Home / 恋愛 / ゆりかごの中の愛憎 / Chapter 11 - Chapter 20

All Chapters of ゆりかごの中の愛憎: Chapter 11 - Chapter 20

52 Chapters

ボイスレコーダー

 エンドランスのインターフォンが鳴った。菜月が応答通話ボタンを押すと黒縁眼鏡に屈強な身体付きのスーツ姿の男性が映し出された。視線は菜月を凝視している。見覚えのない面差しに思わず目を逸らした。「どちら様でしょうか?」「警察です」「警察?」 緊張で心臓が跳ねた。その男性はカメラに向かい警察手帳を開いて見せた。警視 竹村 誠一たけむらせいいち「あの、どういったご用件でしょうか?」「こういうご用件だよ」 横からケーキの箱が差し出され、湊 がその男性を横に押し遣った。何やら揉めているようだ。「菜月、防犯対策は上出来!自分から名乗らなかったね!」「君のお姉さんは名乗るんですか」「そうなんだよ」「危ないですね」 菜月は褒められているのは貶けなされているのか微妙だったがエントランスの扉を開錠した。(お客様と、湊 と私、と) 菜月は三客のティーカップとソーサーを準備した。ピンポーン 玄関ポーチのインターフォンが鳴った。今度もちゃんと確認してから鍵を開けた。笑顔の湊とやや上背のある竹村誠一が両手で(マル)を作ってケーキの箱を手渡した。「上出来でした」「どうもありがとう」「お姉さん、初めまして竹村誠一です」「はじめまして」 握手を求められ手を差し出すと厚くて頼もしい手をしていた。「誠一は柔道の有段者、黒帯なんだ」「すごいですね!」「いや、それ程でもありませんよ。警察官ですから当然です」「そうなんですね、立ち話もなんですからどうぞお入り下さい」 賢治は「湊を入れるな」「綾野の家に行くな」とは言ったが警察官を部屋に入れるなとは言っていない。菜月は自分に都合良く解釈する事にした。「これ、僕と誠一から」「ありがとう!」 ケーキの箱にはイチゴのショートケーキが四個詰められていた。最後の一個は賢治の分なのだろう。「美味しそう、今、お茶淹れるね」「ありがとう」「ありがとうございます」「竹村さん、紅茶でもよろしいですか?」「はい、紅茶は大好きです」「お砂糖はどうされますか」「あ、大丈夫です。必要ありません」 ダージリンの香りが漂うリビングテーブルには一枚の名刺が置かれていた。「・・・・石川県警捜査一課」  「付き纏まといやストーカーは基本、生活安全課に届け出るんだけど如月倫子は少し異常な気配を感じるんだ」「そうなの?」
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

ボイスレコーダー②

 竹村誠一は厳しい目をした。「雑巾を投げつけられたんですか?」「はい」「今までこんな事はありましたか?」「い、いいえ」 湊と竹村誠一は顔を見合わせ、そして居直った。「綾野さん」「はい」「もしかしたらご主人の行動がエスカレートするかもしれません」「エスカレート」「攻撃的になり暴言や暴力を受けた時はそれも録音する事をお勧めします」「録音、ですか?」「はい。ドメスティックバイオレンス、モラルハラスメントの予兆が考えられます」「・・・・まさか」 菜月は顔色を変え、湊 を振り向いた。「菜月、離婚を考えているならそうした方が良いよ」「分かった」「綾野さん、その不倫相手やご主人様から酷い暴力を受ける様な事があればいつでもご連絡下さい。近隣の交番から警察官を向かわせます」「ありがとうございます」 竹村誠一は名刺の裏に「私、個人の番号です」と携帯電話番号を書き込み菜月に手渡した。 夕暮れの薄暗いリビングに、食器を洗う水音だけが響いていた。菜月はシンクに立つ自分の姿を、まるで他人事のように感じていた。スポンジを握る手は機械的に動き、皿を擦るたびに心のどこかで小さな波が立った。賢治の変化が、彼女の胸を締め付けていた。(三ヶ月前から、だよね・・・・。少しずつ、言葉が尖ってきた。) それは、賢治が如月倫子と付き合い始めた時期とぴったり重なる。倫子との関係が賢治を変えたのだろうか? 不倫の噂が本当なら、賢治の苛立ちや猜疑心はそこから来ているのかもしれない。菜月はそんな考えを振り払おうと、首を振った。 だが、心の奥底でざわめく不安は消えなかった。倫子と賢治の関係が、彼女の知らないところでこの家を侵食している気がした。洗い物を終え、エプロンのポケットに手を入れると、ボイスレコーダーの冷たい感触が指先に触れた。菜月はそれを握りしめ、胸の鼓動が速まるのを感じた。 湊から手渡されたボイスレコーダー。彼女は密かに録音を始めた。いつか必要になるかもしれないという、漠然とした恐怖がそうさせたのだ。 不意に、背後で足音がした。菜月はハッとして振り返る。そこには、眉間に深いシワを刻んだ賢治が立っていた。スーツのネクタイは緩み、いつも整った髪は乱れていた。こんな時間に会社から戻るなんて、今まで一度もなかった。菜月の背筋に冷たいものが走る。「ど、どうしたの?」 
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

