰めるのを感じた。彼をこうしたのは、自分だ—
泉の役職が正式に発表されたその日、祝杯を上げるために2人はヒューゴの店を訪れた。ちょうどバイトに入っていた高屋が「後でおれも合流していい?」とニコニコ顔でおしぼりとメニューを差し出してくる。もちろん大歓迎だった。「おすすめ、ある?」「ブルーチーズが好きならキツいのがあるよ。あと、ガトーショコラが1切れ」音川はどちらも即注文した。飲み物はお任せだ。高屋はすぐに踵を返してカウンターに戻り、ヒューゴが穏やかに微笑みながらオーダーを聞いている。軽く頷きながら、高屋に向けている眼差しは蕩けそうなほどに柔らかい。すぐに最初のカクテルが届き、泉と軽く乾杯する。「これからは、公私共々よろしく」グラスを置いて、ひととき見つめ合った。「なあ泉。ここで高屋さんに話してもいいかな」ピタリと泉の手が止まった。「僕らのことですか?」「うん」「音川さんが気にしなければ……」「きみはどうなの?」「僕は、どこでだって拡声器で言って回りたいくらいですよ」めずらしく泉が口角を上げてニヤリと笑ってみせ、音川に悪戯心が芽生える。「お兄さーん。マイクある?」高屋がいるカウンターの方に向けて音川が声を上げた。「ねぇよ!スナックと一緒にすんな」突然、ヒューゴがシェーカーを振りながら荒っぽく返答したものだから、周りの客は一瞬ギョッとしてから笑いに湧いて、高屋は床に座り込んで肩を揺らしていた。後で聞いた話では、普段は接客アンドロイドを思わせるほど礼儀正しい彼が初めて粗野な言葉遣いをしたものだから、常連たちが度肝を抜かれたらしい。23時を過ぎると客が引けて、店じまいを終えた高屋が音川たちのテーブルに合流する。高屋は音川と泉を横並びに座り直させ、そして自分専用の銅製のカップを持ってきて乙川の向かいに座った。ヒューゴはカウンターでドリンクを用意しているようだった。客が捌けた店内で、シェーカーを振る音が小気味よく響く。それぞれ異なる行
それは、泉の出向が正式に終了した日だった。東京から音川の元へ『帰宅』した泉は、音川同様に取りそこねていた夏季休暇を申請し、その期間に引越しを計画した。ついでに数ヶ月も不在にしていた実家に戻り、幾日かを親孝行に費やすことにした。音川はそんな泉に実家まで送ると申し出ておいて、まるでついでのように1通の封筒を差し出した。そこに「退職願」と書かれているのを見て、泉は青ざめた。「……どうして……」「理由は、個人的事情による退職。俺は、上司であり、管理職であり、君より年上だ。道理は明白だろう?君には、事後報告のほうがよかったかもしれないが……こういうことは、けじめとして、きちんと伝えるべきだと思った」音川の声は至極冷静で、当然のことのように述べる。反対に泉は震えそうになるのを押し殺しながら、両の拳を握りしめた。「でも、交際が社内規定に反するわけじゃない。上層部に言われたんですか? 」「いや。誰にも咎められていない。俺の倫理の問題だ。――俺は君の才能に惚れ込み、次のリーダーとして名指しした。その決断に私情は一切無いと言い切れる。しかし、恋愛関係にあることが知れれば、職務上の優遇や贔屓があったのではと誤解されてしまうかもしれない。そうなれば、きみの努力や才能が歪めて見られる。それだけはどうしても避けたいんだ」「そうやって、全部自分だけで決めて、自分だけ傷ついて、何でも一人で完結させようとするの、やめてくださいよ……」音川は伏せていた目を見開いた。思わぬ反発だった。自分が去ることは、どう考えても理にかなっているはずだ。泉の瞳は堅い意思を宿し、音川を静かに見つめていた。「僕たちが付き合ってることは、たしかに簡単なことじゃない。でも、だからってどちらかが犠牲になるのが当然なんて、おかしいです。――馬鹿げている」「……犠牲、というつもりはなかった。ただ……きみを守りたい。それだけだ」「守るなら、
社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるは
音川の役職は最高技術責任者だ。コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かる
音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。
音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。泉は元々デザイン部の有望な若手だった。デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を