鼻先にふわりと柔らかな感覚がして、泉はパチリと目を開いた。見慣れない天井が、必要以上に泉を安堵させる。
昨日の昼前からベッドを借りているから、居酒屋へ出かけた時間を除いてほぼ丸一日眠ったことになる。実家ですらここまでぐっすりと眠り続けた覚えがないほどだ。昨夜、音川はリビングのソファに横になると、半ば強制的に泉を寝室へ追いやった。
「また腰を痛めますよ」と泉は説得を試みたが——「客間に布団を敷くのが面倒」と気怠げに言い目を閉じてしまった。
「そんなの、僕が敷いて客間で寝ます」
「いい。そのままベッド使って。さっきまで泉が使ってたんだから」
その発言を受けて、「もしかして、僕が使った後のベッドシーツは嫌だ、とか?」と潔癖症の発言をしたが、音川は目をふっと開いて、なにか言いたげな顔をしただけで、再びすぐに目を閉じた。
これ以上の返答は望めないと判断し、泉は礼を述べてリビングを後にしたのだった。夏用の薄い羽布団はとても心地がよく、いつまでもくるまっていたい誘惑にかられながら、泉は今日の予定をなんとなく想像していた。
まず、シーツを洗濯してベッドを返さなければ。確かにソファは座面が広く、適度な跳ね返りもありベッドと大差なさそうではあるが、長身の音川には狭すぎる。客間にデスクとチェアも用意してもらっているのだから、そこを居候の場とさせてもらえるか聞いてみよう。もちろん光熱費は支払う前提だ。長過ぎる睡眠で固まった体をほぐすために両手を広げて伸びをすると、掛け布団から飛び出した腕にエアコンの涼風を感じる。広いベッドの真ん中に一人と一匹。当然だが、寝入った時と同じだ。
泉は想像を巡らせる。——音川も、一人でこんな風に目覚め、時には寝坊をしてモーニングを食べそこねたり、マックスの柔らかい毛を皮膚に感じながら二度寝するのだろうか。それとも——時にはこのベッドを伴にする相手が——以前、速水との会話の中では恋人がいないと取れるようなことを言っていたが——あ彼の心は、すでに「誰かの手の中」にある。そしてその相手が誰かなど、考えるまでもない。「……上司で、抑制の効いた男」床から天井まではめ込まれた重厚なガラス窓に身体をもたせかけ、東京の街を見下ろしながらイーサンは無言で鼻を鳴らした。泉に惹かれている……自分と同じ人種。――だが、まるで違う人間。音川と自分を比べるつもりはなかった。だが泉の目に映る彼の姿が、どれほど理想化されているかは容易にわかる。『正しくある』ことに命をかけるような男。しかし――『正しさ』だけで人を幸せにできると考えているとすれば、大間違いだ。イーサンはゆっくりと笑った。それなら、私は『間違う』方を選ぶ。キミを惑わせ、揺らし、思考の隙間に入り込んで――最後には、私無しではいられないように。泉の、音川への信頼の強さは、オファーに際して行われた身辺調査の中でも特筆すべき項目として報告されていた。ルームシェアは一般的な生活スタイルであるが、それが上司の家でとなると、少々引っかかるためだ。だが、若い感情は脆い。強さの裏に、必ず揺らぎがある。そして何より――泉の心の向かい先が「今ここにはいない誰か」であり、それは明らかに寂しさの形をしていた。その寂しさを、満たしてやる。まずはそれだけでいい。イーサンは自分のオフィスから半身を乗り出し、近くにいた日本人アシスタントに軽く声をかけた。「あとで、イズミに金曜の夜に時間を割けるか聞いてくれ。理由は……そうだな、“中間報告と今後のキャリアについての面談”。彼のスケジュールがブロックされているのは承知だが、夜まで私の身が空かないんだ。なんとかならないかな」――仕事の顔をした、私的な誘い。キミの敬愛する音川と違って、私は仕事に私情を持ち込む男だ。(イズミ、情熱は相手に伝わってこそ力を発揮する。そんな計算すらできない男に、キ
泉がイーサンの誘いに応じたのは、出向が開始してから四度目の月曜日だった。夜は、晩夏の湿度に、ほんの僅かながら秋風の気配が交じる。あと二ヶ月——イーサンの頭では既にカウントダウンが動き始めていた。さほど焦りは無い。むしろ、確信めいた冷静さがそこにはあった。離れた場所にいる男の影など、さほど脅威ではない。「プライベートな予定があるなら、無理に誘わないよ」社屋の前に縦列駐車しているタクシーのひとつに乗り込みながらイーサンがことさらにやんわり確認すると、少し遅れて「……ありません」と泉が口を結ぶ。「では、食事をしながら、少し話がしたい。仕事のことでも、それ以外でも」目的地は銀座の鉄板焼店だった。夜の街がゆっくりと深夜へと表情を変える頃、店の入口には和紙を通した明かりが滲み、訪れる客の気配を静かに迎える。