世界で最も難解なアルゴリズム

世界で最も難解なアルゴリズム

last updateLast Updated : 2025-11-14
By:  ストロングベリーUpdated just now
Language: Japanese
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部下に恋をするなんて、あるはずがなかった。 それなのに、彼のまっすぐな眼差しに、無防備な笑顔に、心が、身体が、抗えず揺れていく。 IT企業の技術責任者・音川は、冷静沈着にして論理的思考の持ち主。 ヨーロッパの血を引く美貌と、仕事に対する誠実さで周囲を魅了するが、社内恋愛などもってのほかの堅物。孤高の男だった。 そんな彼の理性の均衡が、一人の部下——泉によって静かに崩れていく。 屈託のない素直さと、理屈では測れない鬼才を併せ持つ稀有な存在で—— 彼の笑顔に、沈黙に、音川は揺らぐ心を止められない。

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Chapter 1

#1 季節外れの新人

『音川君、今ちょっといい?』

ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。

在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。

『はい、大丈夫です』

チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。

「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。

「おつかれっす」

「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」

「ああ、あの揉めてるやつ」

「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」

T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。

最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。

騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。

「えー、めんどくさい」

「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。

営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。

ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。

「で、やれそう?」

「いけるっちゃいける」

「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」

「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」

「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」

課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。

「ああ、彼か」

「知ってるの?」

「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」

開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時をまるで入社日のように扱う風潮があるため新人と呼ばれるが、確か入社2、3年目のはずだ。

「じゃあ、本社の速水君と連絡取って、できるだけ早く入ってほしい。報告があれば定例ミーティングでいいから。じゃ、お願いしまーす」

課長が軽快にそう告げて通話を切ったあと、音川はすぐに速水にチャットを送った。

『やっぱり俺が入ることになった』

『助かる。今日の17時から打ち合わせできる?日本時間で』

インドと日本は3時間半の時差だから現地はまだ早朝だろうに、速水からは即レスがあった。

音川は『OK』とだけ返信し、メールアプリの検索欄にT社の名前を入れた。案件について詳しく探るには、CCで届いている関連メールの全てを最初から辿るしかない。

ついでにチャットアプリのユーザーリストから、課長が名指しした、泉という新人を探し出して『17時から空いてる?』とチャットを送る。

『はい!空いています!』

新人君からは、すぐに文字だけでも伝わる元気な返答があった。

インドとの通話が繋がったのは17時を5分ほど過ぎた時だった。

画面の向こうでは、デスクの中央に集音マイク、左右にはそれぞれ本社の開発担当の速水と、同じくそのプロジェクトマネージャーをしている高屋が席についていた。

「お疲れ様です。ごめんね、ちょっと機材の調子が悪くて」と高屋が開口一番に謝った。

音川が高屋の案件にアサインされるのは今回が始めてとなり、中途採用の高屋とは顔見知り程度だ。

かなり鋭い男だという噂は聞いているが、人懐こい話し方や、柔和そうな目元からはおっとりとした印象しかない。

音川が所属しているシステム開発会社と、高屋と速水が所属するコンサルタント会社は元は1つのシステム開発会社だった。

自社のアプリケーションが成功したことで業務を拡大し、開発部門を独立させて子会社化した経緯があるというだけで、内部ではお互い『本社』と『ITの人たち』と通称で呼び合い、別会社という意識は全く無かった。

社屋も同じで、フロアが異なるだけだ。

速水と音川は同期入社で、たしか年齢も同じはずだ。お互い技術者枠としての採用で、10代の早い頃から独学でプログラミングをしていたことからすぐに打ち解けた。

どちらも、ソフトウェアの仕様に神経を注力するせいか、それ以外のことにはどうも大雑把で、そういう加減の振り幅が合う。音川にとって速水は、最も信頼のおける技術者であり、また親友と呼べる存在だった。

