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第7話

Auteur: 姜しずく
空気が一瞬、凍りついたように静まり返る。

「友達と……仕事の話よ」

菫花は、まるで何も感じていないかのような口調で答えた。

「夜遅くまで待っててくれたの?何か用事?」

彼女はちらりとテーブル上の写真を見て、口元にうっすらと笑みを浮かべた。

「あなたって、昔はこんなに詮索するタイプじゃなかったわよね。もう寝たほうがいいわ。明日も仕事なんでしょ?」

そのあまりにも素っ気ない態度に、慶真は不満げに眉をひそめ、口を開きかけた。

だが菫花は、それすら無視するようにそのまま部屋へ戻り、ベッドに倒れ込むように横になった。

彼が言葉を紡ぐ暇も与えないまま、部屋の扉は音もなく閉ざされた。

慶真はしばらくその背中を見つめ、動けなかった。

何かがおかしい。

そう確かに思うのに、それが「何」なのかがわからない。

ただ一つ言えるのは、この変化が彼にとって異様に苦しく、胸を締めつけるということだった。

その夜——

午前3時、菫花は突然、激しい下腹部の痛みに目を覚ました。

体中が冷や汗で濡れていて、手足は痙攣し、呼吸が乱れている。

「菫花?どうした?!」

隣で眠っていた慶真が異変に気づき、慌てて起き上がった。

彼女が腹を押さえて「痛い」とうめくのを見て、彼は毛布をめくり——

「血?!」

顔色がみるみるうちに青ざめた。

どんな場面でも冷静だった男が、このときばかりは完全に取り乱していた。

「すぐ医者を呼ぶ!少しだけ待ってろ!

菫花、寝るなよ!意識を保って!」

電話をかけても出ない。2件目も、留守電。

慶真は舌打ちをし、怒りと焦燥で顔を歪めた。

「使えねぇ!こんな時に!」

彼はすぐに菫花を毛布ごと抱きかかえ、車へと走った。

慶真は静けさを愛し、郊外の別荘を住まいにしていた。

だがこのときばかりは、それが呪いに思えた。

都心の病院まで、通常なら2時間。

彼は道中ずっと顎を引き締め、バックミラー越しに菫花の容態を何度も確認した。

意識はどんどん薄れ、呼吸もかすかになっていくのを見て、歯を食いしばりながらアクセルを踏み込む。

本来なら二時間かかる道のりを、無理やり三十分以上も短縮した。

病院に着くや否や、彼は医師に向かって一気にまくし立てた。

「彼女、サルファ剤とメトロニダゾールにアレルギーがあります。感染症歴なし。既往症は軽度の喘息と蕁麻疹、再生不良性貧血。

さっきの3時頃から腹痛を訴えて、出血も確認されています!」

すべてを伝え終え、菫花がストレッチャーで運ばれていくのを見送ると、彼の膝から力が抜けた。

壁際のベンチに腰を下ろし、額に手を当てる。

服の襟元は汗でびっしょりと濡れ、両手は小刻みに震えていた。

30分後——

菫花が処置室から運び出された。

「命に別状はありません」と告げられ、彼の胸に張りついていた重石が、ようやく少しだけ落ちた。

「原因は?なぜ急にこんなことに?」

彼が問いかけると、担当の看護師が、どこか苛立ったような口調で言った。

「子宮内膜炎です。流産後の過労による免疫低下が原因です。感染からの急性発症です。

流産自体、女性の心身に大きな負担をかけます。それをさらに無理させて……ご家族、もっときちんと支えてあげてください」

しばらく返事がないことに気づき、看護師がふと顔を上げた。

そこには、ぼう然と手術室のドアを見つめる慶真の姿があった。

言葉が耳に入っていないようだった。

「えっ?」

「あなた、聞いてますか?!」

初めて見るタイプだった。

さっきまで顔を青ざめさせて震えていた男が、今はまるで別世界にいるように、ただ視線を空中に漂わせている。

怒鳴ろうとした瞬間——

しかしそのとき、看護師はふいに袖口が引かれるのを感じた。

視線を落とすと、菫花が青ざめた顔で、かすかに首を横に振っていた。

ムリよ。

たしかに、自分は慶真の中で、多少なりとも特別な存在かもしれない。

でもその「特別」は、研香と比べれば、取るに足らないものだ。

病室のベッドに横たわる菫花は、慶真の視線の先をたどった。

ちょうどその先に、手術室から出てきた研香の姿が見える。

彼女は眉間を押さえながら、ふらつく足取りで数歩進んだ後、壁にもたれてしゃがみ込んだ。

慶真は急いで駆け寄りながら、短く指示を飛ばした。

「看護師について病室に戻れ。どこか具合が悪ければ、すぐに伝えて。俺は後で戻る」

言い終えるよりも早く、一歩踏み出して彼女のもとへと向かった。

菫花は、慶真が研香を抱き上げ、その耳元で優しく声をかける姿を、ただ黙って見つめていた。

その瞳に浮かぶ心配の色は、先ほど車の中で自分を見つめていたときと、何ひとつ変わらない。

彼女は皮肉げに口元を引き上げ、そして視線をそっと看護師に移した。

その看護師は、何か言いたげな顔をしながらも言葉に詰まっていた。

「いろいろ、ありがとうございました」

その言葉には、確かに感謝がこもっていた。

けれど同時に、強くて静かな覚悟も滲んでいた。

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