「絵里、本当に綺麗だ……」煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに――そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」北斗が耳元で囁いた。絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。そのとき、不意に部屋中にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。タイミングの悪さに、北斗はあからさまに不機嫌な顔を見せる。それでも、ディスプレイに親友・亮介(りょうすけ)の名前が出ると、しぶしぶ電話を取った。通話がつながると、北斗はドイツ語で「ドイツ語で話せ」とだけ告げる。「北斗、来月の結婚式、本当に逃げる気なのか?」――逃げる?思わず、絵里の思考が止まる。逃げるって……何のこと?すぐに北斗の投げやりな声が聞こえてきた。「逃げないで本気で結婚するとでも思ってるのか?みんな知ってるだろ。俺が絵里に近づいたのは、あいつの兄と因縁があったからだ。彼女の兄はもういない。兄の借りは妹で返すしかないだろう。俺は、あいつに復讐するために結婚するんだ。深山悠真(みやま ゆうま)は、唯一の妹を本当に大切にしていた。俺がその妹をもてあそび、挙式当日に逃げて、彼女に恥をかかせたと知ったら、きっとあいつは成仏できないな」指先がかすかに震える。心臓の奥が、凍りついたみたいに冷たくなっていく。――どうして。お兄ちゃんと北斗の間に、こんな深い溝があったなんて、私は何も知らなかった。ただ、お兄ちゃんがいなくなったあと、北斗だけが寄り添ってくれて――やさしく慰めてくれて、傷だらけだった私の心を、少しずつ癒やしてくれた。北斗は、絶望の底に沈んでいた私にとって唯一の光だった。でも、今はっきりわかる。その光は、最初から私のものじゃなかった。彼がくれた優しさも、言葉も――全部
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