LOGIN部下に恋をするなんて、あるはずがなかった。 それなのに、彼のまっすぐな眼差しに、無防備な笑顔に、心が、身体が、抗えず揺れていく。 IT企業の技術責任者・音川は、冷静沈着にして論理的思考の持ち主。 ヨーロッパの血を引く美貌と、仕事に対する誠実さで周囲を魅了するが、社内恋愛などもってのほかの堅物。孤高の男だった。 そんな彼の理性の均衡が、一人の部下——泉によって静かに崩れていく。 屈託のない素直さと、理屈では測れない鬼才を併せ持つ稀有な存在で—— 彼の笑顔に、沈黙に、音川は揺らぐ心を止められない。
View More『音川君、今ちょっといい?』
ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。
在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』
チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。
「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。
「おつかれっす」
「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」
「ああ、あの揉めてるやつ」
「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」
T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。
最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」
「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。
営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」
「いけるっちゃいける」
「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」
「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」
「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」
課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。
「ああ、彼か」
「知ってるの?」
「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」
開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時をまるで入社日のように扱う風潮があるため新人と呼ばれるが、確か入社2、3年目のはずだ。
「じゃあ、本社の速水君と連絡取って、できるだけ早く入ってほしい。報告があれば定例ミーティングでいいから。じゃ、お願いしまーす」
課長が軽快にそう告げて通話を切ったあと、音川はすぐに速水にチャットを送った。
『やっぱり俺が入ることになった』
『助かる。今日の17時から打ち合わせできる?日本時間で』
インドと日本は3時間半の時差だから現地はまだ早朝だろうに、速水からは即レスがあった。
音川は『OK』とだけ返信し、メールアプリの検索欄にT社の名前を入れた。案件について詳しく探るには、CCで届いている関連メールの全てを最初から辿るしかない。
ついでにチャットアプリのユーザーリストから、課長が名指しした、泉という新人を探し出して『17時から空いてる?』とチャットを送る。『はい!空いています!』
新人君からは、すぐに文字だけでも伝わる元気な返答があった。
インドとの通話が繋がったのは17時を5分ほど過ぎた時だった。 画面の向こうでは、デスクの中央に集音マイク、左右にはそれぞれ本社の開発担当の速水と、同じくそのプロジェクトマネージャーをしている高屋が席についていた。「お疲れ様です。ごめんね、ちょっと機材の調子が悪くて」と高屋が開口一番に謝った。
音川が高屋の案件にアサインされるのは今回が始めてとなり、中途採用の高屋とは顔見知り程度だ。
かなり鋭い男だという噂は聞いているが、人懐こい話し方や、柔和そうな目元からはおっとりとした印象しかない。音川が所属しているシステム開発会社と、高屋と速水が所属するコンサルタント会社は元は1つのシステム開発会社だった。
自社のアプリケーションが成功したことで業務を拡大し、開発部門を独立させて子会社化した経緯があるというだけで、内部ではお互い『本社』と『ITの人たち』と通称で呼び合い、別会社という意識は全く無かった。 社屋も同じで、フロアが異なるだけだ。速水と音川は同期入社で、たしか年齢も同じはずだ。お互い技術者枠としての採用で、10代の早い頃から独学でプログラミングをしていたことからすぐに打ち解けた。
