All Chapters of 冷めきった夫婦関係は離婚すべき: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

翌日の夕方、美穂は定例会を終えたばかりのところで、深樹からメッセージを受け取った。もう出られたと。一瞬きょとんとし、すぐに腑に落ちた。美羽がすでに国志に罪をかぶせた以上、深樹が釈放されるのは当然だ。美穂は律希に近くのレストランを手配させ、自分で車を運転して警察署へ向かった。宵闇が濃くなり、警察署の前では街灯が次々と灯る。深樹はゆったりした私服姿で階段の下にしゃがみ込んでおり、体つきは以前よりもずいぶんと痩せて見える。車が目の前に停まり、ナンバーを見て美穂の車だと分かると、濡れた子犬のような瞳がぱっと輝いた。まるで星屑を散らした海面のように。「水村さん」立ち上がって小走りに近づくその声には、九死に一生を得た安堵が滲み、少し掠れていながら、抑えきれない喜びがはっきりと伝わってくる。美穂は窓を下ろしたが、視線は彼の背後へと流れた。少し離れたところに、色褪せた古い上着を着た健一が立っている。継ぎはぎだらけの布袋を手に、片足を少し引きずって、あまり安定して立てない様子だ。息子の声を聞くや否や、振り返って興奮気味に言った。「水村さん」「ええ」美穂はドアロックを解除した。「レストランを予約してあります。一緒にご飯を食べましょう」健一は慌てて手を振った。「お気遣いなく、俺たちは適当に食べますから」これ以上美穂に迷惑をかけるわけにはいかない、という顔だ。「父さん」深樹はそっと健一の袖を引き、目で合図をした。美穂に向き直ると、また明るく従順な「いい子」の表情に戻り、素直に言った。「じゃあ、お言葉に甘えて。ちょうど話したいこともありまして」美穂は軽く頷き、二人は車に乗り込んだ。車内は静かで、時折ナビの音声が響くだけ。助手席の深樹は、横目でこっそり美穂を窺った。運転に集中する彼女の横顔は、車内灯に照らされて一層きれいに見える。レストランに着くと、律希はすでに個室で待っていた。料理が次々と運ばれる中、健一は終始落ち着かない様子で、何度も立ち上がっては美穂に飲み物を注ごうとし、「どうぞ、どうぞ」とひたすら丁寧な態度を崩さない。深樹はそれを止めるどころか、父以上に甲斐甲斐しく、美穂の好物を次々と取り分けた。「水村さん、これ食べてみて」美穂は手を上げてやんわりと断った。「自分のを食べて」深樹は一瞬動きを止め、瞳の奥
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第332話

いくら好きでも、釣り合いというものがある。息子は父親の目にはこの上なく優れた存在でも、美穂の家柄や背景には到底及ばない。健一は重い心を抱えたまま、階段を上っていった。車のそばに残ったのは、美穂と深樹だけ。空気はどこか微妙だ。深樹は俯いたまま、小声で切り出した。「水村さん……僕、決めました。陸川グループは辞めます」美穂の顔を、彼は見られない。この仕事は、もともと美穂が天翔にお願いして手に入れてくれたものだ。それを自分の意思で手放そうとしている。美穂は反対もせず、ただ言った。「自分で決めたなら、それでいい」「少し休んでから、自分に合った仕事を探すつもりです」深樹は顔を上げ、瞳をきらきらと輝かせた。「これからはもう、水村さんを心配させません」美穂は肯定も否定もしなかった。二人の間に、しばし沈黙が落ちる。冷たい風が吹き抜けたのをきっかけに、深樹が慌てて言った。「もう遅いです。水村さん、お気をつけてお帰りください。おやすみなさい」美穂は頷いた。「ええ」彼女は車に戻り、ほどなくアクセルを踏んで走り去った。車のテールランプが夜の闇に消えるのを見届けた後、深樹の口元に浮かんでいた笑みは、ゆっくりと消えていく。視線の端に、背後の階段口に身を潜めている人影が映り、彼は低く鼻で笑った。――まあ、いい。まだ、利用価値は残っている。美穂はまず律希を地下鉄の駅まで送り、翌日の仕事で注意すべき点を伝えた後、そのまま車の流れに乗った。