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月光は、いま遠く

月光は、いま遠く

By:  すねんCompleted
Language: Japanese
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「絵里、本当に綺麗だ……」 煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。 こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに―― そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。 「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」 北斗が耳元で囁いた。 絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。 でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。 整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。 狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。 そのとき、彼はドイツ語で……

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Chapter 1

第1話

「絵里、本当に綺麗だ……」

煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。

こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに――

そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。

「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」

北斗が耳元で囁いた。

絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。

でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。

整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。

狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。

そのとき、不意に部屋中にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。

タイミングの悪さに、北斗はあからさまに不機嫌な顔を見せる。

それでも、ディスプレイに親友・亮介(りょうすけ)の名前が出ると、しぶしぶ電話を取った。

通話がつながると、北斗はドイツ語で「ドイツ語で話せ」とだけ告げる。

「北斗、来月の結婚式、本当に逃げる気なのか?」

――逃げる?

思わず、絵里の思考が止まる。

逃げるって……何のこと?

すぐに北斗の投げやりな声が聞こえてきた。

「逃げないで本気で結婚するとでも思ってるのか?みんな知ってるだろ。俺が絵里に近づいたのは、あいつの兄と因縁があったからだ。

彼女の兄はもういない。兄の借りは妹で返すしかないだろう。俺は、あいつに復讐するために結婚するんだ。

深山悠真(みやま ゆうま)は、唯一の妹を本当に大切にしていた。俺がその妹をもてあそび、挙式当日に逃げて、彼女に恥をかかせたと知ったら、きっとあいつは成仏できないな」

指先がかすかに震える。心臓の奥が、凍りついたみたいに冷たくなっていく。

――どうして。

お兄ちゃんと北斗の間に、こんな深い溝があったなんて、私は何も知らなかった。

ただ、お兄ちゃんがいなくなったあと、北斗だけが寄り添ってくれて――

やさしく慰めてくれて、傷だらけだった私の心を、少しずつ癒やしてくれた。

北斗は、絶望の底に沈んでいた私にとって唯一の光だった。

でも、今はっきりわかる。その光は、最初から私のものじゃなかった。

彼がくれた優しさも、言葉も――全部、嘘だったんだ。

――全部、嘘だった……!

