Semua Bab 江口透、バツイチ。綺麗なひと~大学院生、論文調査のつもりでした: Bab 31 - Bab 40

44 Bab

雨粒と涙の区別

舗道に敷かれたコンクリートの目地に、雨粒が静かに吸い込まれていく。その上を湊の靴が踏みしめるたび、しっとりとした音が微かに響いた。夜の空は重たく沈み、街灯の光さえ鈍く霞んでいる。傘を差していない湊の髪は濡れて額に張り付き、シャツの肩口にはすでに雨の模様が濃く浮かび上がっていた。眼鏡のレンズにも、途切れなく水滴が落ちてきた。視界は滲み、照明の輪郭がゆるく崩れていく。湊はそれを拭おうともしなかった。ただ、歩幅を小さくしながら、まるで空気の中に溶けていくように静かに歩いていた。呼吸は浅く、胸の奥で何かが重く沈んでいる。返ってこなかった言葉。拒絶とも違う、でも肯定ではない返事。その曖昧な空白が、湊の中ではっきりと形を持ちはじめていた。「……言ってしまった」呟いた声は、自分の耳にしか届かないほどにか細かった。何度も反芻した言葉。けれど、口に出してしまったあとでは、もう戻すことはできなかった。あの夜、あの場で、あの人に向かって、好きだと伝えたこと。それは確かに、湊の中でどうしても譲れなかったものだった。歩道脇の植え込みから、雨粒がぽとぽとと葉を叩く音が聞こえる。そのリズムに耳を預けながら、湊はそっと目を閉じた。頬を伝う水の温度に、ようやく意識が向く。それが雨なのか、自分の涙なのか、もう区別はつかなかった。「好かれるのが怖い?」小さく、問いかけるように言った。「だったら、どうしたらよかったんですか」問いの先に誰もいないと知っていながら、それでも言わずにはいられなかった。湊は空を仰いだ。雲に覆われた空は、何も答えないまま、ただ冷たい雨だけを落としてくる。唇をかすかに噛んでから、彼は再び前を向いた。「伝えただけで、全部が壊れるなら、それでも、言わなきゃよかったんですか」心の奥から溢れてきたその言葉は、今まで自分が避けてきた問いだった。好きという感情を、書くことで処理しようとした。ファイルに閉じ込めて、仮面をかぶせて、誰にも見せないまま終わらせるつもりだった。それでも、言葉にしてしまった。声にしてしまった。その瞬間、すべてが変わった。誰かを好きになることは、自分の心をそのまま差し出すことだと、初めて知った気がした。そしてそれを受け取ってもらえなかったとき、自分という存在までもが否定されたように思えてしまうことも。けれど、透は否定したわけではなかった。ただ…
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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以降、会わないふたり

インタビューは、自然と終わりを迎えた。けれど、その終わりはあまりに静かで、まるで何もなかったかのように日々の景色に紛れ込んでいった。湊は、自室の机に向かいながら、最後のメールの文面を何度も読み返しては、結局そのまま送信ボタンを押した。「これまでのご協力、本当にありがとうございました」「お話を伺った内容は、論文に誠実に反映させていただきます」それだけの文面だった。どこにも感情は置かれていない。置けなかったのではなく、置かないと決めたのだと思う。文面の締めには「今後、また何かありましたらご連絡差し上げます」と入れるべきか迷って、結局消した。もう何かを続ける理由は、こちら側には残っていなかった。送信の通知音が鳴ったあと、湊はPCを閉じた。しばらく、その場から動けなかった。背筋を伸ばす力も抜けていた。頭の奥で響いていたのは、自分の声だった。「好きです」と言った夜の、自分の声。その声が、何かを決定的に断ち切ってしまったことだけは、間違いなかった。翌日から、隣の部屋から聞こえていた音も、どこか遠のいたように感じた。透が本当に音を立てていないのか、それとも自分が耳を塞いでしまっているのかはわからなかった。時折、壁越しに響く椅子を引く音や、湯を注ぐ音が耳に触れると、それだけで胸の奥がぎゅっと痛んだ。共用廊下ですれ違うことが一度だけあった。湊がゴミ袋を持って出たとき、ちょうど透が階段から降りてくるところだった。お互いに気づいて、ほんの一瞬だけ目が合った。透は何も言わなかった。ただ、小さく会釈した。それは礼儀としての最低限の動きだった。湊も同じように頭を下げて、言葉は発さなかった。そのまま、すれ違った。空気の揺れだけが、ふたりの間に残った。ゴミ置き場までの歩みの中、湊の足は妙に重たかった。袋の中の空き缶がぶつかり合って、かしゃりと乾いた音を立てた。その音が、妙に冷たく響いた。置き場に着いてゴミを収めても、湊はすぐには戻らなかった。少しだけ壁にもたれて、深く息を吐いた。目を閉じれば、透の声が蘇る。「俺、そない受け止められる器ちゃうねん」あのときの声の、わずかな震え。あれが、透の精一杯だったのだと、今になって思う。けれど、どうしてもその言葉を肯定のようには受け取れなかった。否定されなかったのに、心は否応なく沈んでいた。自室に戻り、ドアを閉める。鍵をかける音が、今
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香らない茶

