All Chapters of 冷めきった夫婦関係は離婚すべき: Chapter 341 - Chapter 350

570 Chapters

第341話

美穂は相変わらず黙ったまま。それより先に、清霜が低い声で口を開いた。「プロジェクトのコアコードは、確かに軽々しく聞くものじゃない」――完全に俊介の面目を潰す一言だった。俊介はすぐに清霜の存在に気づき、口元を引きつらせるように笑った。「清霜、そんなところで何してるんだ?ほら、こっちに来て、お兄さんの隣に座れ」清霜は視線をそらし、彼の方を一切見ようとしなかった。場の空気は一瞬で冷え込む。千葉家の兄妹仲が険悪なのを知っている昊志は、話題を変えようと、自分が最も気にしている美羽に水を向けた。「まあまあ、別の話をしよう。秦さん、ミンディープAIプロジェクトの感情分析のアルゴリズムについて、少し教えてもらえないか?」美羽はハンドバッグをぎゅっと握りしめ、指先が白くなる。感情分析のアルゴリズムなど、自分が分かるはずもない。和彦のそばで長く学んできたとはいえ、興味は薄く、中途半端に覚えただけで、結局は絵を描くほうへ戻ってしまったのだ。それを公の場で持ち出され、美羽は無理に笑顔を作るしかなかった。「私がやっているのは、ほんの表面的なことだけです」「そうですか?」将裕が低く笑った。「でも、ミンディープAIはもう重要な段階に入っていて、秦部長自ら開発の中枢に関わっていると聞いています。表面的なことだけ、というのは無理があるのでは?」将裕がここまで公然と自分に矛先を向けてくるとは思っていなかった美羽は、微笑みを保ったまま、柔らかな口調で答えた。「東山社長、聞き間違いではないでしょうか。私は全体の統括をしているだけで、実務はすべてチームが担当しています」和彦が何気ない仕草で手を伸ばし、美羽の耳元の後れ毛を整えた。「大丈夫。俺がいるさ」その様子を見て昊志は一瞬言葉を失い、何か言いかけたが、俊介の声に遮られた。「SRのヒューマノイドAIロボットだって、リスク評価には穴があるんじゃないですか?どこも似たり寄ったりでしょう」美穂は俊介の視線を正面から受け止め、一歩も引かなかった。「千葉さんがそこまでご関心をお持ちなら、来週の業界サミットで、その点についてうちの技術部長に詳しく紹介させましょうか?」二人の視線が空中でぶつかり合い、周囲の空気が数段重くなる。清霜がそっと美穂の袖を引き、低い声でなだめた。「彼は口が悪いだけよ。相手にし
Read more

第342話

だが、その言葉は俊介に「美羽という女はなかなかやる」と思わせた。秦家はもともと京市ではそれほど目立つ存在ではなかった。それでも美羽は、自分の才覚と手腕で和彦の寵愛を勝ち取り、しかも和彦の心の中で確固たる地位を占めている。さらに和彦のリソースを巧みに利用し、自分自身と秦家を、京市の上層へと押し上げた。――相当な実力者だ。俊介は、美羽のやり方を卑しいとも不適切だとも思わない。むしろ、情勢を読み、立ち回るその賢さを評価している。それに比べれば、何もかも自力でやろうとする美穂は、少し物足りない。専門分野では確かに美穂のほうが上だが――だが、男というものは、頼られる存在でいたがる。女が強いだけで、何の意味がある?美穂は視線の端で、俊介の嘲るような表情を捉え、眉尻をわずかに寄せた。だがすぐに何事もなかったかのように表情を緩め、顔を横に向けて、柔らかく清霜に声をかける。「デザートコーナー、行ってみません?何か美味しいものあるかもしれません」清霜もこの場の人間関係にすっかり辟易しており、頷くとすぐに立ち上がった。「ごゆっくりどうぞ」美穂も続いて立ち上がり、落ち着いた物腰で言った。「私たちは何か食べてきます」そう言いながら、美穂は将裕にさりげなく目配せした。将裕は即座に美穂の意図を察し、二人が離れたあと、適当な話題を振って俊介の注意を自分に引き寄せた。こうすれば、他の者たちも、席を外した二人に過度な関心を向けずに済む。ただ一人、和彦だけが、美穂が立ち上がる直前に彼女を一瞥した。その瞳は暗く沈み、光を寄せつけない。その様子を見て、美羽の指先がかすかに震えた。――認めざるを得ない。コンピューターという未知の分野では、確かに自分は美穂に及ばない。だが、なぜ自分の弱点で、美穂の得意分野と比べなければならないのか。自分の強みは油絵だ。個展を開き、国内外で名を知られている。美穂は?作品はたった一枚だけで、新進気鋭の画家にすぎない。今回、美穂が金賞を取ったのも、ただの運だ。自分が負けるはずがない。娯楽目的のパーティーに、美穂はほとんど興味を示さなかった。清霜と一緒に食べたいものを一通り味わうと、そのまま将裕と共に席を後にした。車中で、将裕がぼやいた。「千葉俊介、狙いがはっきりしすぎだろ。入口から付き添っ
Read more