ボイスレコーダー③

 静まり返った部屋。菜月は頬についた生クリームを手で拭った。 数分前、冷蔵庫を開けた賢治は顔色を変えた。湊が差し入れたショートケーキを見つけた賢治は激昂げきこうし、それを掴むと床に激しく叩きつけていた。生クリームが辺り一面に飛び散り、菜月の顔を汚した。 「湊に餌付えづけけされてるのか!」 「そんな言い方ないでしょう!」 「煩うるさい!その顔はなんだ!文句があるのか!言ってみろ!」そう、捲し立てられた。「賢治さんだ・・・・っ!」 菜月は、賢治が不倫していることを責めそうになった。駄目だ、不倫の事は今はまだ口にしてはいけない。決定的な証拠がなければ 湊 が言った”復讐”をする事が出来ない。何かを言いかけて突然黙り込んだ菜月を前に賢治は苛立ちを隠せずテレビのリモコンを勢いよく壁に投げつけた。「キャッ!」 蓋が外れ転がり出た乾電池、菜月はキッチンに座り込んでただただ震えた。「今度 湊 を部屋に入れたらただじゃ置かないぞ!」「賢治さん!どうしちゃったの!」「どうもこうもお前が約束を守らないからだ!分かったか!」 賢治は車の鍵を手に玄関の扉を勢いよく閉めた。菜月は 湊 との穏やかだった時間を踏み荒らされた悲しさと、自身の不倫という愚かな行為を省かえりみる気など更々さらさらなく、妻に暴言を吐き暴力を振う賢治の心ない仕打ちに涙した。「・・・・っ」 床に散らばった生クリームを拭き取りローテーブルを元の位置に戻した。嗚咽を漏らしながら乾電池を拾いリモコンに収める。雑然としたリビングを片付けていると菜月の中に沸々ふつふつと怒りが込み上げて来た。(どうして私が怒鳴られなきゃならないの!?) 頬の生クリームを手で拭った菜月は賢治の寝室のドアを開けた。鼻につく男性臭はもう受け入れ難いものへと変化していた。その手はクローゼットに伸び、白檀の匂いが染み付いたスーツを手に取ると大きく振りかぶってベッドへと投げ付けた。(これも、これも、これも臭い!賢治さんが臭い!) そして白いワイシャツをハンガーから引き剥がし、裁縫箱さいほうばこを取り出した。菜月はワイシャツを力任せに握りしめるとリビングの床に叩きつけた。リビングに広げたワイシャツを足で踏みつけ、恨みを込めて踏み躙にじった。(如月倫子のにおいが臭い!) おもむろに握ったハサミを凝視する。刃先の尖ったハサミを手にした
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

