All Chapters of 江口透、バツイチ。綺麗なひと~大学院生、論文調査のつもりでした: Chapter 21 - Chapter 30

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触れた指先

皿を重ねようとしていた透の手が、ふと湊の指先とぶつかった。ほんの一瞬の、軽い接触。だが湊の中で、その一瞬は異常なほど長く感じられた。触れたのは、指先の先端。陶器の滑らかな縁に沿って、彼の指がかすめただけなのに、そこから体の奥にまで、音もなく何かが走った。電流、というには柔らかすぎて、けれど明らかに心拍のリズムを乱すそれ。胸のあたりが不規則に跳ね、湊は思わず息を浅くした。「……あ、ごめん」透がぼそりと声を落とした。低く、少しだけ掠れていた。おそらく、単なる謝罪のつもりだったのだろう。だが、その声の抑えた調子が、かえって湊の神経を直接なぞった。「いえ、こっちこそ」そう返す声が、震えていないか不安になった。声帯が乾いていた。自分の中で何が起きているのか、はっきりとは言語化できない。ただわかるのは、指先を重ねてしまったその一点から、まるで世界の色彩が変わってしまったような感覚だけだった。手を引くべきだった。謝罪の言葉と同時に、あるいはその前に。けれど、湊の手はなぜか動かなかった。重なった部分にわずかに熱を感じる。その温度に触れていたくて、ほんの少しだけ、ほんの数秒だけ…そう思った瞬間、湊の心が自らの欲に気づいた。もう一度、触れたい。そう思ったのは、生まれて初めてだった。誰かの皮膚に、ぬくもりに、こんなふうに執着したことなどなかった。理屈ではない。言葉にもならない。感情でもなく、本能に近い。まるで記憶にすら刻まれない衝動のように、ただそこに在るもの。透の手は、ほんのわずかに、けれど確かに止まっていた。皿を持ち上げる手が動きを止め、指先に湊の感触を留めたまま、空気が凍りついたように静かになる。二人の間には、食器の重なりも、流しの水音も、もうなかった。ただ、重なった皮膚と、それぞれの呼吸音だけが、確かな存在として空間を満たしていた。時間の感覚が失われていた。長いのか、短いのかもわからない。けれど、湊の中には明確な感覚があった。このまま、もう一歩だけ進めば、何かが壊れる。もしくは、始まる。どちらにせよ、元には戻れなくなる。透は、指先をほんのわずかに動かした。それは、拒む動作ではなかった。ただそこから逃れようとするかのような、ごく自然な退避の仕草。湊の手がそれを止めた。意識の前に、指がわずかに圧をかけてしまった。重なった部分が、互いを認識する。そして――透が
last updateLast Updated : 2025-06-29
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頬に手を伸ばす夜

ソファに並んで座ると、食器を洗い終えた音の余韻がまだ室内に残っているようだった。換気扇は止まり、冷蔵庫の低い駆動音だけが、無音のなかで機械的に鳴っていた。リビングの照明は半分だけ点いていて、テーブルの上の急須と湯呑に柔らかな影が落ちていた。透は右肘を軽く背凭れにかけ、脚を組んで座っている。湊は、少しだけ間を空けて、姿勢よく腰を下ろしていた。だがその背筋の緊張は、時間の経過とともに少しずつほどけていった。言葉が出ないまま、視線だけが何度も透に向いた。喋ろうとして、湊は喉を鳴らしたが、音にはならなかった。透は何も言わず、ただ前方を見つめている。けれど、彼がそこにいて、呼吸をしている、そのこと自体が湊の神経の端々を静かに震わせていた。鼓動はいつもよりわずかに速く、けれど耳障りなほどではない。むしろ、その緊張すらも愛おしく思えていた。ふと、透の横顔が照明の角度で浮かび上がった。頬のライン、頬骨の起伏、顎へとつづく緩やかな影。そのすべてに目が吸い寄せられた。白いシャツの襟元がわずかに緩んでいて、さらりとした黒髪が、まだ襟足に貼りついている。湿った髪の匂い、食器用洗剤の残り香、そしてこの部屋に満ちた彼の気配。全部が、湊にとっては強すぎるほどの刺激だった。気がつけば、手が動いていた。自分でも、どうしてそうなったのか、正確にはわからなかった。ただ、その頬に触れたいと思った瞬間には、指先がもう動いていた。無意識だったのかもしれない。だが意志はあった。確かにそこに、触れたくなる衝動が、湧き上がっていた。透の頬に、触れる直前。あと数センチというところで、透が小さく口を開いた。「……あかん。それ以上来たら、俺、逃げるで」静かな声だった。責めるようでも、拒絶するようでもない。むしろ、どこか苦笑いを含んだ響きだった。それでも、その言葉は、湊の指をぴたりと止めた。手が空中で凍りつく。どこにも行き場のないその手は、わずかに震えながら、ゆっくりと自分の膝へ戻された。湊は唇を噛んだ。強く噛むわけではない。ただ、言葉にならない思いを内に留めるように、感情が溢れ出さないように、奥歯でかすかに噛みしめた。「……すみません。忘れてください」自分の声が、かすれていた。音量も、いつもより小さい。けれど、その一言を言わなければ、どうにかなってしまいそうだった。謝るべきなのかも、忘れてほしいのかも
last updateLast Updated : 2025-06-29
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割れたのは、どちらだったのか