第343話

二人が話している最中、ラボの扉が押し開けられ、優馬が入ってきた。二人とも揃っているのを見ると、優馬は前置きもなく言った。「今日は情報工学科で公開講義があります。文野教授が人工知能の倫理について講義するんだが、聞きに行ってみますか?」「……文野教授ですか?」美穂は思わず顔を上げた。その名前は、まるで一本の針のように、不意に彼女の心の最も柔らかな部分を鋭く突き刺した。外祖父が何らかの事情で自分と名乗り合えないのではないか、と察してからは、下手に刺激しないよう、彼女は外祖父の動向をほとんど調べなくなっていた。それでも――会いたい気持ちは消えない。「義足になっても研究を続けている、あの文野教授ですか?」清霜の平板だった声に、ようやく起伏が生まれた。「論文、何本か読んだことあるけど……本当に透徹してます」美穂は我に返り、静かに答えた。「はい。あとで行きます」「水村さんは行くの?じゃあ、私も聞いてみるわ」清霜もそう言った。教学棟の階段教室は、すでに満席だった。遅れて来た美穂と清霜は、最後列に座るしかなかった。演台上のプロジェクターが点灯し、「人工知能」という太字の文字が映し出された。チャイムが鳴り、背中を丸めた小柄な人影が、教室の外に現れた。老人の右脚のズボンの裾は空っぽで、金属製の義足が床に触れるたび、かすかなカチリという音が響く。彼は演台の後ろまで歩み寄り、眼鏡を外してレンズを拭き、深い知性を湛えた目をあらわにした。その目尻の皺には、歳月の重みが刻まれている。――忠弘だった。忠弘はマイクを調整し、スピーカー越しに声を教室いっぱいに響かせた。「今日は三つのケースから入り、AIの意思決定における倫理的境界について話していきます……」語り口は穏やかで、論理は明晰。要点に差しかかると、左手を上げて身振りを交える。質疑応答の時間。忠弘の視線が教室をゆっくりと巡り、最後列で止まった。「白いシャツを着ている後ろの女性。アルゴリズムバイアスについて、どう考えますか?」一斉に視線が美穂へと集まる。彼女は立ち上がった。少し驚きはしたが、声は落ち着いている。「アルゴリズムバイアスの本質は、データバイアスです。学習データの中には、人間社会に潜む暗黙の差別が含まれている。AIはそれを、コードとして定量化しているにすぎませ
Read more