電気ポットの湯が落ち着いた音を立てて、吐息のように細く蒸気を上げている。透はそれをじっと見つめながら、右手に持った急須を傾けた。琥珀色の液体が、湯呑に静かに注がれていく。音はしない。以前ならこの瞬間に、香ばしい香りが鼻先をくすぐっていたはずだった。けれど、今夜は違った。何も香らなかったわけではない。ただ、あまりにも微かで、香りとしての存在感を失っているように思えた。湯呑に注ぎ終えると、透はそのまま台所の照明を消した。夜の部屋に戻ると、足音が畳の上でやけに大きく感じられる。テーブルの前に腰を下ろして、湯呑を両手で包み込むように持った。陶器の底から、じんわりと熱が伝わってくる。だが、それは指先の皮膚を通して届くだけで、内側の冷えには届かない気がした。照明の代わりに、小さなスタンドライトをつけた。橙色の光が、部屋の角に影をつくる。その影を見つめながら、透は黙ったまま時間をやり過ごしていた。「……はぁ」低く、小さな息がこぼれる。部屋にはほかに何の音もなかった。隣の部屋も、上の階も、まるで人がいないように静まり返っている。夜風が窓をかすかに鳴らした。湯呑を持ち上げることができなかった。手には取っていたのに、口まで運ぶことができなかった。茶の表面には湯気が立っていた。だが、それもほどなくして消えていった。代わりに残ったのは、冷たく沈んだ空気だけだった。透は立ち上がって、ゆっくりと食器棚の扉を開けた。そこにある急須は、以前から使っていたものだった。だが、今はその横に微かな指紋の跡が残っているような気がした。湊が使っていたとき、どうやって蓋を開けていたか、どこに手を添えていたかが、指先に残っているような気がして、透は棚に触れることができなかった。視線を棚の中に落としたまま、目を細めた。明るくも暗くもない室内に、光の影が揺れている。どこも整っていて、誰の気配もない。けれど、その“ない”という感覚の中に、湊の痕跡だけが妙に浮かび上がっていた。あいつが座っていた場所。あいつがふと笑ったとき、見えた肩の揺れ。手に持っていた湯呑の位置、置くときの音。そのひとつひとつが、記憶のどこかに染み込んで、消えてくれない。湯呑に残る唇のあとすら、今はもう何もないというのに。それでも、自分の体は、感覚だけを忘れられずにいる。席に戻り、もう一度湯呑を手に取った。今度こそ、と意識的に口
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記録の残響