SDカード

 湊 は竹村誠一のアドバイスに従い賢治の行動を把握する事に着手した。「これは違法にならないのか?」「さぁ?大学時代の友人が呟いただけさ」「友人が、ねぇ」 湊はルームミラーの角度を変え、そこに映った黒縁眼鏡の顔を覗き込んだ。「誠一、菜月に惚れたんだろ」「ば、馬鹿な事を言うな!人妻だぞ!」「そのうち独り身になるよ」「バッ馬鹿が!」 竹村誠一は顔を赤らめ助手席のドアを閉め、警察本部の建物へと入って行った。公休日に仕事三昧、余程暇を持て余しているのだろう。そんな後ろ姿に呆れた湊は失笑し、ハンドルを握ると車載カメラ専用のSDカードを購入する為に家電量販店へと向かった。 それは翌日決行された。「副社長賢治さん、お客様がいらっしゃいますので車の移動をお願い出来ませんか?」 来客など嘘も方便、そんな予定はない。賢治は書類から目を上げると面倒臭い表情で車の鍵を 湊 に放り投げた。「お前がやれ」「分かりました」   賢治は 湊 が 賃貸物件管理部長と自分より役職が下でありながら、社員から「湊さん」「湊」と持てはやされている事が気に食わなかった。 (大人しく賃貸経営の家主にコメツキバッタのように頭を下げてりゃいいんだ。代表取締役の長男だからってちやほやされやがって!)  賢治は事ある毎に 湊 を顎で使った。今回はその横柄な態度を利用した。 (・・・・予定通りだ)  アルファードに乗り込んだ 湊 は人目を盗んで車内搭載カメラのSDカードをすり替えた。 自宅マンションから会社まで10分弱、繁華街を彷徨うろいても30分には満たないだろう。これで賢治の数日分の行動が把握できる。これを繰り返せば如月倫子との逢瀬の証拠が掴める筈だ。「賢治さん、移動しておきました」「おう」 湊は周囲を伺い見ながらSDカードをパソコンの中に保存した。日曜、月曜、火曜、残念ながら女性の姿を確認する事が出来なかった。湊は賢治の隙を見てその行為を繰り返した。 2週間が経過した頃、賢治は綾野の家に呼び出された。鹿威ししおどしが庭に響く座敷に郷士と賢治が正座で向き合った。「社長、何か不手際でもありましたでしょうか?」「いや、今日は家族として尋ねたい事がある」「家族ですか?」「そうだ」 賢治は眉間にシワを寄せた。「なんでしょうか?」「いつも菜月が迷惑を掛けているね」「いえ、
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

SDカード②

 湊は目を覆った。 賢治の指が女の頬をそっと撫で、触れるたびに熱を帯びる。女の瞳は、欲望と罪悪感の狭間で揺れながらも、賢治の視線に絡めとられていた。車の革張りのシートが、二人を閉じ込めるように軋む。「こんな場所で・・・いいの?」 昼下がりの廃墟となった高齢者施設の駐車場。女の声は震え、囁くように漏れた。賢治は答えず、代わりに彼女の唇に自分の唇を重ねる。柔らかく、熱い吐息が交錯し、車内の空気は一瞬にして濃密になる。 女の指が賢治のシャツの裾を握り、ためらいがちに引き寄せる。彼女の心臓の鼓動が、賢治の胸に伝わるほど近く、激しく響き合っていた。賢治の手は女の背中を滑り、制服のブラウスの薄い布地をたどる。彼女の体は、触れられるたびに微かに震え、まるで禁断の果実を味わうように、賢治の指先がその輪郭をなぞる。 アルファードの後部座席の狭い空間は、二人の熱で息苦しく、窓ガラスには曇りが広がり始めた。外の世界は遠く、ただ二人の吐息と、衣服が擦れる微かな音だけが響く。女の唇が賢治の首筋に触れ、湿った熱が彼の肌を焦がす。賢治の息が荒くなり、彼女の髪を握る手に力がこもる。「好きだよ・・・」 賢治の声は低く、抑えきれぬ欲を帯びていた。彼女は目を閉じ、賢治の声に身を委ねる。彼女の指が賢治のベルトに伸び、ためらいを振り切るように、ゆっくりと外す。金属の音が車内に響き、まるで二人の罪を刻む音のようだった。シートが再び軋み、二人の体が絡み合う。 女の肌は火照り、賢治の手に導かれるままに、彼女の体は彼に寄り添う。賢治の唇が彼女の肩を滑り、鎖骨をたどるたびに、女の吐息は甘く、切なく変化する。車内の空間は狭く、動きは制限されるが、それが逆に二人の距離を縮め、互いの存在をより強く感じさせた。 女の髪が乱れ、シートに広がる。彼女の指が賢治の背中に爪を立て、刹那の痛みが彼の欲望をさらに煽る。時間は止まったかのように流れ、車内の熱気は頂点に達する。二人の動きは、まるで互いを求め合う獣のように激しい。スプリングが激しく強く軋む。女の声が、抑えきれずに漏れるたびに、賢治は彼女を強く抱きしめる。やがて、動きが緩やかになり、二人は息を整える。 湊 は賢治が乗るアルファードの車載カメラからSDカードを抜き取り、録画録音されたデータを逐一自身のパソコンに保存していた。その作業を繰り返したところ、曜日も
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

