Semua Bab 江口透、バツイチ。綺麗なひと~大学院生、論文調査のつもりでした: Bab 11 - Bab 20

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隣の明かり

夜の帳が完全に落ちて、窓の外はすっかり街灯の色に染まっていた。湊の部屋の壁掛け時計が、22時半を少し回ったところを指している。机の上には開きっぱなしの六法全書と、論文用のWordファイル。カーソルは点滅を繰り返すばかりで、一文字も進んでいなかった。冷房の音が低く唸り続け、時おりカーテンがわずかに揺れる。その動きに釣られるように、湊の視線もふと右手の窓へと移った。隣室との境界にあるすりガラス越しに、わずかな光が漏れている。ベランダの小さな電球が、ほのかに明かりを落としていた。その光に照らされて、ひとつの人影が揺れていた。窓をそっと開けると、外気とともにかすかな煙草の匂いが流れ込んできた。思わず、息を止めてしまう。そこにいたのは、江口透だった。薄手の白いTシャツに、肩まで垂れるほどの髪。濡れているわけではないが、乾きかけた癖のある毛先が風に揺れていた。右手にはタバコ、左手には銀色の缶チューハイ。煙草の火が点るたび、彼の頬のラインがほのかに浮かび上がる。頬骨の下、わずかに削げた影。目元は半分閉じられていて、視線はどこにも焦点を合わせていない。風が吹くたび、煙がくゆるように形を変えて揺れた。そのたびに彼の輪郭が、ほんのすこしだけ滲む。輪郭と影のあいだに曖昧さが生まれて、湊はその変化を目で追い続けてしまっていた。記録しようとしていた言葉も、論理も、目的も、すべてがぼんやりと遠のく。彼が吸って、吐く。そのリズムさえ、今の湊には妙に心地よく感じられた。やがて、透の唇がわずかに開いた。誰にともなく、ひとりごとのように、ぽつりと声がこぼれる。「……寒なってきたなあ、もう」その声は低く、掠れていて、ほんの少し甘さを含んでいた。何かに疲れているようでもあり、誰にも届かなくても構わないような、そんな調子だった。その声が夜の静けさの中に吸い込まれていくと、湊の胸の奥に、言いようのないざわめきが広がった。これがただの“隣人”の姿なのか、と湊は自分に問いたくなった。論文の対象であり、フィールドワークの協力者であり、そしてただのアパートの隣人であるはずの男。そのはずなのに。夜の静寂の中、こうしてベランダ越しに見える姿が、自分の中の何かをかき乱すように感じられる。見てはいけない、と思うのに、目が逸らせない。たった今、この瞬間にしか存在しない火の色、煙のゆらぎ、夜気に溶けていく低い声
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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電気を消す

湊はカーテンの端をそっと握ったまま、視線を落とすことができなかった。論文に向けるべき目も意識も、すべてが、隣室のベランダに吸い寄せられていた。机の上の明かりが室内の壁にぼんやりと影を作っている。その柔らかな光が、透に気づかれてしまうかもしれないという考えに、湊は急に不安を覚えた。静かに立ち上がると、手元の電気のスイッチを押した。部屋の明かりがふっと消えると、夜の濃度が一気に濃くなったように感じられた。自分の輪郭が、闇に溶けていくのを感じる。だが、それでも目の前の光景は鮮明さを増していった。目が暗さに慣れたころ、透の姿がまるで映画のワンシーンのようにくっきりと浮かび上がった。ベランダの外灯と月明かりが重なって、缶チューハイのアルミが鈍く光っている。彼の指先が、まるで儀式のように煙草の火を弾いた。灰が宙に落ちる一瞬、その仕草には無駄がなく、どこか美しさすら漂っていた。湊は思った。こんなに静かな夜があっただろうか。音もなく、ただそこに誰かがいるという存在だけで、こんなにも空気が満たされる夜が。透は、時折チューハイをひと口飲み、煙草をくわえたまま、夜空を見上げていた。細い煙がゆっくりと昇って、風に揉まれて形を変えていく。その合間に、タバコの火がまた吸い込まれるたび、頬がわずかに窪み、火の色が肌を照らした。湊の胸の奥が、またしてもざわついた。なぜこんなにも目が離せないのか、自分でも理解できなかった。ただ隣人が、ひとりで煙草を吸っているだけ。それだけの光景なのに、何かを見てはいけないもののように感じると同時に、目を背けることができなかった。頬骨の陰影、唇の輪郭、喉ぼとけの上下。そのすべてが、湊の網膜にひたひたと焼きついていく。火の明滅が息づくように感じられ、その熱が、自分の中にもじわりと伝わってくるようだった。なんで、こんなにも見てしまうのか。湊は自問した。これが「関心」だと自分に言い聞かせた。調査対象としての興味、論文を書くための観察。それ以上ではない、そう断言したいのに、胸の内で何かがぐらついているのを感じた。タバコを吸うその仕草の一つひとつが、色気を持って迫ってくる。生活の疲れが染み込んだ身体の線が、逆にどこか艶やかに見えてしまう。白いTシャツの肩口が少し落ちかけていて、そこからのぞく鎖骨がうっすらと光を受けていた。美しい、と湊は思ってしまった。そ
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言葉にならない夜