「悠真が北斗を怒らせたのが悪いんだよ」

亮介が、ドイツ語で続ける。

「でもさ、あいつの妹は本当に綺麗だよな。あんな美人、見たことないぜ。

北斗、式が終わって彼女を捨てたら、俺にも回してくれないか?」

「俺もだ!絵里ちゃんの細い腰、ずっと気になってたんだ。

北斗、俺に一晩貸してくれ。あの顔、何度でもイケるよ!」

堂島亮介(どうじま りょうすけ)の周囲には、他にも男たちがいる気配があった。

そして、絵里の耳に飛び込んできたのは、さらに下品で卑劣な言葉――

「絵里ちゃんはダンサーだろ?踊れる子は最高らしいぞ。あんな子、俺も一度は味わってみたいもんだ!」

「俺も混ぜてくれよ!一晩で十回でもいけるぜ、はは、もう我慢できねえ!」

――北斗の表情が、さっと冷たく曇った。

あまりの怒りと絶望に、絵里の胸はどんどん冷え、全身が真冬の吹雪の中に閉じ込められたようだった。

長く一緒にいたからこそ、北斗の独占欲が人一倍強いことは、誰よりもわかっている。

だから、たとえ復讐のために近づいてきたのだとしても、こんなふうに自分の体を侮辱されるのを、彼が許すはずがないと思っていた。

卑劣な言葉に、きっと北斗は怒ってくれる――そう信じていた。

でも、北斗が口にしたのは――

「俺は潔癖だからな。芝居が終わるまでは近づくな。俺が逃げたあとは、好きにすればいい」

「北斗、いつ来る?みんな今、個室で待ってるぞ。詩織(しおり)もいるよ」

亮介が一息置き、続ける。

「詩織、ゲームで負けて罰ゲームだ。三分間フレンチキスだぞ。

お前が来ないなら、誰もキスしてやれない。その代わり、彼女は強い酒を三杯一気だ!」

「俺が面倒見てる子だから、あんまりからかうなよ。すぐ行く」

そう言って、北斗は電話を切った。

彼は絵里の腰をぐっと抱きしめ、急ぐように、荒々しく行為を終わらせた。

……すべてが終わると、片手で絵里を寝室へと抱き上げ、額に深くキスを落とす。

「絵里、会議に行ってくる。すぐ戻るから」

絵里は何も言わず、目を閉じて顔を横にそむけた。

――まさか、バレエ専攻の自分がドイツ語を理解しているとは思っていないんだろう。

だけど、八歳の頃には、もう六ヶ国語を話せるようになっていた。

北斗の裏切りも、嘘も、全部見抜いている。

こんな人を好きになった自分が、バカみたいだ。

ドアが閉まると、絵里は静かにスマホを取り出し、ある番号へ電話をかける。

「先生、半月後、一緒に海外に行かせてください」

先生と一緒に出国する日は、ちょうど北斗との結婚式の日。

北斗が芝居好きなら、最後まで付き合ってあげる。

彼がどんな顔をするのか――

結婚式当日、私がいなくなったら、彼は驚くだろうか。
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第1話
「絵里、本当に綺麗だ……」煌びやかなグランドクリスタルのピアノの上で、氷川北斗(ひかわ ほくと)に何度も口づけされながら、深山絵里(みやま えり)は全身の力が抜けていくのを感じていた。こんなふうにされるなんて、ただでさえ恥ずかしくてたまらないのに――そんな言葉までかけられて、絵里はつま先まで恥ずかしさが伝わり、思わず身体が強ばる。「絵里、もっと力を抜いて……もう限界だよ」北斗が耳元で囁いた。絵里は顔を赤らめて、そっと視線を逸らす。どうしても彼の顔を正面から見られなかった。でも、北斗は優しくも強引に、絵里の顔を自分のほうへ向けさせる。整ったスーツ姿なのに、ふいに見せる強引さと野性味。狼のような眼差しが、絵里のすべてを奪っていく。そのとき、不意に部屋中にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。タイミングの悪さに、北斗はあからさまに不機嫌な顔を見せる。それでも、ディスプレイに親友・亮介(りょうすけ)の名前が出ると、しぶしぶ電話を取った。通話がつながると、北斗はドイツ語で「ドイツ語で話せ」とだけ告げる。「北斗、来月の結婚式、本当に逃げる気なのか?」――逃げる?思わず、絵里の思考が止まる。逃げるって……何のこと?すぐに北斗の投げやりな声が聞こえてきた。「逃げないで本気で結婚するとでも思ってるのか?みんな知ってるだろ。俺が絵里に近づいたのは、あいつの兄と因縁があったからだ。彼女の兄はもういない。兄の借りは妹で返すしかないだろう。