如月倫子

 賢治は菜月との縁談に乗り気では無かった。父親である四島しじま工業株式会社社長、四島忠信しじまただのぶたっての願いで、致し方なく見合いの席に着いた。「初めまして綾野菜月です」「四島賢治です」   ところが、菜月は申し分なく美しい女性だった。賢治は一目で惹かれたが、その純真無垢さに手を握る事さえ憚はばかられた。しかも菜月は言葉少なく結納を終える頃には興醒めし、賢治は四島工業の女子社員と寄りを戻し愚行に走った。(人形みたいな女だな、美希みきとは比べものにならないな) 美希とは賢治が過去に付き合っていた女性社員で吉田 美希よしだみきといった。美希とのセックスは奔放で、激しい快楽を伴った。菜月と結婚するために一時は別れたが、すぐによりを戻していた。 勤務時間中の屋外でのセックスは興奮を高めた。駐車場の片隅に停めた車の窓に淡く差し込む。後部座席のシートに沈む賢治と美希は、互いの吐息だけが響く狭い空間で、言葉を交わさず見つめ合っていた。賢治の手は、美希の頬をそっと撫で、その指先は彼女の首筋を滑るように下りていく。美希の瞳は揺れ、罪悪感と欲望が交錯するその眼差しは、賢治の心をさらに掻き立てた。「ここでしていい?」「早くちょうだい、もう我慢できない」 賢治が囁くと、美希は熱い視線を送り目を閉じた。車内の空気は熱を帯び、美希の肩から滑り落ちたブラウスが、シートの上でくしゃりと音を立てる。賢治は彼女の腰に手を回し、ゆっくりと引き寄せた。二人の動きは、まるで時間を忘れたかのように緩やかで、しかし抑えきれぬ情熱がその指先に宿っていた。シートがきしむ音と、時折漏れる美希の吐息が、車内の静寂を破る。賢治の唇が美希の首に触れるたび、彼女の体は微かに震えた。陽光が二人の肌にまだらな影を落とし、その光と影の中で、激しく互いを求め合う。言葉は不要だった。あるのは呻き声だけ。賢治の腰の動きは激しく、美希の腰を抱え上げた。 それに比べ、菜月との新婚旅行は最悪だった。菜月はベッドの中で微動だにせず、事後に聞けば処女だと言った。賢治はそれを重荷に感じた。(なんも楽しめねぇな) 賢治は美希を性欲の吐口にし、週のほとんどをアルファードの後部座席で過ごした。ただ、その行為もマンネリで飽きが来ていた。ー3ヶ月前のことだ そんな折、母校である高等学校の同窓会のハガキが届いた。 普段ならばゴ
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

如月倫子②

 その頃、賢治は菜月とは表面上、仲の良い新婚夫婦だった。ただ夜の生活はうまくゆかず、セックスレスだった。その捌け口を吉田美希に求めたが、物足りなさを感じ始めた。そんな時、目眩く時間を過ごした過去の恋人である如月倫子が幹事をしている同窓会の知らせが届いた。賢治は目を輝かせた。参加せずにはいられなかった。「菜月、今夜は遅くなる」「同窓会だよね?」「あぁ、先に寝てろ」「分かった、お酒飲みすぎないでね」「そのままホテルに泊まるかもしれない」「分かった」 賢治はあわよくばそのまま如月倫子と熱い夜を過ごすつもりでホテルの部屋をリザーブした。(倫子はどこだ) 同窓会会場に足を踏みれた賢治はその姿に見惚れた。生活感に塗れた主婦たちの中で倫子は35歳の妖艶な色香を漂わせていた。(相変わらずそそるな)  黒いノースリーブのタイトな膝丈ワンピース、シースルーの黒いストッキングに黒いピンヒールを履いていた。(良いじゃねぇか、いい女になったな) 艶めく黒髪、色白の面立ちに切長の奥二重、深紅の口紅、形の良い胸の谷間にはパールのロングネックレスが揺れていた。「あら!四島しじまくん、久しぶり」「いや、今は綾野だよ」「あぁ、そうだったわね。」 倫子は高校時代の甘い記憶を掘り返し、旧姓で賢治の名前を呼んだ。二人の視線が絡む。着座した丸テーブルでは隣に座った。テーブルクロスの下で互いの脚を擦り合わせ、倫子の手は賢治の太ももを味わうように撫でた。賢治の股間は熱を持った。「倫子、上に部屋を取ってあるんだ」「準備万端ね」「当たり前だろう、倫子もこの為に同窓会の幹事になったんじゃないか?」「お見通しね」   賢治は倫子の肩を抱くと慌ただしく、しみったれた同窓会会場を後にした。エレベーターの箱に乗り込むなり、二人は唇を貪り合い、賢治の手のひらは豊かな胸を揉みしだいた。「ダメよ、部屋まで我慢して」「我慢できないよ、もう、もう」「相変わらず・・・大きいのね」 倫子は赤い唇で舌なめずりをした。その淫靡な仕草に、賢治の背中に快感が駆け上がった。 ホテルの高層階。窓の外にはネオンの海が広がり、部屋の中は柔らかな照明に包まれている。賢治はソファに腰掛け、グラスの中のウイスキーを揺らす。スーツのネクタイを緩め、彼の視線はドアに向かう。バスルームから如月倫子が現れるのを待っ
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