グローブボックスに置いていた携帯が突然鳴った。ちらりと見ると、画面には【先生】の表示。通話に出ると、向こうの源朔は明らかに機嫌がよく、声にも笑みが滲んでいる。「美穂、君の作品が入選したよ。今週末に開幕だ。一緒に審査会に出よう」時期的にも結果が出る頃だと思い当たり、美穂は答えた。「分かりました」電話を切り、彼女は深く息を吸った。星瑞テクの件は、和彦に止められた以上、これ以上関われないだろう。そう考え、美穂の眼差しはわずかに冷えた。結局のところ、和彦は、美羽の過ちを世に知られたくないのだ。彼の大事な美羽を、決して汚したくない。思考を収めると、美穂の心は静けさを取り戻した。週末の美術館は人で溢れている。美穂は源朔について展示ホールに入った。ガラス張りのドームから降り注ぐ日
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第333話

美羽は視線の端で美穂の存在を捉え、わずかながらも隠しきれない驚きを浮かべた。――どうして美穂が、ここにいるの?以前、和彦は美羽と菜々に源朔から絵を習わせた。そのおかげで陸川家を出入りする理由があり、華子から冷たい視線を向けられはしたものの、実際に学べたことは多く、しかも実用的だった。だが、美羽が通い始めてからというもの、美穂の姿は一度も見ていない。美羽の記憶では、美穂と源朔は特別親しい関係ではなかったはずだ。それなのに、なぜこの二人が一緒に美術展に出ているのか。――何か、見落としている?美羽は思案に沈んだ。「秦さんも来たのか」源朔は、丁寧な口調で言った。美羽はその距離感に気づかないふりをし、自然な仕草で源朔の隣に立つと、画集を手に今日の展示内容を説明し始めた。終始、美穂には一度も視線を向けなかった。まるで、美穂のほうが場違いであるかのように。「吉良先生には感謝しないといけません」美羽は微笑みながら言った。「ご指導がなければ、入選するまで、もっと時間がかかっていたと思います」口ぶりは謙虚だが、瞳の奥には揺るぎない自信が満ちている。源朔は美穂をじっと見つめ、口元を歪めて顎で合図した。――早く何か言え。しかし美穂は、ほんのわずかに首を横に振るだけで、美羽と関わる気はなく、源朔にだけ軽く微笑むと、そのまま背を向けて別の作品を見に行った。源朔は呆れた。――不肖の弟子め。展示ホールには人の流れが絶えず、「月中の人」の前で足を止める者もいれば、美羽の歯車と薔薇について語り合う声も聞こえてくる。「この二つ、雰囲気が全然違うね」「秦さんの作品、技法はすごく完成されてるけど、ちょっと感情が薄いかも」「このMさんのほうは一見シンプルだけど、見れば見るほど味がある。金属の薔薇より、感情が伝わってくるな」その声を聞き、美羽の表情がわずかに沈む。画集を握る指に、自然と力が入った。「で、このMさんって誰なんだ?」「さあ?このコンテスト、匿名やペンネームも可らしいから、結果発表まで分からないんじゃない?」そう言われた直後、審査員席で口論が起きた。腹の出た男性審査員が美羽の作品を指差した。「技法は完成しているし、テーマも新しい。高得点をつけるべきだ」それに対し、眼鏡をかけた女性審査員は首を振った。「作為が
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第334話

美穂はそれ以上応じず、視線を審査員席のほうへと移した。源朔は両手を背に回し、数名の審査員と話し込んでおり、表情はいつになく厳しい。美羽の言葉が、わざと周囲に聞かせるためのものだということは、美穂にも分かっている。和彦との親密さを誇示しつつ、美穂を「つまらない女」として貶めたいだけ。そんな幼稚な駆け引きに付き合う気はない。美穂が反応しないのを見て、美羽は図星を突いたと思ったのか、口元の笑みをさらに深めた。美羽はスカートの裾を整え、優雅な所作で自分の作品の前へと向かい、周囲からの称賛を一身に受けた。その眼差しには、優勝を疑わない自信が満ちている。審査員席では、議論がまだ続いていた。「秦さんの作品は技術が非常に完成されているし、業界内での知名度もある。