どちらも、ソフトウェアの仕様に神経を注力するせいか、それ以外のことにはどうも大雑把で、そういう加減の振り幅が合う。音川にとって速水は、最も信頼のおける技術者であり、また親友と呼べる存在だった。 結婚後に速水は本社に異動したため、以前ほど密に会うことはないが、それでも出社のタイミングが合えば昼飯に誘うし、飲みにも行く。速水が本社へ移ったのは2年ほど前になる。
生粋のエンジニアである彼が管理側に行くことは社内に多少の混乱を起こしたが、最も身近にいた音川は、速水が入籍すると聞いた時にすでに予感していた。 残業を増やして収入をあげようとする人もいれば、第一線を退いて家族との時間を増やす人もいる。 速水は前者のようなバリバリのエンジニアの皮を被った後者だ。「音川君が入ってくれるって聞いて本当に安心したよ」と高屋は気さくに言い、続けて「見かけたことはあるけど話すのは始めてだね。高屋です」と泉に笑顔を向ける。
「イズミです。どうぞよろしくお願いします!」
新人は歯切れよく名乗り、律儀にもカメラ越しに頭を下げた。
「開発の音川です。よろしく」
音川はメンバーが映し出されている画面から少しだけ目線を上げて、自分のPCモニターに取り付けているWebカメラを見た。
きちんと、相手から目が合うように。「音川さん。どうぞよろしくお願いします!」
挨拶と共に泉の顔がカッと紅潮したのを音川は目ざとく気付く。
エンジニアであることに間違いはないが、技術責任者となった今、音川はどちらかというと管理や営業の仕事に近い。 そのため、チームメイトの体調や、ちょっとした変化には敏感なのだ。「緊張してる?気を楽にして、今日はおじさんたちの話を聞いててよ」と音川が言うと、「はーい」と速水が返事をする。
「おまえはこっち側だろ。高屋さんはまだ20代かもしれないけど」
「おれ30」
「じゃあこっち側だ。若く見えるね。で、どう?英語は通じてる?」
「たかやんがベラベラだからいーの。俺はソースコードで通じ合ってる」
速水は自分より3つ年下の高屋のことを、プロジェクトマネージャーとしての敬意を残した上で『たかやん』と呼ぶことがある。通常はきちんと全員を「さん」付けで呼ぶが、音川がいると気が緩むのか遠慮もなにも無い。
速水は、高屋の爽やかな外見に似合わないそのバタ臭い呼称を気に入っている。「いや、ギリギリ通じる程度だよ。本気でやんなきゃなって自覚する日々」高屋の発言は本音だったが、速水はコンプレックスに近いほど語学が不得手であり、今最も身近で恩恵を受けている立場からすれば謙遜だと捉えただろう。
「やっぱカレーばっかり食ってんの?」
音川はテンプレート通りのような質問をインド組に向けた。実際気になるところだ。
「それがさ、半分は中華料理なんだよ」
すぐに高屋が答える。
音川の雑な物言いを、高屋は全く気にもとめずに、ホテルのルームサービスがいかに美味しいかを語った。「音川、俺と交代するか。美味いから食べに来いよ」
「遠慮しとく。面倒くさい」と音川は即答した。自宅から4駅離れただけの会社へ行くことすら面倒なのに、飛行機での出張など言語道断だ。
ITエンジニアには、こういった極度の面倒くさがりがよく見られ、音川も例外ではなかった。
より効率良く使えて、将来的に管理の手間が掛からず、稼働速度が早く、属人化しないコードが書けること。こういったことができるのは、面倒くさがりの性質がゆえだ。 作業に手間を惜しまないタイプの人間に言わせれば「ITの人は楽することばかり考えている」と言われがちだが、逆から言わせれば「なんでそんなめんどくさいこと毎回してんの?」だ。 楽するために努力するエンジニアと、非効率に耐えることを努力だと考える事務方、この溝が埋まることは決して無い。「しかも、たかやんなんて携帯の盗難に遭ってさ」
「うわ、ご愁傷様です。スリ?」
高屋は首を振った。
「いや、ホテルの部屋。寝てる間に侵入されて。当然鍵は掛けてたけど、金庫には入れてなかったんだよね」
「酷いな。他は大丈夫だった?」
「見事に携帯だけ。常習かもしれない。おれ、すぐに南京錠とチェーンを買ったよ。マスターキーがある以上、ホテルの従業員も信用できない」
「それは気が休まらないな。いつ帰れそう?」
「あと数週間は掛かりそうなんだ。盗難届もまだ貰えていないし。かろうじて、実家には連絡できたんだけどね……他に覚えている番号が無くて」と答える高屋の表情はかなり暗い。
音川はあえて聞き返さなかったが、高屋なら当然連絡すべき親しい人間がいるだろう。
今どき、パートナーはおろか家族の携帯番号さえ記憶している方が少数だ。1ヶ月も音信不通だと下手すりゃ大事になりそうなものだし、高屋の落ち込みようはその不安からだろうと予想した。「俺、実家の番号すらもう思い出せない」と音川が同情する。