部屋に戻った瞬間、湊は背中でドアを閉めた。鍵をかける手元がわずかに遅れ、カチャリと鳴った金属音がやけに耳に残った。冷房は切っていたはずなのに、空気は妙にひんやりしていた。カーテンは閉じたままで、部屋の隅に設置したフロアライトが低く灯っている。柔らかい橙色の光に包まれても、胸の奥の重さは拭えなかった。スニーカーを脱いだままの体を、その場にしばらく立ち尽くさせる。どこにも逃げ場がないような感覚。靴の向きを揃える気にもなれず、湊はやがて、リュックを床に落として、無言のまま椅子に腰を下ろした。頭の中を、何度も何度も、あの沈黙と、透の声が再生される。……あかん。それ以上来たら、俺、逃げるで。言葉自体に強さはなかった。責めるような語気もなかった。ただ、静かで、はっきりしていた。だからこそ、深く刺さった。触れていないのに、触れてしまった。そんな気がした。そして、その直後に、ふと頭をよぎったのは、今朝見た包まれた新聞紙の中身だった。ひとつ割れた茶器。テーブルの端に、何気なく置かれていたそれ。透は、手がすべっただけだと笑った。茶渋の跡がかすかに残った、あの湯呑。陶器の口が、細かく欠けていた。新聞紙をほどいた湊の視線が、そこから透の指先に移ったとき、わずかに赤みが差していたことを、彼は確かに覚えている。湊は静かに、椅子から立ち上がり、部屋のドアノブを握った。開けるつもりはなかった。ただ、その冷たい金属の感触が欲しかった。もしかしたら…本当に“すべった”だけだったのかもしれない。だが、それが器のことを言っていたのか、それとも、心の中の何かのことを指していたのか、湊にはもう分からなかった。あの時、透の指先が震えていたように見えた。小さな動きだった。ほんの、触れるか触れないかの距離で止まった、湊の手に気づいた瞬間、あの人は、何を思ったのだろう。頬に触れられることを、透は本当に拒んでいたのか。それとも、触れられた先にある自分自身の感情を、拒んだのか。わからない。だが、あの“逃げるで”の一言に宿っていたのは、ただの拒絶ではなかった。むしろ、触れられることへの許容がほんのわずかでもあったからこそ、その言葉が生まれたのではないか…そんな予感が、湊の中を通り過ぎていく。息を吸って、吐いた。深く。呼吸だけが頼りのように、何度も繰り返す。だが、そのたびに、記憶の中の透が、また浮か
last updateLast Updated : 2025-06-29
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遠ざかる湯気