結婚後に速水は本社に異動したため、以前ほど密に会うことはないが、それでも出社のタイミングが合えば昼飯に誘うし、飲みにも行く。

速水が本社へ移ったのは2年ほど前になる。

生粋のエンジニアである彼が管理側に行くことは社内に多少の混乱を起こしたが、最も身近にいた音川は、速水が入籍すると聞いた時にすでに予感していた。

残業を増やして収入をあげようとする人もいれば、第一線を退いて家族との時間を増やす人もいる。

速水は前者のようなバリバリのエンジニアの皮を被った後者だ。

「音川君が入ってくれるって聞いて本当に安心したよ」と高屋は気さくに言い、続けて「見かけたことはあるけど話すのは始めてだね。高屋です」と泉に笑顔を向ける。

「イズミです。どうぞよろしくお願いします!」

新人は歯切れよく名乗り、律儀にもカメラ越しに頭を下げた。

「開発の音川です。よろしく」

音川はメンバーが映し出されている画面から少しだけ目線を上げて、自分のPCモニターに取り付けているWebカメラを見た。

きちんと、相手から目が合うように。

「音川さん。どうぞよろしくお願いします!」

挨拶と共に泉の顔がカッと紅潮したのを音川は目ざとく気付く。

エンジニアであることに間違いはないが、技術責任者となった今、音川はどちらかというと管理や営業の仕事に近い。

そのため、チームメイトの体調や、ちょっとした変化には敏感なのだ。

「緊張してる?気を楽にして、今日はおじさんたちの話を聞いててよ」と音川が言うと、「はーい」と速水が返事をする。

「おまえはこっち側だろ。高屋さんはまだ20代かもしれないけど」

「おれ30」

「じゃあこっち側だ。若く見えるね。で、どう?英語は通じてる?」

「たかやんがベラベラだからいーの。俺はソースコードで通じ合ってる」

速水は自分より3つ年下の高屋のことを、プロジェクトマネージャーとしての敬意を残した上で『たかやん』と呼ぶことがある。通常はきちんと全員を「さん」付けで呼ぶが、音川がいると気が緩むのか遠慮もなにも無い。

速水は、高屋の爽やかな外見に似合わないそのバタ臭い呼称を気に入っている。

「いや、ギリギリ通じる程度だよ。本気でやんなきゃなって自覚する日々」高屋の発言は本音だったが、速水はコンプレックスに近いほど語学が不得手であり、今最も身近で恩恵を受けている立場からすれば謙遜だと捉えただろう。

「やっぱカレーばっかり食ってんの?」

音川はテンプレート通りのような質問をインド組に向けた。実際気になるところだ。

「それがさ、半分は中華料理なんだよ」

すぐに高屋が答える。

音川の雑な物言いを、高屋は全く気にもとめずに、ホテルのルームサービスがいかに美味しいかを語った。

「音川、俺と交代するか。美味いから食べに来いよ」

「遠慮しとく。面倒くさい」と音川は即答した。自宅から4駅離れただけの会社へ行くことすら面倒なのに、飛行機での出張など言語道断だ。

ITエンジニアには、こういった極度の面倒くさがりがよく見られ、音川も例外ではなかった。

より効率良く使えて、将来的に管理の手間が掛からず、稼働速度が早く、属人化しないコードが書けること。こういったことができるのは、面倒くさがりの性質がゆえだ。

作業に手間を惜しまないタイプの人間に言わせれば「ITの人は楽することばかり考えている」と言われがちだが、逆から言わせれば「なんでそんなめんどくさいこと毎回してんの?」だ。

楽するために努力するエンジニアと、非効率に耐えることを努力だと考える事務方、この溝が埋まることは決して無い。

「しかも、たかやんなんて携帯の盗難に遭ってさ」

「うわ、ご愁傷様です。スリ?」

高屋は首を振った。

「いや、ホテルの部屋。寝てる間に侵入されて。当然鍵は掛けてたけど、金庫には入れてなかったんだよね」

「酷いな。他は大丈夫だった?」

「見事に携帯だけ。常習かもしれない。おれ、すぐに南京錠とチェーンを買ったよ。マスターキーがある以上、ホテルの従業員も信用できない」

「それは気が休まらないな。いつ帰れそう?」

「あと数週間は掛かりそうなんだ。盗難届もまだ貰えていないし。かろうじて、実家には連絡できたんだけどね……他に覚えている番号が無くて」と答える高屋の表情はかなり暗い。

音川はあえて聞き返さなかったが、高屋なら当然連絡すべき親しい人間がいるだろう。

今どき、パートナーはおろか家族の携帯番号さえ記憶している方が少数だ。1ヶ月も音信不通だと下手すりゃ大事になりそうなものだし、高屋の落ち込みようはその不安からだろうと予想した。