嫉妬 如月倫子

 ホテルの部屋は、午後の薄い陽光に照らされ、静寂に包まれていた。カーテンの隙間から漏れる光が、乱れたシーツの上に淡い影を落としている。如月倫子はベッドに横たわり、肩で熱い息を吐いた。さっきまでの激しい情熱の名残が、彼女の体にまだほのかに残っている。けれど、その熱はすでに冷めつつあった。部屋の中には、情事の後の虚しさが漂い、まるで空気が重くなったかのように感じられた。 賢治はベッドの端に腰かけ、煙草を口に咥えた。火をつける前に、ちらりと倫子の方を見る。「倫子、俺が先にシャワー使って良いか?」 彼の声は軽く、どこか余裕たっぷりだ。倫子は少し考え、首を振る。「・・・・バスタブに浸かりたいから、準備して」 声は落ち着いているが、心の中では何かがざわついている。「わかったよ」賢治は特に何も疑うことなく、鼻歌まじりにベッドから立ち上がった。バスルームのドアが開き、ダウンライトが柔らかく点灯する。レインシャワーの水音が、静かな部屋に響き始めた。賢治の逞しい背中に水が叩きつける音が、倫子の耳に届く。まるで、さっきまでの逢瀬の時間を、賢治がボディソープで排水口に流し去っているかのようだった。(・・・・賢治) 倫子の心に、冷たい棘が刺さる。この不倫関係を、彼女が素直に受け入れられるはずがない。賢治との時間は、確かに熱く、激しく、彼女を一瞬だけ満たしてくれる。けれど、その後にやってくるのはいつもこの虚しさだ。賢治には妻がいる。綾野菜月。名前を思い出すだけで、倫子の胸にどす黒い感情が広がる。倫子はバネ仕掛けの人形のようベッドから飛び起き、賢治のスーツが掛かったハンガーに向かった。胸ポケットに手を突っ込む。指先が探るが、何もない。「ない・・・・」 彼女は小さく呟き、背後を気にしながら賢治のビジネスバッグに目を移した。ジッパーをそっと開けると、そこにはシルバーの光を放つ賢治の携帯電話があった。以前、二人でレストランで食事をしていたとき、賢治の取引先から電話がかかってきたことがあった。その時、倫子はチラリと暗証番号を見ていた。単純な数字の羅列。2424。彼女の指が震えながらも、迷わず画面に触れる。 呆気なくロックが解除され、ホーム画面が現れた。そこには、ウェディングドレスに身を包んだ女の姿があった。賢治と並んで笑う彼女の顔は、幸せそのものだった。白い陶器のような肌、血色の良
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