鉄板焼と聞いて、泉は派手なナイフパフォーマンスを想像していたが、料理もサービスもまるで列車の時刻表のように狂いがなく、見事な職人技が光る演出だった。会話は、思いのほか弾んだ。イーサンの話し方は柔らかく、どこか異国の大きな公園を歩いているような静けさがあった。泉が足を止めれば必ず少し前で待っている。時折織り交ざる冗談は控えめで知的、決して押し付けがましくない笑いを誘う。泉の反応を寸分違わず読み取りながら、話題を選んでいるようだ。こうして肩を並べて過ごしていると、会食を拒む理由はなんだったのか、拒む必要があったのかどうか曖昧に思えてくる。求められて出向しているのだから、勤務時間外の交流は応えるべき礼節なのではないか——そう考え始めていた。——けれど、ふとした瞬間に目が合うたび、イーサンの目の奥に潜んでいる冷たさを見るような気がして——研磨された精密機械に反射する光のような。この、眼の前に差し出されている穏やかな時間や心地よさが、もしかしたら計算し尽くされた手綱かもしれないと考えてしまう。出向して1ヶ月経とうとしているが、未だ
オフィスを出てマンションに戻る足取りは、今夜に限ってやけに重たかった。イーサンからの食事の誘いを断ったのは、これで三度目だ。にもかかわらず、彼は笑顔のまま言う。「気にしないで、イズミ。今日は金曜日で、僕はフリーだから誘っているだけ。定時後は君の時間だ。自由にするといい」一見、紳士的で余裕のある態度。けれどその言葉の隅々に微かな圧力が潜んでいるように受け取ってしまう。ただ、それはイーサンが母国語でない日本語を使用してくれている所為だとも十分考えられるため、あまり気にすべきでないのかもしれない。出向初日は、歓迎会を兼ねてと言われ誘われるがままに食事を共にした。たしか、Bコンサルティング社の日本支社からほど近いホテルのフレンチレストランで、メニューに金額の記載がなく、高級店のようだった。泉は、そこでのイーサンとの会話が脳裏に蘇り、思わず顔をしかめた。「このレストランはね、東京、パリ、ニューヨーク、ハンブルクにあるんだ。僕はどれも行ったことがあるけれど、パリが一番美味しいですね」フランス料理なのだからそうあるべきだろうな、と泉は冷めた意見を飲み込み愛想笑いでやりすごしたが、イーサンは続けて「美味しいでしょう?」と上機嫌でワイングラスを傾けていた。「はい、とても。でもフランス料理のフルコースなんて食べ慣れないので……他と比べることはできませんが」「例えば家族のイベントなどで食事に行かない?」「まあ、結婚式の披露宴ではあります。それくらいですね」そう答えた泉を、イーサンは目を細めて見てきた。「じゃ、会社でも……あの音川サンにも、連れて行ってもらったことが無いんだね。彼なら知っていそうなのに」なぜそこで音川の名が——?理由はわからない。ただ、あの視線。冗談めかした言葉の端々。——妙に自分を『優位に見せよう』としてくる物腰。B社が借り上げているマンションは、オフィスから歩いて20分ほどの距離にある。立地の良さはさること
音川は泉のキャリアと将来性を、私情よりも上位に置いた。誰よりもそばにいたい、という感情を振り切り、自分を律することで、彼への想いを貫くことが正しいと判断した。泉を傷つけることになっても、だ。それでも——分かっていながら、傍に居たいという本心を伝えたかった。私情を押し殺すことでしか、進めない関係であっても——未来を信じてほしいと願った。音川と同じマンションに暮らすようになれば、保木の件も心配がいらないと明るく言った彼を思うと胸が痛む。言葉や態度の端々から、音川の存在に安心を抱いてくれていることは分かっていた。保木の件は、この期間内で必ず解決すべきであった。まさか出向について情報が漏れることはあるまい。泉にしても、東京の雑踏に紛れて生活するほうが、この件を忘れていられるのではないか。未知の環境で、それも初めての出向業務だ。勝手のわからないことだらけで戸惑いも多いだろうし、なにより、言語のキャッチアップが大変だろう。イーサンの周囲では大半のコミュニケーションが英語で行われるはずだ。——泉が東京へと立つ日。音川から大型のスーツケースを拝借し、実家から持ってきた着替えやら、音川のお下がりのあれこれを詰めた泉は、いつもより心なしかよく喋った。音川はそれを緊張のせいだと受け止め、軽口にも、不安げな独白をも丁寧に拾って応えた。昨夜、東京まで車で送りたいと申し出た音川だったが、泉には辞されてしまった。その時に添えられた「離れたくなくなるから」という泉の小さなつぶやきに背筋を震わせた。泉が東京へと出発する新幹線のホームで、音川は別れ際に握手を求め、こう伝えた。「向こうでも、きみらしくしていればいい」泉は口角を上げてにっこりと微笑み、「はい!」と握り返してくる手は、音川に決意をつたえるかのように力強かった。駅からの帰り道、午後からの業務に向けて頭を切り替えながら愛車のランドクルーザーを自宅へ走らせていると、ふと助手席の背もたれに猫の毛が数本ついていることに気がついた。獣医への訪問時は後部座席にケ