第344話

忠弘は手にしていたプレゼンターを置き、やや緊張した面持ちの若い顔ぶれを教室中に見渡した。その口元に、穏やかな弧が浮かぶ。「この質問はね。僕が数年前、初めて『AI倫理』の授業を担当したときにも、同じように投げかけられました」彼は講壇の縁まで歩み寄り、身振りを交えて続けた。「では、一つ仮定をしてみましょう」「AIが、君の眉間の皺を正確に読み取り、それが方程式を解けない焦りなのか、母親に叱られたときの悔しさなのかを見分けられたとして、その『悔しさ』の奥に潜む、『愛されたい』という渇望まで理解できるでしょうか?」前列の学生の誰かが、小声で呟いた。「今の感情モデルなら、文脈分析はできるんじゃ……?」「ええ、分析はできます」忠弘は頷き、ポケットからフルーツキャンディーを一つ取り出し、講壇の上に置いた。「ちょうど、このキャンディーの味が『甘い』と分かるようにね。けれど、子どもの頃、お正月にもらったキャンディーを大事に握りしめ、食べるのが惜しくて、最後には掌の中で溶かしてしまった。あのやるせなさまでは、決して分からない。AIは慰める口調を模倣することはできても、君が泣いたとき、無意識に肩を寄せてくることはありません。それは、人類が何百万年もの集団生活の中で、遺伝子に刻み込んできた、優しさです」彼は一拍置き、窓の外を横切る鳥を指さした。「コンピューターは人間より速く計算できますが、数学者を失業させませんでした。クレーンは人間より力持ちですが、建築家はむしろ、より自由な発想で建物を設計できるようになった。AIは膨大な感情データを処理できます。しかし、永遠に学べないものがある。それは『共感』の『共』の部分です。例えば、膝を擦りむいた君に、同じクラスの友だちがそっと絆創膏を差し出したとき、その指先に宿る体温」教室のあちこちから、次第に小さな笑い声が漏れ始める。忠弘はそのキャンディーを手に取り、最初に質問した学生へと放った。「本当の知能の時代に、人間が取って代わられないのは、心臓の鼓動が関わる瞬間です」言葉が落ちたあと、教室はしばらく静まり返っていた。やがて、澄んだ拍手の音が一つ響き、それを合図に、次々と拍手が広がる。その間も、忠弘の視線はずっと、後列で瞳を細めて笑う美穂に注がれていた。――孫は、大きくなったな……本当に、きれいだ。
Read more

第345話

清霜はオープンキッチンの入口に立ち、美穂が戸棚から鍋を取り出すのを見ていた。少し迷ったあと、清霜は小さな声で尋ねた。「……何か手伝ってもいい?」美穂は鍋にスープの素を注ぎながら、振り向いて微笑んだ。「野菜、洗えます?」清霜は頷き、シンクに向かって野菜を手に取った。水が指先を勢いよく流れ落ち、清霜は不慣れな手つきで余分な葉を摘み取っていく。その目には、わずかな新鮮さが宿っている。国内にいた頃はまだ幼く、海外に出てからは家政婦や使用人がいて、こうした雑事に触れることはなかった。生活感のあるこの光景は、清霜にとってひどくなじみないものだ。美穂は鍋を、ビルトインのIHが設置されたダイニングテーブルに運びながら言った。「きれいに洗えれば十分。そんなに気にしなくて大丈夫ですよ」清霜は「うん」と応え、洗い終えた野菜を水切りかごに入れた。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。美穂が清霜にレンコンの切り方を教えている最中だった。峯が大きな食材袋を二つ提げて入ってくる。キッチンの二人に気づき、足を止めた。「おや、千葉さんもいるのか?」彼の後ろから、篠が顔をのぞかせた。黒いレザージャケットのジッパーを首元まで上げ、銀色のチェーンネックレスが覗いている。清霜を見ると、篠はほんの一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの表情に戻り、手を挙げた。「千葉さん、こんばんは」清霜は顔を上げ、淡々と頷いた。「こんばんは、水村さん、菅原さん」声色は落ち着いていて、気まずさは微塵もない。むしろ篠のほうがほっとしたようで、峯の手から肉が入っている袋を奪い取った。「ほらね、1キロじゃ足りないって言ったでしょ。あなたが聞かないから」峯が篠の頭をくしゃっと撫でると、篠がその手を叩き落とした。「勝手に触らないで」二人のやり取りは自然で親しげで、ケンカするほど仲がいいカップルそのものだった。美穂は切ったレンコンを皿に移した。「峯、食器並べて。篠はタレ作りお願い」「はいはい」峯はスリッパを引きずりながらキッチンに入り、キャラクター柄の丼を4つ取り出した。清霜は思わず、もう一度それに目を留めた。水村家の兄妹の雰囲気とは、あまりにも相応しくない。ほどなくして鍋が沸き、ぐつぐつと泡立ち、小さな飛沫を上げる。篠は牛肉を一枚つまみ、鍋の中でくぐら
Read more