窓際のカーテンがわずかに揺れていた。まだ冷房を入れるほどではない、湿り気を含んだ初夏の夕方。外から入り込む光は低く、部屋の中に伸びた影が、テーブルの上に斜めに重なっている。湊は、いつもと同じ座布団に座っていた。レコーダーはすでに起動している。取材用のノートも、膝の上に開いていた。けれど、ペンは動いていなかった。視線は、ノートの隅で止まったまま、透のほうを見ないようにしていた。目の前には湯呑がある。ほうじ茶の香ばしさは、もはやほとんど立っていなかった。表面に浮かぶ細かな泡も、もうすっかり消えている。湯気もない。触れれば、ぬるいとさえ感じるだろうその液面に、湊は手を伸ばせなかった。透は、キッチンのほうを向いたまま、何かを拭いていた。布巾を手にして、コンロの隅を丁寧に拭っている。会話のきっかけになるような音も言葉も、そこにはなかった。ただ、濡れた布がステンレスを擦る、ぴたりとした音だけが、部屋に残っていた。「……さっきのお話、もう少し詳しく聞いてもいいですか」湊がそう言ったとき、自分の声が少し震えているのがわかった。静けさが続いたせいで、発声のタイミングを誤ったような、そんな感覚だった。透は振り返った。けれど、その表情には笑みがなかった。いつもなら冗談のひとつでも挟むところだろう。それがないことに、湊は気づいていた。「どこから?」短い問い返しだった。けれど、そこには何かの“間”があった。話したくないわけじゃない。ただ、話す意味を見失っているような、そんな薄い温度。「……風呂あがりに、タオルの匂いが違うっておっしゃってたところから。どうしてそう感じたのかとか、そこから思い出すことがあれば」言いながら、自分でもそれが不自然な問いであることはわかっていた。取材の形式は保っているけれど、それが透を引き止めるための手段になっていることを、自分で悟っていた。透は、しばらく黙っていた。そして、ふっと息を吐くように呟いた。「…特に意味はないねん。ただ、なんか変わったなって思っただけや」それだけだった。以前なら、そこから少し脱線した話が始まった。誰かの話や、昔のことや、どうでもいいテレビの話に繋がっていった。それが今は、もうない。湊は頷いた。うなずくことでしか、反応を示せなかった。録音を止めようかとも思ったが、それをすることでこの時間が完全に終わってしまう気が
last updateLast Updated : 2025-06-29
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仮面の中のファイル

キーボードを打つ音だけが、部屋に鳴っていた。時折、窓の外で車の通り過ぎる音がする。そんな音さえ、今夜は妙に遠く思える。机の上の蛍光灯は狭い範囲しか照らさず、湊の部屋にはそれ以外の明かりがなかった。ベッドの上に脱いだシャツが置かれ、半開きの本棚の隙間からプリントの角がのぞいている。モニターの中央には、開いたWordファイル。その上部には、ファイル名が小さく表示されていた。「江口さんのことではない.txt」その文字列を、湊は何度も見返していた。何度見ても、違和感は薄れない。けれど、削除しようとも、書き換えようとも思えなかった。江口さんのことでは、ない。そういうことにしておきたかった。ただの文章。ただの記録。そういう仮面を被せることでしか、今日の自分は立っていられなかった。指が、またキーの上に触れる。白いシャツの裾が、風に揺れていた。そう書いたあと、湊は一度手を止めた。思い出しているのは、あの夕方だった。ベランダに出た透が、缶チューハイのプルタブを開けて、一口、飲んだとき。薄く濡れたTシャツの裾が、風に揺れた。その動きがなぜか、胸の奥に残っている。誰にも見せない姿だったのに、自分だけが知ってしまったような気がしていた。だからこそ、見てはいけなかった気もしていた。けれど、目を逸らすこともできなかった。視線は、勝手に動いていた。火をつけたタバコの火が、頬の影をゆっくりと照らして、次の瞬間には風で消えかけた。あの人の部屋の中には、時間があった。けれど、自分が触れてしまったことで、それが少し壊れたのかもしれない。湊はまた、キーボードを叩いた。煙のにおいは、ベランダ越しに届かなかった。でも、たぶん、部屋の中に染みついているんだろう。灰皿に置かれたフィルターの形。茶碗と一緒に並んだままの急須。誰かと暮らしていた痕跡が、もうなくなっている空間。記録として残すべきことは、きっと、そういう些細なものだ。そう書いたあと、カーソルが点滅する白い画面を見つめた。記録という言葉が、こんなにも自分を守ってくれることに、湊は気づいていた。いや、守ってくれていると“思いたかった”だけかもしれない。誰かの名前を主語にして書くとき、人は距離を取れる。感情を隠すことができる。だからこそ、自分は「江口さんのことではない」とファイル名に打ち込んだのだ。嘘であることを前提にした、その否
last updateLast Updated : 2025-06-29
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USBの中に