俺は、あいつに復讐するために結婚するんだ。深山悠真(みやま ゆうま)は、唯一の妹を本当に大切にしていた。俺がその妹をもてあそび、挙式当日に逃げて、彼女に恥をかかせたと知ったら、きっとあいつは成仏できないな」指先がかすかに震える。心臓の奥が、凍りついたみたいに冷たくなっていく。――どうして。お兄ちゃんと北斗の間に、こんな深い溝があったなんて、私は何も知らなかった。ただ、お兄ちゃんがいなくなったあと、北斗だけが寄り添ってくれて――やさしく慰めてくれて、傷だらけだった私の心を、少しずつ癒やしてくれた。北斗は、絶望の底に沈んでいた私にとって唯一の光だった。でも、今はっきりわかる。その光は、最初から私のものじゃなかった。彼がくれた優しさも、言葉も――全部
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第2話
氷川家は特殊な背景があり、その家の人間は国外に出ることができない。この先、私と北斗が同じ道を歩むことは決してない――まるで、あなたは西へ、私は東へ、もう交わることはないみたいに。電話を切った後、ふと顔を上げると、ベッドサイドには北斗がこっそりキスしてくれた時の写真が飾られていた。だけど今、あの北斗が日向詩織(ひなた しおり)と個室で熱いキスを交わしている光景を想像しただけで、その写真がとても嫌で、胸の奥がチクチクと痛んだ。思わず、写真立てごとガラスのフレームを床に叩きつけて割ってしまう。けれど、それだけでは全然気が済まなかった。北斗が私のためにオーダーメイドしてくれたウエディングドレスや、二人で撮った結婚写真――昨日受け取ったばかりで、別の部屋にしまってあったそれらを、勢いのまま全て引っ張り出し、高価なドレスはハサミで切り裂き、写真もひとつ残らず壊した。部屋を出るとき、ふと目に入ったのは、棚の上に置かれたクリスタルのスノードーム。それは去年、北斗の誕生日に私が特注したものだった。透き通ったガラスの中には、寄り添う男女――北斗と私が雪のような花に包まれ、まるで永遠を誓い合っているような、そんな姿だった。かつての私は、北斗と生涯を共にできると、本気で思っていた。でも今は、もう彼と一生を共にしたいなんて思えない。スノードームを勢いよくつかみ、そのまま床に投げつけて割る。それだけじゃない。北斗に贈ったありとあらゆる物を部屋中から集め、壊せるものは全部壊し、壊せないものはゴミ袋に詰めて捨てた。――まるで、北斗を心の中から消し去りたくて必死になっているみたいだった。そんなことをしていたら、あっという間に夜が更け、全てを片付け終えた頃には、すっかり朝に近い時間になっていた。シャワーを浴びると、すぐに眠気が襲ってきた。眠りに落ちかけたその時、不意に隣に人の気配を感じ、ベッドがふわりと沈んだ。次の瞬間、スカートの裾に誰かの手が滑り込む――「絵里……」北斗の声。昨日の夕方に求められたばかりなのに、もう欲しがっている。彼は絵里の上に覆いかぶさりながら、激しく、そして優しくキスを重ねてくる。彼の熱い唇は、絵里を絡め取るように何度もキスを重ね、まるで抜け出せない糸でしっかり縛られてしまった
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第3話
北斗は、絵里がドイツ語を理解できないと思い込んでいた。だから「ドイツのお客さん」からのメッセージを読むときも、特に絵里を気にする様子はなかった。喉を小さく鳴らし、素早くスマホに「外で待ってろ、今夜は車の中で試してみたい」とドイツ語で返す。そして名残惜しげに絵里へと視線を向けた。「会社でドイツとの取引にトラブルがあって、今から行かないといけないんだ。絵里、今日は早く寝て。明日の朝は、君の大好きな苺のケーキを買って帰るから」絵里は小さくうなずいて、毛布にくるまっておとなしく寝るふりをした。北斗が家を出て車で去っていくと、もはや眠気などすっかり消え去っていた。絵里は慌てて服を着てベッドを抜け出し、車に乗り込み、彼のあとを追った。「ドイツのお客さん」――きっとそれは詩織だとわかっていたけれど、それでもこの目で確かめて、すべてを諦めたかった。やがて北斗の車が、白い塀に囲まれた大きな家の前で止まった。門の前には、すでに猫耳のカチューシャをつけた詩織が待っていた。その猫のメイド服は、生地が薄すぎて、絵里が見ているだけで頬が熱くなるほど。腰もお尻もほとんど隠れておらず、背中には長い猫の尻尾までついている。