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第4話

Auteur: 姜しずく
菫花は、興味なさそうに「うん」と返事をし、電話を切ったあと、そのままベッドに体を横たえた。

さっき、彼に言おうとしていた謝罪の言葉は、もう胸の奥でしこりとなって固まってしまっていた。

彼女の冷淡な態度に、慶真は言葉を詰まらせた。

翌朝。

菫花は、鼻をつく焦げ臭さに目を覚ました。

火事かと思って飛び起き、煙の出どころを辿って裏庭へ向かうと、目に飛び込んできたのは——

彼女が丹精込めて育ててきた花畑が、無残にも掘り返され、次々と焼かれていく光景だった。

「何をしているの?」

怒りを抑えきれず、彼女の声は冷たく響いた。

「誰が、私の花畑を触っていいって言ったの?」

作業していた使用人たちは、一斉に手を止め、怯えた表情で固まった。

だが、花々はもうすでに燃え尽きかけていた。止めても意味がない。

そのとき、傍らで椅子に腰かけていた研香が、微笑みを浮かべながら口を開いた。

「ごめんね菫花、この花畑は慶真さんが私のために焼いたの。

私、お医者さんだから、朝うっかりバラの棘で指を切っちゃって……慶真さん、職業的に手の怪我はまずいってすごく気にしてくれて。

だから、全部掘り返して、ラベンダーに植え替えるって。香りは同じように楽しめるから、安心してね。

ねえ、菫花、怒ってないよね?」

菫花はようやく、彼女の笑顔に気づいた。

まるで、それが彼女の目的だったような顔だった。

心の奥に嫌悪がじわじわと広がっていくのを感じながらも、菫花は口角を上げ、笑みを作った。

「怒るわけないわ。あなたたちが楽しければ、それでいいの」

この花畑は、かつて慶真が彼女に贈ったものだった。

でも、今や花も家も、彼の心すらも、すでに彼女のものではない。

ならば、もうどうでもよかった。

菫花は踵を返し、部屋へ戻ると、淡々と荷造りを始めた。

結婚して五年、家の隅々まで彼女の物が浸透していた。

荷造りは簡単ではなかった。

彼女は潔く、捨てるという選択をした。

婚約写真、ウェディング写真、ペアグッズ——彼女にまつわるすべてを、大きな箱に詰め込んでいった。

高熱がようやく引いたばかりの体に無理をさせ、休憩を挟みながら、五時間かけてようやく半分を終えた。

休もうとベッドに腰を下ろしたとき、ふと、サイドテーブルの上に置かれた木彫りが目に入った。

それは、慶真が特別に手に入れてくれたものだった。

結婚して間もない頃、町で流感が大流行し、体の弱い菫花は最初に感染。

重症化して肺炎になり、ICUに搬送され、生死をさまよった。

その夜、現実主義者だった慶真は、なりふり構わず寺院へと向かい——

ご利益があると言われるその木彫りをもらい受けてきたのだった。

彼女はその後、奇跡的に回復した。

慶真は約束通り、三年間、肉も魚も断って感謝を捧げ続けた。

あのとき、彼の愛は本物だったと、そう信じていた。

木彫りは、彼の愛の証のように思えて、毎晩寝る前に拭き上げ、視界に入る位置に置かなければ安心できなかった。

菫花は、その木彫りをじっと見つめたあと、ふっと笑い、箱の中へと放り込んだ。

思い出も過去も、もういらない。

彼女は、庭に二つの大きな箱を引きずり出し、燃え残った花の焚き火から一本の燃える枝を拾い上げた。

迷いもなく、箱に放り込む。

乾いた紙や布が炎に包まれるまで、ほんの数秒だった。

菫花はその傍に立ち尽くし、ただ黙って、燃え上がる炎の中に、自分と慶真の五年間すべてを見送っていた。

すべてが、跡形もなく、燃えていった。

帰宅した慶真は、玄関先の煙にむせた。

そのとき、研香が階段を降りてきて、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。

「ごめんね、慶真さん……たぶん、朝あなたが私のために花畑を燃やしたせいで、菫花が怒って……いろんなものを燃やしちゃったみたい。

私、やっぱり出て行ったほうがいいかな?」

慶真は眉を寄せ、すぐに裏庭へ視線を向けた。

炎の前に立ち、じっとそれを見つめる菫花の横顔を見て、胸騒ぎがした。

研香に声をかける暇もなく、彼は火のそばに駆け寄り、まだ焼け残っていた箱の中を覗き込んだ。

そこには、あの木彫りが、黒く焦げて転がっていた。

慶真の目が見開かれた。

「菫花!お前、なんで木彫りなんか燃やすんだよ!

そんな大事にしてたのに、どうして!」

火傷するのも構わず手を伸ばし、木彫りを拾い上げた。

指先は真っ赤に腫れたが、それでもかまわず、彼はそれを必死に払っていた。

表面に焦げ跡がついた程度と分かると、ようやく安堵の息を吐いた。

菫花は、彼のその取り乱しようを理解できず、冷ややかな笑みを浮かべた。

「そんなに大事だったんだ?

でも、ただの古い飾り物でしょ?もう必要ないし、捨てただけ。何がそんなに悪いの?」

「……!」

慶真は絶句した。

あの木彫りを五年間、大事にしていた彼女が、どうしてこんな言い方を——

言葉を飲み込んだその隙に、菫花はすっと背を向け、彼の反応すら残さず部屋へと戻っていった。

部屋に戻ると、スマホに新着メッセージが届いていた。

賀川グループから、ビザ申請の準備完了の連絡だった。

彼女はすぐにサイドボードの下から必要な書類を引っ張り出し、ベッドの上に並べた。

スマホを高く持ち上げ、正面と裏面の写真を撮って、会社宛に送信した——

そのとき、部屋のドア口から声がした。

「何してる?その写真、どこに行くつもりなんだ?」

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