「俺、実家の番号すらもう思い出せない」と音川が同情する。

「ま、なるようにしかなんねーよな」

そう高屋は締めくくり、「さて、やりますか」と、プロジェクトのガントチャートを表示した。

「音川君たちに、バックエンドを引き継いで欲しいと考えていて」

「サーバー周りだけでいいのか?」

「うん。こっちでインターンを採用することになってね。フロントは任せられそうなんだ。速水君が指導してくれるから」

高屋がざっとプロジェクトの概要を説明し、技術面の話は速水に引続いだ。音川は、高屋がエンジニアにとって冗長となる情報を上手く省いて説明していることを察知し、『鋭い男』と速水が言ったことを思い出した。

「わかった。そうか、納期を延ばせたんだったな。速度改善もできるかもしれない」

「さすがですなあ」と速水が褒める。

「泉くんも居ることだし」

とつぜん音川にそう言われ、「ハ、ハイ!」と泉は居住まいを正した。

その、画面越しにも分かるほど緊張した様子の泉に、音川は新鮮さを感じた。

「いい返事だな。俺にもこんな時代があったような気がする」

「いや、無かったね。おまえは最初からふてぶてしかった」と速水がツッコんだ。

高屋はそのやりとりに「想像できる」とけらけらと笑った。

本社組とIT組とで担当作業を把握したことを確認し、インドとの会議は締めくくられた。

音川は、引き続き泉に作業指示をしようと思ったが、定時を過ぎていることに気付いて取りやめた。代わりに、明日の朝10時からの会議案内を送っておく。

泉の様子からは、この仕事に対する真剣さがよく伝わってきていた。

そういう人間は、頑張りすぎる傾向があることを音川は経験から知っている。

いくら成果をあげて納期を守っても、心身を壊しては意味がない。

それに、健康より仕事を優先しなければならないようなスケジュールを立てるプロジェクトマネージャーは仕事ができない。

その点、高屋は十分に信頼できそうだった。

音川はすぐにチャットアプリから自分のステータスをオフラインに変えた。もう退勤しました、という対外的なアピールだ。これで泉も気兼ねなく退勤できるだろう。

しかし仕事を終えたわけではなかった。あちこちの共有フォルダから設計書や運用に関するドキュメントを引っ張ってきて、1つの資料に落とし込んでいく。

自分がすべきことを把握するためでもあり、泉への説明のためでもあり、また、大げさに言えば後世に引き継ぐ担当者がメンテナンスをしやすくするためにも、丁寧なドキュメントを残しておくことは重要だからだ。

最後にざっと目を通す。技術的な用語で少々難解ではあるが、内部の技術者向けであるから十分だろう。

音川は、仕上がった資料を泉にメールしておいてからPCの電源を落とした。

フルリモートワークであるから残業をし始めると際限がなくなってしまう。きちんと退勤時間を決めておくことは、作業にメリハリをつけるためにも重要だ。

また音川は副業でもアプリケーションの開発をしており、そちらへの頭の切り替えをするためにも、多少の休憩時間は必要だった。

この場合の休憩とは、行きつけの居酒屋へ夕飯を兼ねて飲みに行くことを指す。

自宅マンションから最寄り駅までは徒歩10分程度で、行きつけの店は駅前の飲み屋街に集中している。そこで焼き鳥とアルコールを少々、時には刺身や焼肉だったりもするが、大抵は蛋白質を中心とした食事を摂る。

そうしてほろ酔いの身を風にさらしながら、のんびり遠回りをして帰るのが夜の日課だった。歩いているとふいに引っかかっていたロジックがホロリとほぐれることがある。稀に見かける地域猫に目を細めていると、悩ましいバグの解決策がひらめくこともある。この少しの有酸素運動は週4日で通うパーソナルジムのトレーナーからの指示でもあった。

数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。

開始から1年足らずで手持ちの服の袖周りが窮屈になり、Yシャツのボタンが留まらなくなった。

この恵まれた体質は、音川の出生の特性が関連している。

音川は日本人の父とドイツ系ポーランド人の母を持つ。そして母方の祖先から続く大きな骨格と柔軟な筋肉の遺伝子は、半分日本人であることを周囲に悟らせないほどに、音川に強烈に受け継がれた。