カーソルの点滅が、視界の隅で脈打っている。まるで心拍のように、無音のリズムを刻み続けている。Wordの画面は開かれたまま、白紙の領域がぽっかりと夜の中に浮かんでいた。湊は椅子に腰を下ろしたまま、両手を膝の上に置き、動けずにいた。ノートパソコンのキーボードがすぐそこにあるのに、指先が触れようとしない。いや、触れてしまえば、何かが溢れてしまいそうで、怖かった。頭のどこかでは、「家庭裁判所による審判的関与の意義」や「離婚後の生活基盤形成支援」などという論文のセクションが脈絡なく浮かんでは消えていった。だが、それを文字に起こそうとした瞬間、言葉の輪郭があいまいになって、指が動かなくなる。意識のどこかが、別の方向へと引っ張られていた。隣室の、あの静かな姿へ。煙草の火が頬の骨を照らし、吐き出された煙が風に溶けていった、その様子が、まるで動画の残像のように、頭の中で何度も再生されていた。そして、気づいたときには、カーソルの下に言葉が並び始めていた。「あの人が隣に住んでるだけで、生活が違って見える気がしてる」最初の一文を書いたのは、自分の意思だったのかさえ、わからなかった。頭で考えたよりも先に、指が勝手にキーを叩いた。文字が浮かぶたびに、心臓の奥がかすかに痛んだ。自分の内部に、こんな言葉が存在していたことに、湊は戸惑っていた。「今日、タバコを吸ってた。風がちょっと冷たくて、火を吸い込んだときの顔が…なんか、綺麗だった」文字が、止まらない。止めようとする気持ちよりも、書きたいという衝動が上回っていくのがわかる。これは論文じゃない、取材記録でもない。そう自分に言い聞かせるたび、逆にこの文が“感情の吐露”であることが明らかになっていく。「どうしてこんなに、目で追ってしまうんだろう。声が、耳に残る。仕草が、いちいち目について離れない」それは、怖かった。自分がどこに向かっているのか、明確な答えがないまま、ただ文字に手を引かれるようにして進んでいく。けれど、その恐怖の中には、ほんのわずかに甘さがあった。苦いけれど、どこか快楽のように、自分を掴んで放さないものが。「恋じゃない」そう何度も繰り返しながら、書き続ける指が、それを裏切っていく。「恋じゃない」「気になるだけ」「対象としての関心」…そのすべての言葉が、今はどこか滑稽に思えた。もう止めなきゃ、そう思って手を伸ばした時
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生活の気配が、眠れなくする