ノートパソコンの電源を入れたのは、まったくの気まぐれだった。メールを確認するでもなく、何かを調べたかったわけでもない。ただ部屋の中に、もう少しだけ光が欲しかった。天井灯の代わりに、画面の淡い青白い輝きが、静まり返ったリビングの空気に溶けていく。透はソファの端に腰を下ろし、膝の上にノートパソコンを置いた。自動ログインが終わるのを待つあいだ、無意識に頬杖をついていた。起動音が鳴ると同時に、思いがけず“あのフォルダ”の存在が浮かんだ。湊の声が記録されていた音声ファイル。インタビュー用のメモ。そして――“江口さんのことではない.txt”USBからコピーして、自分のPCに残したままだったことを、透はずっと気づかないふりをしていた。理由は簡単だ。読めば、戻れないと思っていたから。けれど今夜、手元の湯呑に何の香りも感じなかった瞬間、何かが決壊しかけたのを自分でもわかっていた。フォルダを開き、迷いながらもファイル名をダブルクリックする。開かれたテキスト画面に現れた文字は、淡々としているようで、どこか震えていた。文体には癖があった。湊の書く言葉は、どこか遠回りで、でも正確だった。ひとつひとつの語尾や助詞に迷いの痕跡が見える。けれどその迷いが、逆にどれだけ本気で書かれたかを証明していた。目を走らせるうちに、ある一文が視界に止まった。「綺麗って、なんなんだろう」そのあとに続くのは、比喩でも比重でもない、ただの観察のような記述だった。「火の色が頬を照らしただけで、泣きそうになるなんて知らなかった」「綺麗だと思ったその瞬間に、胸の奥がざわついた」「手を伸ばしてはいけない気がした。でも、見ていたかった」「……でもこれは、江口さんのことではない」透は小さく、口元を歪めた。笑ったのだと思う。ただの言い訳のような否定文が、まるで子どもが指先で穴を塞ごうとしているように見えた。文字の隙間からこぼれ落ちる感情は、明らかに、誰かをまっすぐに想っていた。それが、自分に向けられていたものだと、透はようやく認めることができた。「アホやな……」つぶやいた声は、思ったよりも穏やかだった。声を出すこと自体が久しぶりで、喉の奥が少しだけ違和感を訴えた。モニターの光が顔の片側を照らす。瞼の裏がじんと滲むような感覚があったが、涙にはならなかった。ただ胸の奥がきゅう、と締めつけられる
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破片に触れる

書斎の引き出しの奥に、埃をかぶったまましまわれていた小箱があった。透はそれを取り出すと、ためらいがちに蓋を開けた。金継ぎ用の道具一式――接着剤、金粉、細筆、砥石、竹べら。それらが並んでいる様子は、どこか慎ましく、けれど整った美しさを持っていた。湊が、ふとした会話の中で「金継ぎ、いいですよ」と言ったことがあった。割れたものを直すんですけど、傷跡を隠さないのです。金でなぞって、むしろ“あったこと”として残すのです。あのときの湊の目が、真っすぐだったのを思い出す。まるで、それを自分に重ねて見ていたかのように。透は棚の奥から、薄手の布に包まれた陶器の破片を取り出した。それは、数か月前にうっかり落として割ってしまった湯呑だった。口縁から底へと斜めにひびが入り、二つに分かれたまま放置していた。使い慣れたそれを捨てる気にはなれず、けれど直すきっかけもなかった。テーブルの上に破片を並べる。光の加減で、割れ目がかすかに影を落とす。指先で触れると、ふちの部分がわずかにざらついていた。破片同士がぴたりと合わさるのを確認すると、透は小さく息を吸い込んで、接着剤のキャップを開けた。きつい匂いが、鼻の奥をついた。わずかに目が潤む。けれど、その刺激さえも、何かを再生するために必要なように思えた。細い筆で、接着剤を破片の断面に丁寧に塗っていく。筆先が触れるたび、陶器の表面がわずかにきしんだ。自分の呼吸が、そのきしみと重なって、部屋の静けさに溶けていく。次に、金粉を取り出した。小さな瓶の蓋を開けた瞬間、微細な粉が空中にふわりと舞った。光に反射して、一瞬だけ宙がきらめいた。その儚さが、どこか湊の横顔に重なった。筆をもう一本取り、今度は金粉を溶いた漆を使って、接着面をなぞるように塗っていく。手は慎重に動いていたが、どこか怯えてもいた。もし失敗したら。もし、継いだはずのものが、また割れたら。そんな思いが、肩の奥にひそんでいた。それでも透は、動きを止めなかった。破片を合わせ、金でなぞる。壊れたものに、光を与えるような作業だった。そのひと筆ひと筆が、自分の中の何かをなだめていくようだった。途中、筆を持つ手をふと止めて、透は顔を上げた。天井を見つめる。意識がそこへ向いたわけではない。ただ、目線が自然に引かれたのだった。「……ようやくか」小さくつぶやいた声が、部屋に溶ける。誰に聞かせるでもな
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渡さない言葉