「ま、なるようにしかなんねーよな」
そう高屋は締めくくり、「さて、やりますか」と、プロジェクトのガントチャートを表示した。
「音川君たちに、バックエンドを引き継いで欲しいと考えていて」
「サーバー周りだけでいいのか?」
「うん。こっちでインターンを採用することになってね。フロントは任せられそうなんだ。速水君が指導してくれるから」
高屋がざっとプロジェクトの概要を説明し、技術面の話は速水に引続いだ。音川は、高屋がエンジニアにとって冗長となる情報を上手く省いて説明していることを察知し、『鋭い男』と速水が言ったことを思い出した。
「わかった。そうか、納期を延ばせたんだったな。速度改善もできるかもしれない」
「さすがですなあ」と速水が褒める。
「泉くんも居ることだし」
とつぜん音川にそう言われ、「ハ、ハイ!」と泉は居住まいを正した。
その、画面越しにも分かるほど緊張した様子の泉に、音川は新鮮さを感じた。「いい返事だな。俺にもこんな時代があったような気がする」
「いや、無かったね。おまえは最初からふてぶてしかった」と速水がツッコんだ。
高屋はそのやりとりに「想像できる」とけらけらと笑った。
本社組とIT組とで担当作業を把握したことを確認し、インドとの会議は締めくくられた。
音川は、引き続き泉に作業指示をしようと思ったが、定時を過ぎていることに気付いて取りやめた。代わりに、明日の朝10時からの会議案内を送っておく。
泉の様子からは、この仕事に対する真剣さがよく伝わってきていた。
そういう人間は、頑張りすぎる傾向があることを音川は経験から知っている。 いくら成果をあげて納期を守っても、心身を壊しては意味がない。 それに、健康より仕事を優先しなければならないようなスケジュールを立てるプロジェクトマネージャーは仕事ができない。 その点、高屋は十分に信頼できそうだった。音川はすぐにチャットアプリから自分のステータスをオフラインに変えた。もう退勤しました、という対外的なアピールだ。これで泉も気兼ねなく退勤できるだろう。
しかし仕事を終えたわけではなかった。あちこちの共有フォルダから設計書や運用に関するドキュメントを引っ張ってきて、1つの資料に落とし込んでいく。
自分がすべきことを把握するためでもあり、泉への説明のためでもあり、また、大げさに言えば後世に引き継ぐ担当者がメンテナンスをしやすくするためにも、丁寧なドキュメントを残しておくことは重要だからだ。 最後にざっと目を通す。技術的な用語で少々難解ではあるが、内部の技術者向けであるから十分だろう。音川は、仕上がった資料を泉にメールしておいてからPCの電源を落とした。
フルリモートワークであるから残業をし始めると際限がなくなってしまう。きちんと退勤時間を決めておくことは、作業にメリハリをつけるためにも重要だ。 また音川は副業でもアプリケーションの開発をしており、そちらへの頭の切り替えをするためにも、多少の休憩時間は必要だった。 この場合の休憩とは、行きつけの居酒屋へ夕飯を兼ねて飲みに行くことを指す。 自宅マンションから最寄り駅までは徒歩10分程度で、行きつけの店は駅前の飲み屋街に集中している。そこで焼き鳥とアルコールを少々、時には刺身や焼肉だったりもするが、大抵は蛋白質を中心とした食事を摂る。 そうしてほろ酔いの身を風にさらしながら、のんびり遠回りをして帰るのが夜の日課だった。歩いているとふいに引っかかっていたロジックがホロリとほぐれることがある。稀に見かける地域猫に目を細めていると、悩ましいバグの解決策がひらめくこともある。この少しの有酸素運動は週4日で通うパーソナルジムのトレーナーからの指示でもあった。 数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。 開始から1年足らずで手持ちの服の袖周りが窮屈になり、Yシャツのボタンが留まらなくなった。 この恵まれた体質は、音川の出生の特性が関連している。 音川は日本人の父とドイツ系ポーランド人の母を持つ。そして母方の祖先から続く大きな骨格と柔軟な筋肉の遺伝子は、半分日本人であることを周囲に悟らせないほどに、音川に強烈に受け継がれた。 今ではトレーナーから、見事なギリシャ彫刻のようだと褒められる身体になっていたが、あくまで腰痛対策から生まれた幸運な副産物であるから、音川は摂取カロリーなど面倒な計算をしない。そもそも食にあまり興味がなく、学生時代は脳にブドウ糖さえ送ればよかったためほとんどまともに食事をしておらず、ひどく痩せていた。 その上夜にしか行動しないから、吸血鬼ではないかと言われていたほどだ。 それは音川の西のものとも東のものとも分からないミステリアスな容姿の美しさと相まってのことだが—— ともかく面倒なことが苦手な性格もあり、細かいカロリー計算をしての体型維持などできるわけもないから、ついでに歩いて、腰痛にならないための筋トレを行い、あとは好きに食べる。それだけで、脂肪が薄くキレが良い身体を保っているのは、やはりDNAに組み込まれたものだろう。その夜も熱帯夜で、いつものように焼き鳥屋で串を何本かとハイボールを数杯重ねてから散歩をしながら帰宅すると、すっかり酔いは覚めている。