今ではトレーナーから、見事なギリシャ彫刻のようだと褒められる身体になっていたが、あくまで腰痛対策から生まれた幸運な副産物であるから、音川は摂取カロリーなど面倒な計算をしない。そもそも食にあまり興味がなく、学生時代は脳にブドウ糖さえ送ればよかったためほとんどまともに食事をしておらず、ひどく痩せていた。

その上夜にしか行動しないから、吸血鬼ではないかと言われていたほどだ。

それは音川の西のものとも東のものとも分からないミステリアスな容姿の美しさと相まってのことだが——

ともかく面倒なことが苦手な性格もあり、細かいカロリー計算をしての体型維持などできるわけもないから、ついでに歩いて、腰痛にならないための筋トレを行い、あとは好きに食べる。それだけで、脂肪が薄くキレが良い身体を保っているのは、やはりDNAに組み込まれたものだろう。

その夜も熱帯夜で、いつものように焼き鳥屋で串を何本かとハイボールを数杯重ねてから散歩をしながら帰宅すると、すっかり酔いは覚めている。

何のためにアルコールを飲むのか毎度疑問に思いながらシャワーを浴び、好物のラム酒を少しグラスに注いでリビングのソファにどっかりと腰を下ろすと、ニャン、と小さく声を上げて愛猫が膝に乗ってくる。

「マックスさんも飲むかい」

猫に晩酌をさせるわけはないが、毎晩のようにそう声をかけるのが習慣になっていた。やや高台の住宅街に建つ3LDKの分譲マンションに独りと一匹。最上階であるため周囲に邪魔されることのない高さからは街の夜景と星空の輝きがぼんやりと揺れ、夜の静寂を楽しむことができる。

これ以上ない贅沢な休憩時間だ。

ラムを飲み終え、猫が膝の上から飛び降りて廊下へトコトコと歩いて行く。音川を仕事部屋へと誘うかのように。

「もうそんな時間か」

副業の時間は深夜より少し前に始まる。

あまり眠れる質ではないし、昼の仕事と異なり打ち合わせもないから真夜中は開発に最も入れ込むことができる。睡眠障害に片足を突っ込んでいるとも言えるが、まだ頭に衰えは来ていない。時間の問題かもしれないが、スポーツ選手とエンジニアは似たようなもので、能力がある内に最大限の力を注ぎ込むしかない。

それほど、今とりかかっている副業の開発は、音川にとって重要だった。

3時間ほど集中し、目にかすかな疲労を感じた頃に寝室へ向かう。仕事部屋での寝落ちは腰痛経験者としては避けなければならない。

翌朝、音川が会議通話を開始するとすでに泉は参加していて、「おはようございます」と元気に挨拶をしてくれる。

「早速だけど、送っておいた資料を一緒に見ていこうか」

「はい。ざっとですが読んでみました。いくつか質問がありますので、後ほど教えてください」

「もう読んだの?早いね。……そうか、それなら質疑応答だけで進めようか。時間も省けるし」

「承知しました。私の方で画面共有してよろしいでしょうか?」

「うん、助かるよ。あと、さ……」

「はい?」

「もっとこう、なんつーの、砕けていいよ。丁寧な扱いに俺が慣れてないっつーか。昨日のインドとの打ち合わせでも、雰囲気が分かったと思うけど」

「あ、ハイ、でも……まだ僕には難しいかもしれません」

「ああそう。まあそのうち。この部署は部長にすらタメ口だし」

「それは音川さんだけでは?」

スピーカー越しに軽く含み笑いが聞こえたような気がして、音川はニヤリとした。

「その調子だ。リモートで一度距離ができてしまうともう縮まることがなくてね。俺、絶対に出社したくないから」

「僕は当面の間は出社しています。本社の方にも会えるし、それに自宅では開発環境がまだ整っていなくて」

「そんなの全部家に送れば。課長に言っとくから」

「場所の問題があるんです。デザイン部からのMacもそのまま使ってよいとのことで、そこにPCまで置くとなると……僕まだ実家暮らしなんです」

「ああ、なるほど。子供部屋か」

「そうですが……さすがに学習机は無いですよ?」

「冗談だよ。デザイナーがそんな部屋に住んでるとは思わない。じゃあ、始めようか」

「はい。では……いまから画面共有するね?」

突然優しく語りかけられ、音川は笑いを漏らした。それは愉快というよりか、じわりと胸に温かな灯火が与えられたような、奇妙なくすぐったさからだった。

「あ、違うんです!つい、すみません!」

「なにそれ、か……」

音川は急いで言葉を飲み込んだ。

昨日の打ち合わせで見た泉のクリンとした大きな瞳が、画面の向こうで焦って白黒しているであろう様子が思い切り想像できてしまい、つい『かわいいね』なんて……自分でも到底信じられない軽率な感想を発してしまうところだった。