金賞を与えれば、コンテスト自体の注目度も上がるはずだ」ぽっちゃり男性審査員はそう主張し、美術コンテストにも市場性は必要だと考えている。一方、女性審査員は終始Mの作品を推している。「絵画は、最終的には作品そのものを見るべきです。秦さんの絵は技巧に寄りすぎていて、一筆一筆があまりにも計算され尽くしているように見えます。どこか才気が感じられにくい印象があります。それに比べてMさんの『月中の人』は、一見すると無造作ですが、全体に自然な趣がある。特に月光の暈しには、伝統絵画の精髄が息づいています。あれこそが、本当に優れた作品です」「だが、Mさんとは誰だ?聞いたこともない名前だ。どう見ても新人だろう。新人に金賞を与えて、果たして納得されるのか?」「新人が何だというんです?ピカソだって、初出展の時は新人でした。芸術は経歴ではなく、実力で評価されるべきです」意見は最後まで折り合わず、最終的に投票で決めることになった。投票結果が出た瞬間、会場は静まり返った。Mの「月中の人」が、わずか一票差で勝利し、今回の美術コンテストの金賞を獲得したのだ。源朔は脇に立ったまま、表情こそ淡々としているが、背中の後ろでそっと勝利のVサインを作っている。その得意げな様子は、まるで先生から飴をもらった子どものようだ。コンテストはいよいよ、最終の表彰式を迎える。壇上のクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、司会者は金色の封筒を掲げた。「審査員団による三度の審議を経て、本コンテストの金賞作品は、独自の余白表現
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第335話

あの、自分がずっと見下し、「絵なんてまるで分かっていない」と思っていた美穂が――?そんなはずがない。専門分野での敗北は、好きな男を奪われることよりも、はるかに心をえぐる。その頃には、美穂はすでにコンテストの運営スタッフとともに表彰会場を後にしていた。スタッフたちは「月中の人」を絶賛し、作品を海外の美術展へ出展する件について、美穂と相談している。美穂は終始落ち着いた様子で話を聞き、淡々とうなずいて応じていた。美羽はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく美穂の背中を見つめていた。その瞳から、いつもの柔らかな色は完全に消え、冷え切った陰りだけが残る。手にしたトロフィーを強く握りしめ、力の入った指の関節が白く浮き上がっている。自分が、最も自信のあった分野で、ここまで完膚なきまでに負けるなんて――思ってもみなかった。病院では、華子が源朔の口から美穂の金賞受賞を聞き、喜びのあまり病気が治りそうな勢いだ。大きく手を振って家族の宴を開くことを決め、盛大に美穂を祝おうと言い出した。美穂は華子に押し切られ、週末の時間を割いて久しぶりに陸川家本家へ戻った。華子は華やかな深紅の振袖を着て、庭園の茶室にある漆塗りの座椅子に腰掛けていた。美穂の姿を見るなり、手招きした。「美穂、早く来なさい。おばあさんに顔を見せて」退院したばかりで顔色はまだ少し青白いが、気力は十分。目尻の笑みは隠しきれない。「金賞の証書は持ってきた?薫子たちにも見せてあげて」美穂が近づいた途端、背後から薫子の甲高く耳障りな声が飛んできた。「お義母様、退院したばかりなのに無理なさって。疲れたら、また入院することになりますよ?」その一言で、華子の顔色が一気に沈んだ。茂雄は後ろから大人しくついてきて、手には土産袋。苦笑いを浮かべながら慌てて取りなした。「彼女、口下手なだけだから、気にしないでください、お母さん」華子は鼻で笑った。菜々が小走りで駆け寄り、こっそり美穂に変顔を見せてから、腕を絡めて親しげに揺らし、崇拝のこもった声で言った。「お義姉さん、すごすぎる!」やる時はやる、その一作で一躍有名。美穂は楽しげに口元を緩め、菜々の頬を軽くつまんだ。「吉良先生から聞いたけど、あなた、作品出してないんですって?」菜々は急に咳払いをして、気まずそうに頬を掻いた。「