布団の中に身を横たえたまま、湊は目を閉じていた。時計の針はもうすぐ一時を回ろうとしている。眠ろうとしているのに、頭の中は妙に冴えていた。明かりを落とした部屋には、生活の音がいくつも静かに溶け込んでいる。冷蔵庫の小さなモーター音が低く唸り、遠くで車が通る音が、かすかな風のように耳に届いた。窓の外からは虫の声も聞こえない。空気は湿っているのに、体の内側ばかりが乾いているような気がした。喉が渇いているのとは違う。何かを求めているのに、それが何か分からず、ただ呼吸ばかりが空しく続いている。まぶたの裏に、さっきの残像が焼きついていた。ベランダに立っていた男の姿。チューハイの缶が、月明かりを鈍く反射し、指先に挟まれたタバコの火が時折ふっと灯っては揺れる。そのたびに、頬の骨のラインが浮かび上がり、輪郭の影が揺らめいた。声は聞き取れないほど小さかったのに、耳の奥に滲みこむように残っている。自分でも、なぜあんなに見入ってしまったのか分からない。ただ、あの場面が妙に“現実味”を帯びて、胸の中に根を張るようにして動かなくなった。人の生活の匂い。人の時間の流れ。自分にはなかったもの。自分がどこか、置いてきてしまったもの。湯呑に注がれる茶の音。カチリと灰皿に当たる煙草の先。キッチンでご飯をよそう手つきと、包丁の音。そんな断片が、インタビューの記録の中にも、隣の部屋の気配の中にも、いくつも詰まっていた。それを最初に“記録”だと思っていた。研究対象として、生活の再構築とは何かを知りたいから、話を聞いているつもりだった。だが、今日ベランダ越しにあの姿を見てしまってから、それが揺らぎ始めている。もっと知りたい。もっと見たい。もっと、感じたい。そんな衝動が、ただの好奇心ではないことに、湊は自分でも気づいていた。認めたくなくて、論文のファイルを開いた。けれど開いたのは、感情のファイルだった。《江口さんが気になるだけ.docx》あのタイトルを入力した瞬間、もう後戻りはできなかった気がする。布団の中で、湊はそっと胸に手を当ててみた。手のひらに伝わる心臓の鼓動は、いつもより少しだけ速かった。それに気づいてしまったことが、なんとなく悔しくて、だけどどこか嬉しくもあった。“気になる”って、こんなに生活の中に入り込んでくるものなんだな。知らなかった。知らずにいたかった。けれど、もう遅い。あの人が、
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綺麗だ、と思った瞬間

夜の気配が濃くなるにつれ、アパートの敷地内は静まり返り、時折響くのは誰かが自転車を押す音と、遠くで犬が吠えるかすかな声だけだった。湊は机に向かっていたが、すでに開いたままの論文ファイルは一行も進まず、カーソルが虚しく点滅していた。思考はまとまらず、文字の羅列が目の奥で滲み、言葉の意味すら失われていくようだった。そんな時、不意に目に入ったのは、やはり隣のベランダに灯る、小さな赤い光だった。湊は前に見た時と同じように、無意識に視線をそちらへ向け、カーテンの隙間から覗くようにしてその火の主を捉えた。白いTシャツを着た男の輪郭が、夜の空気の中にゆっくりと浮かび上がっていた。右手に缶チューハイ、左手には煙草。吸い込まれた火の先がふっと明るくなり、吐き出された煙が夜気にゆらめく。沈黙の中に、すう…と肺を満たす音が混じり、そのあと、微かに呟くような低い声が漏れる。湊は、息をするのを忘れた。輪郭が、滲んで見えた。頬骨の下にできた影の角度が、煙の揺らぎとともにかすかに変化する。風がシャツの布地を揺らし、肩の線をなぞった。その何気ない仕草すら、視線を引きつけてやまない。ふと、透が顔を少しこちらに向けた。湊の存在に気づいた様子はない。だが、そのとき、明かりに照らされた横顔を見た瞬間、湊の胸の奥に、何かがひたりと沈み込んだ。綺麗だ、と思った。それは突然だった。形容詞のように、評価のように、誰かの背中に貼るラベルではなかった。感情の芯からこぼれ落ちた実感だった。理由もない、根拠もない。ただ、見て、感じて、そう思った。湊は自分が何を見て、何に惹かれているのかを自覚したくなくて、反射的に目を逸らそうとした。けれど視線は動かず、むしろより深く、その姿に焦点を合わせていた。こんな気持ちになるのは、間違ってる。そう思った。男同士だとか、取材対象だとか、そういった外的な言い訳ではなく、自分の中に生まれた感情が、自分の輪郭をぼやかしていくことへの恐れだった。湊は今まで、自分を構築してきた要素に忠実であろうとしてきた。法科大学院で、論理と証拠と合理性の中で言葉を扱い、意味を重ねてきた。だがこの夜、言葉では扱えない感情が、目の前に静かに立っていた。透は、何も知らずに煙草を吸っていた。目を細め、煙を吐き、缶を軽く揺らして中身の音を確かめていた。そのどれもが、生活の延長線上にある動作だったはずなの
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“綺麗”という罪