「いや、話しやすいように話してくれれば何でもい」

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#1 季節外れの新人
『音川君、今ちょっといい?』ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。 在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。「おつかれっす」「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」「ああ、あの揉めてるやつ」「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。 最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。 営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」「いけるっちゃいける」「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。「ああ、彼か」「知ってるの?」「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時を
last updateLast Updated : 2025-06-20
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#2 こっちを見て
音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。泉は元々デザイン部の有望な若手だった。デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を合わす程度の交流だ。リーダー格以上となれば本社を含めた会議などそれなりの交流はあるため、音川もデザイン部の課長とはよく話をする。なんせ、デザインが上がってこない限り開発もすすめられないから、本来なら二人三脚で進めるべきなのだ。それがなぜ袂を分かつかのように距離ができたのか——デザイン部部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。当初は同じオフィスだった開発部からデザイン部へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。それが当のデザイン部内部からの発出であれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。イコール、転職に優位となる。耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。独立したことで、
last updateLast Updated : 2025-08-20
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#3 心地の良い違和感
音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」「そう?」高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。「寝不足?」「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。「なにか、心配事ですか?」それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。 毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。「んだよ、てっきり……」「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」高屋がキョトンとした表情で、向
last updateLast Updated : 2025-08-22
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#4 交わる視線
音川の役職は最高技術責任者だ。コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動し
last updateLast Updated : 2025-08-23
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#5 秘めた可能性
社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるはずだ。「泉くん主導でやってくれているんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、厳しそうなら言ってね」「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込み、高屋と速水を交互に見る。「二人しかいないんだから必然だろ」と速水は辛辣に言い、高屋は「音川さんから直接指導が受けられるなんていいね」とにこやかに頷く。「それはそうですね……でも放置……いえ、自由にやらせてもらっています」泉の返答に高屋は「上手く言い換えたね」と笑い、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。「実は教えることがほとんど無いんだよ」「それは優秀だ。泉くん、本社に来ない?」ニヤリと笑う速水に「だめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるからついでだし、インドのエンジニア向けの出版物なんて日本じゃ手に入らないからな。それに奥さんにも文房具だの雑貨を頼まれてんだよなあ。どこかで買い物に出なきゃならん」「ありがとうございます。お願いします」「泉くん、料理するの?」と高屋が音川