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第336話

美穂は視線の端で、感情の読めないその男をちらりと見ただけで、何事もなかったかのように静かに目を伏せた。一方、美羽の顔には笑みが浮かんでいるが、どこかぎこちない。贈り物も持ってきていて、手にぶら下げたままの姿は、まるで美穂の受賞を祝うために来たかのような格好で、渡すことも引っ込めることもできず、居心地の悪い立場に立たされていた。その気まずさを察したのか、和彦がさっと美羽の手から箱を受け取り、使用人に渡しながら淡々と言った。「体の補養のために、美羽が特別に手配した最高級A5ランクのお肉だ。後で厨房に頼んで料理してもらおう」華子は彼を睨みつけた。「そんなもの、家にはいくらでもあるわ」「多いに越したことはない」和彦はそう言って、使用人に持っていくよう目配せした。使用人は左右を見回し、誰の機嫌も損ねたくない様子で、箱を受け取ると足早にその場を離れた。明美はその様子を見て、ティーカップを置き、ふいに口を開いた。「せっかくの家族の食事会だし、そろそろ本題に入りましょう。和彦と美穂はもう離婚するから。美穂はもう、陸川家に顔を出すべきではないわ」明美は斜めに美穂を一瞥した。「今は和彦のそばには美羽がいれば十分でしょう」室内は静まり返った。誰も、明美がこの話題を突然持ち出すとは思っていなかったのだ。薫子は目を輝かせ、今にも口を挟みそうになったが、茂雄に肘で小突かれて言葉を飲み込んだ。反論しようとした瞬間、華子の陰鬱な視線とぶつかり、慌てて口を閉ざした。だが心の中では、計算を働いている。以前、和彦に紹介しようとしていた親戚の女の子――身内のほうが、死んだはずが生き返った美羽なんかより、よほどましだ、と。美穂はティーカップを手に取り、落ち着いた所作で一口啜った。表情に大きな変化はない。和彦は長い指を軽く曲げ、肘掛けを気まぐれに叩きながら、何も言わなかった。美羽はそっと目を伏せ、長いまつげの奥に、かすかな愉悦の光を隠した。「誰が、離婚したら陸川家の人間じゃなくなると言ったの?」華子は周囲の表情を静かに見渡しながら、数珠を弄び、落ち着いた口調で続けた。「私は孫娘が少ないの。ちょうどいいから、美穂を、義理の孫娘として迎えればいい。これからも美穂は、変わらず陸川家の一員よ」「お義母様!」明美は、まさか華子がそんな考えを持ってい
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第337話

「本人がどれだけ望んだって、無駄よ!」明美はようやく我に返り、声を荒らげて反対した。「お義母様、美穂は私たちと血の繋がりがないのに、どうして陸川家の人間として認めるの!」華子は冷ややかに言い返した。「私とあなたに血のつながりがあるとでも?」「……」明美は怒りに任せて、考えずに口を滑らせてしまったのだ。本当に血筋で論じるなら、華子も、明美自身も、薫子も、この家から追い出されることになる。「もういいわ」華子は結論を下すように言い、美穂の手を引いて立ち上がった。声は厳粛だ。「手続きが済んだら、美穂を連れてご先祖様の墓前に行き、きちんと頭を下げさせ、ご先祖様に認めてもらうわ」明美はさらに声を張り上げた。華子が本気で美穂を迎え入れようとしていることが、よほど癪に障ったのだ。「ご先祖様に認めさせる?あの世のご先祖様が知ったら、出自も分からない他姓の人間を認めるわけがないでしょう!」以前はまだ、明美は分別があると思っていたが、最近はますます手に負えない。華子の視線は氷のように冷え切っている。「私はまだ生きている。陸川家のことに、あなたが口出しする筋合いはないわ」華子は美穂に命じた。「私をダイニングルームまで支えて。食事の準備よ」明美は全身を震わせ、ハンドバッグを掴んで外へ向かった。通り過ぎる際、美穂の前で足を止め、憎悪を込めて言い放った。「覚えておきなさい。これで終わりじゃないわ」美穂が反応するより早く、華子は執事の和夫を呼びつけた。