夕方の光は、もう橙というより灰色に近かった。薄く湿った風が廊下を通り抜けるたびに、透の手に持った風呂敷の端が揺れた。包みの中には、金継ぎを施した湯呑がひとつ。もう冷めきったはずの茶の匂いだけが、布の奥でかすかに漂っている気がして、透は何度目かの深呼吸をした。ドアの前に立ちすくむ時間が、現実のものとは思えないほどに伸びていく。ノックをすればいいだけなのに、その音が生む未来のすべてを想像してしまって、手が上がらなかった。指先は冷たく、掌だけがじっとりと濡れている。一歩、引いてみる。いや、やっぱり、もう一度前に出る。その繰り返しのなかで、透はふと、右手を見た。茶色の染みが残る風呂敷に触れている中指の第一関節が、わずかに震えていた。それに気づいたとたん、心臓が一度、強く鳴った。——こんなふうに、自分が“会いたい”って思って動いたの、いつぶりやろ。ようやく、指先がドアの表面を叩いた。控えめな音だったが、無音の廊下にはそれなりの響きがあった。中から物音はしない。透は再び、掌を胸の前で組むように重ね、唇をきゅっと引き結んだ。少しの間を置いて、内側の錠が外れる音が聞こえた。ドアがゆっくりと開く。隙間から現れたのは、少し伸びた前髪の奥に、眼鏡のレンズを光らせた湊の姿だった。透はその目を見て、何も言えなくなった。湊の瞳の奥が、確かに潤んでいた。光のせいではない、風のせいでもない。そう思えるほど、そこには感情があった。沈黙が一瞬、ふたりの間に下りた。湊は驚いたように見えたが、それ以上の何かを言葉にする前に、透が少しだけ首を傾げて、喉を鳴らした。「……ちょっとだけ、時間もらえる?」その声は、決して大きくはなかったが、凪いだ海のように澄んでいた。湊はうっすらと目を細めて、少しだけ顎を引いた。それが頷きなのか、戸惑いなのか、透には分からなかった。でも、ドアがゆっくりと大きく開いていったことで、それが答えだった。玄関の照明が廊下に漏れ出すと同時に、ふたりの影がゆっくりと交差した。靴を脱ぎながら、透はふと横目で湊の足元を見た。白い靴下の親指が、少しだけ内側に曲がっていて、彼がいまも緊張していることがわかった。そう思った瞬間、透の肩から余分な力が抜けた。自分だけじゃない。傷ついていたのは、離れた時間を生きていたのは、自分だけじゃなかった。リビングに通されても、透はすぐに座ら
Terakhir Diperbarui : 2025-06-29 Baca selengkapnya