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第7話

Author: すねん
「絵里、今回の取引、ちょっと厄介なことになってて……

今から急いで浜城市に行かなきゃいけないんだ。待たなくていいよ、早めに休んで」

北斗の声はいつも通り落ち着いていて優しげだったけれど、絵里の心はどこか冷めきっていた。

仕事が忙しい――

ふふ、どうせあの子と一緒なんでしょう?

本当に忙しい人ね、と心の中で皮肉を言いながらも、今の絵里にはもう、若い身体のほうが魅力的だった。

だから彼の嘘をいちいち指摘する気も起きない。

絵里は優しく気遣うふりをして、「無理しないでね、私も……」と言いかけた。

「ん……」

その言葉が言い終わらないうちに、晶哉の唇が鎖骨から下へと降りてきて、強い刺激に思わず身体が震え、言葉を紡げなくなってしまう。

「絵里、どうしたの?」

必死で声を押し殺し、唇を噛みしめて耐える。

しばらくしてやっと落ち着きを取り戻し、「ちょっと足をひねっちゃって……またあとでね」とだけ伝える。

「絵里……」

このままじゃバレてしまう、計画に支障が出る――

そう思って、すぐに電話を切った。

その直後、晶哉の熱いキスが、絵里の呼吸を完全に支配していった。

かすかに意識の片隅で、北斗から何度も着信があったことには気付いていた。

でも今の絵里には、もう電話に出る余裕なんてない。

【もう電話しないで、眠いから】とだけ返信を送り、スマホはベッドの脇に放り出して、ただただ若い身体に身を委ね、快楽に溺れた。

絵里がその夜、家に戻ったのは、日付が変わった深夜になってからだった。

昨夜は晶哉にスマホをマナーモードにされていたし、彼と過ごす間は携帯を見ることさえなかった。

リビングに入ると、詩織から大量の動画メッセージが届いていることに気がついた。

夜空に咲く花火の下、詩織と北斗がキスをしている動画。

星空と月明かりの下、ふたりが遊園地で親密に寄り添い合っている動画。

どれもこれも、挑発的な内容ばかりだった。

【絵里さん、北斗さんはあなたのために花火を打ち上げてくれたこと、ある?

遊園地を貸し切ってくれたこと、ある?】

【昨夜、遊園地で何度も何度も求めてきたんだよ】

【愛されてない女って、ほんとに哀れだよね。絵里さん、あなたって本当に可哀想】

さらにメッセージは続いていたが、もう読む気にもならなかった。

思いは、いつしか遠い過去へとさかのぼっていく――

かつて北斗も、絵里のためだけに遊園地を貸し切ってくれて、一晩中花火を打ち上げてくれた夜があった。

火の粉が降り注ぐ中、何度も深くキスをして、「絵里、この人生で花火をあげるのは、お前だけだ。俺が愛するのはお前だけ。死ぬまでずっと変わらない」

そんなふうに、熱い誓いを囁いてくれた。

――あの頃は、本気で信じていた。ふたりは永遠に、裏切りなんてありえないと。

でも、絵里は彼の唯一にはなれなかった。

だから、もういらない――そう思った。

「絵里……」

階段を上がろうとしたそのとき、青ざめた顔の北斗が寝室から飛び出してきた。

いつもは余裕たっぷりのその瞳が、珍しく怯えて揺れている。

赤く充血した目で、絵里をまっすぐに見つめ、声も震えていた。

「俺たちの結婚写真、全部壊れてたけど……?ウェディングドレスも切り刻まれてた……絵里、俺と結婚したくなくなったの?」

――全部、見られてしまった。

けれど、彼はまだ全ては知らない。

もしクローゼットを開ければ、彼女が今まで手作りしたものも、彼が贈ったものも、全てが壊されて放り込まれているのに。

絵里が黙ったまま立ち尽くしていると、北斗の不安はますます濃くなっていく。

「絵里、本当に……もう俺のこと、いらないの?」
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