ネクタイ

 ある夜のこと。 情事を終えた如月倫子は、賢治の目を盗んでネクタイをショルダーバッグに詰めた。逢瀬に満足した賢治は、ぼーっとした顔で「じゃ、また来週な」と言い、ホテルの回転扉の向こうに消えた。賢治の襟元には、カルバンクラインのネクタイはなかった。(ネクタイに気づかないなんて、ほんとバカね。奥さんがどんな顔するかしら) その修羅場を想像しただけで、倫子は笑いがこみ上げた。(あんな女、賢治には似合わない!さっさと離婚しちゃえばいいのに!) 自分の家庭のことなんてそっちのけで、不倫相手の賢治に夢中な倫子には、彼の姿しか目に入らなかった。そして、倫子は一線を越えた。(奥さんの顔、見てみたいわ) 倫子は深紅の口紅を塗り、黒い下着に白いカッターシャツを羽織った。シャツのボタンは胸元が見える位置まで外し、腰のラインがくっきり出る黒いタイトスカートを履いた。手首には白檀のオードパルファムを吹き付け、擦り合わせると、淫靡な香りが漂った。(どんな声なのかしら) 倫子は自分が経営する「きさらぎ広告代理店」の茶封筒に、賢治のネクタイを入れた。(そうよ、これでいいわ) ネクタイにも白檀の香りを吹き付けた。住所は高校の同窓会データで知っていた。「グラン御影」、その豪華なマンションの最上階を見上げると、倫子の胸に憎しみが沸々と湧いた。もしかしたら、自分があの場所に住んでいたかもしれない。憎しみを込めて、インターホンのボタンを押した。(503号室)ピンポーン「どちら様でしょうか?」「如月と申します」「きさ…・・・・如月さん、ですか?」「綾野賢治さんはご在宅でしょうか?」「いえ、主人は仕事に出ておりますが、何かご用でしょうか?」「そうですか。忘れ物をお届けに参りました」 綾野菜月は、あっさりオートロックを解除した。不用心な女だと、倫子は呆れて言葉も出なかった。きっとこれまで、危険な目に遭わず、ぬくぬくと暮らしてきたんだろう。(・・・・・くそっ!) エレベーターに乗り込んだ倫子は、腹立たしさと怒りに任せて、オードパルファムを撒き散らした。ピンポーン「はい」「如月と申します」「今、開けますね。少々お待ちください」「はい」 倫子は手に持った封筒をぎゅっと握りしめた。賢治を奪った憎い女との対面だ。「綾野さん」「は、はい」 菜月の絹糸のような髪は、
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more

嫉妬 賢治

 賢治がマンションのエントランスに足を踏み入れると、嗅ぎ慣れた白檀の香りが漂ってきた。ほのかな香りだったが、一瞬、血の気が引いた。(まさか、倫子がここに来た・・・・? そんなはずない) だが、如月倫子の異常な執着心を思い出す。高校卒業間近、賢治がとある女子生徒と浮気しているという根も葉もない噂が立った時、嫉妬に狂った倫子はその女子生徒を執拗にいじめ、登校拒否に追い込み、転校までさせた過去があった。(本当にここに来たのか!?) このマンションの住所は同窓会名簿に載っている。幹事だった倫子なら、簡単に閲覧できたはずだ。エレベーターのボタンを押す指が震えた。鏡に映る自分の顔は、怯えきっていた。(もし、菜月が倫子と会っていたら・・・・・・・) 脳裏に、綾野住宅の社屋と、菜月の父親である四島工業の社長の顔が浮かんだ。(不倫がバレたら、俺の立場はどうなる!?) 震える手でシリンダーキーを回したが、室内は真っ暗だった。「ただいま。菜月、いないのか?」 寝室に人の気配はなかった。安堵の溜め息が漏れたが、同時に腹立たしさがこみ上げた。賢治は、菜月が綾野の家に出入りすることを嫌っていた。(くそっ、また湊のところか!) 特に、菜月と湊が仲睦まじくしているのが我慢ならなかった。見合い当初、菜月には2歳年下の弟がいると聞いて、「俺に弟ができるのか」とほのぼのした気持ちだった。だが、結婚が決まる頃、菜月と湊に血の繋がりがないと知った。妬ましさと悍ましさが胸を刺した。自分だけの菜月だと思っていたのに、実際は違った。二人が互いを見る目が、全てを物語っていた。「くそっ!」 自分の不倫を棚に上げ、菜月が綾野の家から帰っていないことに腹を立てた。冷蔵庫には作り置きの夕飯もなく、ベランダでは雨ざらしのバスタオルが暴風雨にはためいていた。「なんなんだよ!」 賢治はソファにどっかり腰を下ろした。時計の針が1分進むごとに苛立ちが募った。親指の爪をギリギリ噛んでいると、玄関の鍵が開く音がした。「ただいま」 菜月が恐る恐るリビングに声をかけてきた。背後で、革靴の音とエレベーターの扉が閉まる気配がした。「おかえり」 賢治はソファで腕を組み、菜月を睨みつけた。「綾野の家に行ってたのか?」「ちょっと用事があって」「俺の飯はどうした?」 菜月は手に持っていた紙袋をダイニング
last updateLast Updated : 2025-07-07
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status