北斗の姿を見つけると、詩織は頬をわずかに染め、はにかむように言った。「北斗さん、こういう服、初めてだから……なんだか変な感じ」「可愛いよ」北斗はいたずらっぽく尻尾をつまみ、突然そのまま彼女の後頭部を抱き寄せ、強引に唇を奪った。そのキスは激しく、詩織はなす術もなく、ただされるがまま。「北斗さん、やめ……」彼女のか細い声も、北斗はすべて飲み込んで、詩織をそのまま車へと連れて行った。二人はすっかり我を忘れ、近くで見ている絵里の存在など気付きもしない。絵里は、北斗が詩織の服を乱暴に脱がせ、車のドアが勢いよく閉まるのをただ見つめていた。車体が小さく揺れるたび、胸が締めつけられる。夜風に乗って、詩織のかすかな甘い声が耳に届く――「北斗さん、私と絵里さんのどっちが好き?」車の揺れがぴたりと止まる。しばらくしてから、北斗の冷たい笑い声が聞こえてきた。「あいつはただの暇つぶしだよ。お前と比べるなんて、おかしいだろ?」――ただの暇つぶし。胸が裂けそうなほどの痛みに、絵里は思わず息が止まり
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第4話
北斗は、それまでしっかりと詩織の手を握っていたが、絵里の姿を見た瞬間、あわてて手を離した。いつも余裕たっぷりで不敵な笑みを浮かべている北斗が、こんなにも動揺するのは珍しいことだった。特に、絵里の視線が詩織の手にある妊娠検査の用紙に注がれた瞬間、北斗はさらにうろたえた様子を見せた。けれど、さすがはビジネスの世界で修羅場をくぐってきた男。すぐに表情を引き締め、いつもの落ち着きを取り戻す。北斗は歩み寄り、優しく、けれどどこか必死な手つきで絵里の手を握りしめる。そのまなざしには、不安と心配、そしてどこか偽りのない愛情が浮かんでいるようにも見えた。「絵里、どうして病院に?どこか具合が悪いの?」絵里が妊娠検査の用紙から目を離さないでいると、北斗はすぐに口を開いた。「絵里、こちらは詩織ちゃんだよ。覚えてるよね?一年前、お前が助けてあげた女の子。帰り道で彼女が彼氏に殴られているのを見かけてさ。お前が昔助けた子だし、心配するだろうと思って、病院に連れてきたんだ。まさか、妊娠していたとは思わなかったよ。妊娠しているのに、彼氏が手をあげるなんて、本当に最低な男だ」絵里はもちろん、詩織のことを覚えていた。一年前、見知らぬ男たちに絡まれている詩織を助けたこと――破れた靴を履き、困っていた詩織にお金まで渡したことを、今でもはっきり覚えている。詩織は「卒業したら必ず恩返しします」と何度も頭を下げていた。絵里は特に見返りを期待していなかったし、まさかその子が自分の婚約者を奪うなんて、夢にも思っていなかった。「……絵里、どうしたの?どこか痛いの?何か言ってくれないと、心配になる」絵里がまるで魂の抜けたように立ち尽くしているのを見て、北斗はますます慌てて彼女を抱きかかえる。「大丈夫?無理しないで。今すぐ医者を呼ぶから、きちんと診てもらおう」絵里はすぐには答えなかった。やがて顔を上げ、じっと北斗の目を見つめる。北斗――この街でも名の知れた氷川家の後継者。二十歳で家業を継ぎ、ビジネスの世界では冷酷で有名な男。世間では「冷たい」、「感情を持たない」と噂されている彼が、絵里の前ではいつも違った。優しくて、深い愛情を惜しみなく与えてくれる存在だった。たとえ詩織との子どもができていたとしても、今こうして絵里をし
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第5話
冷たい手術台に横たわりながら、絵里はどうしても三年前の夜を思い出してしまう。あの晩、彼にすべてを捧げた。北斗は、大切なものに触れるみたいに、そっと絵里の身体に口づけを落とした。ふたりがひとつになった瞬間、彼は息を弾ませ、耳まで赤く染めていた。限界まで理性を抑えてくれて、痛くしないようにと、どこまでも優しかった。何度も何度も、優しく抱きしめ、深くキスを重ねながら、ふたりで未来の話をしたこともある。「まだ早いよ。今、お前には子どもを産ませたくない。何年か経ったら、お前に俺の赤ちゃんを産んでほしい。できれば女の子がいいな。絵里みたいに、賢くて綺麗な子を。俺の人生に必要なのは、お前だけなんだ。俺の子どもの母親は、絵里しかいない」そんなふうに誓ったのに、結局、心の底から絵里を愛してくれることはなかった。