玄関の扉が、いつもよりゆっくりと開いた。「……あ、あの、これ…前回のインタビュー分、まとめてきたんで」湊は差し出した指先を、ほんの少しだけ握りしめるようにして、右手に持っていたUSBを差し出した。小さなスティック状のそれは、銀色のカバーがついたまま、掌の上で心許なく光を反射している。透は、室内からその手元を見下ろした。受け取るまでにかかった時間は、ほんの二秒もなかったはずなのに、湊にはやけに長く感じられた。透の視線が、USBにではなく、その手の甲に落ちた気がしたからだ。「ええよ。預かるわ」何気ない口調だった。けれど、その声が少し低く、少しだけ乾いて聞こえたのは、湊の意識が過敏になっているせいだと、そう思いたかった。「ありがとうございます…お願いします」かすれたようなその声が、自分の口から出たものだとは信じがたかった。けれど、透は何も言わず、USBをそっと指先で受け取った。手と手が、触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。ふとした瞬間にもう一歩近づけば、皮膚が重なっていたかもしれない。でも、湊はその手をほんの一拍早く引いた。相手の体温を知るのが怖かった。ドアの内と外。境界のような空気が、そこには張り詰めていた。透はUSBを持ったまま、玄関の靴箱の上に目をやった。それからようやく、湊に目を戻す。「中、全部入ってんの?」「はい。音声ファイルと、抜粋したメモと…整理できてないんですけど」湊は、目を合わせなかった。靴の先ばかりを見ていた。それがただの資料だと思えれば、こんなに息苦しくはならなかっただろう。だが、あのUSBの中には、入ってはいけないはずのものが、混じっている。“江口さんのことではない.txt”そのファイルが、フォルダの中に残っていることに、湊は気づいていた。けれど、確認しなかった。自分に問いただすことすら、できなかった。削除するタイミングを逃したのではない。見ないふりをしたのだ。もしかしたら、もうとっくに、読まれてしまってもいいと思っていたのかもしれない。でも、それを言葉にしてしまったら、本当になってしまう気がして。だから湊は、何も知らないふりをして、USBを渡した。透は、うん、とだけ小さく頷いた。「じゃ、見とくわ」それは、たしかにいつもの透の声だった。なのに、湊の鼓膜には、何かが引っかかるように響いた。緊張していたのは、自分だけ
last updateLast Updated : 2025-06-29
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読まれてしまった夜

台所から湯を沸かす音が消え、ほうじ茶の香りが立ち上る。夜の部屋は静かで、冷たい蛍光灯の光が天井に溶けていた。透は湯呑を両手に包むようにして、リビングのテーブルについた。テレビはつけていなかった。音楽も流れていない。鍋の中の湯がゆっくり落ち着いていくように、部屋の空気が静まっている。USBは、いつものようにラップトップの脇に置かれていた。白いコードと銀のカバー。どこにでもある市販品。けれど、何かが違って見える。透はそれを指先で手繰り寄せると、軽く回しながら、ポートに差し込んだ。カチッという音がして、アイコンが画面に現れる。作業用のフォルダが並んでいる。インタビュー録音のmp3ファイル、湊のメモ書き、日付別の整理フォルダ。だが、その中に、ひとつだけ異質な名前があった。“江口さんのことではない.txt”最初に目にしたとき、透は見なかったふりをした。けれど、目がすぐにそこへ戻った。意味をはき違えたような、否定から始まるその名前。その名前の不自然さが、どこか湊らしかった。カチリと、Enterキーを押すまでに、数秒の逡巡があった。誰かの日記を勝手に開くような背徳感が喉の奥を塞いだが、それよりも先に、ファイル名に呼ばれたような気がしていた。ページが開いた。最初の一文は、何の前置きもなかった。火の色が、頬を撫でていたそれだけだった。透は、その文章に見覚えがあった。あの夜、ベランダで缶チューハイを片手にタバコを吸っていたとき、向かいの部屋から視線を感じた。あれは偶然だと流していたが、もしかしたら、その瞬間だったのかもしれない。記憶の奥がざわつく。画面に視線を戻す。行はゆっくりと、呼吸するように流れていく。白いシャツの裾が、風に揺れていたどこを見ているのか、本人も知らないまま声の震えが、夜に残る僕は、それを録っていたのではなく、ただ聞いていたかった透は無意識のうちに、湯呑を握っていた。掌の中で陶器のぬくもりがじんわりと広がるが、それが安らぎにはならなかった。指先が僅かに震えていた。茶の香りが遠ざかる。画面の言葉は続いていた。僕はあなたの生活を見ていたでも、それは研究のためじゃなかった誰にも聞かせないために、僕は書いたこれはただの記録ですただの記録であってほしいと願っているでも、たぶん、違うもう、違ってしまったページを送るたび、心が少しず
last updateLast Updated : 2025-06-29
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何も言わないという優しさ