PCの画面は、夜の静けさに似た白い光を吐き出していた。湊はその前に座ったまま、じっとカーソルの点滅を見つめていた。何かを書くための姿勢ではなく、ただそこに身を置くことで心の揺れをなだめようとしていた。先ほどベランダ越しに見た透の姿が、頭から離れなかった。火の色、頬の影、指先の形、吸い込まれるような横顔の沈黙。それらが細かい粒になって、湊の体内を漂っていた。綺麗だった。はっきり、そう思ってしまった。その一言が、頭の奥で何度も反響していた。綺麗だ、綺麗だ、と。男の、しかも離婚した隣人に向けて、そんな感情を抱くことが正しいのか、間違っているのかも分からない。ただ、ひとつ確かなのは、あの姿が目に焼き付いてしまったことだった。無意識のうちに手がキーボードに乗っていた。カーソルが光の点滅を繰り返す中、湊の指はゆっくりと動き出す。まずは一文、息を吐くように打ち込まれる。「綺麗だって、思った」それを書いた瞬間、湊は僅かに身体を強張らせた。まるで自分の中の奥底に沈んでいた感情に、直接触れてしまったような感覚だった。打ってしまった言葉は、戻せなかった。削除キーを押そうと一瞬だけ考えたが、指は動かなかった。代わりに次の言葉が続いていた。「…でもそれって、いけないことなのか」「恋じゃない、尊敬でもない。ただ、見ていたくなるだけ」どこかに逃げ場を作るように、“恋じゃない”と前置きしたが、その次の言葉が湊の心の中心をあらわにしていた。見ていたい。ただ、それだけ。だが、その“ただ”が、いちばん重たく感じられた。画面の下にあるファイル名の欄に目をやる。少し迷ったあと、タイピングの速度は鈍くなる。《江口さんのことではない.txt》書きながら、これは明らかに言い訳だと湊は分かっていた。“ではない”と名付けることそのものが、そこにある事実を否定できていない証拠だった。むしろ、その一文に詰まっているのは、本音と嘘の綱引きのような矛盾の塊だった。「これは記録なんだ」と湊は小さく呟いた。「ただの、観察記録」誰に聞かせるでもないその声は、空気に紛れて消えた。だが、スクロールしていく文面には、透の話し方、姿勢、息継ぎのタイミングまでが細かく描かれていた。たとえば煙草に火をつける前の一瞬の間。缶を持ち替えるときの指の角度。飲み終わったあと、空を見上げるときの瞼の重さ。どれもが、日記では
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会ってしまった朝

朝の光はどこか鈍く、寝不足の目にやけに優しかった。窓から差し込む白い陽は、湊の部屋の空気を、無機質な粒子のように静かに揺らしていた。昨夜遅くまでPCの前で言葉を打ち続けたせいか、起き抜けの頭は重く、記憶がすぐにはまとまらない。それでも、約束の時間は近づいていた。洗面所で顔を洗いながら、湊は鏡に映った自分の顔に目を細めた。少しだけ目の下に影が落ちている。寝不足のせいだけではない気がした。いや、違う。あのファイルのせいだ。昨夜、言い訳のように「江口さんのことではない」と名付けたあのテキストファイル。あれがまだ、胸の奥にざらざらと残っていた。パソコンの電源は切ったはずなのに、画面に浮かび上がっていた言葉たちは、頭のどこかで今も点滅し続けていた。透の仕草、声の低さ、火の明かりに浮かぶ頬の影。それらを書き連ねた自分の指が、正直すぎて恐ろしかった。「インタビューの日だろ」と、頭の中で自分を正すように呟いた。あくまでこれは、調査であり記録であり、感情とは関係ない。ただ、それだけのことだ。そう言い聞かせながら、湊はバッグにICレコーダーをしまい、ノートとペンも確認して、部屋を出た。アパートの廊下はまだ涼しく、朝の湿り気が少し残っていた。扉の前に立つと、手のひらに微かな汗が滲むのを感じた。呼吸を一度、深く吸ってから、ノックしようと右手を上げる。その瞬間、昨夜の透の姿が脳裏にちらりと蘇る。白いTシャツ、煙草の火、見上げた顔の横顔。そして、そのすべてを“綺麗だ”と思ってしまった自分。湊は一瞬、手を引っ込めかけた。だがそれでは、逃げていることになる。自分に言い訳していることを、透に見透かされるような気がした。震える心を押し殺すように、扉を軽く叩いた。すぐに中から足音が聞こえた。ゆっくりと扉が開き、ふわりとほうじ茶のような香りが鼻をくすぐる。目の前に現れた透は、いつものように古びたTシャツにスウェットというラフな格好だった。「おう」と、透は軽く顎を引いて挨拶した。その声音にいつもと変わりはなかった。けれど、その直後、視線が一瞬だけ鋭くなった気がした。まるで何かを探るように、細められた目。ほんの一瞬だったが、湊の胸に静かに何かが詰まった。湊はとっさに目を逸らし、ぎこちない笑みを浮かべながら言った。「今日も、よろしくお願いします」「ほい」と透は頷き、扉を広げて中に招いた。そ
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書いてしまったことの罰