すべては嘘だった。彼は約束を破り、絵里の一途な想いを裏切った。――だから、もう彼のために子どもなんて産まない。麻酔が効いていて痛みはないはずなのに、命がひとつ消えていく感覚だけがはっきりと伝わってくる。お腹が、急に空っぽになった。心まで、ごっそりと空洞になったようだった。北斗は今ごろ、詩織のお腹の子を大切にしているのだろう。だからきっと、彼女のそばにいると思っていた。けれど、彼が戻ってきたのは、私たちの家だった。掃除もせずに放置したままの寝室は、まるで嵐の後みたいに荒れている。北斗は、目を赤くして床に膝をつき、割れてしまった写真立てを何度も組み直そうとしていた。でも、どれだけ拾い集めても、すべては元に戻らない。「絵里……」絵里が部屋に入ると、彼はそっと手の中のガラス片を置き、そのまま絵里を強く、強く抱きしめた。滲む声には、珍しく切羽詰まったような色が混じっている。「どうして俺たちの写真が壊れたんだ?結婚式はうまくいくよね……?」絵里は一瞬だけ、呆然とした。あんなにも結婚を嫌がっていたはずなのに、今はまるで本気で不安がっているように見える。演技――そう思いながらも、絵里もまた、何も言わず彼の芝居に付き合う。そっとしゃがみ込んで北斗の顔を両手で包み込み、優しく微笑んだ。「写真は、私がうっかり落として割っちゃったの。でも大丈夫。元のデータがあるから、新し
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第6話
北斗が詩織と浮気していることを確信した絵里は、すぐに詩織について調べさせた。調べれば調べるほど、興味深い事実がいくつも浮かび上がってくる。半年前にはすでに、詩織は北斗から贈られた別荘で暮らしていた。ところが二ヶ月前には、貧しい同級生である早瀬晶哉(はやせ まさや)に密かに想いを寄せて、告白していたという。しかし、その告白はあっさり断られた。どうやら詩織は、北斗と晶哉――どちらの男性も手に入れたかったようだ。晶哉は本当にお金に困っていた。年老いた祖母とふたりきりで暮らしていて、その祖母はつい先日、交通事故に遭い、加害者はひき逃げのまま行方知れず。手術費は1000万円。一週間以内に手術を受けないと、祖母の命は危ない状況だった。詩織は北斗が援助している貧困学生。北斗が彼女にそこまで入れ込んでいるのなら、自分も晶哉を援助してみるのも悪くない――そんな気持ちだった。幸いにも、晶哉の祖母の手術は無事に成功した。そして今、晶哉は絵里のマンション――市内中心部の高層階で、彼女に会うのを待っている。実のところ、絵里も彼に少し興味を持っていた。電話を切ると、そのまま車で部屋へ向かった。写真で見た彼は、透き通るような白い肌に、どこか静かな雰囲気をまとっていた。姿勢も凛としていて、まるで丹念に彫られた彫刻みたいに整った顔立ちだった。今どき写真はどれも加工されているし、実物はもっと地味なのだろう――そんな先入観もあった。けれど、実際に会ってみると、写真よりずっと素敵だった。あの北斗ですら敵わないかもしれない、そう思った。「あの、このたびは祖母を助けてくださって、本当にありがとうございました」晶哉はまっすぐで澄んだ声で礼を言った。卑屈さも媚びも一切なく、真っ直ぐな瞳で絵里を見つめている。絵里は、ふともう一度彼の顔を見つめ返してしまった。今日ここに来たのは、礼を言ってほしかったからではない。唐突に、絵里は切り出す。「キス、できる?」その一言に、晶哉の頬がぱっと赤く染まる。白い耳までうっすらとピンク色になっていく。静かな彼が、こんなふうに照れるなんて思いもしなかった。「無理なら、別の人に頼もうかしら――」「できます」彼女の言葉をさえぎるように、晶哉は一歩近づいてきて、抑え
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第7話