last updateLast Updated : 2025-08-24
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#6 ロスト コントロール
「すまん、金曜日に残業なんて」音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線が——優しい。「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」「残業好きなの?変わったヤツだな」「違います。早く検証して貰いたかったので」「そうか。まあこれまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。ぱぱっと終わらせて早く帰ろう」「お急ぎですか?」「俺?いや、そういうわけじゃ……」音川としては、泉が早く帰りたいだろうと思ってのことだった。残業好きでないというのなら。「この後、ジムの予約があるとか?」「それは朝」「うわ、すごい」「すごかねぇよ。どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」「毎朝モーニングですか?」2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。「ウォーキングを兼ねてな。雨なら行かない」「面倒なんですね」「うん。ジムの日なら雨でも車で行くけどね」「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」「ほんまに?」「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」ドアの傍で立ち止まり、音川は口をあんぐりと開けた。 大阪を離れ20年ほど経った今では、実家の家族や友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じがたい。 さらに大阪弁が出るかもしれないと思えば迂闊に口を開けない。いや、別に何の問題もないのだが、またしても『らしくない』自分の行動に少し動揺しそうになり、軽く咳払
last updateLast Updated : 2025-08-26
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#7 月影に浮かぶ至高の塔
『嫌なんだよね』 これは自分に向けた発言だった。泉が身体を持たせ掛けてきた時、音川は胸がジンと湧き立ったのを自覚したが、それは飼っている猫がすり寄ってきた時に抱く庇護欲に近いもののようであり、しかし全くの別物のようでもあった。 心地よい感覚と同時に、ざわざわと不安にも似た焦り。 彼の何かが障るというのではない。自分が勝手に『そう』反応するだけで、相手に何の落ち度もないのは分かっているのだが——その理由が探し出せない。 泉については、慕ってくる(ように見える)後輩なのか、それとも『そうあってほしい』と願う姿なのか。 会話を心地よく感じるのも、社内で泉にだけプライベートな連絡先を教えたのも事実であり自覚できている。しかし問題は、彼が相手だと、考えもなしに脊髄反射の言動を行ってしまうことだ。 ——もし、あの震える拳を包み、辛そうに伏せられた視線をすくい上げていれば—— それで——どうなる?何が変わる? 行先不明の思考に不快感を感じ、頭を振って打ち消す。 正直、泉がこの場を去ってくれたのはありがたい拒否だった。 音川ができることは、これらの事実をしっかりと認識して、上司として適切な距離を保つことだ。泉が座っていた席に雑誌を置き、部屋に施錠をしてから無人の廊下に出て、中央にあるエレベーターを呼ぶ。左手が開発部、右手がデザイン部と左右できっぱり分かれた配置だ。 首筋に少しの強張りを感じて伸ばすようにひねると、休憩室の隣にある喫煙所で目線が止まる。無性にタバコが吸いたくなった。社会人になってからきっぱり止めて、1本も吸っていないというのに。 良くない傾向だ。小さく舌打ちをして、喫煙所から目線を引き剥がす。 とてもじゃないがこのまま家に直帰する気分にはなれず、しかしこんな夜に飲み屋に寄ってしまうと、またタバコの誘惑に飲まれかねない。 それなら禁煙の喫茶店でも、と会社の最寄り駅でめぼしい店がないか思い出そうとするが、すぐに喫茶店と先程の泉の悲痛な顔がリンクして脳裏を覆ってしまう。 行き先が決まらないまま、もやもやとエレベーターに乗り込み階下へのボタンを押す。このまま地中深くに潜り続けてどこにも到着し
last updateLast Updated : 2025-08-27
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#8 高屋透の災難
土曜日のコルカタは曇りで、天気予報によると今日の最高気温は33℃。高屋と速水はそれぞれホテルで一番良いランクに当たる部屋に宿泊しているが、そこは『現地では』と註釈が付く。湯は1日10分ほどしか使えず、エアコンはあるが殆ど用を成さず、毎朝寝汗で不快だ。それでも建物には風格があり、石造りの柱は触れるとひんやりとしているし、清掃は徹底的に行き届いている。ランドリーサービスはなんと全て手洗いという丁寧さだ。そしてなによりもメシがなかなかに美味い。高屋は普段より遅く起きて、部屋に英国式の朝食を運んでもらった。使い込まれた朝食用の銀食器一式が気に入って、少年のような年齢のボーイにそれを伝える。少し誇らしげにはにかむ様子が可愛らしい。朝食を終えると速水の部屋に内線を掛けて、支度ができたと伝えて部屋を出る。今日は、ホテルのシェフが市場に連れて行ってくれる予定だ。