録音機の赤いランプが静かに灯り、いつものように透の声が空気を振るわせた。おだやかなトーン、少し鼻にかかったような関西訛り。湊はノートを開いていたものの、手元のペンが止まったままだった。文字を書くという作業に指が応じず、代わりに意識だけが、目の前にいるその人の声に引き込まれていた。「まあ、仕事辞めてからは、最初の一ヶ月ぐらいはな、ほんまに昼夜逆転してもうて」透は笑いながら、言葉を繋ぐ。だが、その笑いもどこか浅い。湊はその違和感を飲み込みつつ、ノートの余白に一文字も書けない自分を、内心で責めていた。昨日、いや、厳密には今朝未明まで続いていたあのモノローグ。自分の指が勝手に動いたと言い訳したくなるほどに、あのファイルには透のことばかりが綴られていた。タバコの火の色、声の温度、Tシャツの柔らかな皺、風に揺れた白布。なぜそこまで書いてしまったのか。今、目の前で静かに話している相手と、昨夜の自分が同時に頭の中に存在していて、混ざり合うその像に、湊は戸惑っていた。「夜中とか、気ぃついたらベランダでぼーっとしてることもあったな。空気だけ吸って、意味もなく」その言葉に、胸のどこかが鋭く疼いた。まるで、昨夜の光景を透自身が知っているかのように思えて、湊は一瞬、顔を上げられなかった。「……あの、それは…」ようやく絞り出した声も、芯のない響きだった。「ん?」透は湯呑に手を添えたまま、首だけこちらに向ける。けれどその目は、以前よりわずかに伏せがちだった。いつもなら、もっと自然に、こちらをじっと見てくれていた気がした。会話の合間に、視線で問いかけるように目を細めたり、時には冗談交じりにこちらの反応をうかがうような、そういう軽やかさがあった。だが今日の透は、なぜか少し違った。湊は自分が壊したのではないかと、唐突に思った。書いてしまったこと。記録ではなく、感情そのものとして。それを打ち込んだあの夜の自分が、目の前のこの空気に、何か濁りを落としてしまったのではないか。「すみません。…質問、整理してなくて」そう言ってみても、透はただ「気にせんでええよ」と笑っただけだった。言葉に咎める色はなかった。むしろその柔らかさが、余計に湊の胸に刺さった。透は湯呑を口元に運びながら、「なんか、今日ちょっと違うな」と、ごく自然な調子で言った。声は穏やかで、からかうでも、責めるでもない。けれ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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ひとつ割れた茶器