第346話

美穂がここまできっぱり拒むとは、思っていなかったのだろう。受話器の向こうは、しばらく沈黙が続いた。美穂が「切られたのでは」と思い始めた頃になって、ようやく男の低く淡々とした声が聞こえた。感情のこもらない「……うん」という一言だけを残し、そのまま通話は切れた。美穂はスマートフォンを握ったまま、バルコニーに立ち尽くす。夜風に煽られ、こめかみの後れ毛が乱れ飛んだ。画面が消え、彼女はわずかに視線を落とした。少ししてから、何事もなかったかのように踵を返し、室内へ戻った。ダイニングに戻ると、篠が清霜に肉団子を取り分けながら、最近のファッションショーについて愚痴っていた。ファッションなど分かりもしない峯が、存在感を示すかのように適当に相槌を打っている。美穂の姿を見て、峯が気ままに眉を上げた。「和彦か?」美穂は小さく「うん」とだけ答え、席に着いて食事を続け、それ以上は何も言わなかった。清霜は一度だけ美穂を見上げ、すぐに視線を落として黙々とスープを飲む。実を言えば、清霜は当初、美穂と陸川家との関係をよく知らなかった。母の見舞いを頼んだ際に、父親から聞かされて初めて知ったのだ。もし美穂を「陸川家の若奥様」として最初に認識していたなら、きっと友人関係には発展しなかっただろう。けれど今は――悪くない、そう思っている。女性は本来、表舞台に立ち、男たちと権力や利益を争うこともできるのだから。食事は八時過ぎに終わり、峯が車で篠と清霜を送っていった。美穂はマンションの下で手を振り、テールランプが角を曲がって消えるのを見届けると、ショールを寄せてエレベーターに乗った。シャワーを浴び終え、髪からまだ水滴が落ちている状態で出てくると、再びスマートフォンが鳴った。画面に【芽衣】が点滅している。美穂の瞳に、かすかな疑問が浮かぶ。もうすぐ深夜十二時だというのに、こんな時間に芽衣が電話をしてくる理由は?残業のトラブルだろうか。先ほどの和彦からの電話を思い出しつつ、細い指で通話ボタンを滑らせた。「美穂……」芽衣の声は震えていて、泣き声を必死に押し殺しているのが分かる。背景はひどく騒がしい。「迎えに来てもらえないかな……?」美穂はタオルで髪を拭く手を止めた。「どうしたの?」「陸川社長と接待で……HAKUGAクラブに来てる
Read more

第347話

美穂は扉の前で足を止めた。ここまで露骨に身内の女性をからかうのに、和彦は黙って見ているのだろうか。「……すみません、お酒は飲めません」芽衣の声には、はっきりとした拒絶が滲んでいる。美穂はそれ以上迷わず、扉を押し開けた。眩い光が一気に広い個室へ流れ込み、中にいる人間たちの歪んだ表情をあからさまに照らした。騒がしさは、ぴたりと途切れた。美穂は淡々と一巡見渡し、すぐに状況を理解した。――なるほど。だから旭昆は、ここまで好き勝手できるわけだ。和彦がいないから。芽衣の顎を掴み、無理やり酒を飲ませようとしていた旭昆の動きが止まり、不機嫌そうに美穂を睨めつけた。相手が誰か分かると、眉尻を吊り上げ、嘲るように声を上げた。「おやおや、水村社長はどうしてここに?このビッチが助けを呼んだのか?それとも何だ、善人気取りか?」周囲の男たちが口笛を鳴らし、下卑た視線で美穂を舐め回した。美穂はまつ毛をわずかに上げ、芽衣を見た。「彼女を放しなさい」声に抑揚はない。しかし、その冷たさは圧倒的で、反論の余地を与えなかった。旭昆と、その取り巻きの男たちを一瞥する視線は、まるで取るに足らない塵でも見るかのようだった。旭昆は鼻で笑い、芽衣の顎を掴む手に、さらに力を込める。芽衣は痛みに目を赤くし、唇を強く噛みしめて声を殺した。「放せ?水村社長、ここが誰の縄張りか忘れたのか?」彼は顎で背後を示した。「お前ら、この女、首突っ込みすぎだと思わないか?」美穂は落ち着いた眼差しで彼と向き合った。「芽衣は今、和彦の秘書よ。彼の人に手を出して、後で清算されるのが怖くない?」冷やかしと囃し立てる声の中、旭昆は強引に芽衣を抱き寄せて座らせ、脚を組んだ。「彼の秘書だから何だって言う?俺の姉は、彼の大事な人だぞ。部下一人のために、秦家と全面的に事を構えると思うか?それに、姉がうまく彼を丸め込むさ。お前が心配することじゃない」そう言いながらも、芽衣を掴む手の力は、知らぬ間に緩んでいた。旭昆は、引き渡す気はない。一方で、美穂はすでに彼の正面に腰を下ろしている。旭昆は少し前に美羽から、華子が美穂を義理の孫娘に迎えるつもりだと聞いていた。場合によっては、美穂が本当に将来、陸川家の人間になる可能性もある。今の彼には、軽々しく美穂に手を出すことはで
Read more