透は、ふたたびノートパソコンの前にいた。リビングの照明は落とされ、部屋のなかを照らすのはモニターの薄い光だけだった。静けさのなかに、時間の感覚はほとんど溶けていた。カーテンの隙間から入り込む街灯の明かりさえ、今夜は遠く思える。画面のフォルダの中にある、“江口さんのことではない.txt”というファイル名に、指先が再び伸びていた。湊の言葉の痕跡に触れてから、透の中では何かが変わっていた。読み返すたびに、その文字たちはより立体的に、感情の密度を増して迫ってくる。ただ、今夜は違っていた。ファイルを読むためではなかった。今度は、自分が書こうとしていた。何を書くのか、はっきりとはわからないまま。けれど、湊の言葉に触れてしまった心が、どこかで自分も何かを返さなくてはならないと、そう感じていた。透は、空白のファイルを新しく開いた。カーソルが、左上でちかちかと瞬いている。そこには何も書かれていない。書こうとするたび、脳裏に浮かぶのは湊の表情だった。まっすぐに見つめてくるあの瞳。声に出して、「好きです」と言ったときの、震えのない声。それにどう返せばいいのか。どんな言葉を選べば、まっすぐさを壊さずに済むのか。それを考えれば考えるほど、指先は動かなくなった。「ごめんな」でも、「ありがとう」でも、ちがう。「会いたい」――それすら、まだ口にできるほど整理されていない。指がキーボードの上で止まっていた。小さく、透は唇を引き結ぶ。息を吸って、ゆっくりと吐き出す。その呼吸音さえ、空間に浮き立つようだった。文字にならない感情が、まるで息とともに胸の奥で渦を巻いている。ふと、視線がデスクの端に置かれたプリンタに向かった。印刷して、渡そうか。ファイルを開いて、何も書けなかったのなら、せめて湊の書いた言葉を――自分の代わりに届ければ、何か伝わるのではないか。そんな考えが、ほんの一瞬、心のどこかで泡のように立ち上がる。透は机の上に手を伸ばした。プリンタの電源ボタンに指がかかる。だが、ほんの数ミリの距離を残して、そこで動きを止めた。駄目だ。そう思った瞬間、胸の奥に何かが鋭く疼いた。“渡すんちゃう。今度は、ちゃんと俺が言わなあかん”それはさっきまで金継ぎの作業をしていたとき、自分が心の中でつぶやいた言葉だった。誰にも言われたわけではない。ただ、湊の気配に触れて、自然と浮かんできた
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あんな目ぇで

透は、窓辺のソファに身を預けていた。背を少しだけ丸め、右手には湯呑があった。乾きかけた金継ぎの継ぎ目が、橙色のスタンドライトに照らされて、わずかに光を帯びている。口はつけていない。湯呑からもう湯気は立っておらず、器の底に残った茶の色だけが時間の経過を物語っていた。外は静かだった。窓の隙間をかすかに通る夜風が、ほんのわずかにブラインドを揺らす。その細い音が、耳の奥に残る。何も話さない夜に、自分の呼吸とその風音だけが寄り添ってくれているようだった。あんな目ぇで、俺のこと見とったんか。ふいに、湊の視線が脳裏によみがえる。あの夜、まっすぐだった。怯えも、迷いも、まったくなかった。静かに口を開いて「好きです」と言ったその声は、どこまでも落ち着いていて、何ひとつ揺れていなかった。それが、逆に怖かったのだと今ならわかる。透は湯呑を持つ手を少しだけ握りしめた。器の縁が指に触れる感触が、どこか冷たくて、切ない。あんたみたいな子が、あんなふうに好いてくれるなんて。それは嬉しかったはずやのに。それを怖がって、拒んで、手ぇ離して。……何が大人や。何が器や。どこかでずっと、自分は“受け止める側”でなければならないと思っていた。年齢も、過去も、傷も全部抱えて、穏やかに過ごすことだけが自分にできる役割やと。誰かを好きになることはあっても、その相手からまっすぐに「好きです」と言われることには、心が追いつかなかった。それは、未熟やったんやろか。いや、未熟というより、ただ逃げとっただけかもしれへん。透は、窓の外に視線を向けた。街灯がぽつぽつと灯る道の向こうに、風で揺れる木の影が長く伸びている。誰も歩いていない歩道。誰かが来る気配もない夜。好きだと、告げられたとき。ほんまは、胸の奥がぎゅうっとなって、息が詰まるくらい何かが揺れた。けど、それに手を伸ばすことをしなかった。自分は、壊すのが怖かったんや。手放してから気づくくらいなら、最初から、ちゃんと抱きしめたらよかった。その言葉が、喉の奥で渦を巻いたまま、声にはならなかった。唇は閉じたまま、目だけが細められていく。部屋の中は相変わらず静かで、時折窓を鳴らす風が、一瞬だけ時間の輪郭を刻むようだった。机の上には、金継ぎを終えた湯呑があった。継ぎ目はまだ完全には乾いていなかったが、もう崩れる気配はなかった。その金の線が、自分の過去と向
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提出の午後