何のためにアルコールを飲むのか毎度疑問に思いながらシャワーを浴び、好物のラム酒を少しグラスに注いでリビングのソファにどっかりと腰を下ろすと、ニャン、と小さく声を上げて愛猫が膝に乗ってくる。「マックスさんも飲むかい」
猫に晩酌をさせるわけはないが、毎晩のようにそう声をかけるのが習慣になっていた。やや高台の住宅街に建つ3LDKの分譲マンションに独りと一匹。最上階であるため周囲に邪魔されることのない高さからは街の夜景と星空の輝きがぼんやりと揺れ、夜の静寂を楽しむことができる。
これ以上ない贅沢な休憩時間だ。ラムを飲み終え、猫が膝の上から飛び降りて廊下へトコトコと歩いて行く。音川を仕事部屋へと誘うかのように。
「もうそんな時間か」
副業の時間は深夜より少し前に始まる。
あまり眠れる質ではないし、昼の仕事と異なり打ち合わせもないから真夜中は開発に最も入れ込むことができる。睡眠障害に片足を突っ込んでいるとも言えるが、まだ頭に衰えは来ていない。時間の問題かもしれないが、スポーツ選手とエンジニアは似たようなもので、能力がある内に最大限の力を注ぎ込むしかない。 それほど、今とりかかっている副業の開発は、音川にとって重要だった。 3時間ほど集中し、目にかすかな疲労を感じた頃に寝室へ向かう。仕事部屋での寝落ちは腰痛経験者としては避けなければならない。 翌朝、音川が会議通話を開始するとすでに泉は参加していて、「おはようございます」と元気に挨拶をしてくれる。「早速だけど、送っておいた資料を一緒に見ていこうか」
「はい。ざっとですが読んでみました。いくつか質問がありますので、後ほど教えてください」
「もう読んだの?早いね。……そうか、それなら質疑応答だけで進めようか。時間も省けるし」
「承知しました。私の方で画面共有してよろしいでしょうか?」
「うん、助かるよ。あと、さ……」
「はい?」
「もっとこう、なんつーの、砕けていいよ。丁寧な扱いに俺が慣れてないっつーか。昨日のインドとの打ち合わせでも、雰囲気が分かったと思うけど」
「あ、ハイ、でも……まだ僕には難しいかもしれません」
「ああそう。まあそのうち。この部署は部長にすらタメ口だし」
「それは音川さんだけでは?」
スピーカー越しに軽く含み笑いが聞こえたような気がして、音川はニヤリとした。
「その調子だ。リモートで一度距離ができてしまうともう縮まることがなくてね。俺、絶対に出社したくないから」
「僕は当面の間は出社しています。本社の方にも会えるし、それに自宅では開発環境がまだ整っていなくて」
「そんなの全部家に送れば。課長に言っとくから」
「場所の問題があるんです。デザイン部からのMacもそのまま使ってよいとのことで、そこにPCまで置くとなると……僕まだ実家暮らしなんです」
「ああ、なるほど。子供部屋か」
「そうですが……さすがに学習机は無いですよ?」
「冗談だよ。デザイナーがそんな部屋に住んでるとは思わない。じゃあ、始めようか」
「はい。では……いまから画面共有するね?」
突然優しく語りかけられ、音川は笑いを漏らした。それは愉快というよりか、じわりと胸に温かな灯火が与えられたような、奇妙なくすぐったさからだった。
「あ、違うんです!つい、すみません!」
「なにそれ、か……」
音川は急いで言葉を飲み込んだ。
昨日の打ち合わせで見た泉のクリンとした大きな瞳が、画面の向こうで焦って白黒しているであろう様子が思い切り想像できてしまい、つい『かわいいね』なんて……自分でも到底信じられない軽率な感想を発してしまうところだった。「いや、話しやすいように話してくれれば何でもい」
出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m
音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過
部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。「……どなたですか?」ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」泉は一瞬、言葉を失った。わざわざ届けに……?訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。「そんなに警戒しなくても」「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」「それなら……いいです。でもわざわざ……」泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」その言葉に、泉の心は小さく波立った。どう返せばいいのか、わからない。ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。イーサンはビールの蓋を開け、泉のグ