「絵里、今回の取引、ちょっと厄介なことになってて……今から急いで浜城市に行かなきゃいけないんだ。待たなくていいよ、早めに休んで」北斗の声はいつも通り落ち着いていて優しげだったけれど、絵里の心はどこか冷めきっていた。仕事が忙しい――ふふ、どうせあの子と一緒なんでしょう?本当に忙しい人ね、と心の中で皮肉を言いながらも、今の絵里にはもう、若い身体のほうが魅力的だった。だから彼の嘘をいちいち指摘する気も起きない。絵里は優しく気遣うふりをして、「無理しないでね、私も……」と言いかけた。「ん……」その言葉が言い終わらないうちに、晶哉の唇が鎖骨から下へと降りてきて、強い刺激に思わず身体が震え、言葉を紡げなくなってしまう。「絵里、どうしたの?」必死で声を押し殺し、唇を噛みしめて耐える。しばらくしてやっと落ち着きを取り戻し、「ちょっと足をひねっちゃって……またあとでね」とだけ伝える。「絵里……」このままじゃバレてしまう、計画に支障が出る――そう思って、すぐに電話を切った。その直後、晶哉の熱いキスが、絵里の呼吸を完全に支配していった。かすかに意識の片隅で、北斗から何度も着信があったことには気付いていた。でも今の絵里には、もう電話に出る余裕なんてない。【もう電話しないで、眠いから】とだけ返信を送り、スマホはベッドの脇に放り出して、ただただ若い身体に身を委ね、快楽に溺れた。絵里がその夜、家に戻ったのは、日付が変わった深夜になってからだった。昨夜は晶哉にスマホをマナーモードにされていたし、彼と過ごす間は携帯を見ることさえなかった。リビングに入ると、詩織から大量の動画メッセージが届いていることに気がついた。夜空に咲く花火の下、詩織と北斗がキスをしている動画。星空と月明かりの下、ふたりが遊園地で親密に寄り添い合っている動画。どれもこれも、挑発的な内容ばかりだった。【絵里さん、北斗さんはあなたのために花火を打ち上げてくれたこと、ある?遊園地を貸し切ってくれたこと、ある?】【昨夜、遊園地で何度も何度も求めてきたんだよ】【愛されてない女って、ほんとに哀れだよね。絵里さん、あなたって本当に可哀想】さらにメッセージは続いていたが、もう読む気にもならなかった。思いは、いつしか遠い過去へと
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第8話
絵里は無表情のまま北斗を抱きしめた。「そんなわけないでしょ」彼の体からは、詩織の香水の匂いが漂っていた。その甘ったるい花の香りに、思わず眉をひそめてしまう。それでも絵里は、持てる限りの演技力で、上辺だけの優しさを装った。「ウェディングフォト、私、すごく太って写ってたから……最近、本当に太ったのかも。昨日ドレスを試着したら、きつくて。だから、ついイライラしてドレスを切っちゃったの。でも切った後で後悔しちゃって、今は友達に頼んで、新しいのを急いで作ってもらってるの。写真も修正してもらうつもり」彼女の言葉を聞いた北斗は、少しだけ安堵したようだった。けれど、心の底に残る不安は、どうしても消えなかった。彼は絵里をぎゅっと強く抱きしめ、顔を彼女の首筋にうずめる。「絵里、お願いだ。ずっと俺のそばにいてくれるって、約束してほしい……」絵里は淡々と受け流す。「北斗、愛してる。絶対にあなたのそばを離れない。そうだ、これ、あなたへの結婚祝い」そう言って、絵里は綺麗にラッピングされた小さい箱を手渡した。それを見た北斗の目が、ぱっと輝く。すぐにでも開けようとしたが、絵里は彼を制した。「結婚式の日まで開けないで。新婚のサプライズなの。今開けちゃったら、サプライズじゃなくなっちゃう」箱の中には、彼女の中絶記録が入っていた。かつてふたりには子どもがいた。でも、北斗が詩織を産婦人科に連れて行ったあの日、絵里はその子を失った――このことだけは、彼にもきちんと知らせるつもりだった。「わかった。結婚式の日まで、絶対開けない」北斗は、絵里を離すまいと必死に抱きしめ、繰り返し同じ言葉を囁き続けた。「きっと結婚式はうまくいく。俺たちはずっと一緒だ……」絵里はおとなしく北斗の胸元に顔を寄せたが、その明るい表情には、どこか冷ややかな皮肉が浮かんでいた。大人の世界なんて、虚しさと偽りばかり。永遠なんて、どこにもない。――もしかして、芝居が癖になってきたのかもしれない。その夜を境に、北斗はまるで別人のように、絵里にべったり張り付くようになった。仕事以外は一緒にいたがるし、あっという間に結婚式の前夜を迎えた。本来なら、今夜は亮介たちと一緒にプライベートジェットで買ったばかりの南の島へ向かい、明日の式で絵里を
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第9話