ロビーに降りてきた速水に、「助かるよ」と感謝すると、「買い物に行きたかったし、それに、俺こういうの楽しめるタイプなんだよね」とメガネの奥の理知的な目を光らせる。何か面白いことが起こるとでも思っているらしい。料理長は10時の待ち合わせにやや遅れてやってきた。速水がいるのを認めるなり、「君も行くのかい?大歓迎だよ」と満面の笑みを作って見せ、「アヴィットだ。よろしく」と握手を求めた。「ハヤミ。お邪魔じゃなければいいが」と握手を返しながらジャブを打ってみると、「人数が多い方が楽しいからね!さあ、行こう」と笑顔のままで返された。速水は笑顔を作りながら、内心では苦笑いだ。分かりやすく邪険にしてくれればまだやりようがある。これは手強い相手かもしれないと腹を括って、用意されていた車に高屋と乗り込んだ。アヴィットはハンドルを握り、時々後部座席にいる高屋たちを振り返りながら、軽く自己紹介を始めた。イギリス出身のインド系で、両親と兄弟は皆ロンドンに居ること。3〜4年間隔で各地のホテルへ異動があること。ペラペラと淀みない様子から、慣れているようにも聞こえた。「東京にも系列のホテルがあるよ」「へえ、どの辺り?」「忘れ
last updateLast Updated : 2025-08-28
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#9 ジレンマ
音川が通うパーソナルジムは、自宅最寄り駅近くの単身者向けワンルームマンションに店舗を構えている。住居としての使用は無く、中央に本格的なトレーニングマシンがどんと置かれているだけの無機質な空間だ。建物自体が駅近という立地のせいか、税理士事務所やネイルサロンなど事業者ばかりで、居住者は極少数らしい。数年前に腰痛のリハビリ目的で最初に通い始めたのは、全国に店舗がある大型のフィットネスクラブだった。重症で1ヶ月ほどまともに動くこともできなかったため、まずはスイミングから初め、足腰がまともに動くようになってからマンツーマンのトレーニングコースに乗り換えた。元来の完璧主義で音川はやると決めたことは徹底的にやる。食事指導も加えて、高負荷のトレーニングを毎日こなしていると、まるで水を得た魚のようにみるみると筋肉が育ち初めた。すぐに盛り上がった上腕二頭筋によりTシャツの袖が窮屈になり、そこから伸びる両腕は薄い脂肪が更に削られて力強い血管が浮き出している。背筋は二列の丘のように盛り上がりまっすぐに伸び、細くくびれた腰を十分に補強することができ、それだけで腰痛対策は完了と言えたが、音川自身が自分のカラダの変化に面白みを感じていた。ちょうどその頃、担当トレーナーが独立してパーソナルジムを開業するというのでそのまま引っ張られるかたちで契約した。純粋に筋トレだけをする空間でプールもシャワーも無いが、『飢えたドラキュラのよう』と言われるほど青白く細かった音川を、現在の筋骨隆々な男に作り変えた信頼は大きかった。もちろん、腰痛は再発していない。それに、完全予約制のパーソナルジムという逃げられないシステムが、音川に合っていた。ドタキャンなど絶対にできない性分で、しかもキャンセルの連絡を入れるのが面倒なのだ。そんな性格だから、仕事でも私用でもまず横槍が入る可能性が低い平日の朝一番を定常としている。ジムの後はそのままモーニングを食べに行く習慣で、無論シャワーも浴びていなければ着替えもしていない。これまで一度も考えたことがなかったそれに気が付いたのは、今まさに喫茶のドアを開けようとしている瞬間だった。しかし躊躇したのは一瞬だけで、音川はそのままドアを引いた。一度帰って
last updateLast Updated : 2025-08-29
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#10 両手に猫
音川は喫茶のドアを後ろ手でホールドしたままサングラスをかけて、アスファルトからの照り返しをブロックした。泉は律儀に「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、同じようにサングラスをかけて「ごちそうさまでした」とこれまた礼儀正しい。1人で過ごすモーニングの時間は、新聞を読んだりその日のやるべきことを整理したりと一日の始めの一時として気に入っていたが、泉との食事は不思議と、1人でいるよりも静かで落ち着く気がした。会話をしているのに、それが全く邪魔にならない。それどころか、泉の柔らかな声により静寂さが冗長しているような感覚だった。そんな時間を過ごせたのだから、礼を言いたいのは音川の方だった。「余分に乗った4駅分の価値はあったか?」泉はそのふいの問に、『10駅でもお釣りが来るほど』と勢いで言いかけたが止めた。音川と過ごせるのならどんなに遠くても出向くつもりだが、それが本音であっても大げさに聞こえてしまったら逆効果な気がした。「また来てもいいですか?」「ああ、いつでも。日曜と月曜が店の定休日だ。もし俺が不在ならツケといてよ」「それって……約束をしなくても……毎日でもいいってことですか?」「俺は社交辞令なんてできねえよ」音川は少しサングラスをずらし、泉の顔を覗き込んだ。「あそこなら副業の方も大っぴらに話せるからね」「……確かに、そうですね」「13時だったな、インドとの検証。俺は一旦家に帰るよ。さすがにこれじゃあ」自分の身体を見渡すように頭を動かす音川に、泉は「似合っていますけど」とさり気なく本音を漏らす。素晴らしいバランスの身体を世間に見せびらかせて欲しい気持ちと同時に、他人には見せたくないような矛盾した独占欲を自覚しながら。「そりゃどうも」「僕はこのまま出社します。10時過ぎてしまいますが……遅刻ですよね?」「いや、出社時間はもう、どうでもいいよ」「と言うと?」「正式にはまた話すが、とにかく、今はインドの件だ
last updateLast Updated : 2025-08-30
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