夜更けのことだった。リビングの奥から低く、静かに名を呼ばれた泉は、天井を見つめていた目をゆっくりと伏せた。布団に身を沈めたまま、眠りは遠く、まるで目の裏側に朝の気配が訪れることなど決してないかのようだった。足元で丸まっていたマックスが、気配を察してぐいと背を伸ばし、泉の手に鼻先を寄せる。「はい。起きてます」「よかったら、少し飲まないか」音川の睡眠が浅いことは知っていたが、こんなふうに深夜に声をかけられるのは初めてだった。「ちょうどよかったです。眠れそうになくて……」「うん」リビングに出ると、開け放たれた窓から晩夏の風がふわりと入り込み、カーテンの影を揺らしていた。照明は落とされ、夜の気配だけが部屋を静かに満たしている。コーヒーテーブルの上、グラスに注がれたラムが、かすかに甘い香りを放っていた。ほのかに曇ったガラス越しに、月光が床に揺れる。この味も、こうして夜を分け合うことも、音川と過ごすようになってから覚えたものだ。泉の心の奥に、それはひっそりと沈殿し、名もない情のように澱んでいる。沈黙を割って、音川が口を開いた。「出向は、有益だ。……念願だった一人暮らしも、こんな形で叶うとはね」東京での住まいはB社の用意する法人契約のマンション。期限は三ヶ月、自社からも手当が出る。割り切ったはずの事実が、音川の声で語られるだけで、泉の胸の奥が不意にきしむ。「まずは三ヶ月。延長や満了については、前もって双方の合意が必要になる。だから……階下の部屋を借りる予定だったけど、キャンセルしようか」泉は小さく息を呑んだ。当然のことだった。けれど、いざ言葉にされると、足元の地面が少しだけ沈んだような気がした。「延長は……考えたくありません。でも、また業務命令だったら……」「うちとしても、優秀な人材をそう簡単に手放すつもりはないよ。延長の
イーサンからの提案は、社内の人事を大いに沸かせた。なんせ、世界有数のコンサルティング会社であるB社のチーフコンサルタント直々の要望だ。子会社だけに収まらず、事態は本社の人事へとエスカレーションされた。まず最初に話が行ったのは、前職場がB社である高屋だった。高屋が出社するやいなや、本社の人事部長直々に声を掛けられ、子会社にいる『イズミ・アオキ』について雑談を装った下調べが入ったのだ。高屋は慎重だった。インドのトラブルの立役者は泉であること、エンジニアとしての実力は申し分ないことをしっかり伝えた上で、泉の将来を考えれば、『短期間の出向』は有益だろうと強調した。無論、音川にも詳しいヒアリングが行われた。音川は、泉のプレゼンテーションが鮮烈だったことを褒め、また、当日すでにイーサンが泉を称賛していたことも正直に述べた。隠すようなことでもないし、泉が会社に認められることは音川にとっても誇りだ。そして高屋と同じく、『期間を限定した出向』ならば賛成の意を表した。人事からは、泉の立場のためにも、と吹き込まれたのが決定打だった。まだ開発部での実績はインドの件のみであるにもかかわらず、音川の一存で最高技術責任者補佐となるのは、さすがに社内人事に反発が懸念される。それを覆すには、他のエンジニアが持っていない実績が効果的であり、今回のオファーはもってこいだと言うのだ。それは確かだった。泉の類まれな能力は、まだ音川にしか理解できない。何件か案件をこなせば周囲も知ることになるだろうが。泉を出向させる——数日後には決断が下された。本社人事部の意向は、そのまま会社命令として泉に伝達された。契約書の取り交わしのため、わざわざ社へ出向いてきたイーサンを、本社も子会社も歓迎した。「出向という形であれば、我々としても柔軟に対応できます」イーサンの言葉が会議室に響く。丁寧な日本語だった。泉と音川は並んでイーサンの向かいに座り、書面に目を通しながら営業トークともとれるような提案に耳を傾ける。形式としてはヘッドハンティングではなく、移籍でもない。期間を区切った『共同育成』のような扱い。海外の大手と協働し、若手を送り込むことは会社の評価にもつながるため、会社は全面的に賛成だった。それでもイーサンは、念を押すように、泉の将来性に強い関心を抱いたということを何度も口にした