朝の光は、まだ柔らかい。カーテン越しに差し込む陽射しが床にうっすらと模様を描いている。湊はその光の中で、いつもより慎重にシャツのボタンを留めていた。指先が少しだけ強ばっていた。昨夜はほとんど眠れなかったせいかもしれない。それとも、眠りの途中で何度も浮かんできた“もし”のせいか。もし、USBにあのファイルが入っていたらもし、それを江口さんが開いてしまっていたら考えても仕方のないことを、何度も繰り返しては、心の中で打ち消した。だが、打ち消すたびに、その可能性だけが色濃くなっていく。目を背けたくても、背けきれない。マンションの廊下に出ると、空気はまだ冷たかった。朝の湿気と微かな風が、頬を撫でていく。足音を立てないように意識しながら、エレベーターへと向かう。まだ扉のランプは動いていない。そのとき、隣の部屋のドアが、ゆっくりと開いた。驚いたふうでも、慌てるでもなく、江口透が出てきた。手には小さなレジ袋。ごみ出しのタイミングがたまたま重なったのだろう。それは、偶然だった。たぶん。透は湊に気づいた。けれど、いつものように笑わなかった。ただ、そのままこちらを見た。真正面から、逸らさずに。湊の心臓が、ひとつ跳ねた。声を出すべきか迷ったが、言葉は出なかった。唇が、乾いていた。透は一言も発さなかった。ただ、ほんの少しだけ首を傾けた。その動作に、やさしさが滲んでいた。それが逆に、湊の胸を締めつけた。読まれたのだと、確信した。読まれて、何も言われなかった。それはたぶん、責めないという選択だった。気づかないふりをするという、最大の配慮。けれど、湊にはそれが、何より苦しかった。読まれたくなかったのではない。読まれて、何も言われなかったことが、怖かったのだ。すれ違うとき、透の呼吸が耳にかすかに触れた。甘くも苦くもない、ごく自然な息づかい。だが、それだけで、湊の手のひらには冷たい汗が滲んだ。背中を向けたあと、湊は振り返ることができなかった。ただ、足早にエレベーターへと向かった。心臓が速くなっていた。鼓動が、喉元まで押し寄せてくるようだった。大学での講義中も、論文のチェック中も、どこか遠くに意識が浮いていた。何かに触れれば壊れてしまいそうなほど、感情の輪郭があいまいだった。夜、部屋に戻る。机に向かい、ノートパソコンを開く。その動作が、いつもより重かった。指先が、キーに触
last updateLast Updated : 2025-06-29
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手土産の意味