第348話

旭昆はそこでようやく美穂の存在を思い出したようで、煙草をくわえ、冷笑した。「こいつは人を奪いに来たんだよ」「奪う……?」美羽はわざとらしく目を見開き、すぐに困ったように微笑んで説明した。「水村さん、旭昆は周防秘書と少し冗談を言い合っていただけ。真に受けないでね。周防秘書はこのあと、和彦の資料整理を手伝う必要があるの。仕事が終わったら、早めに帰らせるから。それで、いい?」その言い方は、美穂に逃げ道を与える一方で、芽衣がここに残るという事実をはっきり示していた。相談しているようで、実際には反論の余地を与えない口ぶりだった。旭昆が何か言い返そうとした瞬間、美羽は周囲の視線を避け、密かに彼へ目配せした。――和彦の新しい秘書が美穂の親友だという事実は、ずっと自分の癇に障っていた。今夜は二人を引き離し、ついでに芽衣の好感も得られる絶好の機会だ。この馬鹿弟に、邪魔はさせられない。美羽は柔らかな視線で芽衣を見つめ、水のように優しい声で告げた。「先に外で待っていて。こっちが片付いたら、運転手に送らせるから」美穂は無表情のままだった。軽く一言で場を収め、人心を掌握する――美羽のその手腕は、ますます洗練されている。芽衣は、握られているその手が、なぜか冷たいと感じた。あるいは、ただ自分が怖くて緊張しすぎているだけなのかもしれない。今はただ、一刻も早くここを離れたい。仕事なんて――最悪、辞めればいい。いくら稼いだって、命があってこそ使えるのだから。美穂は芽衣の血の気の引いた顔を一瞥し、冷ややかな声で言い切った。「今日は、必ず彼女を連れて帰る」その場の空気に圧され、芽衣は体を震わせながら、美羽を見つめる。その目には、はっきりとした懇願の色が浮かんでいる。美羽はその様子を見て、内心で「情けない」と毒づきながらも、表情には終始穏やかな笑みを貼り付けた。芽衣の手の甲を軽く叩いた。「大丈夫よ。水村さんも、あなたを心配しているだけ」そして美穂へ向き直った。「水村さん、先ほどは旭昆が失礼した。代わりにお詫びします。ただ、周防秘書はかなり怯えているみたい。このまま無理に引き留めたら、余計に怖がらせてしまうわ」旭昆が即座に声を荒げた。「姉さん!何言って――」「旭昆」美羽は彼の言葉を遮り、警告を含んだ声で言った。「水村さんがそこまで
Read more