透の部屋のドアが開いた瞬間、いつもと同じ匂いがした。ほうじ茶のふくよかな香りと、洗剤のほのかな残り香。その混ざり合った空気を吸い込むたびに、湊の胸の奥で何かがゆっくりとほぐれていくのを感じる。緊張というほどのものではないけれど、きっと、自分でも気づかぬうちに、透の部屋には「安堵」する準備ができているのかもしれないと思った。「入ります」声は控えめに、それでも聞き取れる程度の大きさで。透はキッチンに背を向けたまま湯を沸かしており、軽く手を挙げただけだった。返事代わりのその仕草も、もう見慣れてきた。湊はリュックからノートとICレコーダーを取り出しながら、ふと視界の端に、新聞紙が無造作に畳まれて置かれているのを見つけた。それは、いつも湯呑や急須が並べられている木製のトレイの端に、ぽつんと置かれていた。薄く茶のしみがついた紙の表面が、わずかにめくれている。湊は何とはなしにその新聞紙に近づき、そっと指でめくる。中から現れたのは、淡い色合いの陶器片だった。白磁の地にうっすらと青い線が描かれたそれは、見覚えのある湯呑の一部だった。縁が欠け、斜めに走ったひびが、薄く鋭く光っていた。「……割れたんですか?」湊の声に、透が湯を止める音が重なる。振り返った透は、少し間を置いてから「ん」と頷いた。「手がすべっただけ。たまにあるんよ、こういうの」何でもないことのように言いながら、透は新しい湯呑を二つ並べて、急須の中に茶葉を入れた。指先の動きはいつも通りに見えたが、湊の目にはその指の腹に、わずかに赤くなった部分があるのが映った。陶器の破片で切ったのか、それとも熱湯に触れたせいなのか。どちらにしても、それは「手がすべった」以上の何かを含んでいるように思えて、湊は無言のまま目を伏せた。静かだった。やかんから立ち上る湯気が、ゆっくりと空気を満たしていく音だけが響いている。透は茶を淹れながら、特に話すでもなく、器を手にしてテーブルに向かう。その背を追いながら、湊はなんとも言えない違和感を感じていた。部屋の空気は同じなのに、何かが少しずれている。昨日と今日で、空気の温度が違うような。湿度のように、言葉にできない変化。湊は新聞紙の上の破片に視線を戻す。茶器は割れるものだ。毎日使っていれば、そういうこともある。そう思いながら、どうしてもその破片がただの「事故」に思えなかった。割れたの
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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ふとした会話の温度

録音が止まると、部屋の中に再び沈黙が戻ってきた。ICレコーダーの赤いランプが消えた瞬間、まるで空気の張りがほどけたようだった。透は軽く背もたれに寄りかかり、わずかにため息を漏らした。湯呑を手に取って口をつけるしぐさは、いつも通りだが、湊の目にはそれがどこか意識的に見えた。湊はノートを閉じ、ゆっくりとペンをケースに戻す。作業のひとつひとつがやけに遅くなっているのは、自分でもわかっていた。それが名残惜しさからくるものなのか、今日のやりとりに引っかかりがあったからなのか、それとも別の理由かは、まだ言語化できない。ただ、録音が終わってしまった今、この部屋で透と向かい合っていること自体が、何か意味を持ちはじめている気がしていた。「最近、よう喋るようになったなあ」透の声が、湯呑の縁を離れた唇から、やわらかく転がった。からかうような響きではなかった。むしろ、少し驚いたような、しかし温かい調子だった。湊は一瞬、手を止めた。どの話のことを言っているのか、どの瞬間を指しているのか、具体的な内容はなかった。それでも、言われた意味はすぐにわかった。自分でも、少しずつ話し方が変わってきたのは感じていた。質問ではなく、会話。答えを引き出すためではなく、ただその人と話したいと思って言葉を出すことが増えた。透と話すときだけは、それが自然にできる気がしていた。「昔より、喋りたくなる人が増えただけです」答えながら、自分の声が少しだけ掠れていたことに気づいた。濁すような言い方だったが、湊の中にはもう少しだけ、明確な言葉が浮かんでいた。それをそのまま言葉にしてしまうには、まだ怖かった。一瞬、視線が交差する。透の目がこちらを捉えて、すぐに離れた。まるで、そこに何かを見つけてしまったかのように。彼は視線を湯呑に落とし、湯をひと口飲んだ。湯気の向こうにあるその横顔からは、どんな感情も読み取れなかった。「……ええことや」低く、静かな声だった。まるでそれ以上を語らないように、ゆっくりとした抑揚で。湊はその言葉の温度を、内側に吸い込むように感じた。優しい、けれど線を引いたような、曖昧な肯定。傷つけないために選ばれた言葉のようだった。胸の奥に、小さな熱が広がっていく。自分が今、誰に向かって言葉を紡いでいるのかが、はっきりしてきた。誰の前でなら、こんなに喋れるのか。誰の言葉なら、こんなにも耳に残る
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