足元のコンクリートがしっとりと濡れていた。朝の雨はもう上がっていたけれど、空はまだ重たい雲に覆われたままで、陽の光が地面に届くことはなかった。湊は大学のキャンパスの裏手にある小さなベンチに腰を下ろしていた。提出棟のガラス扉をくぐって、担当教員に論文を渡してから、何分が経ったのかはっきりしない。書類の表紙には「孤独と個人生活に関する社会学的考察」と印字されていて、その下にきちんと整えられた自分の名前がある。なのに、今、膝の上に乗せた空の鞄はただの空洞で、胸の中もどこか空っぽだった。論文を提出するという行為は、もっと何か達成感のようなものを伴うと、思っていた。でも、終わったのはあくまで形式だったのだ。中身を支えていた時間と感情は、まだ、どこにも行き場を持たずに残っていた。湊はゆっくりと鞄の中を探り、ファスナーつきの内ポケットから小さなUSBメモリを取り出した。シルバーのボディに、自分で貼ったラベルがくすんで見える。「俺が初めて恋をした日.txt」。その名のファイルが保存されたUSBだった。何度も、開いては書き直し、読み返しては行を削り、また一から組み直して。あの夜、透の背中を見送ってから、湊の時間はすべて、このファイルに吸い込まれていった。最初は、ただ吐き出すだけだった。悔しさも、寂しさも、思い出したくない温度も。でも、書くうちに気づいた。この文章は、どこかへ放り投げるためのものじゃない。誰かに届いてほしいと、無意識のうちに願っていたのだと。いや、誰かではない。ひとりだけ。あの人に。手の中のUSBが、指先の熱を吸い取っていく。指の腹にかすかに汗が滲むのを感じた。もし、これを渡したら。読まれたら。いや、読まれなくても。きっと、もう元には戻れない。けれど、それでも渡したいと思った。書いたのは、逃げるためじゃなかった。声に出すことができなかった分、言葉を尽くした。だからこそ、これは“記録”じゃない。“告白”でもない。ただ、「自分の言葉です」と、誰かに手渡すためのものだった。届いても届かなくてもいい。ただ、“これが俺の言葉です”って、言いたい。湊は胸の奥にそう繰り返した。唇の内側をきゅっと噛むようにして、息を吐いた。重たい曇り空が広がる空を見上げると、雲の切れ間からわずかに薄い光が差していた。それが優しいものなのか、ただの偶然なのかはわからない。でも、その一筋
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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差し入れの夕方