第349話

美羽は返事をしなかった。脳裏を一つの顔がよぎり、思わず指先が手のひらに力を込める。――美穂に人を奪われるなんて、そう簡単な話じゃない。一方、廊下では美穂が芽衣の手を引き、足早に歩いていた。芽衣の手はまだ震え続けている。「美穂……ありがとう」「感謝はいらないよ」美穂は足を止め、澄んだ瞳で芽衣をまっすぐ見据えた。「今の芽衣は情緒が不安定だから、長くは話さない。ただ一つだけ覚えておいて。秦美羽は、表面で見えるほどいい人じゃない。……人ってね、ちゃんと深く知ってからでないと、付き合うかどうかは決めちゃいけない」芽衣は呆然とし、何か言いかけて口を開いたものの、結局うつむいて黙り込んだ。美穂もそれ以上何も言わず、芽衣に目配せして、そのまま一緒に外へ向かわせた。クラブの入口に着くころ、芽衣も少し落ち着きを取り戻し、ためらいがちに言った。「美穂、友だちが向かいの角で待ってるの。ここまでで大丈夫」ちらっと美穂を見上げ、すぐに視線を落とした。「今日は本当に、ありがとう」「……気をつけて帰ってね」淡々とそう返すと、美穂は芽衣が小走りで道路を渡っていく背中を見送った。そして踵を返し、駐車場へ向かう。足を進めるたび、人感センサーライトが順に点灯し、揺れる光が地面に落ちる。車のドアを開けた瞬間、無意識に後部座席へ目をやり――心臓が一気に縮んだ。薄暗い車内、その後部座席に、人影が身を縮めるように座っていたのだ。反射的にスマートフォンを取り出し、指先が通報ボタンに触れたその瞬間、後部座席から伸びてきた手が、画面の上に重ねられた。骨ばった指。馴染み深い白檀の香りに、ほのかな酒気が混じり、月光に濡れた潮のように、静かに彼女を包み込む。男の湿った息が耳元をかすめ、微酔を帯びた低い声が落ちる。「……かけるな」美穂の動きが止まった。この声――聞き間違えるはずがない。狭い車内は静まり返り、二人の呼吸音だけが絡み合う。ふいに人感センサーライトが消え、濃密な闇が降り、後部座席の人影はいっそう曖昧になる。「……和彦?」美穂の声には戸惑いが滲み、スマホの縁を押さえる指先に跡が残った。返事はない。だが、画面を押さえていた手がゆっくりと離れた。美穂は手探りで操作パネルを見つけ、室内灯を点ける。暖かな黄色の光が一瞬で車内を満たした。
Read more

第350話

車内には、異様な静けさが漂っていた。和彦は、張りつめたままの美穂の横顔を、冷たい眼差しで見つめ、やがて手を引っ込めると、シートに身を預けて目を閉じた。ため息にも似たほど軽い声で呟いた。「……ああ。少ししたら、出ていく」いつの間にか室内灯は消え、メーターパネルの幽かな光だけが、二人の沈黙の輪郭を縁取っている。美穂はシートに背を預け、後部座席から聞こえてくる規則正しい呼吸音を耳にしながら、ただ疲労だけを感じている。芽衣の怯えた視線。美羽の計算高い立ち回り。そして今の、和彦の酔ったふりをした姿。すべてが、滑稽な茶番のように思えた。――どれほどの時間が経っただろう。美穂が、彼はもう眠ってしまったのだと思いかけたその時、後部座席の男がわずかに身じろぎし、聞き取れない呟きを漏らした。聞こえなかったし、聞きたいとも思わなかった。美穂は唇を結び、ドアを開ける。冷たい夜風が吹き込み、車内に残っていた酒の匂いを散らした。「和彦」彼女は車外に立ち、まるで他人に向けるような静かな声で言った。「明日、目が覚めたら……私たちの間に、いったい何が残っているのか、よく考えて」そう言い残し、彼女はドアを閉めた。車はここに置き、明日、峯に取りに来させればいい。自分はタクシーで帰るだけだ。足音は次第に遠ざかり、やがて駐車場の奥へと消えた。後部座席で、和彦はゆっくりと目を開く。その瞳に、もはや酔いの色は一片もなく、あるのは濃く沈んだ陰鬱さだけ。美穂が去った方向を見つめ、常に淡く冷静なその眼差しに、珍しく戸惑いの色が浮かぶ。――何が、残っている?彼自身も、それを知りたい。……晩秋の風が銀杏の葉を巻き上げ、SRテクノロジーの全面ガラス窓をかすめていく。ラボでは、最後のヒューマノイドAIロボットのモーションキャプチャデータ転送が完了し、モニターに「テスト合格」の緑色の文字が表示された。沈黙が続いていた空間は、一気に歓声に包まれる。美穂は眼鏡を外し、眉間を揉みながら、目の下に隈を作った若者たちを見渡し、ふと決断した。「明日は有給休暇。みんなでクラウドスキー場に行って、一日遊ぼう」「社長万歳!」技術部の若手たちは、デスクをひっくり返しかねない勢いで叫んだ。気まぐれでSRに見学に来ていた清霜はその言葉を聞き、淡々と口を挟んだ。
Read more
PREV
1
...
3334353637
...
57
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status