綾瀬菫花(あやせすみか)は苦笑いを浮かべながら口元を引き締め、引き出しから一枚の書類を取り出し、御堂慶真(みどうけいま)の前に差し出した。「慶真、離婚しよう。財産の分与については、全部この契約書に書いてあるから、目を通して……」言い終わる前に、御堂慶真(みどうけいま)が小さく舌打ちした。視線を上げると、菫花が契約書を差し出していた。彼は薄く目を開けたが、内容など見ることもなく、無造作にペンを取りサインを走らせた。「今度から仕事の契約書は、わざわざ持ってこなくていい。書斎の机に置いといて。静かにしてくれ。まだ電話が残ってる」そう言って、ペンを元の引き出しに戻すと、うるさそうに眉をしかめながらバルコニーへ向かった。白川研香(しらかわけんか)の声を、また聞き逃したくなかったのだ。菫花は、離婚届に乱れた筆跡で書かれた彼の名前を見つめた。そして、そのまま彼の背中を見送りながら、目尻が少しだけ熱を帯びる。けれど同時に、滑稽さすら感じていた。八年も続いた関係の終わりに、慶真はただ、元恋人との通話に夢中で、彼女の声すらまともに耳に入っていなかった。菫花はスマートフォンを取り上げ、淡々と告げる。「由井さん、賀川グループの訴訟案件、うちで引き継ぐわ。資料を私のメールに送って。それから先方と契約内容を詰めておいて」賀川グループとの手続きがすべて完了すれば——彼女はようやく、本当にこの場所から離れられるのだった。……由井嵐(ゆいらん)は思わず眉をひそめた。菫花といえば家庭を何よりも大切にするタイプで、つい最近までは妊娠を理由にすべての案件を降りたばかりだった。そんな彼女が、いきなり大型の案件を引き受けるなんて——「綾瀬さん、本当に大丈夫なの?この訴訟、少なくとも四〜五年はかかるし、賀川グループの海外拠点にも同行する必要があるって聞いたけど。それに、まだ妊娠中じゃなかった?御堂さんが、そんな無理させていいって言うわけ——」菫花の声は、静かで冷ややかだった。「子どもはいなくなった。離婚もした」その一言に、嵐は椅子から転げ落ちそうになった。「は、はぁっ!?ちょ、ちょっと待って!だって御堂さん、数日前に私に『女の子が喜ぶサプライズって何?』って真剣に聞いてきたのよ?ブルーの花火だの、深夜のド
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