「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。「うるさい」音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」「50%だけのくせに、言うね」音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。「俺もお前も、心は100%日本人だよ」
互いを特別な存在だと認め合った夜——泉の希望により、2台のベッドが触れ合う中心で寄り添うようにして横になった。もちろん揃ってきっちりとナイトウェアを着て、だ。 大都会の中心にあるホテルだが——いや、だからこそ、夜は驚くほどに静寂で、夜風に揺らされる木々のざわめきが微かに聞こえる。 先に眠りについたのは泉で、音川はマットレスに肘をついてそちらに身体を向けた。 うっすらと微笑んでいるような寝顔を見つめていると、感情の海に沈んで行くような感覚に陥る。 長い睫毛の微かな震え、少しだけ眉間に寄せられた皺、目の下の薄い皮膚に毛細血管が微かに見え、音川はそれを親指でそっと撫で、髪に顔を寄せる。音川にとっては、泉の前で自分の全てをさらけ出した夜だった。 抱えていた苦悩を共有することで、泉への愛着が一層強まり——それは所有欲にも似た感情で、音川を戸惑わせる。 保木の問題では、自分に守らせて欲しい、と願っていた。 今では、どの状況下においても——どこにいても、他の誰でもなく自分だけが泉の守護者でありたい——と思う。 その許可を、音川は切実に望んでいた。それでも、感情や欲望だけで進められない大人の事情がある。 今、突っ走ればいずれ——罪悪感や背徳感で押しつぶされてしまうだろう。 現在の上司と部下という関係は、どう転んでも変えられない—— お互いの精神衛生上いかなるネガティブな要素も抱えたくなく、また、相手に抱えさせるべきではないと考えていた。早朝、軽く目を覚ました音川は、自分の右腕が微動だにしないことに気がついた。首を捻ると、そこは泉によってがっちりと抱きかかえられており——しかもよりによって——手の甲が泉の中心に当たっている。 それは柔らかく主張する彼の突起を想像させるのには十分すぎた。 音川は低く唸り声をあげると、右腕は切り捨ててしまったものとして考え、無理矢理に思考の窓を閉じて二度寝についたのだった。 そして、チェックアウト後すぐに泉をマンションまで送り届けた音川は、部屋への誘いを断り、その代わりに、泉に負担のない程度で週末は地元へ
首筋をきつく吸う唇の熱さ、抱きしめられた胸の鼓動、低く囁かれた言葉。全てが竜巻のように泉を取り囲み、音川にとって自分は『特別』であると叫んでいる。泉はしばらく、その歓喜の嵐のなすがままになっていた。しかし、そこにははっきりと音川の葛藤も存在していた。泉は目を伏せ、絡められた指から伝わる熱を感じることに集中する。言葉にできないのか、したくないのか、すべきでないと思っているのか——それは唇へのキスも同じで——泉には分からなかった。自分が引いた境界線に阻まれて、音川は留まっている。それを強引に崩すのは——きっと間違っている。音川の中に、こんなにも熱い葛藤を起こさせるほど、自分という存在が大きいのだ。それだけで、もう何も要らないと思わせる。しばらく無言で、お互いの絡まる指を見つめていた。微かに音川が息を吐き、少し身じろいでまた静かに泉の額に唇を落とす。そうして二人の手がほどけ、泉は顔を上げるとはにかむように微笑む音川と目が合う。優しく濡れたグリーンの瞳。再びこめかみに唇が触れたかと思うと、音川はスッと立ちあがった。「俺はジムでも行くかな。今朝行けてないし」などと言いつつドアへ向かう。「ウェアあるんですか?」そんなことを聞きたいわけではないのに、口をついて出た。「館内で売ってるだろ」「そんな、買ってまで……?」心底不思議そうな問いかけに音川が見せた表情は、泉が釘付けになるほどに妖艶な自嘲を浮かべていた。「……体力を使い果たすまで戻ってこないから、安心してゆっくりしてて」「あ……まっ、」引き止める間もなく音川がドアの向こうへ消えた後、泉は顔のほてりを抑えるために両手を頬に当てたが、余計に熱くなるだけだった。音川の大人の男の色気は凄まじく、傍にいれば自分がどうにかなってしまっただろう。場を離れてくれたのは正解なのかもしれな
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