「北斗さん、いつ出発する?南の島でパーッとやるの、楽しみだな!」詩織を家まで送った後、北斗は亮介たちに呼び出され、バーの個室で酒を飲んでいた。彼らは何よりも、他人をからかって遊ぶのが大好きだ。明日の結婚式で、北斗が突然姿を消して、絵里が会場中の客に嘲笑される――その想像だけで皆は興奮して、顔を赤くしていた。亮介は一口酒を飲み、上気した顔で言った。「女もたっぷり用意してあるぜ。処女だって何人かいるし、きっと北斗も気に入るはず!そうだ、北斗、明日になれば全員が知るんだ。お前が絵里ちゃんを捨てるって……ってことは、明日の夜、俺も絵里ちゃんを抱いていいんだよな?」 亮介の一言をきっかけに、他の友人たちも次々と盛り上がる。「俺も!昨夜、絵里ちゃんを抱く夢見たんだぜ……おかげでベッドが大変だった!」「俺も夢で絵里ちゃんと……あのスタイルは最高だよな。明日の夜は何回だってイケるぜ!」「俺も混ぜてくれよ!あの顔なら、一晩に十回は抱ける!」……北斗の友人たちは、みんなとにかく奔放だ。普段から下品な冗談も遠慮なく飛ばし合い、それに、北斗が絵里に近づいたのは復讐のため――本気で愛してるわけじゃないと知っていたから、絵里のことをさらに見下すような話題をわざと振る。以前の北斗は、自分は絵里なんて愛していない、ただの演技だと必死に自分に言い聞かせてきた。だからこそ、友人たちが絵里をけなしても止めることはなかった。心の奥では怒りが湧き上がっても、それを押し殺していた。――だが、もう自分をごまかすのは限界だった。彼女を初めて見た、あの六年前の夜。真っ赤なドレスを纏い、舞台の真ん中で踊る彼女の姿に、心臓が大きく波打った。あの一瞬で、すべてが変わった。一目で恋に落ちたのだ。「じゃあ峰人(みねと)、お前が明日の夜あの子の服を剥がしてやれ。上はお前、下は俺な」「……!」下品な言葉がどんどんエスカレートしていく。次の瞬間、北斗は目の前の未開封の酒瓶をつかみ、勢いよく亮介めがけて投げつけた!ガラス瓶は亮介の足元で割れ、酒とガラス片が飛び散った。みんな一瞬で静まり返る。「明日、俺は逃げない」沈黙の中、北斗の低く冷たい声が響く。「これからは俺の妻を大切にしろ。もう一度でも誰かが絵里に手を出そ
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第10話
「絵里!」空っぽの大きなベッドを見つめて、北斗の心は一気にかき乱された。あの、どうしようもない不安が胸の奥まで押し寄せてきて、息をするだけでも苦しい。慌ててスマホを手に取り、絵里に電話をかけようとしたそのとき、ふと、ベッドサイドに一枚のメモが置かれているのに気づいた。【北斗へ 友達に頼んで作ってもらったウェディングドレスができあがったの。先にホテルに行ってメイクするね。こっそり覗きに来ちゃだめだよ。結婚式であなたを驚かせたいんだ】そのメモを読み終えた瞬間、不安でいっぱいだった心が、すっと落ち着いた。そうか――絵里が夜中に家を出たのは、メイクのためにホテルへ向かったんだ。北斗はすぐに車の鍵を掴み、彼女を迎えに行こうとした。けれど、絵里がサプライズを用意していると知ると、今、ドレス姿を見てしまっては台無しだと思い直し、会うのをぐっと我慢した。結婚式当日に、晴れ姿の絵里に会えるのを楽しみに待つことにした。――翌朝、北斗も早々にホテルへ向かった。自分専用に仕立ててもらったオーダーメイドのタキシードもホテルに届いていた。彼は、背が高く、整った顔立ちで、職人が心を込めて縫い上げたスーツに身を包むと、まるで物語の王子様のように見えた。着替えを終えると、数人の友人たちとともに結婚式会場へ向かい、満ち足りた気持ちで新婦の到着を待った。今日は、きっと絵里も自分と同じくらいわくわくして、早めに会場に来てくれるに違いない――そう信じて、ずっと待ち続けていた。だが、いくら待っても絵里は現れない。「北斗、絵里ちゃんどうしたんだ?」亮介たちも、だんだんと不安そうな顔で聞いてくる。「こんな大事な日に、新婦が遅れるなんて……化粧室に様子を見に行こうか?」北斗もだんだん心配になり、自分で迎えに行くことにした。「北斗さん、こういう服、初めてだから……なんだか変な感じ」「可愛いよ」廊下を歩き出した、そのとき――どこからか、自分と詩織の声が聞こえてきたような気がして、思わず足を止めた。ふいに会場の大型スクリーンに、北斗と詩織の顔が映し出される。詩織は猫耳のついたセクシーな衣装を身にまとい、その瞳には期待と媚びるような色が浮かんでいる。北斗は彼女の猫のしっぽを悪戯っぽくつまみ、すぐに彼女
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