玄関の前で足を止めた瞬間、湊は自分の手がじっとりと濡れていることに気づいた。握りしめていた紙袋の持ち手が、いつの間にか手のひらに食い込んでいて、その下には微かに汗の跡が滲んでいた。冷えた夜気の中でも、指先の熱だけは逃げなかった。空は灰色のまま暮れきれず、粒にもならない霧のような雨が舞っていた。街灯の下、光に滲む空気が白く、ふわりと揺れる。時計を見ると、針は夜の七時を五分だけ過ぎていた。和菓子屋で選んだ小ぶりのカステラは、淡い黄色の和紙に包まれている。袋の口を結ぶ細い紐が、どうにも頼りなく見えた。湊は息を整えるように深く吸ってから、マンションのインターホンにそっと指を伸ばす。押した瞬間、胸の奥が跳ねた。指の震えが止まらず、押したボタンの感触すら曖昧になる。数秒の沈黙。長く感じたその沈黙ののち、いつものくぐもった声が、スピーカー越しに聞こえた。「はい」呼吸が一瞬、止まった。「あの……湊です。あの、少しだけ、お時間いただけますか」自分の声が予想以上に弱々しく、驚いた。返事が来るまでの間、紙袋の口元を無意識に摘んでいた指が、ぎゅっと力をこめていた。パチ、と扉のロックが外れる音がして、すぐに木の軋むような気配とともに、ドアが開いた。そこに現れた透は、室内の薄明かりを背に、少し驚いたように瞬きをした。「……あ、湊くんか。どうぞ」柔らかい関西訛りの声。その語尾だけが、かすかにかすれていた。透は髪が少し濡れているのか、耳の後ろに手をやって、前髪を払いながら湊を迎え入れる。その手の動きに、湊の視線が一瞬、吸い寄せられた。「お邪魔します」声が思ったよりも低く響いて、玄関の沈黙をひとつ割る。中に入ると、ほうじ茶の香りが薄く漂っていたが、それもどこか色あせて感じられた。湊は靴を揃え、部屋の中にゆっくりと足を踏み入れた。廊下を抜け、台所の灯りだけが点いている空間に入る。テーブルの上には、いつもの急須と湯呑がふたつ。だが今夜は、まだ茶葉の香りすら立っていないように感じられる。透がふと、湊の手元に目をやる。「それ…?」「あ、これ……江口さん、甘いもの、好きでしたよね。駅前の…あの和菓子屋で見かけて、つい」差し出された紙袋を受け取る透の手のひらが、少しだけ冷たかった。湊の指先が一瞬、その感触に触れかけて、すぐに離れた。「うわ、懐かし…これなあ、前はよう買うててん。あ
last updateLast Updated : 2025-06-29
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声で、伝える

テーブルの上に、しんと静けさが落ちた。ほうじ茶の香りはまだ漂っていたが、湯呑の表面にはすでにうっすらと膜が張っていた。外では、まだ細かい雨が降っているらしく、窓を打つ音がときおり微かに聞こえる。湊は、目の前に座る透の表情を直視できずにいた。自分の手のひらを見て、それから湯呑の縁を指でなぞる。その間、心臓の音がまるで自分の耳のすぐそばで鳴っているかのように、やけに大きく感じられた。この静けさが、永遠に続くような気さえして、何度も言葉を飲み込んでしまいそうになる。けれど、今夜を逃したら、もうこの想いを伝える機会は来ない。そんな予感が、ずっと胸の奥を締めつけていた。湊は、ゆっくりと顔を上げた。透の横顔が見えた。穏やかで、けれど少し疲れて見えるその顔。頬骨の影が、照明の下でわずかに濃く落ちていた。ほんの少しの間、目を閉じる。深く息を吸い込んでから、もう一度、透を正面から見た。「……江口さん」呼びかけに、透はわずかに目を細めた。視線が合う。いつもは気軽に冗談を返してくれるその人が、今夜だけは何も言わなかった。「言いたいことがあるんです」湊の声は、驚くほど静かで、そして澄んでいた。喉の奥にわずかなしゃがれが残っていたが、それがかえって真剣さを引き立てていた。息を吸って、唇を少し引き結ぶ。顎に少し力が入るのが、自分でもわかった。視線を逸らさず、口を開いた。「好きです。江口さんが、好きです」声にした瞬間、何かが体の中から抜けた気がした。吐き出したというより、差し出したという感覚だった。取り戻すことはもうできないと、そう思った。透はすぐには動かなかった。まばたきが、少しだけ増えたように見えた。それだけで、湊の心臓はさらに速くなった。透の目が、どこか遠くを見るように曇る。まるで、頭の中で何かを探しているようだった。湯呑を手に取り、しかしすぐには口をつけない。その手の中で湯呑が揺れることはなかったが、ほんの数秒、そのまま動きが止まった。やがて、湯呑を口元に持ち上げて、透はひとくちだけ茶を含んだ。飲み干すまでに、また少し時間がかかった。その後、ようやく口を開いた。「……あかん」そのひと言に、湊の背筋がぴんと張った。けれど、それは拒絶の色ではなく、ただ苦しそうな声音だった。「俺、そない受け止められる器ちゃうねん」ゆっくりと置かれた湯呑の音が、テーブルの上で微かに
last updateLast Updated : 2025-06-29
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