玄関の前に立つと、風の音が少しだけ大きく聞こえた。夕方の光が淡く傾き、建物の影を長くしていた。湊は左手に持った紙袋の底をそっと握り直し、右手でインターホンのボタンを押した。指先が冷たいというほどではない。けれど、妙に静かな自分の鼓動だけが、身体の内側に響いている気がした。ドアの向こうから足音がした。ワンテンポ遅れて、錠が外れる音。その一連の動作に、以前と変わらない日常が息づいているようで、ほんの一瞬、心が揺れた。開いたドアの先に立っていた透は、湊の顔を見るなり、わずかに目を見開いた。その驚きは長く続かず、すぐに薄く笑んで、前髪を耳にかける仕草をした。声は出さず、ただ小さく首をかしげるようにして、視線を紙袋へと移す。湊は一歩も踏み込まず、玄関の框の外で言った。「これ……この前、江口さんが“昔好きやった”って言ってたカステラ、思い出して。まだ売ってたから、買ってきました」言いながら、紙袋をそっと差し出す。透はそれを受け取ることもなく、代わりに静かに問い返した。「……USBは?」その問いに、湊は少しだけ目を細めて、右手を軽く掲げた。銀色の小さなUSBメモリが、手のひらに乗っている。その存在が、何より大きな“返事”のように見えた。「差し入れです」声は穏やかだった。急くようでもなく、引くようでもなく、ただまっすぐに透に向けられていた。視線を外すことなく、湊は一拍置いて続けた。「読んでもらえたら、うれしいです」それ以上、言葉は出てこなかった。伝えたかったことは、もう全部、あのUSBの中に閉じ込めてある。声にしてしまえば、どこかが嘘になってしまいそうで、湊はそれ以上の音を出すことを自分に許さなかった。沈黙が数秒、空気の中でゆっくりと広がった。透の目は湊の手元に留まっていたが、ふと気づいたように顔を上げ、もう一度だけ前髪をかきあげた。彼の表情は読めないままだった。迷いの影がそこにあるのか、それともただ驚きが残っているのか。けれど、その目の奥には、拒絶でも困惑でもない、なにかあたたかいものが潜んでいるように湊には思えた。湊は、USBを玄関のフローリングの上にそっと置いた。音はしなかった。床の上に、小さな銀色が静かに座る。その様子を見て、透が一歩踏み出す気配も、拾い上げる素振りもなかったのが、湊には不思議と心地よかった。求めていない。それでも、ここに置い
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ひとりの晩餐

炊飯器の保温音が、台所の片隅でかすかに鳴っていた。電子レンジの回転皿が一周ごとに、わずかに軋む音を立てる。冷えかけた味噌汁を鍋に戻し、弱火にかけると、湯気が細く立ち上っていった。部屋の中に、出汁と刻み葱の匂いがじんわりと広がる。透はコンロの前で湯気の立つ鍋を見下ろしながら、左手の中にある銀色の物体に目を落とした。USBメモリ。サイズも、重さも、何ひとつ特別なものではない。それなのに、指先に触れている部分が、やけに熱を持っているように感じた。彼の背後には、数分前に来訪した湊の姿がまだ、薄く残っている気がした。言葉少なに微笑んで、紙袋を差し出して、「これ、差し入れです。読んでもらえたら、うれしいです」と言ったときの声が、耳の奥に残っている。あの声は震えていなかった。けれど、透にはそれが、どんな鼓動のうえに組み立てられた言葉だったのかがわかってしまって、瞬間、なにも返せなかった。味噌汁がふつりと沸き立つ。火を止め、椀によそい、冷蔵庫にあった冷奴を皿に出す。ありふれた夜の食卓。だが、今夜はどこかの線が、ささくれだったまま浮いて見えた。リビングのテーブルに食事を並べ、椅子に腰かける。箸を手にしたまま、透は思わず無言で、テーブルの端に置いたUSBを見つめた。刺すべきタイミングがわからなかった。刺してしまえば、なにかが決定してしまう気がして、数秒おきに手を止めては、また箸を動かした。とうふの冷たさも、味噌汁の温もりも、舌に残らなかった。湯気が顔の横をすべって、すぐに消える。部屋のどこを見ても、もう湊はいないのに、その気配だけが、やけに残っている。箸を置き、静かに立ち上がる。パソコンは、部屋の隅の小さなデスクの上に開きっぱなしになっていた。透はゆっくりとUSBをポートに差し込む。ひとつの機械音とともに、画面右下に小さなウィンドウが現れる。“新しいリムーバブルディスクが接続されました”フォルダを開くと、ひとつだけファイルがあった。その名前が、胸の奥を刺すような痛みを連れてくる。「俺が初めて恋をした日.txt」透は思わず、声のない笑いを漏らした。ひとりでに目元がゆるむのを感じながらも、目線だけはファイル名に吸い寄せられたままだった。ファイルを開くのに、もう数秒の迷いが必要だった。けれどその間に、透の胸の奥で、いくつもの言葉が折り重なっていく。あの日のベランダの夜
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