「明美の家族カードを止めてちょうだい」そう言って、深くため息をついた。この数年、明美を甘やかしすぎた。その結果が、今の傍若無人な性格だ。茶室に残された面々は顔を見合わせたまま、誰一人口を開かなかった。和彦は淡々と衣の裾を払うと、無関心そうに美羽へ言った。「行こう」家の実権を握る二人が去ると、残された茂雄一家は、椅子にもたれ込むようにぐったりした。薫子は胸を撫で下ろし、心底怯えた様子で言った。「お義姉さんがあそこまで怒るの、初めて見たわ」薫子が美穂を嫌っているのは、あくまで「陸川家若奥様」という立場に居座られ、金を引き出せないからだ。だが明美の美穂への嫌悪は、もっと生々しい。肉を喰らいたいほどの憎しみ――それに近い。菜々は眉をひそめ、不思議そうに茂雄へ尋ねた。「お父
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第338話

旭昆は、もう帰国したんじゃなかった?これは、いつ撮られた写真?ほどなくして、安里の次のメッセージが美穂の疑問を解消した。【弟が情報屋から買った写真です。秦莉々のそばにいるこの男、水村さんも知ってるでしょう。秦家の婚外子、秦旭昆。これは彼らが以前D国にいた頃の生活写真。彼の部下たちは、秦莉々を彼の愛人だと思ってたみたいです。】読み終えると、すぐにまた次のメッセージが届いた。【秦旭昆はD国での事業にダメージを受けて、手下の大半が逃げたらしい。少し前に帰国したみたいです。勢力は縮小したけど、弟の話だと、秦旭昆はD国にかなり強い後ろ盾がいて、産業チェーンは世界中に広がっています。】――つまり、旭昆の背後にいる「黒幕」は、世界規模の勢力を持っているということだ。美穂は画面の写真を見つめ、指先でスマートフォンの縁を軽く叩いた。旭昆のD国での事業が損害を受けた件。確かに自分は峯に手を下させたが、極めて慎重に動いていたから、彼が自分に行き着かないだろう。安里からのメッセージは、なおも続いた。【弟が言ってました。秦旭昆は今回、国内で腰を据えて動くつもりらしい。もし彼があの二人の姉を重く見るなら、水村さんは『彼女たちがのし上がるための障害』になります。気をつけなさい。】美穂は【分かった】とだけ返し、スマートフォンをロックした。旭昆との因縁は、あの二人がいようがいまいが、すでにつけられた。ただ昨夜話題にしていた人物と、翌朝には会社で顔を合わせることになるとは、思ってもみなかった。翌朝、美穂は早めに出社した。すると律希が困ったような表情で近寄ってきた。「水村社長、秦という男性が名指しでお会いしたいと。予約はありませんが、どうしてもと……」美穂は落ち着いて眉を上げた。秦という苗字の男で、自分が知っているのは政夫と旭昆だけ。状況を考えれば、相手は一人しかいない。「通して」ほどなくして、旭昆が大股でオフィスに入ってきた。派手なワインレッドのスーツに身を包み、髪は黒に戻している。だが、その身に染みついた傲慢さと荒々しさは、少しも隠せていない。彼は一直線にデスクへ向かい、両手をデスクにつき、見下ろすように言い放った。「水村。D国で俺が失ったあのいくつかの案件、お前の仕業だろ?」美穂は椅子の背にもたれ、表情一つ変えない
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第339話

美穂は招待状を少し遠ざけた。それでも、やはり香りはきつい。その直後、オフィスのドアが押し開けられ、将裕がひょこっと顔を出した。彼女の姿を確認すると、そのままドアを大きく開け、どっかとソファに腰を下ろした。手にしていたものを、ぱん、とテーブルに放り投げた。「美穂にも届いたか?」と彼は自問自答した。「この千葉家次男、素直に芸能界で遊んでりゃいいものを、急にこんなパーティーを開いて、みんなを集めるなんて。何を企んでるのかな」「みんな?」美穂は淡々と聞き返した。「他には誰が?」将裕は肩をすくめた。「君が思いつく顔ぶれ、俺が聞けた範囲のほぼ全員、招待されてる」美穂は黙り込んだ。少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。