夜の帳が完全に落ちて、窓の外はすっかり街灯の色に染まっていた。湊の部屋の壁掛け時計が、22時半を少し回ったところを指している。机の上には開きっぱなしの六法全書と、論文用のWordファイル。カーソルは点滅を繰り返すばかりで、一文字も進んでいなかった。冷房の音が低く唸り続け、時おりカーテンがわずかに揺れる。その動きに釣られるように、湊の視線もふと右手の窓へと移った。隣室との境界にあるすりガラス越しに、わずかな光が漏れている。ベランダの小さな電球が、ほのかに明かりを落としていた。その光に照らされて、ひとつの人影が揺れていた。窓をそっと開けると、外気とともにかすかな煙草の匂いが流れ込んできた。思わず、息を止めてしまう。そこにいたのは、江口透だった。薄手の白いTシャツに、肩まで垂れるほどの髪。濡れているわけではないが、乾きかけた癖のある毛先が風に揺れていた。右手にはタバコ、左手には銀色の缶チューハイ。煙草の火が点るたび、彼の頬のラインがほのかに浮かび上がる。頬骨の下、わずかに削げた影。目元は半分閉じられていて、視線はどこにも焦点を合わせていない。風が吹くたび、煙がくゆるように形を変えて揺れた。そのたびに彼の輪郭が、ほんのすこしだけ滲む。輪郭と影のあいだに曖昧さが生まれて、湊はその変化を目で追い続けてしまっていた。記録しようとしていた言葉も、論理も、目的も、すべてがぼんやりと遠のく。彼が吸って、吐く。そのリズムさえ、今の湊には妙に心地よく感じられた。やがて、透の唇がわずかに開いた。誰にともなく、ひとりごとのように、ぽつりと声がこぼれる。「……寒なってきたなあ、もう」その声は低く、掠れていて、ほんの少し甘さを含んでいた。何かに疲れているようでもあり、誰にも届かなくても構わないような、そんな調子だった。その声が夜の静けさの中に吸い込まれていくと、湊の胸の奥に、言いようのないざわめきが広がった。これがただの“隣人”の姿なのか、と湊は自分に問いたくなった。論文の対象であり、フィールドワークの協力者であり、そしてただのアパートの隣人であるはずの男。そのはずなのに。夜の静寂の中、こうしてベランダ越しに見える姿が、自分の中の何かをかき乱すように感じられる。見てはいけない、と思うのに、目が逸らせない。たった今、この瞬間にしか存在しない火の色、煙のゆらぎ、夜気に溶けていく低い声
Terakhir Diperbarui : 2025-06-29 Baca selengkapnya