「千葉家は、京市ではほとんど基盤がない。清霜さんを除けばね。このタイミングでパーティーを開くのは、京市で存在感を示して、人脈を作る狙いでしょう」「じゃあ、行くか?」将裕が問うた。美穂は清霜の置かれている状況を思い出した。相手はきっと、このパーティーに顔を出す。――もしかしたら、助けになれるかもしれない。「行くわ」夜、パーティーは高級クラブで開かれた。美穂は黒のベルベットのロングドレスに身を包み、裾には細かな銀色のスパンコールが散りばめられていた。照明の下で、控えめながらも贅沢な光を放っている。メイクは繊細で上品。長い髪はゆるくまとめられ、すらりと伸びた首筋が美しく際立つ。全身から、冷ややかで気高い雰囲気が漂っている。将裕と並んで会場に入ると、京市の若い世代の令嬢や御曹司たちが、ほぼ勢ぞろいしていた。美穂はすぐに、鳴海と翔太の姿を見つけた。二人は数人に囲まれ、談笑している。鳴海は相変わらず大雑把な雰囲気。一方、翔太は金縁眼鏡をかけ、穏やかな笑みを浮かべている。一見すると温厚で優しいが、その瞳の奥には抜け目のなさが潜んでいた。将裕が美穂に顔を寄せ、声を落としてぼやいた。「この来客たち、見ろよ。千葉家次男、相当な顔ぶれをかき集めたな。自分が京市でも顔がきく人物だって、誇示したいんだろ」美穂は肯定も否定もせず、人混みの中で清霜の姿を探した。ほどなくして、入口に清霜が現れた。今日は意識して装ったようで、アイボリーのロングドレスが身体のラインを美しく縁取り、裾は足首まで届いている。装飾はほ
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第340話

美穂は思わず笑みをこぼした。将裕の言おうとすることは、よく分かっている。二人は子どもの頃、よく一緒に悪だくみをし、自分たちをいじめた相手に仕返しをしていた。けれど今は、そんな必要はない。和彦との離婚手続きはすでに正念場に差しかかっており、これ以上面倒を増やしたくない。「大丈夫」美穂は清霜のほうへ向き直った。「どこか座れるところを探しましょう」清霜はうなずいた。将裕は仕方なく引き下がったが、立ち去る前に和彦と美羽を露骨に睨みつけた。和彦は何かを感じ取ったように横目で振り返ったが、目に入ったのは杯を手に談笑する来客たちだった。――気のせいだろうか。一方、目ざとい美羽は美穂の姿を見つけ、無意識のうちに男の腕を組む手に力を込めた。「陸川社長、秦さん、早く中へ入りましょう」二人の脇に立っていたのは、千葉家の次男・千葉俊介(ちば しゅんすけ)だった。銀色のスパンコールシャツに、胸元は大きく開き、鎖骨のあたりにはタトゥーが覗いている。黒のレザーパンツが長い脚にぴったりと張り付き、手首に重ね付けされたメタルブレスレットが、動くたびに軽い音を立てる。千葉家の血筋は悪くなく、俊介もなかなかの顔立ちだが、全身からどこか得体の知れない妖しさを漂わせている。そのとき、同じく招待されていた昊志も三人の前に現れた。昊志は美羽の顔に一瞬視線を巡らせ、目にあからさまな賞賛を浮かべてから俊介を見やり、力加減は軽すぎず重すぎず、相手の肩に拳を打ち込んだ。「薄情だな。京市に来てずいぶん経つのに、やっと俺たちを誘う気になったのか」俊介は大げさに肩をさすりながら、「忙しくて会わせてくれなかったのはお前だろ。悪いのはそっちだ」と言い返した。二人の父親同士が旧知で、幼い頃からの付き合いでもあるため、言葉遣いも自然と砕けていた。「そうだ」俊介がふと思い出したように言った。「今夜はSRテクノロジーの水村社長も招いていたはずだが、どこにいる?」美穂は会場の隅にあるソファを選んで腰を下ろした。ウェイターからシャンパンを受け取ったその瞬間、俊介が数人を連れてこちらへ歩いてくるのが目に入った。清霜は黙って美穂のそばへ身を寄せた。この次兄に対して、清霜は露骨なまでに拒否感を示している。「水村社長、いい場所を選びましたね」俊介は目
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